週末、都内アパートの一室。薄いカーテン越しに差し込む光の眩しさに、
「んんんんーー。………今、何時だ?」
枕元に転がしていたスマートフォンを手に取って時間を確認する。朝と言うより、もう昼と言っていい時間だ。
「あー、腹減った」
家になんかあったかなと考えて、中野は寝ぼけ
棚を確認すると残りが三つ。補充直後は、これだけあれば三ヶ月は持つなと思っていたのだが、ひと月ちょっとでこの有様だ。一応頑張って自炊しているのだが、どうしたって手軽なカップ麺に頼りがちになる。
夏休み中は結構長めに帰省した。大学そばの一人暮らしは、毎日大学に通うからこそメリットがあるわけで、引きこもるだけなら電気代もバカにならないし、何より
しかし、実家に帰省して、尚人に電話して。
「俺、しばらくこっちにいるからさ。どっかで都合つけて一緒に遊ばね?」
そう言うと、尚人の返答はまさかの「ごめんなさい」だった。
「ちょっと、しばらく忙しくて」
「え。しばらくって、どのくらい?」
「うーん。……夏休みいっぱい、かな」
「バイトでもしてんの?」
「えーと。バイトも、してたんだけど、休みをもらうことになっちゃって。……いろいろ、しないといけないことがあるんだけど。夏休み中に終わらせようってことで詰め込んじゃってて」
「––––そうなんだ」
よくはわからないが、尚人の夏休み中のスケジュールはすでにぎっしり詰まってるってことだけはわかった。
「ごめんね。……時間できたら、電話する。山下の家で鍋パーティーしたの楽しかったし」
「ああ、そうだな。今度は焼肉パーティでもするか」
「そうだね。また、みんなで集まれるといいね」
電話は至極あっさり切れて。中野は、自分と尚人との間にある距離が遠くなってしまったようで、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
(まあ、篠宮が忙しいのは知ってるけどさ)
尚人の家庭環境がどういうものかはわかっている。高校時代の騒動を通して嫌でも知らされたのだから。両親のいなくなった家庭で、長男の雅紀が大学進学を諦めて働いて金を稼ぎ、次男の尚人が家事全般を引き受けていた。翔南高校は土曜も含めて毎日朝課外があっていたが、尚人は毎日自前の弁当持参で登校し、遅刻も欠席もなくて、成績も常にトップレベルだった。
あの翔南高校の過密スケジュールで成績を維持しながら毎日家事をこなすのは大変だったはずだ。当時もその大変さをわかっているつもりだったが、尚人の「慣れてるから」のひと言に「そんなもん?」と流していたのも事実。しかし、実際自分が一人暮らしを始めて、大学の授業や課題をこなしながら、自炊したり洗濯したり風呂やトイレの掃除をしたりするのは思っていた以上に大変で。そもそも「慣れる」まで行き着かない現実に、「慣れる」しかなかった尚人の置かれていた環境を改めて思い知らされたような気がした。
引きこもりだった三男は引きこもりをやめたようだが、尚人の生活は基本高校時代と変わらないはずだ。高校までは自転車で片道五十分だった登校が、電車に変わったぐらいのものだろう。毎日大学に行って、授業を受けて、課題をこなして。合間合間に家事をして。それでも、夏休みには余裕ができるはずだと思っていた。翔南高校では夏休み期間も完全休みは盆を挟んだ一週間のみで毎日夏季課外があっていたが、大学の夏休みはどの大学だっておおよそ二ヶ月もある。その期間に集中講義や特別講座を開く大学もあるが、高校時代の夏季課外ほど過密ではない。
それなのに、である。
(やっぱ、篠宮だからなぁ。いろいろ
同じく帰省していた山下とは遊び倒したが、結局尚人とは会えずじまいだった。
カップ麺にお湯を注いで、中野は小さな食卓へと運ぶ。
ワンルームの狭い室内には、奥の窓際にベッドを置いて、その手前に食事用の小さなテーブルを置いている。そのテーブルの前に
親にねだって買ってもらった中古の小さなテレビだ。
適当にチャンネルボタンを押すと週末昼時らしいゆるい情報番組をやっていた。別段興味を惹かれたわけではないが、そのまま画面を眺める。三分待つ間の時間潰しだ。
どこかの商店街でタレントがコロッケを注文して受け取っていた。見ると食べたくなって、このあと近くのコンビニに買いに行こうかな、なんて思っていると画面がCMに切り替わる。ちょうどそのタイミングでかけていたタイマーが鳴った。中野は、カップ麺に視線を落とそうとして、––––切り替わったテレビ画面の映像に視線を縫い止められた。
きれいな朝焼けの大地だった。
清涼とした空気感さえ伝わってきそうな映像だった。
そこに誰かが立っている。
凛としたシルエット。
カメラがズームアップして、立っている人物を映し出す。
え?
その瞬間に驚いて。
うそ。
一回我が目を疑って。
まじ?
「––––って、篠宮?」
朝焼けの中、静かに立つ若者の横顔を画面は映し続けている。
え、なに、どういうこと?
カットが変わって、印象的な双眸が真っ直ぐに向けられる。
吸い込まれそうなその双眸に息を呑み、驚いている間にCMが終わった。
自分が見たものが信じられない。まるで白昼夢でも見たかのような、そんな感覚だった。
「篠宮、だったよな?」
自分がよく知る尚人とは違う。しかし、静かで、それでいて何かしらの思いを内に秘めた、崇高で清高ですらあるその横顔には、見覚えもあって。尚人が、学校生活の中でのふとした瞬間、––––移動教室で廊下の窓から外にふと視線を向けた時とか、人の少ない朝の教室で一人静かに席に着いてテキストに視線を落としていた時とか、––––そんな時に一瞬どきりとするような横顔を見せることがあって。
尚人が『MASAKI』の弟だと知ってからは、そんな表情も「さすがカリスマの弟」と勝手に心の中で思っていたのだが……。
「ってか、もう一回!」
中野は何だか急に現実に立ち返って、テレビに向かって叫ぶ。
「もっかい見せろ! 急すぎんだよ! びっくりして、ちゃんと見てなかったじゃないか!」
何かナレーションも入っていた気がするが驚きすぎて全く覚えていない。何のCMだったのかすらさっぱりだ。
「てか、録画!」
中野は慌てて『見て録』ボタンを押す。これでこの番組中に同じCMが流れれば録画できるはずだ。
それからあちこちチャンネルを変えまくって、別チャンネルで同じCMをやってないかチェックしまくる。
カップ麺の存在は、とうに中野の中から消え去っていた。
* * *
夜七時。加門家が夕飯時を迎える。三人揃って囲む食卓に会話は少ないが、時計がわりのテレビはいつものごとくどうでもいい騒音を撒き散らしている。
夏休み期間はあっという間に終わってしまって、大学は後期が始まっていた。三年後期という時期は、大学生活の中で一番忙しい時期だ。専門の授業がびっちり詰まり課題も多い。レポート提出も
そんな中、同時進行していくのが就職活動だ。
就職に関する会社説明会は三月から始まり、六月から選考開始となる。企業を知るためのインターンシップは当然これよりも前に参加しておく必要があり、必然、時間の取りやすい三年生の夏休みがメインになる。この期間に大抵の学生が一社から三社のインターンシップに参加して就職の希望先を絞り込んでいく。一方企業側は、インターンシップ参加者の中からやる気のある学生に目星をつけて青田買いをしていく。……らしい。
沙也加の周りでも「エントリーさえしてくれれば必ず採ると言われた」などと吹聴している者がいる。嘘か本当かは知らない。六月解禁の就職選考より前に内定を出す行為は禁止というのが建前だが、噂を聞く限りそれより前の内々定という行為はごく当たり前に行われているようだ。
つまりは、インターンシップ不参加はそれだけで就活に遅れをとっているということ。その自覚はありながら、沙也加は結局夏休み中にインターンシップに参加することはなかった。
モデルとして頑張る決意を固めたから、……ではない。迷っている間に気になっていた企業の参加申し込み枠が埋まってしまっていたのだ。人気の企業インターンは募集が開始されると同時に申し込まないとダメだというのも後から知った。
ただ、インターンシップは夏休み以降も結構開催されている。大学によってはインターンシップ参加そのものを単位にしているところもあるからだ。そうやって、自分が気になる企業ばかりではなく、いろんな企業を見て回ることで視野を広く持つ機会とする。……らしい。
しかし沙也加は、気になっている企業以外のインターンシップに参加する気はなかった。時間の無駄だし、不本意な就職をするくらいならモデルとして頑張った方がマシだと思うからだ。
とはいえ、沙也加の心はずっと揺れている。雅紀に相談したい。雅紀に聞いてほしい。その思いは今でもあるが、結局あれ以降雅紀に相談できるチャンスはなかった。一度のチャンスを自分から逃げ出したのだから、それに関して何も言えないのはわかっている。
あの日、––––雅紀が沙也加に会いに加門家に来ることになっていた日。急な仕事が入ったことにして逃げ出した沙也加は、外で一人夕飯を済ませ、深夜になって帰宅した。急な仕事と言って出かけたのに、夕飯時に合わせて帰るのは早すぎて不自然だろうと思ったし、正直、祖父母と顔を合わせたくなかった。いろいろ聞かれて嘘を重ねるのが嫌だったからだ。祖父母は夜十時には寝室に入ってしまう。だから、それ以降の時間に帰宅した。それまで時間を潰すのが大変で、街をうろついて知り合いにばったり会うのも怖くて、昼間は図書館、夜はカラオケで過ごした。いつもはあわたださからあっという間にすぎてしまう一日が、とても長く感じた一日だった。
そして次の日、沙也加は雅紀に電話しようか散々迷ったのだ。
––––昨日は、ごめんなさい。
––––せっかく時間を作ってくれたのに。急に仕事が入っちゃって。
直接言葉を交わせば、何かが変わるかもしれない。
雅紀と自然に話ができるかもしれない。
しかし、
––––昨日は何の仕事だったんだ?
そんなことを聞かれては、うまくごまかせる気がしなかった。雅紀は沙也加よりよほど業界に詳しくて、適当な話ではすぐに嘘がバレてしまうだろうから。
それが怖くて結局電話できなかった。
ほんの少し、雅紀の方から電話があることを期待したが、それもなかった。
––––バカね、沙也加。自分がドタキャンしたんでしょ。
そうは思っても、「日程の再調整」の連絡をくれるかもしれないと、心のどこかで期待していたのだ。
雅紀が自分のことを気にかけてくれている。それを実感できれば勇気が出る。誰にもうまく相談できない自分の悩みを打ち明けることができる。……そう思ったのだが。
「あら、雅紀ちゃんが出てるわ」
静かだった食卓に急に祖母の声がした。その声に我に返って、沙也加はテレビ画面に視線を向ける。「雅紀」の名前に反射的に心臓が跳ねた沙也加だったが、画面に映っていたのは、もう何度も見た『ミズガルズ』のPVだった。
何の番組なのかは全くわからなかったが、MCがにこやかな笑顔で「この続きは、CMの後で」と言ってCMに入る。テレビコマーシャルになど興味のない沙也加は食事を再開しようと箸を持ち直したが、画面が切り替わった途端に飛び込んできた映像の美しさに思わず見入った。
朝焼けの空。まだ薄暗い大地の上に誰かが立っている。
シルエットしか見えないが、凛とした静けさがあって、思わず見入る。
美しい自然を映す画面に、BGMが流れる。
まるでミュージックビデオの一場面かのごとく映像に、何のCMだろうと思っているとカメラがズームアップして、朝焼けの中に立つ人物の横顔をはっきりと映し出した。
その瞬間––––。
「えっ?」
は?
うそでしょ。
沙也加はテレビ画面に映し出された人物を凝視して、––––固まる。
見間違いようがない。
間違いなく尚人だ。
なんで?
……どうして?
…………尚が?
カットが変わって、尚人が正面を向いて、ほんの少し伏せられていた視線がゆっくり持ち上がって真っ直ぐにこちらを見る。
その双眸に沙也加は息を飲む。
しっとりした光を纏う双眸は引き込まれそうな引力があって。盆で顔を突き合わせて感じた時よりも明確なオーラがあった。
何なの。
どういうこと?
尚が、……CM?
思考が混乱して訳がわからない。
頭がガンガンする。
耳の奥がキーンとする。
『音で覚醒する。新感覚リゾルトイヤフォン。新発売』
最後にナレーションが入ってCMは終了したが、茫然とした沙也加の耳には届かなかった。