世間一般で言われるところの盆休みが終わると、尚人のCM出演に向けての動きが開始した。まずは基礎レッスンということで、歩き方、立ち方を練習し、見せる、見られる、ということへの心構えを加々美に付きっきりで仕込まれた。加々美に連れていかれたレッスン場で午前中はひたすら歩く。最初は自分の全身が映る鏡の前で歩くことにどうしても照れがあった尚人だが、毎日毎日繰り返しているうちに自分の姿を客観視するようになった。そうなれば照れなど起きない。加々美に言われた通りのことができているか、鏡を見て冷静にチェックする。午前中のレッスンが終わると、二人でランチを食べて、午後からは芝居を見に行ったり、美術館を巡ったりする。時には、レッスンとは全く関係ないような娯楽映画を「今話題らしいから付き合って」と言われて見に行くこともあった。芝居を見た感想は、家まで送ってもらう車の中で言い合う。こんな毎日を過ごして、尚人の八月は、あっという間に終わったのだった。
* * *
「はあぁぁ、毎日が楽しすぎる」
グァテマラ産コーヒーの、チョコレートのような豊かなコクのある香りを吸い込んで、加々美は吐息と共に呟く。
『アズラエル』本社ビル、統括マネージャー高倉
「そりゃ、よかったな」
執務机で書類に目を通していた高倉がどこか冷めた口調で言う。しかし高倉のそんな素っ気無い反応も今の加々美にはノーダメージだ。
尚人からインターンシップに参加した体験レポートが送られてきたのは、インターンシップが終わった翌々日。加々美から求めたわけでもないのに律儀にレポートを送ってくる、その尚人の
皆で作り上げていく体験。それが楽しい。
それが尚人のツボだとわかれば、加々美にはいくらでも攻略の手がある。
一人前の男になりたい。
雅紀のツボがそこだとわかった時のように。
「秘蔵っ子と楽しそうにしているお前を見たって、俺の耳にも毎日のように入ってくる」
「そりゃ、だって。鉄は熱い内に打て、だろ」
「熱いのはお前の方じゃないのか?」
「否定はしない。だが、問題ない」
「…………」
高倉の「何言ってんだお前は」と言いたげな冷たい視線も、今の加々美は気にならない。
なぜなら「とにかく毎日が楽しい!」からだ。
尚人がCM出演の決意を固めたと知って、加々美はすぐに動いた。レッスン場を確保して、まずは基礎を叩き込む。尚人の歩き方はそもそも綺麗で、そのままランウェイを歩いても十分通用する。しかし、基礎をきちんと学ぶと言うことはとても重要で、素人とプロの違いは、この基礎を知識とスキルの両面できちんと自分のものにしているかどうかにあると言っても過言ではない。これによって、ただ「楽しい」だけでは済まない現場に遭遇しても、確固とした自分を支える土台となるのだ。
それに無意識で綺麗に歩けても、見せる、見られる、という意識が加わった時に同じことができるとは限らない。自分の目、他人の目。それを意識することも大切な要素。尚人は頭もいいし、勘もいい。加々美の言わんとするところはあっという間に理解して、そして自分のものにしようと努力する貪欲さもきちんとある。これだけのポテンシャルのある新人を育てるのは、加々美にとって喜び以外のなにものでもない。
しかし、尚人を育てて楽しいのは、それだけではなかった。
レッスンが終わると一緒にランチを楽しむ。加々美にとって
しかしこのランチタイムは、すぐに単なる
それは尚人のひと言がきっかけだった。
「そう言えば加々美さんって。確か、イタリア語が堪能でしたよね?」
「まあ、あちらで仕事することも多いから。日常会話には困らないかな。それがどうかした?」
「実は、大学の第二外国語の授業でイタリア語を取っているんです。毎日、ICレコーダーを聞いてはいるんですけど。授業以外で実践できる場がなくて。よかったら、このランチタイムの時間はイタリア語で話してもいいですか?」
もちろん加々美に断る理由はない。いや、むしろ面白い。そうして始まったランチタイムのイタリア語による会話。これによってランチタイムの時間はイタリア語講座のような側面を持った。
わからない単語、わからない言い回し。微妙なニュアンス。そう言ったことを尚人は次々と質問する。尚人のイタリア語は、最初こそ日常会話がギリギリ成立するかどうか程度のレベルだったが、加々美と実践的に会話をすることでメキメキ上達した。その日は知らなかった慣用句も次の日には会話に取り込んでいる。その上達スピードに加々美は舌を巻いた。
(こりゃ、尚人君。相当な語学能力があるな)
そして同時に、ランチタイムをただのランチタイムにしない、尚人の密かな強かさにも気付いて。
(ちょっと、尚人君を舐めてたな)
持ち前の素直さと可愛らしさ。そういった尚人の表面的な良さだけに目を奪われていては尚人の本質は見えない。それを「自分は知っている」つもりだったのだが。こう言うところが、さすがは尚人、なのかもしれない。
ランチの後は、とにかくいろんなものを鑑賞する。芝居を見たり、絵画を見たり、時には映画を見たり。見て自分の中にいろんなものをため込んでいくのだ。見ると言うこともまた自分の
とにかく加々美は、毎日が楽しい。それに尽きた。
「で、カメラマンは伊崎で決まりなのか?」
一人思いにふけってニマニマしている加々美に、高倉が冷静な声をかける。
加々美はふふんと笑ってコーヒーを口に運んだ。
「もちろん。電話したらソッコー食いついてきた。あいつはもともと尚人君には興味津々だからな」
「販促用のグラビアも伊崎が撮るのか?」
「当たり前だろ。あいつの方から、別の奴が撮るのは許さんって、念押ししてきたくらいだからな」
「『GO−SYO』が撮るテレビコマーシャルでデビューとか。狙っても無理だよな」
尚人の一番の凄さはそこかもしれない。今のこの状況は加々美が駆けずり回って無理やりに整えたわけではない。一つ話が転がり込んできて、そのタイミングで既に尚人の周りにいくつもの駒が揃っている。加々美はその駒を効率よく使う手筈を整えているに過ぎない。
「狙っても無理、ついでにもう一つ。追加しようと思ってるんだ」
「何を?」
「衣装」
「衣装?」
「CMで着る衣装」
「まさか?」
いつもポーカーフェイスの高倉の表情がわずかに動く。
さすがは勘のいい男だ。
「そのまさか」
加々美はそう言うと自分のスマートフォンを取り出す。その画面に表示したのは雅紀を拝み倒してようやくもらえた秘蔵写真だ。それを高倉に見せると、高倉の表情に驚きが浮かんだ。
「これは……」
「クリスが尚人君の高校の卒業祝いを口実にして送りつけた。尚人君のために
「––––そんなことことが? 本当に?」
にわかには信じがたい。高倉の表情がそう言っている。
その気持ちはよくわかる。加々美だって雅紀にその話を聞かされた時は耳を疑ったのだから。
しかし、写真を見て納得した。クリスがどうしてしつこく尚人に固執するのかを。
「クリスはそれだけ本気なんだよ。でだ、この尚人君仕様の貴重なヴァンスをさ、このままタンスの肥やしにしちまうのは、あまりにももったいないだろう? せっかくだからCM衣装として使えないかと思ってさ。まあ、これは尚人君がプレゼントされたものだから、正確に言えば私服で、尚人君がどう扱ってもいいものなんだけど。どうせなら、クリスに盛大に恩を売りつけてやりたいだろう?」
「つまり?」
「ヴァンスからの衣装提供という形にしたい。そうすることで、今回のコラボ企画に関してはヴァンスにも尚人君の肖像使用を認める。『アズラエル』もそのことを了解するって形でクリスに恩を売る。売った恩の使い方は『アズラエル』次第だ。まさにウィンウィンウィンの形だと思わないか」
「––––悪くない」
「『アズラエル』は乗るか?」
「乗った」
「よし。じゃあ、早速クリスに打診しよう」
「……コラボついでに、もう一つコラボしてみるのはどうだ?」
「というと?」
「CMソングの方だ」
高倉はそう言うと引き出しから一枚のCDを取り出す。
「これは?」
「『ミズガルズ』の新作デモ音源。数日前に瀬名が泣きついてきてな。なんでもこの曲の歌詞が尚人君をイメージして描かれてるらしくて。発売にあたって尚人君をジャケットに使用できないかって、メンバーが口を揃えて言うらしい。一度一緒に仕事したからか、メンバーの中では頼めばなんとかなるんじゃないのかって雰囲気になってるらしくて。で、瀬名が、『MASAKI』にそんなこと頼んだから殺される、でも努力もしないで出来ませんではメンバーが納得しないって。なんだかんだ言って、これを置いて行ったんだが。……まあ、瀬名も瀬名で、俺に泣きつけばなんとなると思ってる節もあるが。兎に角、ジャケット起用よりもCMコラボの方がインパクトとしては大きいだろう?」
「話がどんどんデカくなるな」
てか、このタイミングで尚人君をイメージした歌詞で新曲作りました?
そんなことあるのか?
こればっかりは加々美も疑うびっくりのタイミングだ。
幸運の女神が尚人に向かって微笑みかけているとしか思えない。
「尻込みしてきたか?」
「まさか。その逆だよ。しっかし、尚人君って本当持ってるよな」
「乗るか?」
「面白い。––––が、こればっかりは俺の一存では決められん。スポンサーの確認がいる。不採用でも文句は言うな」
「構わない。代理人に話はしたって言えば、瀬名だって納得するだろ」
「そのデモ音源、借りていっても?」
「もちろん」
加々美はCDを受け取る。
(尚人君をイメージした歌詞ねぇ……)
今回コラボが実現すればMV出演にまで話が飛ぶのではなかろうか。
加々美はそこまで想像して、––––思わず鳥肌が立った。