「今日ほほえむ花も、明日には枯れる」
ロバート・ヘリック
ある日、羽入が見えなくなった。
そのときは突然やってきて、確かお天気の良い日の夕方だっただろうか、沙都子が買い物に出かけていて、がらんどうな部屋の孤独を穴埋めするように押入れから取り出した葡萄酒をグラスに注ぎながら私は呟いた。「羽入、そういえば」……そういえばなんだったか?
つまり、細部の記憶は曖昧なのだ。彼女に、学校のことやらで何か重要ではないことを言おうと思って、それで二の句が継げなくなった。羽入の身体が光の粒子に包まれていたからだ。
私はそれを見て、自分の目の錯覚をうたがい、ごしごしと瞼をこすった。するともう目の前にいたはずの彼女は消えていた。でも、まあ羽入は一応神様だし、そんなことも出来るのだろうと悠長に構えていて、一夜明け、二日たち、三日たっても姿を見せなくなってからようやく焦りがこみ上げてきた。私は羽入が消えたという現実に直面したくなくて、目を逸らしていただけなのだろう。
泣きじゃくり、部屋にこもって羽入の温もりを求める私を心配した沙都子が何か言ってきても耳に入ってこない。沙都子ではない。羽入の声が聞きたいのだ。
羽入がいなくなって一週間たった夜のことだ。突然自分の記憶が恐るべき勢いで頭に流れこんできた。
言葉と映像の奔流。
記憶の乱れ。
分校に転校してきた羽入。
たどたどしく自己紹介する彼女を笑顔で受け入れた仲間たち。
鷹野のバケモノみたいという辛辣な言葉。
そして、山狗たちとの闘い。
今から考えるとよくもあんな無謀なことをやれたものだが、ともかくそのすべてに羽入はいた。彼女には実体があった。彼女は存在していた。なぜそれを忘れていた?
最後がやってくるとは、それもこんなに唐突に訪れるとは思わなかった。そうとわかっていれば、そうとわかってさえいれば。
夢の中の羽入は言葉少なで厳粛だった。私は縮こまり、神の言葉を聞く。私の隣にはなぜか亡き母がいて、私の手を握っていた。羽入は母に何かを手渡した。繋がれていた手が離れた。何?
私の問いには答えずに、母はさっと手の甲でくるんでそれを隠す。閉じた両手を胸の位置に上げる。指先から光が漏れる。私の視界は光で満ちていき、その眩しさで目が覚める。
休日に眠りすぎて、昼過ぎに起きたときのような気怠さとともに、上体を起こした。視線をさまよわせると、カレンダーの数字が目に入る。6月だった。
6月は私にとって特別な月だ。なんせ何回繰り返したかわからないほど、この季節を体感してきたのだ。
さっと着替えを済ませ、朝食は焼いた食パン一枚にマーガリンを塗るだけで済ませる。同居人がいないと料理の腕を振るうのも億劫で、時間のない朝は軽く済ませるようになった。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注いで飲む。歯磨きを済ませると、時刻は7時。そろそろ出ないと間に合わないか。鞄を持ち、数回踵をトントン鳴らして靴を履く。ドアを開くと生ぬるい6月の風とぎらつく太陽、まだ遠慮がちに鳴く蝉の声が私を迎えた。一歩踏み出し、誰に言うでもなく私は呟く。
「行ってきます」
未知の一日が始まる。
雛見沢停留所の待合小屋で所在なくバスを待っていると、沙都子がやって来た。いつもなら私より早く来ているはずなので、少し珍しい。私は百年来の親友と朝の挨拶を交わす。
「おはよう、沙都子。今日は遅いのね」
「おはようございますわ、梨花。分かってて言ってますの?」
「もちろん分かってるわ。あんまり面白いものだから、ついからかってみたくて」
「梨花は昔と口調は変わりましたけど、そういうところは変わりませんのね」
「くすくす。沙都子も変わってないじゃない」
「そういう梨花はありませんの?こういうこと」
「私は……ないわね。どうしてかしら」
昨日沙都子は、生まれて初めて男子から告白された。それで夜あまり眠れなかったのだろう。沙都子から話を聞いたとき、驚きとともにほんのちょっとの感傷、言い換えれば嫉妬があったことは否めない。沙都子がもし誰かと交際することになったとして、この先私との関係性は維持されるのだろうか。彼女とは遥か遠い記憶の彼方で初めて親友となり、以来ずっと一緒だった。沙都子のことを、誰より知っているのは、知っていなければならないのは私だと自負していた。
とはいえ、私が長らく見知ってきた沙都子は昭和56年6月までの沙都子で、今の沙都子ではない。焦点を失った虚ろなまなざしで、怯えながら媚びるような笑みしか浮かべられなかった一時期と比して、恋愛に思い悩むというある種普通の少女に戻れたことに対し、親友として私は祝福しなければならないはずだし、もちろんそう思ってはいるのだが。なんだかもやもやする。
「返事は決まったの?」
「いいえ、まだですわ。やはり簡単に決めてしまっては、相手の方に悪いですもの」
「そう。まぁ何か進展あったらまた教えてね」
「梨花がからかわないなら……」
「さあ、それはどうかしら。ああ、バスが来たわよ」
蝉の鳴き声をかき消すエンジン音とともに、定刻きっかりにやってきたバスに乗り込む。乗客は見知った顔も多い。何人かが声をかけてきた。
「あら梨花ちゃま、沙都子ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
「今日も一緒に登校?相変わらず仲がいいのね」
「はい、梨花は私の親友ですから」
かつて村人たちは、北条家を排斥し、娘の沙都子を冷遇した。彼女の存在を空気のように扱い、実際に沙都子を嫌う者は誰もいなかったにもかかわらず、誰もが関わり合いになるのを避けてきた。そのために沙都子がどれほど辛い日々を過ごしてきたことか。だが村人たちはみな沙都子に負い目があり、贖罪の意識を持ってくれている。過去を打ち消すことはできないが、反省することを発明した人間は、過ちを繰り返さない努力をすることができる。
こうした喜ばしい変化とともに、沙都子は私を含む仲のいい数人を除いて昔のような喋り方、すなわち圭一曰く「変な敬語」を用いることはなくなったが、こういう変化がしばしば私を戸惑わせた。実際のところ私が素の口調に変えたのも沙都子の変化に合わせてのものであり、二人の年齢を考えれば妥当な成長と言えたが、私は沙都子の愛すべき高笑い、敬語の誤謬、突飛なトラップ等々が、心身の成長とともに失われていくさまをいじけた様子で見ていた。
そういう私を慮ってか、私に対しては昔のように振る舞うようになり、次いでかつての仲間たちに対しても同様に口調を戻した。これが私への媚態であるならばむしろ不満を覚えただろうが、彼女にあるのは明確な優しさと、変化を拒む私に共感してのものだったから、沙都子の一番の親友は古手梨花なのだという、ちっぽけな自尊心は満たされてくれた。
変わっていく中で、変わらないもの。不変そのものに魅力を感じるのはこういうことなのだろう。
それで私も口調を戻そうとしたが、沙都子がそれを制した。たぶん、沙都子はどちらが本物の古手梨花なのか、見抜いていたのだろう。自分自身でさえ分からないでいる古手梨花を、沙都子が定義してくれたから私はそれに従った。こうして私たちは互いを規定しあって変わらない友情を確認しあったが、これは荒れ狂う海を航海するような心境に似ているかもしれない。私たちはせめて紐帯を強くすることでしか、不確かな未来の波を乗り越える術を知らない。
その時、ガタン、ガタンと大きな振動が、バスを大きく揺らした。バランスを崩した私と沙都子は、体勢を崩しながらもお互い身体を支えあった。
砂利道が舗装道路に変わるときの段差だった。ここから先は雛見沢ではない。蜩の声はもはや遠い。
それなのに、いまだ私たちは何かに縛りつけられている。
初めてループから抜け出した年、初夏の気温にすっかり慣れてしまっていた私は、7月、8月といや増す酷暑に身体が耐えきれなくなって何度か寝込んだ。秋も冬も同じで、寒いという言葉を初めて知った幼児のように、その形容詞を飽かず繰り返した。梨花は薄着で出かけて、案の定寒がってすぐ風邪をひくから、自分が側にいないと駄目なんだと、得意そうに沙都子は言った。
一年一年が刻々と過ぎていった。人生の大きなイベントを先取りしすぎたせいか、私には今の自分、これからの自分の歩んでいく道がひどく平坦なものに見えた。
それでも私と沙都子が分校を卒業するときは、みんなが駆けつけてきてくれて嬉しかった。改めて彼らを眺めるとみんな大人になっていて、時が経つという意味を初めて知った気がした。
圭一は私の知っているころよりだいぶ落ち着いていた。魅音が卒業したあとは、一学年下の彼がクラス委員長を務めていたが、まだレナや沙都子、そして私と馬鹿をやっていたものだった。だが元から成績優秀だった彼は今や私立の難関大に通う大学生になり、私とは違うステージへと登っていった。こうしてみると彼は年上の男性だった。
レナは元から大人びていたけれど、とにかく綺麗になっていて、髪をかきあげる仕草にはかつてなかった色香があった。彼女は高校を出たあとデザインを勉強するために東京の専門学校に通いはじめた。両親ともにデザイナーの家系だったが、彼女は母を嫌っていたはずで、母の痕跡を消すために色々雑多のガラクタを「お持ち帰り」していたのではなかったか。言葉には出さなかったが、訝る私に彼女は母の記憶と和解したと言った。当時、いや今も私には彼女の心境の変化がよくわからない。彼女は、折り合いをつけるのは大事なことだよ、たぶん人生で一番、と言った。私はその言葉に何かしらの重みを感じたが、その正体はわからなかった。
魅音は高校を卒業してから正式に園崎の家名を継いだ。お魎と茜と、詩音もいた。私もその場にいた。御三家の大時代的な会議はいまだに続いていて、大人たちが難しいことを難しい顔をしながら話しあい、血判か何か押して、それで魅音の立場から代行という二文字があっさりと外れた。
新たな当主は就任のあいさつで謝罪を行った。これまで園崎が、御三家が行ってきた一部過激な行為、村八分じみた行為を公的に謝った。その場にいた詩音はそれをどんな思いで聞いていたのかは知らない。魅音が北条の名前を出すと、ざわめきが起きた。鷹の目がそれを射抜く。場は落ち着きを取り戻す。
北条家のみならず、ダム誘致派に対しても理解を示し、これまでの清算として、もう遅いかもしれないが可能な限りの援助を行う、と発表した。魅音はお魎の時代を否定したいわけではなく、自分たちも時代に即して柔軟な考え方を取り入れていかなければならないと言った。若い新当主に不満を持つ者もいなくはなかったが、それ以上に彼女の有無を言わさない静かな圧力がまさった。魅音はかつて優柔不断のところがあったが、今の彼女には断固たる意志のようなものが備わっていた。魅音はもう少女ではなく、一己の大人の女性だった。
一同が解散したあと、私は魅音と詩音のもとへ近づいた。二人が何か話しているのはわかっていたし、それを邪魔するつもりもなかったのだが。そういえば、北条悟史が目を覚ましたときの泣き顔はひどいものだったけど、この時の詩音もそれに負けず劣らず崩れた表情だった。真っ赤の顔はよくゆでだこみたいなんて比喩があるけれど、そんな感じかもしれない。
詩音は、お姉の馬鹿、馬鹿、と小声で繰り返していた。魅音の方が悪戯顔で詩音を揶揄っている。普段とは真逆の構図で珍しい。
二人の話題は、詩音が悟史に告白して、悟史が承諾したというものだった。なんと言おうか、そもそもお前たちは付き合っていなかったのかとか、色々思うところもあったのだが、ひとまず私は祝福した。
ありがとうございます、と普段よりしおらしく返す詩音。魅音は、二人の交際を歓迎しているという立場を表明する場として、当主継承の儀を利用したのだった。 お姉の馬鹿、お姉なんか、圭ちゃんをレナさんに取られてればいいんだ、なんてったって二人とも東京でしょ? 遠距離のお姉に勝ち目はないね!
ばばば馬鹿はあんたでしょ詩音、私まだ圭ちゃんとは何もない!
冷めた目で姉妹喧嘩を眺めていると、無性に懐かしくなって、私は目を細めた。じんわり胸にこみ上げる何かがあった。圭一、という名前を耳にしたからかもしれない。もっとも別段彼のことがどうこうというわけでなく、あの頃のことを思い出させる言葉全てにある種の愛着のようなものがあったのだ。いや、山狗ではむかむかするのだから愛着ではないのか、ではこの気持ちはなんだろう?
押し黙る私を二つの同じ顔が見つめていた。どうしたの、梨花ちゃん。なんでもないのですよ。もうお暇するのです。二人は同じ微笑で私を見送った。
あれから沙都子との会話で色恋沙汰の話題が上ることはなく、私は少しほっとしたというのが正直なところだった。
沙都子は名も知らない誰かを受け入れたのか否か。私の知らない彼女の、成長した身体にその彼は触れ得たのか。かつて裏山で、多くの罠を拵えていた頃の面影のなくなったしなやかな指を絡めあったのか。沙都子はいつのまに化粧を覚えて、愛らしい口唇を備えるようになったのか。こういうすべては謎のままだったし、もの寂しい気持ちでいっぱいだ。ただ一つ、腕の注射針の痕跡がほかの皮膚と殆ど判別できないようになったことだけは喜ばしいが。
雛見沢症候群。入江の献身的努力の甲斐あってほぼ無害化した今となっては、まったく現実味がない。だいたい元をただせば、私が女王で他の感染者に影響を与えているというのも馬鹿馬鹿しい話だった。私は私だ。古手梨花は女王ではない。古手梨花は老人たちが言うような神聖な存在ではない。
そういえばかつて羽入が、梨花は自分を特別視しているというようなことを言ってきた。あれはいつだったっけな……。そう、あれは昭和56年の夏休みだったか。なんだか最近は記憶も朧げになってきている。平行世界の記憶なんてものは、実生活に役立つことは特にない。せいぜいが妄想のネタになるくらい。退屈な授業を紛らわすための。目下のところ私は微積や三角関数に苦戦する平凡な高校生に過ぎなかった。
そうこうしているうちに授業は終わり、下校のチャイムが鳴った。いつものように沙都子のクラスに行こうとすると、担任の教師に捕まった。何やら話があるそうだが、別に私はない。でも呼び止められる覚えがなくはなかったから、沙都子に先に帰るように言ってきてから、職員室へ向かった。
私たち生徒にとってこの時間は授業という苦行から解放され、寄り道するなり部活に行くなり、私ならとっとと家へ直行する時間だったりするのだけれど、教師たちはこれからが仕事とばかりに慌ただしい。こういうのを見ると、大人にはなりたくないなと思う。
担任は私の姿を認めると、ぶんぶん手を振って場所を知らせてくる。なんだか所作が子供っぽくて、そこが生徒たちに人気の理由なのだろうが、私は彼女にはもう少し大人っぽくいて欲しいと思う。近づくと、彼女は笑顔で応対してきた。
「ごめんね、古手さん。バスの時間は大丈夫?すぐ済ませるからね」
「いえ、まだ少しなら余裕はありますから」
「そっか……先週提出してもらった進路志望調査書のことなんだけど」
「あー……あれですか」
「うん、名前だけ書いて、あとは白紙。いい加減に書けとは言わないけど、まだ2年生なんだし、なんとなくでも全然いいのよ?」
「……はい」
「とりあえず、白紙だとまずいから。再提出してもらうんだけど……進路のことで、何か不安だったり、する?」
「いえ、不安ってほどでは」
「……そう。明日すぐにとは言わないけれど、来週までには提出してね。わからなかったら、相談してくれていいから」
「ありがとうございます」
「あ、バスの時間だったね!もういいよ、ごめんね」
別に教師が危惧するような何かがあるわけではなかった。ただ漠然としたもやもやがあって、悩んでいるうちに期限がきてしまって、名前だけ書いたプリントを提出してしまった。私以外に誰か忘れましたとでも言ってくれれば、それに便乗できたのだけれど、そういうのもなかったからなんとなくタイミングを逸してしまった。まあ、まだ2年生になって2ヶ月が経ったばかりだ。別に何も言われないだろうって高を括ったけれど、やっぱりそうもいかないらしかった。
私の成績は可もなく不可もないってところ。百年も繰り返したのに学業は真面目にやってこなかった。
これは言い訳になるけど、毎回同じ問題ばかり解いてきたせいで、答えだけ覚えてしまうのだから仕方なかった。愚痴ばかり吐いていないでせめて勉強でもしておけばよかったというのは後の祭りである。
大学進学というのも実は考えていたりする。ただそうすると必然的に雛見沢を離れることになる。寄生虫たちは鎮静化しているものの、未だ村人たちの脳内に巣食っている。今では女王感染者が何日も村を離れても問題ないが、その期間が数年にも及ぶならば、やはり影響はあるだろう。今度入江にでも聞いてみようか。
外に出ると暑気と蝉の声が襲ってきた。これほど暑く姦しい6月は、否応なしに感傷に浸ってしまう。空はほんのり茜色で、役目を終えた今日の太陽が眠りにつこうと西の方へと沈みかけ、宵闇にまぎれてひぐらしの声が聞こえてくる。そうだ、いつもひぐらしたちは鳴いていた。都会では蝉の声を聞く機会が減っているらしいが、たぶん同じ鳴き声を、私だけじゃない、仲間たちもきっと耳にしているはずだった。
バスの時間が近づいていることを思い出した私は夕映えに染まった道を駆け出した。バスは定刻通りにやってきて、いつものように私を運び去ってくれるだろう。
今日の私は、明日には消える。
業は納得いかないよね