魅ぃちゃんからの呼び出しは渡りに船だった。
私は過去からの声に耳を澄ませながら、雲のゆるやかな動きに歩調をあわせてみる。
私が母の記憶と和解したと言ったとき、梨花ちゃんはひどくその理由を知りたがった。私は折り合いをつけたからだと答えたけれど、それが本心かは自分でも疑わしかったから、それきり会話を打ち切った。
気詰まりな思いをしている私を、猜疑心に細まった小さな瞳がじっと、深く、深く見つめてきて、それは私の内部の芯に触れるようだった。
その瞬間の、きれぎれの光と視界のぶれ。あのとき、私はちゃんと彼女と目を合わせて話すことができていたのだろうか?
一瞬のフラッシュ・バック。
ちかちか、ちかちか、時計の秒針音によく似た音。
次の瞬間にはそれはもう存在しない。私には、思いのまま自己憐憫にひたる自由がない。私の悲しみは一瞬、だから幸せも一瞬で、私はかつての自分の努力に疑義をいだく。
かつての私は不幸を隅へとおいやって、ひたすら幸せを結晶化させ、ひとつの物語を紡ぐことに躍起になっていたのだ。じゃあ、今は? やがて死にゆくために鳴いている蝉の声と、村にただようもの悲しい匂いに、自分の境遇を重ねあわせでもする? でも、いまの私にそんな時間はない。あのころのように、塵山の隠れ家に逃げ込む時間はない。
未舗装の道を歩んでいる。
私はいま、雛見沢にいた。
黙っていること。
いつからか、私は嫌なことも良いことも、過去につながるものはすべて封じこめる習慣を身につけた。
父は、私がデザイナーになるための専門学校に行くと言うと、微妙な表情を浮かべはしたけれど、それが顔を弛緩させまいとする父の努力なのだと私は気づいていた。父は嘘をつくのが下手だから。自分と同じ仕事を選んでくれたのが嬉しいのだろう。私は、父の期待をひしひしと感じとっていた。
父は、時間の経過に身を委ねることで、汚辱にまみれた過去の慟哭と激情を押し流した。私の頬には、あの日に打ち据えられた、最初で最後の打撃の感覚が、奥歯がしみるときのように、じわりと蘇ることがいまだにある。けれども父の掌にはその痕跡はとうの昔に剥がれ落ちて、新しい皮膚に生え変わっていた。
父は、いつからか母の近況を追いはじめ、もはや交わることのない赤の他人に対する、愛のない郷愁にひたることができるようになっていた。娘の私には遠慮してか、なかなか話題にあげることはなかったので、知らない振りを続けるのは容易かったけれども。
都会に出たころ、さまざまな音との出会いに困惑した。雑踏のざわめく音も、夜の街の、がなりたてるような音も、葉擦れのかすかにそよめく音も、そのすべてが混ざり合って、一つの混沌を形づくっている。ここでは、胸をうつあたたかい鼓動も、助けを求めるかぼそい声も、意味のない雑音にかき消されて聞こえてこない。私が黙っているのはそのためだ。
音だけではなくて、振動も大きかった。専門学校に入ったばかりの私を、何人かの男たちが下心の見えすいた瞳をたずさえて取り囲んだ。
彼らが私の肩をゆすってくるときの、その振動。
ちょうど幼児が、お気に入りの人形にしてやっているように、やさしさと欲望を履き違えたその手つきは、やわらかくて体温こそ感じはしたが、血の管をたどっていって彼らの脳内を直接のぞくことができたなら、この女に乱暴してやりたいという下劣な思考がたやすく透けて見えることだろう。私はその手を払いのけたいのにそうできないでいて、相変わらず響き続ける音と振動の渦にとらわれながら、必死に自分を偽って愛想良く応じている。そうして粘りながら、彼らが次の機会へと持ち越してくれるのを待つ。
彼らが去っていくと、私は屈辱のあまり笑顔の仮面を剥がして地にたたきつける。
私は嘘をついた、嘘をつかさせられた。
瞋恚の感情も雑音にのまれて一瞬で流れ去る。怒りの潮が急激に引き、やがてノイズが晴れていく。
「あなたの家には行きません。私の家は竜宮の家です。もうあなたとも会いたくありません。二度と呼ばないでください」
「でもね礼奈、お父さんの方に残ったらこれからの生活……」
「私のこと。気安く礼奈って呼ばないでください」
いつか私が母に拒絶の言葉を投げた時の映像。
私の言葉にたいして彼女はかぶりを振って落胆をあらわにしたが、それは、相手に悲しみを示しさえすれば、自分の良心への言い訳がそれで完了してしまうことがわかっていたから。だからこそ彼女は、鈍かった幼い私にもわかるほど、わざとらしく嘘の表情を浮かべていたのだと、いまでは思う。彼女は私に、やさしい嘘と、残酷な嘘を一緒くたに混ぜておき、その両方ともを忌避させることで、自分のついた残酷な嘘の重みを、少しでも軽くするように仕向けたのだ。私たちの袂別は必然だった。
そして、世界の中心軸が母から父へと移行して以来、私は手当たり次第に、あらゆる母の痕跡を破壊しつくした。周囲に破壊する物が見当たらなくなると自傷行為に走った。いまでこそそれが件の風土病特有の症状だとわかっているけれど、まだ幼かった私は、最後の瞬間の幻覚は、それが神の顕現、祟りの発現だと確信を持たずにはいられなかった。
私はお告げ通りに、つまり自分の良心に従って雛見沢にやってきたわけだが、これが最善手だったのかは、いまとなってみるとそれほど自信がない。私にとってではなく、父にとってどうだったか。父は、母に対してしたのと同様に、私に対しても妥協し続けていたのだと、あとになって気付いたからだ。
それにもかかわらず、私は母と同じように父を捨てていく。
「レナ、久しぶり! 元気そうじゃん」
「魅ぃちゃんこそ、元気そうでよかった」
園崎邸で、私たちは久しぶりに再会して、ひとまず定型句を交わしあった。魅ぃちゃんは、いまや園崎家の当主。けれども、そんな彼女が分校のころとほとんど変わりないようにみえて、私はほっと安堵の息を漏らした。
魅ぃちゃんの先導にしたがっていくと、部屋にはすでにみんなが揃っていた。どうやら私が一番遅かったらしい。
「遅いぞ、レナ。宝探しでもしてたのか?」
とか、
「レナさんのことですから、きっとまたとんでもないものを見つけたに違いありませんわ」
とか、みんなが賑やかに私を出迎えてくれる。
懐かしい声ばかり聞こえている。
そんななかで梨花ちゃんだけは、むかしのような幼児口調を封印して、年相応の話し方になっていたけれども、その声の温かみは変わっていなかった。それに私は今の彼女の方がなんというか、性に合っているという感じがしないでもない。
この場にいるのは、魅ぃちゃん、詩ぃちゃん、圭一くん、梨花ちゃん、沙都子ちゃん、そして私。
むかし、山狗との決戦会議はこの場所で行われたから、なんだかそのころの興奮が蘇ってきて、みんな日常の退屈から解放されたような目をしていた。
ざわめきが落ち着きを取り戻すのを見計らって、部長の魅ぃちゃんが口を開いた。
「はい、傾注、傾注。みんな集まったことだし、そろそろ呼んだ理由を話さなきゃね。ただその前に! なんと欠席者はゼロ! それぞれ忙しいのに、貴重な休みの日にわざわざ集まってくれてありがとう、部長としてみんなに礼を言わせて」
相変わらず彼女の演説は独特で、みんなの口元はほころんだ。けれど次の瞬間には魅ぃちゃんの表情を引き締まっていて、私たちは微かな緊張を強いられた。
「今回みんなに集まってもらったのは他でもない、みんなの助力が必要なんだ。雛見沢を救うために、部活メンバーの力を、もう一度貸してほしい」
魅ぃちゃんの言葉に、私たちはどう反応すればいいかと困惑して、とっさに言葉を返すことができないでいた。
「魅音、あなたに力を貸すのはもちろん吝かではないけれども……雛見沢を救うって? いったいそれはどういう意味?」
梨花ちゃんがはじめに起動して、みんなの意見を代弁する。それに対して、魅ぃちゃんは顔を顰めながら、気詰まりそうに言った。
「実は、雛見沢がまた……沈むことになるかもしれないんだよ。ダムで」
私たちは今度こそ呆気にとられて、長い時間黙りこくったのだった。