下心バキバキトレーナーがトウカイテイオーに改心させられる話 作:散髪どっこいしょ野郎
「く、あぁ……」
欠伸と共に伸びをする。辺りはもうすっかり暗くなっていた。
仕事道具を片付け、トレーナー室を後にする。今となってはなんだか感慨深い。
ケイエスミラクルはターフを去った。それは事実上の引退であり、多くのファンに惜しまれながらもその選手人生に幕を下ろした。
彼女が卒業するまであと僅か。あの日々も、今となっては遠い過去。
前へ進む。その為に、折り合いをつけておかなくては。
▫▫▫▫▫
「今までありがとうございました、トレーナーさん」
「ああ、こちらこそ」
契約満了。俺は俺の役目を無事果たした。
そしてそれはこれからも変わらない。彼女
なるほど、確かに俺は彼女たちの苦しむ姿が好きだ。喜んでいる姿と同じくらいに。
良心の呵責、罪の意識に耐えうるだけの、心の強さが俺には無かった。どこまでいっても中途半端なのだろう。
だが完全に隠してしまえばそれは無かったものと同義。彼女たちに影響を及ぼさなければ失敗はしない。
俺は俺の役目を果たす。ミラクルと約束したのだから、これは何があっても変えさせはしない。
滅私奉公、なんて仰々しいことは言わないが俺のことよりもウマ娘の方が最優先だ。
俺は、これからもトレーナーだ。
▫▫▫▫▫
おれはいつからトレーナーさんのことが好きになったんだろう。
静かなヒトだなとは思っていた。優しいヒトだとも。
感情を滅多に出さないトレーナーさんは、いつもおれの勝利の時に限っては嬉しそうにしていた。
喜んでもらえるなら、嬉しい。恩返しにもなるのならと、あの時のおれはそれだけを考えていた。
恩返し。おれの原点であり、根幹でもある。
囚われすぎていた。恩を返すことでしかおれはおれを証明できないと信じて疑わなかった。
その所為で色んなヒトたちを悲しませてしまった。もちろん、トレーナーさんも例外ではなく。
トレーナーさんはおれが傷つく姿をどうしても求めてしまう、と言っていたけれど、本当にそんなヒトだったらあんなに苦しそうにしないと思う。
仮に本心からおれを傷つけたがっていたとしても、おれはそれでもよかった。
だって、胸の奥がこんなにも温かいのだから。あのヒトから貰ったものは、いつしか返せるものではなくなるくらいに膨れ上がっていた。
「……寂しいなぁ」
うん、寂しい。また会う約束をしてよかった。それがあるだけでもう少し頑張れるから。
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「ここに来るのもあと少しか……」
見慣れたトレーナー室。いつものようにノックをして、中に入ると────
「トレーナーさん?」
「ああ、お前か」
彼はペラペラとノートを捲っていた。
「はい。何をしているんですか?」
「今までのこと、振り返ろうと思ってな」
「そうですか……。……おれも、見ていいですか?」
「ああ、構わないぞ」
何冊にも纏められたノート。おれの為に、トレーナーさんが施してくれた努力の結晶。
「あ、これメイクデビューの時の……」
写真が貼ってあった。走っているおれの姿に、トレーナーさんの注釈がついていて。
ケイエスミラクルは素晴らしい走りを見せた。俺も頑張らなければ。
「……ふふ」
「ん?なんか変なことでも書いてあったか」
「いえ、少し、嬉しくて」
トレーナーさんの思いや言葉。それらを真っ向から見せられて、なんだか照れくさいような、嬉しいような。
今日のミラクルは渡した補食の半分は食べられていた。よい兆候だ。
ああ、そうだ。今でこそ健康なものの、あの頃のおれは酷く不安定で、トレーナーさんにもたくさん心配させてしまっていた。
恩返しの為に走る。それだけに取り憑かれていて、肝心なことは置き去りにしたままで。
おれが健康に、そして無事に走り抜けられるように、トレーナーさんは注力してくれていた。
そして今。おれは全過程を無事終了することができた。これからはウマ娘としてではなく、引退したケイエスミラクルとしての人生が始まる。
今日のレースも勝利。だが不思議だ。俺は何故最後尾に終わった子も見ていたのだろう。
ノートを捲る手が止まる。そこにはトレーナーさんの本性の萌芽が書かれていた。
トレーナーさんの本性。誰かの喜んでいる姿と、誰かの苦しんでいる姿が好きという相反した感情。
なんだこれなんでこんな俺は
苦悩の跡がハッキリと見てとれる。この辺りから意味をなさない落書きや走り書きの文字が目立つようになっていた。
「…………」
チラリとトレーナーさんを盗み見る。これは、おれが読んでいいものなのだろうか。
ページを捲る。
ミラクルが倒れた。
確かに書かれていた。
▫▫▫▫▫
どのノートに何を書いたかは全て覚えている。
幻滅してほしかったのかもしれない。俺の穢れた本性に当てられたミラクルが、ハッキリと俺を拒絶するシーンを脳内で描いていた。
それでも、ミラクルは。
「…………」
真剣な表情でページを捲る。俺を知ろうとする、真っ直ぐで実直な人柄が表れていた。
▫▫▫▫▫
今はそんなことを考える必要は無い。
分かってる。
今日のミラクルは見ていて心配だった。寝言どころか寝息すら立てていなかったから。
分かってる。
──■■■■■
分かってる、つもりだった。
このヒトがどんな思いでおれと向かい合っていたのか、このノートを見るまで気づかなかったことだらけで、おれは引退した今になって漸くそれを知ることができて。
「…………」
口を開いてみても言葉が出ない。喉の奥で突っかかるような感覚が呼吸を害する。
今日のミラクルはリハビリがてらに試走。ブランクこそあったが見事な走りだった。
……それでも、おれは、このヒトを理解することを止めたくない。
▫▫▫▫▫
「……と、これで全部ですね」
「……よく最後まで読んだな」
「嫌……でしたか?」
「いやぜんぜん」
「トレーナーさん」
「ん、どうした?」
「おれ、忘れません。トレーナーさんのこと。たくさん語り継いで、何度でも思い出します」
「……はは、それは……気の長い話だな」
「はい。……今日まで、長かったですね」
「ああ……そうだな。本当に、長かった」
そうだ。忘れないでいよう。このヒトの煩悶も、咎も。
▫▫▫▫▫
桜が散り荒れている。悠々と湛えられた樹木から絶え間なく吹きすさび、その命を散らしていく。
今日はおれたちの卒業の日。ルビーやゼファー、みんなとの学生生活も今日で終わる。
今までと、これからのことをたくさん話した。おれは友達に恵まれていることを改めて実感。
「卒業おめでとう、ミラクル」
「……はい。ありがとうございます」
トレーナーさん。彼に伝えたいことは山ほどある。感謝もそうだけど、この胸の奥で熱を持っている感情についても。
だけどまだ、言えない。おれがこのヒトと対等になれるまで、おれたちは担当ウマ娘とトレーナーの関係だ。
「──
「ああ。
踵を返して歩き出す。これからはおれが一人で歩んでいく道だ。
──きっと、いつからとか、そんな話じゃなくて。おれはただ真っ直ぐに、あのヒトを好きになったのだろう。
▫▫▫▫▫
ケイエスミラクルが学園を去っていく。
「……っ」
まさか俺ともあろう者がこんな感情を抱くとは思わなかった。
「──寂しい、な」
辛い。息が苦しい。胸のつかえが心に障る。だというのに穴が空いたような感覚。
「……また」
そうだ、『また』と彼女は言った。そのいつかが来るまで、俺は俺の役目を果たし続けるんだ。
「……ありがとうな、ケイエスミラクル」
呟きが宙に舞う。俺は、踵を返した。
▫▫▫▫▫
「すみません、待たせちゃいましたか?」
「いや、俺も今来たばかりだ」
あれから、おれは理学療法士になった。まだ仕事には慣れてなくて大変だけど、間違いなくおれの天職だと胸を張って言える。
「そうですか、よかった」
トレーナーさんが笑っている。珍しい。いつも凜としていた彼が表情を崩すなんて。
「あはは、なんだか久しぶりでちょっと緊張してたみたいです」
「いや……そうだな、俺も」
「……やっぱりかわいいなぁ。トレーナーさんの笑顔」
「え?」
「いや、なんでもないです」
伝える言葉は決まっている。おれは──
「──あなたが好きです、トレーナーさん」
「ああ。俺は────」
俺は────
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お前が好きだ。
-
お前の思いには応えてやれない。