甲龍暦443年。
グレイラットの名簿から外れ、ただのアイシャとなっていた彼女はアスラ王国にいた。
アスラ王立学校を卒業し、女王アリエルのもとで行政に携わっていた。
転移事件の後、少しずつ復興が進められているフィットア領の再興計画である。
限られた予算をいかに配分し、どの部分に力を入れるか。
広大なアスラ王国といえどフィットア領ほど豊かな土地を遊ばせておくわけにもいかず、再開発は急務といってもよい。
アイシャは担当者と折衝を繰り返していた。
以前のアイシャであれば、そんなものは無駄なもののひとつだと考えていただろう。
能力以上の予算を渡しても能力分しか返ってこない。
能力以下の予算では失敗するだろう。
つまり、適正な予算をこちらで考えて有無を言わさず渡しておけばいいのだ。
しかし、アスラ王立学校での経験を経て、アイシャの考え方は変わった。
時に、人の持つ思い、情熱、執念、そういったものがアイシャの予想を覆し、能力以上の成果をあげることがあるのだ。
同級生の成績に、研究に、時に人付き合いの中でアイシャはそういうケースを多々目撃した。
それをアイシャは「きれいだ」と感じた。
予想された範囲で、予想された結果を返すのが当たり前のはず。
その条理を人の持つ熱意が覆すのだ。
それを知って、アイシャは相手が心の底に秘める思いの強さを見抜くことができるよう心掛けるようになった。
だから、フィットア領再興計画の折衝は白熱していた。
時に議論は深夜に及ぶこともあったが、アイシャは日々やりがいを感じる生活を行っていた。
‐‐‐
その日。
アイシャは定例のアリエルへの報告のために王宮を訪れていた。
謁見の間でいつも通りの報告を終えた後、アリエルが言った。
「アイシャ。今日はあなたに逢わせたい方がいます。別室に来てください」
「えっ、……はい」
いつもの取り澄ましたアリエルの目に、少しいたずらっぽい色が混じっているのが見て取れた。
まぁアリエルはいつもそんな感じなのだが、この日のものは少し違う毛色を感じ取れた。
アイシャの頭は急速に回転する。
もしかして。もしかして。時期はそろそろのはず。卒業式の日は何日だっただろう。
さすがにアスラ王国にいながらシャリーアにある魔法大学の日程は把握できなかった。
アスラ王国まで来るには。いや転移陣があるからそこは問題じゃない。
‐‐‐
アリエルに招かれ、別室に入った。
中にいたのは若い青年だった。
旅姿に近い格好で、背中に軽く荷物を背負っている。
腰に1本の剣を下げている。
背はアイシャよりやや高い。体格は細いが引き締まっている。
何より特徴的なのは染料をぶちまけたかの如く深紅の髪だ。短く切りそろえられている。
若干クセが入っているのは母親の血筋によるものか。
柔らかく、しかししっかりとした意思を込めた眼光が、アイシャに向けられた。
ゆっくり微笑み、両手をひろげ、言葉を発する。
「……アイシャ姉」
記憶にあるよりもずっとたくましくなった姿。
強さよりも幼さのほうが目立っていた顔つきは、年を重ね自信に満ち溢れたものとなっている。
かつてはアイシャよりも細かった腕は片手でアイシャを抱えられそうなほどの力感を感じさせる。
「……アルス君?」
それは理想の姿だった。
かつて愛した少年が、こんな風になっていてくれたらな、と幾度も想像した姿。
それが現実にある。
いや、想像を超えている。
そして、これほど見た目が変わっているのに。
その眼から感じる思いは何ひとつ変わっていないように思われる。
熱情と、恋慕だ。
それは不条理だ。
変えられぬものを変えうる思いをきれいだと感じたアイシャは。
変わっている姿に変わらぬ思いを秘めたアルスの姿に。
同じ感情、つまり、きれいだと感じていた。
この時。
アイシャは、――同じ相手にではあるが――生涯で2度目の、恋をした。
‐‐‐
いつ駆け寄り、いつ抱擁したのか気づかなかった。
気づいた時にはアルスの腕の中にいた。
涙は勝手にあふれていた。
「……アイシャ姉」
アルスの声が耳元で聞こえる。
それだけで心が幸せだ、幸せだと叫ぶ。
「アルス君……!」
無我夢中で口をついばんだ。
キスは涙ですこししょっぱかった。
でも、かつてルーデウス邸で人目を盗んで重ねた逢瀬の時よりも、駆け落ちをしていた間に不安を打ち消すかのように重ねた時よりも、
ずっと心に染み入るものだった。
どれくらいの時間が経過しただろうか。
「こほん」
アリエルの咳払いで我に返った。
「あ、……し、失礼しました!」
二人そろってアリエルに向き直る。
「いいえ、4年も離れ離れでいたんですもの。それくらいは普通でしょう」
と、言いながらアリエルはどこかうっとりとした顔をしていた。
大変おいしゅうございました、という顔だ。
何なら混ぜてもらえませんか、とも言いだしかねない顔だ。
「さて、アルス・グレイラット」
「はい」
「ここに来たのは当然、アイシャを迎えに来た、ということでよいのですね?」
「はい!」
迷いなく、言い切った。
夢のようだ。
幾度となく夢見た景色が、今目の前で起こっている。
「ではアイシャ・グレイラット」
「え、アリエル様、私はもうグレイラットでは」
「アルス・グレイラットと結婚するんですもの。アイシャ・グレイラットでしょう?」
「……はい」
びっくりした。考えてなかった。
家名を捨て追放されられた身。
アルスと結婚するのは夢見ていたが、グレイラットの名をもう一度背負うことになるのは、なぜか頭からすっぽり抜けていた。
だが悪い気分ではない。
改めて意識すると、今度こそアルスと結婚するのだということに思いが至る。頬が紅潮するのを感じる。
「アイシャ・グレイラット。本日をもって、フィットア領再興計画の責任者の任を解きます。副担当官は優秀です。あなたの後任としてしっかりやってくれることでしょう」
「……はっ。ありがとうございます」
「まずは担当の引継ぎを。後の挨拶は不要です。……早くイチャイチャしたいでしょう?」
「はっ。いえ、その……お世話になりました」
その後、アリエルのもとを辞去したのち、担当への引継ぎを済ませると、アイシャはアルスと共に転移陣を用いてシャリーアに向かった。
荷物はそう多くない。むしろいつこの日が来てもいいようにしていた。この日が来るのを待っていたのだ。
転移陣は城内にある。
ふたりはしっかりと手をつなぎ、転移陣をくぐった。
‐‐‐
「「「おかえりー!」」」
グレイラット邸の扉を開けると、懐かしい顔に迎えられた。
みな笑っている。
母リーリャ。義母ゼニス。
兄の妻シルフィ、ロキシー、エリス。
姉ノルン。
アルス以外の兄の子、ルーシー、ララ、ジーク、リリ、クリス。
そして兄ルーデウス。
「えと……ただいま?」
食卓には、食事が並んでいる。
夕食には少し遅い時間だが、みな待っていたようだった。
とりあえず歓迎されていることを理解し、アイシャは微笑む。
こんなに。
暖かく迎えられるとは思っていなかった。
出る時はひどかった。
兄の子をかどわかし誘拐まがいに駆け落ちをした。発見され、反省して戻ってきたが罰を与えてほしいと言った。
結果として家名を捨てアスラ王国に留学したのだ。
それから4年。
家を出る前の会話では許されたのではとも思えたが、いずれ時が経てばどうなるかわからないと思っていた。
何しろ家族全員を巻き込むような大騒動を起こしたのだ。
何かしら誰かから恨まれていても仕方ないとも思っていた。
「よく帰ってきましたね、アイシャ」
リーリャが声をかける。その言葉に棘はない。
続いて、ルーデウスが言った。
「正直、4年は長すぎたかと思ったんだが……でも、ちゃんと帰ってきてくれてうれしい。もうお前には何の罪もないってことで、もう……いいだろ?」
兄の言葉が優しい。
それは、許しだ。
ルーデウスが許すための言葉ではない。
アイシャが、アイシャを許すための言葉だった。
「お兄ちゃん、それよりもっと大事なことがあるでしょ!? ほらアイシャ、これつけて!」
「え!?」
急にノルンに何かかぶせられた。
これは……お面?
「ちょっと待ってねー、はい! 取っていいよ!」
シルフィの声が聞こえ、お面(?)を取る。
そこには。
「まま……?」
シルフィに抱かれた幼い子供。アルスと同じく。夢に見た姿。
ルロイ・グレイラットがそこにいた。
4年という月日が流れていたが、一目でわかった。
自分と、アルスの子だ。アイシャが腹を痛めて産んだ、我が子だ。
「ルロイ君……?」
自然、涙が溢れてきた。
「ほら! 抱っこしてあげて!」
「う、うん」
シルフィの手からルロイを受け取ると、ぎゅっと抱きしめる。
「まーま……?」
「うん、うん……」
ルロイを抱きしめながら、アイシャは泣いた。
やがて、ルロイも泣き出した。
全員に見守られながら、ふたりは泣いた。
‐‐‐
お面には、アイシャの顔が書いてあった。
かなり精巧だった。いわゆる肖像画というものは美化されて描かれるものだ。
だがなるべくそういった余分な装飾はなく、素のアイシャの顔に近づけようとした形跡があった。
「アイシャが戻ってきた時、ルロイがお母さんの顔がわからないと困ると思ったんです」
そう説明したのはロキシーだ。
ルーデウスがフィギュアを作る要領でアイシャの胸像を作成。
皆でそれを絵に描き、さらにそれを元に肖像画家に依頼したのだという。
そして皆でルロイに言い聞かせたという。
これがママの顔だよ、今は遠くへ行っているけど、きっと帰ってくるからね、と。
「うまくいってよかったよ……」
ほっと胸をなでおろしているのはシルフィ。
その眼にはうっすら涙が浮かんでいた。
「私はうまくいくって思ってたわ!」
そう言い切ったのはエリスだった。
ほれ見なさい、とばかりに胸をそらしている。
それを聞いて子供たちも笑った。
皆ほっとした顔だった。不安だったのだ。ルロイが心配だったのだ。
「さぁ、それじゃ無事アイシャ姉とルロイ君の顔合わせもできたし、食事を始めましょう!」
ルーシーが音頭を取って夕食の開始となった。
アルスがルロイを受け取って、アイシャの横に小さな椅子を並べる。
「乾杯は……みんな飲まないからいいか。じゃいただきます」
「「「いただきます」」」
ルーデウスの言葉にみな続いた。
‐‐‐
「えっ、ルーシー、クライブ君と結婚したんだ!」
「はい。……今はミリス神聖国で暮らしています」
「へー……みんなも大きくなったもんねぇ」
アイシャはルロイに食事を与えながら、子供たちと話している。
「僕はまだまだだよ。パパにもアルス兄にも勝てないもん」
ジークがそう言って肩を落とす。
「ジークはまだ14歳じゃない。これから身体も大きくなるよ」
「……そうかなぁ」
ララがアイシャのそばに寄ってきて言う。
「……私は、大きくなった?」
「ララも大きくなったよ。ロキシー姉と変わらないくらい」
「じゃあ小さい」
「小さくありません」
ロキシーが口をとがらせる。
リリとクリスは学校の話だ。
アイシャが家を出た時はラノア魔法大学に入学したてだったが、もうすっかり上級生だ。
宴もたけなわといったところ。
「さて」
ルーデウスの声でみなが席に着き、ぴっと姿勢を正す。
「アイシャが帰ってきた。これはめでたいことだ。以前いろいろあったわけだが、起きたことは起きたこととして、それを受け止めたうえで、俺は改めて家族としてアイシャを受け入れようと思う」
ルーデウスは続ける。
「――アルス」
「はい!」
ルーデウスの目線を受けてアルスが立ち上がった。
「お話しした通り、俺はアイシャ姉と結婚します」
アルスはゆっくりとアイシャを見ながら口にした。
「この手で、アイシャ姉とルロイを守っていきます。近所に家を買いました。そこで3人で暮らしていきます」
「そうか」
ルーデウスは嬉しそうだ。
いつか欲しかった答えが、やっと手に入ったかのように。
「アイシャ姉」
「……はい」
「結婚、してください」
アルスはそっとアイシャの肩に手を乗せた。
返事は、考えるより先に口に出た。
「はい。幸せに、してください」
アイシャの目の端から、涙がこぼれた。
それを見て、シルフィとロキシーは目の端を抑えた。
エリスは鼻をすん、とすすり上げた。
「よし、今日はアイシャが家族に帰ってきた日だが、アルスとアイシャの門出の日にもなった」
言って、ルーデウスはふたりに近寄り、肩に手を置く。
「ふたりは忘れないでほしい。例え住む家が変わっても俺たちは家族だ。困ったときは助け合う。悩みがあるときはふたりだけで抱え込まないで、みんなで解決していこう」
「「はい」」
その後ゼニスがアイシャとアルスに近寄ると、そっとふたりの手を取った。
‐‐‐
アルスが用意した新居は歩いて30分といった距離だった。
アイシャがルロイの手を引き、アルスがルロイの分も荷物も持って歩く。
ルロイはすっかりアイシャを母と認識したようで、ぎゅっと手を掴んでいる。
「家まで買うとは思ってなかったよ」
「パパがさ。ちゃんとアイシャ姉と家庭を築くんなら誠意を見せろって言ったんだ」
「誠意?」
「パパも白ママと結婚するときに今の家を買ったって聞くし、それなら家かなぁ、って」
「それで家って言ったらお兄ちゃんは?」
「そうか、って言って笑ってた」
それが、ルーデウスの望む答えだったかはわからない。
「でも家なんか買っちゃって、お金だいじょうぶなの?」
「1年くらい前からオルステッド様の仕事を手伝うようになったんだ。まだ簡単なものしか任せてもらえないけど、当面の生活費はあると思う」
「そっか。あたしもルード傭兵団に戻るし、じゃあ大丈夫かな」
「アイシャ姉に苦労はさせないよ」
ぐっと、腕を見せるアルス。
「ふふ……ありがと。ねえアルス君さ」
「なに、アイシャ姉」
「浮気とか、しなかった?」
「絶対してない!」
「そっか……。あたしも、してないよ」
「うん」
「じゃあ」
言って。アイシャはにぱっと笑った。
「今日は久しぶりだね」
久しぶり。その言葉の意味するところを察して、アルスの頬が赤く染まる。
新居は、もうすぐだった。
実は①より先にこちらを書いていました。