記憶がある。
血だまりに屈みこむ自分。
片腕は切り落とされ。
片方の肩はざっくりと大きく切り裂かれている。
細かい傷は無数。
血だまりは刻一刻と広がっていく。
残った手で剣を握りしめているが、もう剣先を上げる力すらない。
もう死ぬ。
死ぬに違いない。
守りたいと思った者を守れず。
このまま無様に。
だから、せめて。
せめて最期まで相手を睨みつけようとした。
‐‐‐
「――っ!」
目が覚めた。
汗をかいている。
久しぶりに見た昔の思い出。
血だまりの夢。
横を見る。
妻――アイシャ姉が寝ている。
向こうには息子――ルロイの寝ている布団も見える。
幸せな現在。
夢のような現在。
それは、あの血だまりの日から始まった。
ある意味において、アルス・グレイラットとしての自分は、あの日に生まれたといってもよかった。
‐‐‐
物心ついた時、自分は4人の母がいるのだと思っていた。
白い母。青い母。赤い母。そしてアイシャという名の赤茶色の髪の母。
そのあと様々なことを見聞きして。
アイシャという名の女性は母親ではなく父の妹だと理解した。
だが不思議な関係だった。
母のように優しく、時に厳しく教えるのではなく。
ふたりの姉のように偉そうにしたり遊びに誘ったりするのでなく。
包み込むように、導くように、見守るように。
いつだって傍にいてくれて、いつだって相手をしてくれる、不思議な人。
とても言葉では表現できない、「アイシャ姉」としか呼ぶことのできない存在。
それは半分洗脳と言われても仕方なかったろう。
あるいは依存と言われても仕方なかったろう。
だが違う。
違うのだ。
その頃のアルス・グレイラットの一部は紛れもなく「アイシャ姉への想い」でできていたのだ。
結婚したいと言ったのも自分から。
口づけをしたいと言ったのも自分からだ。
最初は拒否していたアイシャ姉は、やがて困惑し、最後には「1回だけだからね、練習だからね」と言って許してくれた。
だが未熟な自分は1回だけなんて約束を守ることはしなかった。
調子に乗っていたといってもいい。
ダメだなんて言って、最後には何でも言うことを聞いてくれるアイシャ姉。
全能のアイシャ姉が最後には言うことを聞いてくれるという事実で、自分が全能であるかのように誤解したのだ。
関係を持ったのも自分から強引にだった。
悪友から教わった性行為のやり方。
当然のようにアイシャ姉に頼み込んだ。
アイシャ姉はかつてないほど拒絶した。
それだけは本当にダメだと。
キスは何回でもしてあげるからそれはいけないと。
家族じゃなくなっちゃうんだよ、とまで言われ泣かれた。
だが俺は理解しなかった。
愚かな俺は、アイシャ姉が許してくれないことがこの世にあるということがわかってなかったのだ。
そうして、露見した際にはアイシャ姉が断罪されるのだということも。
‐‐‐
「そんな風に育てた覚えはないわ!」
赤い母の言葉だ。
露見した事実。
追い詰められたアイシャ姉。
口を閉ざしていた俺は母に殴り倒され、吐き捨てるようにこう言われた。
更に暴力を加えようとする母をアイシャ姉が覆いかぶさるようにかばってくれている。
信じられなかった。
見たことがないほどに険しい顔をした父も。
鋭い目でアイシャ姉を見つめる白い母も。
真っ青な顔でうつむく青い母も。
激高し、髪を振り乱す赤い母も。
愚かな自分がしでかしたことで、アイシャ姉が追い詰められている。
ああ、つまり。
アイシャ姉は自分にとって全能であるかのようにふるまっていただけで。
本当はただの女性だったのだ。
父にも、母たちにもかなわない。
ただの女性に、自分は全力で甘えかかり、そして押しつぶしてしまうところだったのだ。
ただ好かれているというだけで。
ただ好かれているというだけで。
この時、俺は命を懸けてアイシャ姉の思いに応えなくてはいけないと思った。
だから、「駆け落ちしよう」というアイシャ姉の言葉に、迷った挙句、頷いてしまったのだ。
‐‐‐
逃亡生活はつらいものではなかった。
むしろ充実していた。
仕事をし、金を稼ぎ、飯を食い、そしてアイシャ姉を抱いた。
アイシャ姉は難しい工作を繰り返していた。
そして、妊娠を境にできなくなった。
俺は覚悟を決めた。
命を懸ける覚悟だ。
それは先日までの充実した日々の対価だと思った。
そうして、その日は来た。
父と、母たちがやってきた。
アイシャ姉だけは守ると剣を向けた。
‐‐‐
そして冒頭の記憶に至る。
赤い母になすすべなく切り刻まれ。
そして青い母に諭された。
死んでもいいのかと。死んだあと、アイシャ姉がどうなっても本当にいいのかと。
――涙が出た。
思い知らされたのだ。
力が足りなかったのだと。
知恵が足りなかったのだと。
そして。
……覚悟すら、足りなかったのだと。
ダメだったのだ。
自分はどうなってもいいから、アイシャ姉だけを守ればいいなんて、弱かった。
こんな弱い自分でも、アイシャ姉は愛してくれた。
幼いころからずっと愛していてくれたのだ。
自分の命を投げ捨てて、アイシャ姉だけ生き残って、アイシャ姉が喜ぶはずがない。
そうして駆け落ちは終わった。
俺は全てをやり直すためにシャリーアの家に帰ることになった。
‐‐‐
その後、アイシャ姉とふたりで、リーリャ祖母と話した。
自分たちのこと。
自分たちの想い。
自分たちの間違ったこと。
それでも、貫き通したい考えを。
リーリャ祖母は興奮し、悲嘆し、泣き叫んだ。
それでも、避けて通れない道だった。
それを避けようとしたから駆け落ちなどしたのだ。
初めからこの道を選んでいたら、あれほどアイシャ姉を苦しめることはなかっただろう。
全ては俺の弱さが引き起こしたことだった。
そうして、俺たちは離れて暮らすこととなった。
アイシャ姉はルロイを出産して、ひとりアスラ王国へ。
俺はシャリーアで。
成人し、父やエリス母に一人前と認められたら家を出て好きにしていいと言われた。
それは、アイシャ姉を迎えに行き結婚してもいいということだ。
だが俺は。
俺は本当に父や母に一人前に認められる日など来るのだろうか。
こんな、何もかも未熟な自分が。
‐‐‐
学校に行き勉強をする。
学校が終わったら剣術の稽古をする。
元の生活に戻ったようだが、俺にはまるで違って見えた。
アイシャ姉がいないのだ。
物心つく前から、俺を支えてくれていたアイシャ姉が。
まるで、世界から色が消えてしまったようだった。
目に入るもの、耳に聞こえるもの、何も身に入らなかった。
きっとそれだけだったら俺は一人前になることなど諦めてしまっていただろう。
だが、唯一色がついて見えるものがあった。
ルロイだ。
俺と、アイシャ姉の子。
アイシャ姉と過ごした日々が夢でないと教えてくれる存在。
あの血だまりの記憶に俺を立ち戻らせてくれる存在。
俺は、一人前を目指すことにした。
‐‐‐
一人前って、なんだろうか。
考えたが、はっきり答えが見つからない。
考えうる限り一人前と思われる人々に聞いてみることにした。
父や母たちには聞けない。
彼らに認めてもらうのだ。
条件を聞いて、ただそれを満たすだけというのは、最も一人前から遠いような気がしたからだ。
龍神オルステッド様に聞いてみた。
彼は俺の知る限り最強の戦士だ。
戦闘力が強いというだけではなく、長い年月で完成された重厚さを持っている。
「……そうだな。己の願いをかなえる力を持つことだ」
オルステッド様はいつもの怖い顔でそう重々しく呟いた。
「ただかなえるだけではない。万人が納得するようにかなえねばならん」
それはすっと俺の中に入ってきた。
確かにそうだ。
俺とアイシャ姉は愛し合いたくて駆け落ちをした。
それは願いをかなえるための短絡的な手段だったが、俺たちふたり以外、誰も納得しない方法だった。
「僕かい、僕はひとつのことを極めることだと思っているよ」
オルステッド様の腹心、北神カールマン三世、アレクサンダー・ライバックさんはそう言った。
「極めたことについては誰にも文句を言われないからね。まぁ僕自身まだまだだけどね」
「そうですな……己の責務を全うすることでしょうな」
父の友人、ザノバ・シーローンさんはそう言った。
「余は最終的に国を捨てましたが、それまでは国家のしもべとして役立つことこそ存在意義ととらえておりました。アルス殿にも責務があるのではないでしょうか」
それからはなかなか会えない人も多かった。
だがオルステッド様は転移陣を持っており、遠い場所でも一瞬で行くことができる。
俺は上の姉や、ノルン姉に用事がある際に自ら立候補し、なるべく色々な人の話を聞くことにした。
「戦士であることだ」
ノルン姉の旦那さんであるルイジェルドさんは簡潔にそう言った。
「弱きものを守ること。己の守るべきものを守れること。それが戦士だ」
「己に噓をつかず、己の才を活かすことだ」
父のもう一人の友人、クリフ・グリモルさんは言った。
「若いうちは色々悩むこともあるだろう。だが挫折してはだめだ。それを超えて己の才を信じ切れ。きっと自分の才は裏切らない」
アスラ王国には行かなかった。
赤い母の師匠であるギレーヌさんや水神イゾルデさんなど、聞きたい人はいた。
だが、アスラ王国にはアイシャ姉がいる。
一人前になったら迎えに行く。
それは父たちに出された条件だったが、今は自分が誰からも一人前だと認められてから会いたかった。
不思議と、色々な人の意見を聞いたことで、視界がクリアーになった気がした。
漫然と勉強をし、剣の稽古をすることをやめた。
やるからには一番を目指す。
ただ勉強をしているだけの人間や、ただ剣を振るっているだけの人間に負けるわけにいかない。
俺には目標ができたのだ。
‐‐‐
月日は飛ぶように過ぎた。
魔術の勉強は進んでいたが、父ほどの才能はないようだった。
聖級魔術を使うには魔力が足りないのだ。
だが、無詠唱での魔術行使と剣術を組み合わせることで、ごく普通の剣士や魔術師ならば10人を同時に対しても圧倒できる戦力を手に入れた。
剣術のほうは努力を裏切らなかった。
手にまめができ、それが潰れ血だらけになっても剣を振り続けた。
おかげで赤い母の剣を受け止めても剣が弾き飛ばされない程度には力が付いた。
まだまだ赤い母と戦えば負けるだろう。
だが今ならばあの日のように一方的に切り刻まれることはないはずだ。
だが、これが一人前なのだろうか。
まだ、俺には迷いがあった。
‐‐‐
迷った挙句に青い母に聞くことにした。
幼いころから困ったことがあったら青い母は一歩引いたところから適切な助言をくれた。
あの時も血まみれの俺を最後に諭してくれたのは青い母だ。
「青ママ。……俺は、一人前になれたのでしょうか」
「そうですね……」
「力はついたと思います。でもそれだけです。一人前だとは思えません」
そういうと、青い母はそっと俺の頭をなぜた。
「ええ。あなたが力をつけるためにこの何年もがんばっていたのは見てましたよ」
「はい」
「もう力と知恵は申し分ないと思いますよ」
「あとは……覚悟の問題でしょうか」
「そうですね。……今なら、あの時と同じ状況になっても、駆け落ちはしないんじゃないですか?」
「はい。俺がアイシャ姉を守るって言い切れます」
「じゃあ、もし駆け落ちしてしまったとして、ルディや私たちに見つかったら、どうしますか?」
「……家に火をつけます」
「えっ」
「その隙にアイシャ姉を連れ出して、逃げます。逃げさえすれば、また別の場所で暮らしていけます」
青い母はしばらく絶句すると、笑い出した。
「それは、あははっ。実にタフですね」
「でも、逃げた後、帰ってくると思いますよ」
「それは、どうしてですか?」
「もう捕まえようとしても捕まらないことがわかったでしょうから、仲を認めてくださいって言いに来ます」
青い母はじっと、俺を見つめてきた。
「あなたは、ほんとに立派になりましたね。ルディやエリスが一人前と認めるかはわかりませんが、私は認めます。あなたはもう立派な大人です」
青い母はそう言うと、そっと俺を抱きしめてきた。
「アルス。子供が大人になるのは嬉しいことですが、少し寂しいものですね。私はいつでもあなたの味方です。忘れないでください」
「はい!」
白い母にも聞いてみた。
「そうだね。もうアルスは立派になったと思うよ」
「そうでしょうか。……俺は自信がありません。いつかみたいに無様な姿を見せるんじゃないかと不安なんです」
「それはね。誰だってそうだよ」
「……そうなんですか?」
「うん。ひとりでできることって限られてるからね。だから味方を作るんだ」
「味方……」
「昔ボクがアリエル様の護衛をしていたのはしっているよね? ……どんどん仲間が殺されて、最後は4人になっちゃったけど、人数がいたから最後までアリエル様を守れたんだ」
ぎゅっ。白い母は優しく俺の頭を抱きかかえた。
「アルスが自分から敵になろうとしない限り、ボクはアルスの味方だからね。家族だもん。ルディやエリスも同じ気持ちだと思うよ。ひとりでできることの限界を知って。それでできなければちゃんとボクらを頼ってね」
「わかりました!」
---
「今日は試験をするわ!」
赤い母はそう言うと、俺から5メートルほど離れたところに的を置いた。
「この場所から、あの的を切りなさい」
説明されずともわかった。
剣神流奥義、光の太刀。
それを使えるかの試験だ。
今の俺にできるだろうか。
剣を構える。
まずは無念で剣を振ることだ。
最速、最短で剣を振るう。
剣を上段に構えた。
ふと、皆の言葉を思い出した。
「己の願いを叶えること」オルステッド様。
「ひとつのことを極めること」アレクサンダーさん。
「己の責務を全うすること」ザノバさん。
「戦士であること」ルイジェルドさん。
「己の才を信じ切ること」クリフさん。
力が湧き上がるような気がした。
剣は、す、と驚くほど自然に振れた。
あくまで俺の体感だ。
実際にはもっと速かっただろう。
視界の先で、的がまっぷたつになるのを見た。
---
「ルーデウス! やったわ! アルスが光の太刀を使えるようになったわ!」
赤い母が喜び勇んで父に報告に行った。
「そうか!」
父も庭に出てきた。
まっぷたつになった的を見て、「おお」と声を上げた。
「俺はできないからな。よくできるようになったな」
父に頭をなでられた。
驚いて父の顔を見る。
誇らしいものを見るような目だった。
久しぶりだった。
父になでられたのも。
優しい瞳でみられたのも。
不意に、涙がこぼれた。
父に褒められたこと。
赤い母に喜ばれたこと。
あの血だまりの記憶から、ようやく一歩踏み出せた気がしたのだ。
---
それからしばらくして、魔法大学の卒業式があった。
1年、駆け落ちしていた時期が留年という扱いになったため、主席にはなれなかった。
成績だけならば主席でもおかしくなかった、と教師には言われた。
だがそれはどうでもよかった。
自分が一人前になれたかだけが心配だった。
「卒業おめでとう」
父と、母たちに声をかけられた。
と、父が言った。
「今なら、アイシャを精神的にも肉体的にも守れるか?」
「……わかりません。でも」
「あの日のことは反省しています。あの日のままではだめだと思って努力してきました。でも、アイシャ姉を思う気持ちは変わらないので、これからも努力を続けます」
あの血だまりの中で流した悔し涙。
すくなくとも、覚悟が足りなかった後悔だけはしたくない。
「そうか」
父は今まで見たことないような優しい瞳を俺に向けた。
「期待している」
驚いた。
「……はい!」
自然に強い返事ができた。
---
そうして、俺はアスラ王国にやってきた。
父からの情報によると、アイシャ姉は今はアリエル女王の下で仕事をしているそうだ。
父からの書状を見せると、しばらく待たされた後、小さな部屋に通された。
ここでアイシャ姉と会えるだろうか。
会ったらなんて言おう。
いや、決まってるな。
子供の頃と変わらず。
でも、あの頃よりもずっと愛情を込めて。
「アイシャ姉」って声をかけるんだ。
---
そうして、俺とアイシャ姉は再会した。
変わらずアイシャ姉は俺のことを愛してくれていた。
そのことを考えるだけで天にも昇るような気持ちになる。
改めてみんなの助言を思い出す。
……少しは一人前になれたのかな。
いや、きっと終わりなんてないんだ。
まだまだ、一人前を目指そう。
アイシャ姉を守る力をつけるんだ。
そう思って。
――決意とともに、横で眠るアイシャ姉の頬に、軽く口づけをする。