「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 6

 ロケ二日目。尚人の起床は朝三時だった。顔を洗ってしゃきっと目を覚まし、軽く朝食を食べると、メイクをして衣装に着替えて現場に向かう。着いた時、辺りはまだ真っ暗だった。星空が綺麗で、尚人は思わず息を飲む。こんなにもたくさんの星が輝く空を見たのは初めてだった。

 しかし、星空の美しさにうっとり見惚れている暇はない。誰もが忙しそうに準備に取りかかり、尚人も照明さんに辺りを照らしてもらって昨日カメリハした場所へ立つ。誰も余計な言葉は発せず、周囲は静かな熱気に包まれていた。

 そうして全て準備が整って。

「尚人。カメラを回すからな」

 伊崎が闇に溶け込むような、それでいてはっきりと耳に聞こえる声で言う。

「あっちから日が昇る。しばらくはそれを何も考えずに見ておけばいい」

「はい」

 尚人は伊崎の指示に頷いて、昨日と同じようにただそこに立つ。

 やがて山の()から空が、ゆっくりと明るくなっていく。

 星が残る群青の空の下、白む地平が鴇色(ときいろ)に染まる。

 暗い闇の中で息を潜めていた大地がぼんやりと照らされて、うねりながらどこまでも広がるその姿を徐々に現していく。

 来光(らいこう)。朝日が()す。

 その光を受けてススキの穂が一斉に黄金(こがね)に光った。

 空は深い青。その空に刷毛(はけ)で引いたかのような雲が広がり薄いピンク色に染まっている。鴇色は(あか)く色を変え、その朱と青の間に紫のグラデーションがかかる。

 ––––すごい……

 尚人は絶句する。

 自然のあるがままの美しさに。

 雄大で。崇高で。荘厳で。

 それでいて、静謐で。

 ただ、そこにある。

 そのことに、尚人の心が震える。

 それは、理屈ではない。

 言葉にできない感情が、尚人の中で揺さぶられた。

 刻一刻と変化していく空の色に吸い込まれて目が離せない。

 空はやがて水色になり、雲は白い小波(さざなみ)になる。

 太陽は大地を照らし、照らされた大地が呼吸を始める。

 一陣(いちじん)の風が吹き抜けた。

 尚人の髪を揺らして、目覚めた大地の匂いが通り過ぎていく。

「カーーーーット!」

 伊崎の声が朝日に響く。

 その声で尚人はようやく、CMの撮影中だったことを思い出したのだった。

 

 

 * * *

 

 

「あ、沙也加。明日だけどね。雅紀ちゃんが来るんですって」

 いつものように祖父母と三人で囲む夕飯。「いただきます」と手を合わせた直後、祖母が唐突にそう言った。

「え?」

(何で?)

 沙也加は箸を持ちかけてそのまま固まる。

 盆の義理をはたして、それでしばらく雅紀が加門の家に来ることはないと思ってたのだが。

「……何しに来るの?」

「沙也加のね、今後の事で話があるんですって」

(なにそれ)

 沙也加は凍りつく。

 ウソ。

 なんで?

 ––––どういうこと?

 雅紀に相談に乗って欲しい。そう思っていたのは確かだが。

「なんで、お兄ちゃんが?」

「やっぱり妹のことは心配なのよ」

 そんなはずない。

 反射的にそう思う。そう思ってしまうくらいには、雅紀にとって自分がどんな存在か沙也加は自覚している。

 雅紀は尚人だけが大切で。

 尚人さえいればそれでいいのだ。

 それにそもそも雅紀がそんな心配をするのなら、盆の時に話が出たはずだ。

 しかし実際、盆の集まりで雅紀が沙也加に声をかけてくることはなかった。それどころか、視線が合うこともなかった。雅紀は祖母の望む通り盆の集まりに顔を出しただけ。食事が済むとゆっくりすることなく尚人と祐太を連れて帰って行った。

 食後の茶菓子を用意していると言う祖母の言葉もやんわり断って。

 まあ、その前に祐太が。

「俺もうお腹いっぱいで、なんも入んないんだけど」

 と言ったのが大きいのだが。

 それで祖母は、手土産とばかりに準備していた茶菓子を裕太に持たせ、残った四人は熱いお茶だけ飲んでひと息ついたのだが。

 その席、由矩がとにかく鬱陶(うっとう)しかった。

「いやー、それにしても尚人には驚いたなぁ」

「翔南高校に合格したって聞いた時も驚いたけど。まさかの東大だもんなぁ」

「将来が楽しみだよなぁ」

 尚人の話なんて聞きたくもなくて、それで片付けを口実に沙也加は台所へ逃げたのだが。

「で、沙也加。お前はどうするんだ? モデルをやってるって言っても、アルバイトみたいなもんだろう? 卒業後はちゃんとした職に就くつもりなんだろうな?」

 わざわざ台所へ顔を出してそんなことを言ってきた。

「モデル一本で食っていけるっていうなら俺も何も言わんが。難しい世界なんだろう? それにお前は、そもそもモデルをするために大学に行ったわけじゃない。そうだろう?」

 年に数度しか顔を合わせない伯父に何でこんな小煩(こうるさ)いことを言われねばならないのか。沙也加は内心ムカムカしていた。

 仮に沙也加がモデルとしてうまくいかなくても、それで由矩に何の関係があると言うのか。そもそも沙也加の生活は由矩に頼っているわけではない。

「まさか大学卒業後も、アルバイトみたいな稼ぎで、このままこの家に居ればいいなんて甘ったれたこと考えてるわけじゃないだろうな」

「由矩」

「ばーちゃん。甘やかすばっかりじゃ、沙也加自身のためにもならないんだ。大学を出たらな、世の中のほとんどの人間はちゃんと自立して生きていくんだ。そもそも、そのための大学進学だろう? 何のために奨学金を借りてまで進学したのか。しっかり考えろよ」

(言われなくてもわかってるわよ!)

 どれだけそう叫びたかったか。喉元まででかかった言葉を沙也加はぐっと飲み込んだ。

 自分が居候(いそうろう)なのは間違い無くて。沙也加はこの家に来てからずっと我慢の連続だ。言いたいことはいっぱいあったが、ひとつ言葉を吐き出せば、次から次に溜め込んでいた思いが吹き出して、それで取り返しのつかない言葉まで飛び出しそうで。それが怖くて沙也加はずっと言葉を飲み込み続けている。

 ––––私の気持ちなんて何一つわからないくせに。

 ––––私が黙っているからそんな偉そうな態度でいられるのよ。

 ––––本当のことを知ったら、呑気に加門の血筋なんて言ってられないんだから!

 しかし、由矩にはそうでも、雅紀に対してはまた違った感情が揺れる。

「盆で皆で集まって。あれで雅紀も思うところがあったんじゃないのか?」

 祖父がぼそりと言った。

「せっかくの機会なんだから。雅紀にいろいろ相談すればいいじゃないか。モデルの件だって、雅紀なら何かアドバイスしてもらえるだろう」

 雅紀に相談に乗って欲しい。そう思っていた。しかし、いざそれが現実のものになろうとすると、沙也加は尻込みする。

 気持ちが萎縮する。

 お兄ちゃんに、相談する?

 面と向かって?

 ちゃんと喋れるだろうか。

 顔を引きつらせずに。

 感情を(たかぶ)らせずに。

 落ち着いて。理性的に。理論的に。

 ……………………………ムリ。

 絶対にムリだ。

 想像するだけでこんなにも心臓がバクバクするのに。

 あの金茶の目で見つめられて冷静でいられるはずがない。

 しかし、自分を名指しして家に来ると言っているのに逃げられるだろうか。明日は何もない。だから家にいる。買い物を手伝って欲しいと言っていた祖母にそう予定を告げていた。

 おそらくは、雅紀から連絡をもらった祖母がそれを雅紀に伝えたのだろう。だから明日来る。––––何の予定もなく、家にいるはずだから。

「………わかった」

 沙也加は覚悟を決めて頷いた。

 

 

 * * *

 

 

 朝の準備を終わらせて、雅紀が家を出ようとした時。電話が鳴った。スマホ画面を確認する。電話の相手は『加門』だった。

「はい。雅紀です」

『あ、雅紀ちゃん。今どこかしら?』

「まだ家です。これからそちらに伺います」

 祖母の問いかけに雅紀は答える。

 ––––今後の進路を決める話し合いにお前も参加してもらえないか。

 由矩にそう懇願されて。それで加門家を訪ねる日が今日なのだ。気が重いが仕方ない。沙也加のためと言うよりも由矩への義理立てだ。

 ただ、由矩がその気でも沙也加が素直に応じるのか。それが疑問だったが、祖母からの電話では「沙也加も了解した」とのことだった。

『……あの。今日のことなんだけどね』

 電話口で祖母が言い淀む。

「どうかしましたか?」

『さっき沙也加にマネージャーさんから電話があったみたいで。それで……』

 何となく先が読めた。

「急に仕事でも入りました?」

『……そうみたいなの。それで沙也加が、どうしても出かけないといけなくなっちゃって』

「わかりました。では、今日の予定はキャンセルと言うことですね」

『ごめんなさいね。雅紀ちゃん。忙しいところ無理言ったのに』

「構いませんよ。新人モデルにはよくあることです」

 誰かが急遽仕事に穴を開けたのかもしれない。その穴埋め枠を狙うのは新人なら当然のことだ。

『本当にごめんなさい。また、電話するわ』

 祖母は申し訳なさそうに何度も謝りの言葉を口にして電話を切る。

 通話が終了して、雅紀はむしろ気が軽くなった。

(今日の予定が空いたな)

 尚人は無事にロケから帰って来て、今日はグラビア撮影で朝からいない。近頃の尚人は、雅紀も顔負けの過密スケジュールだ。こうも忙しいと体調を心配するが、その辺はさすが尚人。高校三年間の自転車通学で培った体力は伊達ではなく、そもそも食事管理も睡眠もバッチリだ。

 雅紀的には、尚人を抱き潰すような激しいセックスができない不満はどうしてもあるが。

(とりあえず、ジムにでも行くか)

 出かけるつもりだったので何となくこのまま家にいる気にもなれなくて。雅紀は車のキーを手に取ると、会員になっているスポーツジムへ車を走らせた。

 

 

 * * *

 

 

 家から少し離れた公園のパーキング。そこに車を止めて沙也加は大きく息を吐いた。

 ––––今日はお兄ちゃんが来る。

 沙也加は朝から心がざわついて落ち着けなかった。

 昨夜散々心を悩ませて。いい機会だと。雅紀にいろいろ相談すればいいのだと。そう自分に言い聞かせていたのだが。

 いざ、当日になって。沙也加はどうしようもなく怖くなってしまった。

 雅紀前に立つことが。

 あの瞳に真っ直ぐ見つめられることが。

 ––––日本で独りが不安なら、いっそ海外にでも行けば?

 あの時みたいに冷たい言葉でバッサリ切って捨てられるかもしれないことが。

 どうしようもなく、………怖い。

 だから、マネージャーから急に電話がかかって来たことにして、沙也加は逃げ出したのだ。

 仕事なら仕方がない。

 祖母も雅紀も、そう言うだろうから。

 しかし、嘘をついた後ろめたさは当然あって。

 ドキドキと心臓がはやって、沙也加の心は落ち着かなかった。

 心が苦しい。

 本当は雅紀に話を聞いて欲しい。

 悩みを全て打ち明けて、優しい言葉で慰めて欲しい。

 真摯な言葉で相談に乗ってもらえれば、厳しい現実だって受け止められる。

 ––––沙也加がモデルとして頑張りたいって言う気持ちもわかるけど。

 ––––モデルの経験があるからこそできる仕事もあるんじゃないか?

 ––––祖父(じい)ちゃんと祖母(ばあ)ちゃんだって自分たちの生活がある。沙也加を追い出したいわけじゃなくても、自活してもらわないと困る現実だってあるだろう?

 そう言われれば、モデルの道を諦めて卒業後に就職することだって、祖父母の家を出てちゃんと一人で生活することだって、前向きになれるのだ。

 あんな、由矩みたいな言い方をされなければ。

 あるいは。

 ––––俺は、沙也加といつか一緒に仕事ができるかもって楽しみにしたのに。諦めてしまうのか?

 ––––大学を卒業したら思い切りモデルの仕事に打ち込めるだろう? そうすれば仕事だってもっと増えるんじゃないか?

 ––––自活する生活の足掛かりは、あいつの保険金があるんだし。

 そう言ってもらえれば、モデル一本で生きていく覚悟を決めることができる。モデルの仕事を「アルバイトみたいなもの」と馬鹿にした由矩の言葉をいつか見返してやると奮起することができる。

 でも、そんなことはありえない。

 雅紀が沙也加に優しい言葉をかけてくれるなんてあり得ない。

 沙也加の苦しい胸の内を感じ取って慰めてくれるなんてあり得ない。

 わかっている。

 だから沙也加は逃げ出すしかなかったのだ。

 そして何より恐れるのが、尚人と比べられること。

 ––––何のために奨学金を借りてまで進学したのか。しっかり考えろ。

 あの時由矩はそう言ったが。そんなことわかり切っている。

 あのままじゃ終われなかった。それに尽きる。

 あんな高校、––––定員割れの二次募集でようやくひっかかったような高校を自分の最終学歴にしたくはなかった。口にするのも恥ずかしい高校を人生について回る最終学歴にしたくなかった。雅紀も高卒だが、雅紀の出身校である瀧芙(そうぶ)高校は武道で有名な学校で文武両道を掲げるブランド高だ。

 それに雅紀は、その高校で剣道インターハイチャンピョンという輝かしい実績もある。それに比べて沙也加には何もない。何の実績もない。それどころか資格試験ひとつ受けなかった。その余裕がなかった。それが実態だが。

 何一つ誇ることができない人生。それが沙也加の高校までの人生。それをどうにかしたくて大学受験に人生のやり直しをかけたのだ。年金生活の祖父母に大学の進学費用なんて頼めないのは最初からわかっていた。だからきちんと奨学金のことを調べて、自分が受けられる上限いっぱいまで借りて、自力で大学へ進んだのだ。

 それなのになぜ、その奨学金を借りていることまで責められるような言い方を由矩にされなければいけないのか。

 私立大学はどうしたって国立大学に比べれば学費が高い。それは否定しない。しかし地方の国立大に進学する選択肢はなかったし。都内の国立は………、はっきり言うと偏差値的に手が出なかった。検討の余地すらなかった。

 沙也加は唇をかみしめる。

 悔しい、悔しい。悔しい。––––また尚人に負けた。

 大学受験に関して言えば、超進学校に通う尚人の方が断然有利だった。授業内容もレベルが高いだろうし、なにより受験に対するノウハウがある。卒業生に有名大学進学者が何人もいれば、そのデータが学校に蓄積されていくのだから。

 翔南に落ちた。あの時から沙也加の人生は負け続きだ。

 第一志望の大学に合格して、そこで気心知れた友人もできて、キャンパスライフをエンジョイして、モデルの仕事も始めて。人生これから。心の底からそう思えた。三年生になって、授業数も増えて、内容も難しくなって。モデルとの両立に苦慮するようになって来ていたが。それが(かえ)って充実感に結びついていた。

 どっちも頑張る。

 きちんと大学を卒業して、モデルも頑張る。

 それでこそ自分に自信が取り戻せる。

 ……そう思っていたのに。

 また、尚人が横からしゃしゃり出て、沙也加の人生をかき乱す。

 沙也加の頑張りも、尚人の東大進学の前に霞む。

 奨学金をもらって自力で大学進学なんて偉い。を、金がないならなんで学費の安い国立大に行かなかったの? に変えてしまう。

 ––––っていうか、本当に東大なわけ?

 いまだにちょっと疑う。

 そんな嘘ついたってしょうがない。だから、つくはずがない。そうは思うのだが。

 ––––もし嘘だったら、盛大に笑ってあげるわ。

 運転席で独り仄暗(ほのぐら)く笑う沙也加の頬を、悔し涙が伝って落ちた。

 

 

 

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