下心バキバキトレーナーがトウカイテイオーに改心させられる話 作:散髪どっこいしょ野郎
申し訳ありません。
キッカケは呆れるぐらいに簡単なことからだった。
俺ってすごい薄っぺらいな、と。
罪悪感こそ覚えなかったが自分のバカさ加減と浅はかさになんだか笑えそうなぐらいにバカバカしくなってきて、正式なトレーナーになる頃には当初の目的もどうでもよくなっていた。
この仕事に就く目的を失った以上俺に寄る辺は無い……と半分諦め気分だったが、一つだけ手に入れたものがあった。
俺は他のヒトと違って中身の無い人間だ。
だから俺は、”それ”になりたいなと思った。
その為にはどうすればいいか何度も考えた。
考えて考えて────無理だと悟った。
取って付けたような夢すら俺には無い。
信念も、矜恃も、闘志も、ハナから持ち合わせていない。俺がどれだけトレーナーであろうとして選手の心に寄り添おうとしてみたりレースに熱中しようと心がけてみようと、それはどこまでも「自分の言葉」じゃなかった。
そもそも俺の中に熱意自体が無いから他人を模倣することでしか自分をトレーナーとして成り立たせられない。
トレーナーとしての俺は、他からの借り物。つまり
そこでようやく罪の意識が湧いてきた。
自分のような空っぽの人間が
俺が誰にどんな言葉をかけようとそれは他のヒトからの借り物に過ぎず、俺が何を目指そうとそれは誰かが見た夢の寄せ集めでしかない。
だから背負っているものが無い
そして、俺は誰かの為にこの身を削り続けるという存在意義を手に入れた。
そう決めた後に初めての担当ウマ娘、トウカイテイオーと出逢った。
それが俺の
トレーナーと組んで早くも一年が過ぎた。
第一印象は「ちょっと真面目すぎるなー」って感じで。…………それはすぐに間違いだと気づかされた。
正直怖かった。
いつもいつも病的なぐらいに気遣ってくるし、そうかと思えばボクがレースで負けるとはカケラとも疑わない。知り合って間もない頃から”全部”に関してボクのことを信頼しきっている。
初めこそはボクのことを知る為に付きっきりだった。その時点で目のクマがとことんまで濃くなるぐらいに働き詰めだったのに、レースやトレーニングが安定してきてからはやらなくていいこと──簡単に言えば他チームやトレーナーの手伝いとか──にも首を突っ込みだした。
かといってボクから目を離すわけでもなく、トレーニングの時は初めから終わりまで熱心に面倒を見てくれる。
明らかにやりすぎてる。
あの様子じゃロクに眠れてないはずなのに、仕事を増やし続けている。それはまるで自分で自分を追い詰めているようで。
それよりも一番不気味なのが、体がガタガタなのは目に見えてわかるのにそれで体調を崩したりすることが一度も無いってこと。
負担は溜まってるに違いないのに、少なくともここ一年は全く表に出てきてない。疲れていようと普段の態度や性格が悪くなるわけでもないし、不意にウトウトしたりふらついたりすることも一切無い。
……それと、
トレーナーはぶきっちょだけど優しい。
出走後とか放課後とか、ふとした瞬間にわかりやすいけど細かい気遣いをしてくるタイプのヒトで。それは誰に対してもそうだった。
表情や口調は柔らかくしようと頑張っているのも見て取れる。…………まぁそれは完全に上手くいってるわけじゃないけど。
なんというか、その時に言ってほしいことをすぐに察してくれるヒト
だから余計不安になる。
トレーナーには、普通のヒトらしさみたいなのがなんにも見当たらない。失礼だけどどこかおかしいんじゃないかとも思ってしまった。
でも、それに寄りかかっていると気楽だった。トレーナーは怒らないし、いつだってボクのことを優先してくれるし、それでもちゃんと間違いは指摘してくれるし。
そうしていく内に、ボクはトレーナーを踏み台にすることを躊躇わなくなっていた。
狂気的なまでに誰かに尽くそうとするあのヒトの
テイオーは安定して勝ち進んでいる。
コンディションも良好。大きな問題もない。この調子なら大丈夫だろう。
中央トレセンは慢性的な人手不足だ。仕事は探せばいくらでも見つかる。
強制されたわけでもない、すべきことでもないことを今日も変わらず引き受けてこなし続ける。
体を壊さないよう引き際は心得ている。あくまで俺は
俺は鉄人でも才人でもないからギリギリまで身を粉にすることでしか誰かの役に立てない。
だからといって余計な仕事を態々増やすのは愚の骨頂だと自分でも思うが、俺はどうしても自分に納得できなかった。
テイオーを見ていると、俺ももっと頑張らなきゃとしみじみ思う。
ちゃんとした目標があって、それに向かって頑張れる彼女が俺にはとても綺麗に見えた。
空っぽな俺とは程遠く、彼女には目指す先がある。
それはとても尊いものだと、冷えきった心の中へ寂しさ混じりの羨望がしっとりと沁みていった。
そんな彼女に報われてほしいと思うのは間違いなのか。なわけない。少なくとも誰かに報われてほしいと
だから俺は、それを杖にして忠を尽くす。それは今までもこれからも変わらない。
例えば普段、トレーニング外の時間帯に学園内でトレーナーを見かけた時は大抵誰かの手伝いをしていて。
ああ今日もトレーナーは頑張ってるんだなってのが伝わってくる。
放課後、いざボクの走りを見る時になったら思考の切り替えもしっかりできていて。
だけどそれ以外の……ボクのプライベートには一切踏み込んでこようとはしない。
話す時も自分個人の感情とかは持ち込んでこない。筋道立てて正しいことしか言わない。
ボクにとっても他の誰かからしても本当に都合がいい存在だった。
そんなトレーナーに頼っていると心が楽で。
でもボクはそんなトレーナーのことを何も知らない。これから少なくてもあと二年間一緒に走るパートナーなのに、あのヒトの気持ちを考えたことがなかった。
一年も優しさに甘え続けて、やっと相手を知る
縋るばかりで一度だって思いやれなかった自分が、あのヒトと比べてちっぽけに見えて。
決して完璧ではないけどあんなに誰かを思えるトレーナーが少しだけ羨ましかった。
「あっ!トレ……、ナー……」
お昼時、カイチョーもいなかったからなんとなくトレーナーを誘ってみようかと思って部屋にふらっと顔を出してみたけど、それと入れ違いになる形であのヒトはどこかに行ってしまった。目の前の仕事を優先していたのか遠目に見ていたボクに気づいてくれなかった。
トレーナーを見つけてかけようとした声が尻すぼみになっていくのを他人事のように感じながら、「あのヒトはあくまで仕事だからボクに付き添ってくれてるだけでそれ以外の何者でもないんだ」と悟った。
だからせめて歩み寄ろうとしてみてもいつも
トレーナーはいつも頑張ってるから、レース運びが安定していくにつれてボクじゃない誰かといる時がだんだん多くなっている。
まあボクはサイキョーだから、それは信頼されてるってこと………………なんだ。
俺はテイオーのように要領がいいわけではないし、テイオーのように誰とでも仲良くなれるわけでもない。何か他より秀でた才能も無い。
羨ましい。尊敬してる。憧れてる。
テイオーに対して少しだけそんな感情を向けてしまっていた。
しかしこの一年、近すぎず離れすぎずのそれなりに良い距離感でやってこれていると俺は思っている。
彼女の歳頃となると色々と心が複雑に育っていく時期だ。俺のような
出走するレースも難易度の高いものが増えてきている。目標の一つである三冠達成もそう遠からず佳境に入ってくる頃だ。なるべく心身共に負担をかけさせないように俺ももっと頑張らなければ。
トレーナーは努力家で、真面目で、誰の前でも明るくて。
ボクが病院を嫌がって駄々をこねている時も、無事に走り終わって喜んでいる時も変わらない態度で。
それが不気味で、あのヒトを深く知ろうとするほどあのヒトのことをボクは何も知らないということがわかる。
あのヒトは生きてるんだから、汚い部分だってあるはずなんだ。自分を顧みないで正しいことしかしないなんて、それじゃあまるでロボットみたいじゃないか。
冷静に考えてみればトレーナーの献身ぶりは異常だ。
でもみんなはトレーナーと深い付き合いがあるわけじゃないから、それに気づけているのはボクだけ。
ボクだけなのに、トレーナーにとってボクは特別でもなんでもなかった。まだ一年
そしてトレーナーはボクに深く踏み込んでこない。
だから、トレーナーにとってボクは担当ウマ娘以外の何者でもない、レース関係以外はどうでもいいんだって、勝手に結論を下した。
あのヒトに対して抱えていたちょっとした憧れは、いつの間にかあのヒトの醜い部分を見せてほしいって酷い考えにすり変わっていた。
自分勝手で、本当に酷い考え。それはボクが一番よくわかってる。ボクはトレーナー
だから、トレーナーもボクと同じようになればいい。
思いっきり困らせてしまえばいいんだ。
「よし、今日はこれぐらいにしよう」
「……うん」
「それじゃあ、俺先に戻ってるから。後はゆっくり休んでくれ」
「……………………うん」
休日、そろそろいい頃合いだろうということでトレーニングを終わらせた。
いつも通りテイオーはいい走りっぷりを見せた。とはいえ最近彼女はどこか疲れているように見えることが多い。脚にそこまで大きな負担をかけさせるようなことはしていないのだが…………メニューを見直した方がいいのだろうか。
トレーニング場を離れた後はいつも通りトレーナー室にこもり、一人せこせこ時間を忘れていた。
気がつけばもう夜だった。待ちわびていたかのように胃が空腹の合図を鳴らす。
とりあえず何か飲み物を、と思い部屋を出てブラブラしていたら顔見知りの子と偶然居合わせた。この時間帯になると自主トレする子もちらほら帰り始めている。
熱心だなーとポワポワ考えていたら突然声をかけられた。
「あれ?テイオーのトレーナーじゃん。トレーニング見てあげなくていいの?」
「へ?今日の分のはとっくに終わってるぞ?」
「でもあの子…………まだ走ってるよ」
「──────────え?」
浮かれた頭へ一気に氷水を浴びせられたような感覚がした。
「ふ────、────」
全く乱れの無い
もう夜だな────なんて、どこか自分のものじゃないような頭でぼんやり考えていた。
それ以上の思考は走り続けることで止めていた。だって今この時間帯はボクのトレーナーがまだ一人であの部屋にいる頃だから。
理由になってないと自分でも思うけどとにかくそれ以上何かを考えたくなかった。
「──────、──────!!」
誰かが何かを話してる。大声で誰を呼んでるんだろう。うるさいなぁ、と外野のような気持ちで聞いていた。
男のヒトの声だった。ボクが知ってる声だけど、今までそのヒトのそんな必死そうな叫びは聞いたことがなかった。
誰だったっけ。ほんのちょっとだけ耳に意識を集中させる。
「おい!それ以上はオーバーワークだぞ!ちょっと落ち着け!」
トレーナーが何か言ってる。何を必死になってるのか。とにかくあのヒトの焦ってるような声は今まで聞いたことがなかった。それしか頭になかった。
「おい!テイオー!やめろ!」
「……?」
気がつくとトレーナーがボクの真ん前にいた。なんでそんな目をしてるんだろう。
前をとおせんぼされてしばらくぶりに脚を止めてしまった。
「もう止せって……今日はもう休んでくれ……」
「……大丈夫だから。────つっ……!」
押しのけようとしたら涙が滲み出そうなぐらいに足が痛くなって、ついしゃがみこんでしまった。
「お前っ、こんな……!」
ジャージを捲られる。
足首が赤く腫れてジンジンと熱くなっていた。少し前から蓄積していた疲労で一時的な炎症を起こしているのかもしれない。
「頼むから……そんな無理しないでくれ……お願いだから……」
心配で仕方なさそうなトレーナーの表情。それを見ているとなぜか頭の中に暗い喜びがこみ上げてくる。
「じゃあ……運んでよ。休ませたいんでしょ?」
どうしてボクはこんなに冷たく笑ってるんだろう。足を止めて落ち着いてくると腫れてる部分の痛みがどんどん増してきているのに、トレーナーがボクを心配して不安そうにしているのを見てるとそんなのもボンヤリと薄れていく。
「ああ、ああ……!分かった!」
自分が汚れるのも構わずにトレーナーは汗まみれのボクを背負った。
ボクの体調を思ってのことなんだろうけど急ぎ足だったのがやけにチクリと刺さった。
トレーニングはしばらく打ち止め、やるとしても軽いものにすることにした。
脚があんなことになっていたのに、どうして今の今まで気づいてやれなかったんだ。これは100%俺に落ち度がある。
それとテイオーの精神状態が心配だ。何か力になってやれたらいいが、あの年頃となるとちょうど思春期真っ只中。
自分で悩みながら答えを出していく、そんな繊細な時期に置かれている彼女にずけずけ踏み込んでいいのだろうか。
せめて俺が男じゃなかったらテイオーももっと気軽に話せたのかもしれないのに。
こうなったのは俺のせいだ。テイオーなら大丈夫と過信した結果、この状況を招いてしまった。
今からでも彼女にしてやれることを考えないと。
トレーナーはあの日から露骨に構ってくるようになった。別にトレーナーが悪いわけじゃないのに、罪滅ぼしのように何かしてほしいことはないか、と聞いてくる。
正直少しうざったくなるぐらいには心配してくれる。ボクの方に割く時間も増えている。
それでもあのヒトは怒らない。疲れも見せなければ困った様子も見せない。
担当なんだからそんなのは当然、みたいな顔が気に入らなかった。ボクだけが落ちぶれてるように感じてしまって。
あのヒトはトレーナーとしての顔しか見せてくれない。「あのヒトらしさ」みたいなのをボクは見たことがない。
でもあの時だけは違った。
ボクがトレーナーの言うことを聞かないで勝手に走り続けていたあの時だけは本気になってくれた。
ボクを止めるために叫んで、泣きそうな顔で心配して、おぶってくれて。
トレーナーのあんな顔を知ってるのはボクだけなんだ。
だからもっとトレーナーのことを知って、あのヒトにもボクと同じように黒いところがあるんだって確かめなきゃ。
「あのさ────っ、…………最近、どうしたんだよテイオー。なんか…………なんか言ってくれよ。俺にできることならいくらでもやってみるから」
休みの日、やることも特になくなったテイオーはトレーナー室で佇んでいた。
そして俺は、思い切って問いかけることにした。
前日に脳内で何度も繰り返しシミュレーションした言葉は出てこなかった。いざとなるとどうにも上手く話せない。こんな俺がテイオーのトレーナーになってしまったことを本当に申し訳なく思う。
……トレーナーはボクをまっすぐに心配してくれる。でも、その優しさはボクだけに向けられるものじゃないんだ。
そう思うと火照った頭が冷めていく。
だけど、だったらトレーナーの苦しみぐらいはボクだけがあげたものであってほしい。
「トレーナーの話をしてよ」
「は……?」
「今までなんにも聞いたことなかったよねたしか。だからトレーナーの話、ボクに聞かせてよ。たとえば────
別にそこまで何かしてほしいことがあったわけじゃない。
ただそうでもしないとトレーナーはどこかに行ってしまう。せっかくの休みなのに。
疑問に感じていた。
俺は、テイオーが俺の指導に満足できなかったから隠れて一人走っていたのかと考えていた。
それでも俺が休めと言ったら休んでくれたし、もうあんな無茶はやめてくれと言ったら素直に従ってくれた。
脚の炎症が治まった後も俺がいない間の彼女を陰ながら見ていたが、あの時のように過度なトレーニングはしなくなった。
その代わり度々使いっ走りのようにさせられることが増えた。例えば、二歩三歩進めばすぐの距離にあるドリンクを彼女より遠くにいる俺に取ってきてほしいと態々頼む必要もないようなことを任される。
俺にできることならなんだってするつもりだったから、特に抵抗感も湧かないし不快とは微塵も感じないがなんだか二度手間な気がする。
そんなことが増えて自然と彼女といる時間も長くなった。
まさか、と一瞬ありえない思考を浮かべたが彼女に限ってそんなことはないと早々に切り捨てた。
俺はテイオーと比べると遥かにみっともなく無価値な奴だ。そんな俺が、誰かに必要とされていい筈がない。
相変わらずトレーナーはボクの言うことを拒まないし嫌がらない。
そんなだからボクも調子づいてきて、ぞんざいに扱ったりわざと困らせるようなことをしたりして、
急に怖くなった。
表では普通にしてても内心イラついていて、ボクのことを嫌ってるんじゃないかって怖くなった。
だってトレーナーは
わけがわからなかった。
元々あのヒトの黒い部分を見るためにこんなことを始めたのに、嫌われる、迷惑をかけたと思うと涙も出ないのに無性に泣きたくなってくる。
そうやって考えて、思いついてしまった。
トレーナーはそもそもボクのことを嫌いでもなんでもなくて、ずっと無関心だったんだ。
違う。そんなことない。あのヒトはボクが嫌いなんだ。ボクのことはどうでもいいなんて思ってるはずない。あのヒトにとってボクはただ一人だけの嫌いなやつなんだ。
いっそのこと怒ってくれたら良かった。トレーナーとしての顔じゃない、あのヒトの感情をさらけ出すところが見たかった。
トレーナーも皆と同じように酷いところもあって、ボクもそれで納得して反省して前みたいに戻れたのかもしれないのに。
ほかの子とは違う、ボクだけに向けてくれるものが欲しかった。それならどんなものでもよかった……はずなのに。
あのヒトの気持ちを知るのが怖い。
ボクのことをどう思ってるか知りたいのに知りたくない──────嫌われたくない。
……そうだ。
なら最初からあのヒトの気持ちなんて考えなきゃいいんだ。
迎えた二度目の夏合宿、彼女は一年目と違って大分静かな印象が見受けられた。
元気が無いのか、あの時の問答が逆効果になってしまったのかと彼女の様子を見ながら一人悶々と考えていた矢先、トレーニング後もう一度海に来てほしいと言われた。
怪訝に思いながら夕暮れ時の海に向かうと、テイオーは一人砂浜に座って沖の方を眺めていた。
夕食が近い時間帯ということもあり砂浜には俺とテイオー以外誰もいなかった。
「……来たぞー」
「────よかった。来てくれたんだねトレーナー。いきなりで悪いけどちょっとそこに立ってくれない?」
彼女が指を指したのは波打ち際よりほんの少し沖寄りの所。こんなことならビーチサンダルで来ればよかったなーなんてどこかすっとぼけたことを考えて特に何も疑わずその指示に従った。
そして、あまりにも突然に胸を突かれ、カヒュ、とでもいうような小さい息が飛び出した。
為す術なく倒れた俺を砂と水のクッションが受け止め服と体にまとわりついていく。
空気を吐き出して開いたままの口に塩辛い液体が流れ込んできた。
「こッ……、テイ、オー……なん、っ、で」
咳き込みながら上半身を起こす俺をテイオーは張り付けたような薄い笑みで見下ろす。その目が、俺にはどこか寂しそうに感じた。から、
「トレーナー、ちゃんと運動してる?いつもお仕事ばっかりしててさ、ボクどころか女のヒトよりへにゃへにゃになってるんじゃない?」
「な、なにを────!こんにゃろー!口ちゃんと閉じてろよ!」
「え?うわ────」
間髪入れずに走り寄り、テイオーの小柄な体を抱えて万が一の怪我にならないように若干沖の方へ投げ飛ばす。ジャージだからそこまで問題はないだろう。
怒る気もやり返すつもりも全く無かった。でも、あの目を見ているとどうしても心配でならなかったからこれで少しでも彼女の気分を晴らせれば、なんてそんな浅い考えで行動に移した。
結果、
「ぷは……っ、────あはっ、あはは……」
起き上がった彼女は少なくとも俺から見た限りでは裏表なく楽しそうに笑っていた。
「…………ぉんまえ、こんなんで勘弁してやんないからな!」
塩水をどんどん吸い込む服もお構い無しに俺は飛びかかっていった。
それからは日が落ちるまでテイオーと海を楽しんだ。久しぶりに彼女の明るげな姿が確認できて本当に心からホッとした。
もっと早くからこうするべきだったんだ。
もっと彼女の気持ちに寄り添って、もっと近くで見守ってやれたらここまで悩ませてしまうこともなかったんだ。
俺と違ってテイオーは一人で歩いていけるぐらい強いんだと思い込み
何でもかんでも自分のせいにするなんて驕りが過ぎる。彼女にだって悩みはある筈なんだ。どうしてそんな当たり前のことに気づけなかった?
一方的に憧れて、自分の中の理想像を押し付けて、一度も本当の意味で理解してやれなかった。無能すぎて笑えてくる。
だけど、もうこれ以上カラに閉じこもるわけにはいかない。俺は大人で、テイオーのトレーナーだ。責任と約束は果たさないといけない。過ちを犯してしまって苦しいからって目を閉じていい理由にはならないんだ。
走っているのはテイオーだ。いつも頑張っているのも夢を見ているのも苦しんでいるのも悩んでいるのもテイオーだ。
彼女の苦しみと比べたら俺のそれなんて……比べ物にすらならない。そもそも比べることすらおこがましい。
だから俺はもっと……彼女の為に頑張らなければ。
表には出そうとしていなかったが彼女は俺が傍にいると嬉しそうにしてくれていた。
それはトレーナーとして信頼してくれているということなのか。できればそうであってほしい。
彼女のように「綺麗」な子が俺みたいな奴に惑わされてしまうのだけは、どうしても嫌だ。それだけはどうしても認めたくなかった。
誰にでも尽くすトレーナーが嫌いで、純粋に応援してくれるトレーナーが次第に嫌いになってきて、そんな自分が嫌になっていた。
だったらもう好き勝手にやってしまおうと思っていたんだけど。
二人っきりで海にいて、楽しかった。あのヒトは全くつらそうにしてなかったけど、ボクは嬉しかった。
子供みたいだった。ボクよりも年上なのに少し前までのボクみたいにはしゃいでて、そんな姿を見てるとなぜか気分が楽だった。
辺りが暗くなるまで二人だけで遊んでいただけで、たったそれだけで色々抱えていた誰にも言えない悩みもどうでもよくなっていた。
なんだ。こんな簡単なことでよかったんだ。
トレーナーはボクのことを嫌わない。
だってトレーナーは優しいから。
それと、あのヒトにとってボクは特別なんだって気がつけた。あのヒトのあんな楽しそうな姿は、ボクだけしか知らないから。
自分でも結構先走りすぎてると思う。あの僅かな時間だけでどう思われてるかなんてわかるわけない。
でも、仮にそうじゃなかったとしてもこれからはボクがトレーナーの特別になりにいけばいい話なんだ。それに気づけただけでも十分。
そんな二年目の、夏合宿だった。
あるレースの出走前、いつものように地下バ道にてスターティングゲートまで見送ろうとしていると唐突に話しかけられた。
彼女はシューズの靴紐をしゃがんで締めている状態だったので目を見て話すことはできなかった。
GⅠレースということで勝負服を身に纏いそれに合わせて特別に誂えられたシューズを履いているということもあり中々に長引いている。
「ねえ」
「ん?」
「……トレーナーはさ、ボクが走れなくなってもボクのトレーナーでいてくれる?」
急な質問に虚をつかれたが、元より返す言葉は一つだけだった。
「────、ああ、当然」
「じゃあさ」
靴紐は結び終わっているのにテイオーは依然立とうとしない。裏側でどんな表情をしているか俺には分からない。
「ボクが
「お前が本気でそれを望むなら」
俺の返答を聞いて満足したのかようやく立ち上がり、こちらに向き直った。
何を思ったのかテイオーは髪を後ろで一纏めにしていたリボンを外し、癖がついてしまった後頭部を手で梳かしながら俺にそれを渡してきた。
「……今度からトレーナーが結んでよ。ボクの髪」
それだけ言い残し、
俺はというと呆然と立ち尽くしながら彼女の行動の意味を推し量ろうとしていた。
俺は今まで、誰かに求められたことがなかった。自分の為にしか生きられなかったから。
そんな自分に嫌気がさしてテイオーのトレーナーである為に他人を模倣し、身を粉にしてきた。
別にトレーナーの仕事なんてどうでもよかった。レースなんてどうでもよかった。誰かの為に頑張りたかっただけで。そんな中身のある人間じゃなかったんだ。
彼女が俺に向ける思いがどんなものであれ俺はそれに応える術を持たない。俺にそんな価値なんて無い。
だから、
彼女が俺を忘れられるように頑張ろうと強く思った。ただそれでもダメだった場合、彼女が俺を求めた場合、その時は、自分に正直に生きられるように努めよう。
自分に正直に。俺の中で彼女はどこまで大切な存在だっただろうか。ふと思い返す。そしてすぐに考えるのを止めた。
自分の気持ちに目を向けてしまったら、俺は戻れなくなってしまう気がするから。
「…………応援の準備、しないと」
夢を見ている時のように働かない頭をなんとか回して今自分がやるべき事を確かめる。
力の抜けた体を引きずりながら観客席に向かう。
放心状態でありながらも手の中に残されたリボンの存在は何よりも鋭く尖っていた。
今回の主人公は本心ではテイオーのこと超大好きだしレースもトレーナーの仕事も割と好きだけど罪の意識と責任感と誰かの為に頑張らなきゃという強迫観念で覆い隠して気づかないフリしてる面倒くせェ奴です
何れにせよ死ぬがいい……!