重ねあわせたその手のぬくもりが、私の意識を攪拌した。やがて、一つの記憶が鮮やかに映しだされた。それは恐ろしく、痛ましく、そして悲しい映像だった。なのに不思議と私たちの表情は晴れやかだった。私はデジャヴの世界で、知らない記憶の私と一体化する。高揚感と屈辱をないまぜにしたような、異様な興奮で心は疼いた。
止まった世界から放たれた冷徹な鉛の弾が、黄金の結束を踏みにじった。圭一が斃れて取り乱した私たちを、屈強な山狗たちはいともたやすく制圧した。鷹野は蜜のように甘く濁った言葉を吹きながら、せせら嗤いを浮かべて、次々とみんなを射殺していった。そして風を切る音とともに、ひとり、またひとりと地に臥せていき、最後に私の順番が回ってきた。だけど、私は私の知らない目をしている。あのころの私の、分別と諦念の極地みたいな目が鳴りをひそめて、不退転の意志がそこにはあった。これはいつの記憶?
ただ、私はこの映像に心当たりがあった。羽入が「皆殺し編」と呼んで大事にしていたカケラだ。
そのカケラについて、あいにくと私には覚えがなかったのだけれど、羽入が言うには、私は鷹野の銃口を前にして、眠りのような安らかな死を拒んで、敗北の屈辱と死の恐怖に立ち向かっていったらしい。痛みと苦しみをあえて受け入れて、次の世界へと記憶を引き継ぐために。すると、その最後の瞬間にみんながかけつけてくれたのだという。
ずっと傍観者を気取っていた自分を変えたのが、そんな彼らの言葉だった、と後に羽入は語ってくれたっけ。眼前の光景はそれらを裏付けるようで、眠らせようとする鷹野を制止して、古手梨花は言った。
「忘れないためよ」
私は鷹野に、というよりも世界全体にその決意を表明した。しんとした静寂にその声が響きわたる。
「あなたが私の腹を割くのを私は魂に刻み付ける。そして次にあなたに会った時、あなたが敵であることを思い出すために」
それから山狗たちに引き立てられて、猿轡をかませられた私は、低い唸り声をあげながら屈辱をこらえていた。男たちの粗野なしのび笑いに耐えられなくなって目を閉じ、走行音とひぐらしの声に耳をまかせてじっと最期の時を待ち続けた。するとしばらくして、姿を消していた羽入がやっと私の前に姿を見せた。私はこれほど悲しそうな羽入を初めて見た気がする。
車が止まり、私の身体は半ば引きずられるように手荒く、古手神社の祭壇へと運ばれた。供物を捧げられた鷹野が狂ったように笑いながら、生きたままの私のお腹を引き裂き、臓物を片手に握って恍惚の声を張りあげた。私の視界は鮮血でいっぱいになり、空に浮かんだ満月は紅く染まった。気が狂いそうになるほどの痛みと寒さを少しでもやわらげようと、羽入がそばで手をつないで支えてくれた。彼女は私の身体から血飛沫が舞うのを痛ましそうに見てはいたけれど、決して視線を逸らさなかった。そして彼女の言っていた通り、最後にみんながやってきたのだ。
どうしてか彼らは羽入の姿が見えていたし、声も聞こえていた。だから、レナは羽入の芯にひそんでいた甘えを鋭く看破して、諭すように語りかけた。
「触れることができなくても、喋ることができなくても、信じることはできるんだよ。あなたも信じてくれたなら、きっと奇跡が起きた」
それは、希望を信じることをやめた羽入にとってみれば、化物と蔑まれたことよりも遥かに鋭利な刃物で胸を突き刺された言葉だった。声音こそやさしかったが、レナは決して容赦をしなかった。
「名前も知らないあなた。あなたにも、悲しみや辛さと戦う勇気が必要だった。あなたにも運命と戦う勇気が必要だった。あなたが望んだなら、みんなが望む世界にきっと行けた」
仲間たちはみなレナに同調した。彼らはとっくに羽入を仲間だと認めてくれていたのに、うつむいてばかりいてそれに気付かずにいただけだった。
なおも輪の外側で泣きじゃくる羽入に、レナが手をさしだして、
「あなたもみんなという言葉に含まれてるんだよ。ほら、いつまでも泣いてないで、行こう」
そこで世界が裏返る。
あとになって、私たちが昭和58年6月から抜け出す分水嶺になったそのカケラに、羽入は便宜上「皆殺し編」と名前を付けた。私はその命名が少し不謹慎ではないかとも思ったけれども、こうして俯瞰してみると、たしかにそれ以外に表象する言葉は見つかりそうになかった。彼女は時々そのカケラを懐かしみ、最後の場面について私と共有できないことに少しだけ残念そうな素振りも見せていた。
思い返してみると、そのとき既に私と彼女の間にうすい仕切りが引かれていたように感じなくもない。だって、記憶にない行為は、はたして本当に私の行為だと言える? 少なくとも、今の私ならいつも通りに彼らのなすがまま薬を嗅がされて、安らかに死んでいくほうを選ぶだろう。だからこそ目の前で見た自分の果断が信じられないでいる。
それにしても、なぜ私はこの記憶を失っていたのだろうか? 決して忘れまいと誓って、魂に刻みつけた傷痕はいったいどこに消えてしまったのか。偶然にも羽入が鷹野を敵だと思いださなければ、私たちに昭和58年の大団円がやってこなかったことは確かだろう。そう考えるとうすら寒いものを感じなくもない。私だけはみんなの死を覚えていなければならなかったのに、それを忘れて今の今までのうのうとしていたこと。これでは彼女に見放されても仕方ないかな、と半ば自嘲せざるをえなかった。
突然うちよせてきた激しい記憶の波に、意識をのまれて圧倒されて茫然と立ち尽くしていたが、手の甲の暖かみがまたひとつ、またひとつと消えていくにつれて、その喪失感が私を現実に引き戻してくれた。体感的にはずいぶん長いこと経った気がしていたけれど、それは時間にしてみると数秒程度のことでしかなかったのだった。
仲間の結束が確認されたことは喜ばしかったけど、それですべてが解決するわけではない。まして私たちはあの頃より年齢を重ねていたので、いつまでも子供じみた夢想にばかり浸ってはいられない。その場に座りなおして、すぐに議論をはじめようとする私たちだったけど、魅音がそれを制止して言った。
「ちょっと待ってみんな、今日ここに来ることになっている人がもう一人いるんだよ。話は彼女が来てから始めようよ」
もう一人? と首をかしげ、それが誰か問い詰めるけれど、魅音は秘密、来てのお楽しみ、と悪戯っぽく言うばかりで埒があかなかった。ただ、その人物は今回の経緯をある程度知っているのだという。
さっきまでの高揚感がやり場をなくして霧散し、場に弛緩した空気が流れ出した。みんなめいめいに、とりとめなく近況報告をして、それに相槌を打ったり、茶々を入れたりして聞いていた。私はそのすべてに耳を傾けつつも、魅音の言う人物が誰なのか気になっていまいち集中を欠いた。
一通り話題が尽きかけたころ、玄関の呼び鈴が鳴った。魅音が出迎えのために席をはずす。
「誰だろうね? 魅ぃちゃんの言う人って」
「さあ、あの口ぶりだとたぶん女性だよな」
「圭ちゃん、ちょっぴり喜んでませんか?」
「ひょっとしたら知恵先生ではございませんの?」
とかせき立てたりして、私たちは彼女がやってくるまでは騒がしくしていた。
しかし、障子が開き、魅音とともに彼女の姿があらわれると、しんと静まりかえってしまった。
鷹野三四がそこにいたからだ。
「た、鷹野さん……」
それを誰が口にしたかわからなかったけれど、とにかく私たちは彼女の名前を壊れやすい陶器かなにかのように、慎重にあつかった。魅音は苦笑して、
「まあ、みんながどう思っているかはわかるけど、ひとまず、座らせてあげて」
そこで初めて私たちは緊張をほどいて、彼女を迎えいれるために道を譲った。意図せずに彼女に詰め寄っていたのだ。
鷹野が座り、みんなも同様に席に戻ったけれど、なんとなく気まずさが拭えなかった。この場の人間はみな、彼女に対して大なり小なり、複雑な心境をいだいている。
「とりあえず、鷹野さんを呼んだのは私。というのも、そもそも今回の経緯を教えてくれたのは鷹野さんなんだよ」
魅音はそう言って、私たちを隔てる壁を取り除こうと、彼女のその後について語りはじめた。その鷹野自身は話の大部分を魅音にまかせて、俯き加減に弱々しく視線をさまよわせていたけれど、私と視線が合うとすぐにそらした。私は彼女のその姿がとても小さいものに見えて驚いた。
……6年前、番犬部隊に捕らえられた鷹野は、富竹の擁護もあって雛見沢症候群の治療を受ける身になった。もちろん犯した罪は消えず、彼女は自衛隊からすべての権限を剥奪され、造反事件の調書作りにも全面的な協力を強いられた。そこまでは彼らも聞き及んでいることだ。
治療に専念するうち、鷹野は自責の念に苛まれるようになった。両親の死、劣悪な施設環境、義祖父による救済、無碍にされた義祖父の研究、神になりなさいという今際の言葉の呪い、絶え間ない努力、小泉からの庇護、人体実験、後ろ盾の喪失、政治勢力の接近。
人生の多くの転機を振り返り、自分はいったいどこで間違えたのかと、ずっとずっと考えこんでいた彼女は、そこでひとつの答えに直面する。それは、研究への協力を拒否した古手梨花の両親の殺害だった。
まるで目の前の障害物をひょいと摘み上げるように、彼女は古手夫妻を排除した。しかし、真に問題だったことは、彼女が直接手を下したわけではないことだった。彼女は人を殺すことの重みを充分に実感しないまま、二人の命を殺めた。彼女のたがが外れたのはそのせいだった。
いまさらながらに、鷹野は身を震わせて死の恐怖に呻吟した。夜はずっと眠れなかった。夜通し、深い闇の奥からこだまが聞こえてくるからだ。人殺し、人殺し、というありきたりの幻聴のリフレイン。ときには首すじから涌いてでた寄生虫たちが集り、死という文字を象って硬直したままの彼女をおびやかした。鷹野は己れの後悔があまりにも遅すぎたことを悟った。
鷹野は入江の治療薬を毎日注射していたが、それは一時の気休めにしかならなかった。それで彼女は入江の目を盗んで、隠れて治療薬を日に何本も打ったりしてみた。けれどそれはますます気分を落ち着かせなくするだけだった。
鷹野は、これまで自分が行ってきた人体実験がいかに罪深い研究だったかようやくわかった。体験してみると、それは地獄の業火に燻られているような苦しみが長く続いた。落ち着けるのは明るい日差しが射している朝から昼間の間の、ほんの僅かな時間のみだった。その時間でさえ、夜の恐怖のことを考えると、心から安まることはなかった。
ときおり、東京から富竹が見舞いにやってきた。彼は鷹野の苦悩を分かち合おうと努めたが、彼のやさしさはしばしば鷹野を苦しませた。一度、震える鷹野を抱きすくめた富竹に、もっともっと縋ろうとして逆に彼を突き飛ばしたりした。その時、富竹は鷹野をずっと支え続ける決心を新たにした。
こうした具合に、鷹野の精神状態は安定からは遠いものだったが、入江は彼女の病状はむしろ快癒に向かっている、と富竹に伝えた。
「鷹野さんのパターンは特殊なものです」
訝る富竹に入江は説明を加えた。
「彼女の場合は、さまざまの要因が複合的にからみあった急性発症です。それは他の発症者も同じことですが、決定的に違うのは、鷹野さんが雛見沢症候群の存在を熟知している、ということです。医者の不養生という言葉がありますが、定期的にワクチンを接種している自分がまさか発症に至るとは、彼女にしてみれば思ってもみなかったことでしょう」
入江は寄生虫たちの変異すら匂わせた。どのような事情であれ、ワクチンを接種していたにもかかわらず急性発症に至ったからには、その可能性を捨て切ることはできなかったのだ。
この時、入江は富竹に語らなかったが、寄生虫たちが鷹野という特異な環境下においてしたたかに立ち回り、彼女の内部でのみ独自の進化を果たした可能性を考えていた。彼は長年の経験から、寄生虫たちに何かが起きかけていることが直感的にわかったのだ。
人生のすべてを捧げてきた寄生虫に、内側から食い散らかされている彼女を想って富竹は涙した。6年の短いとはいえない時が経っていた。その間、過去に囚われた鷹野は一歩も前に進むことができていなかった。それは、目覚めてからの幾多の苦難をも肯定的にとらえようとする、北条悟史の姿勢とは対極的だった。
富竹に雛見沢ダムの話が伝わったのはそれからすぐのことだった。鷹野は彼からそれを聞いて、以前のダム戦争のことを思い起こした。富竹は彼女を慰めるように言った。
「鷹野さん、確かに君のしたことは絶対に許されることじゃない。だけど、雛見沢にやってきてから君のしてきたことはそのすべてが間違いだったのかい?」
「どういう意味?」
「君が研究のために雛見沢にやってこなければ、間違いなく村は沈んでいた。大勢の人たちが住む場所を、故郷を追われていた」
「そんなこと、私は研究の邪魔になるからで……」
「どんな目的があったにしろ、君のおかげで、村は救われたんだ」
富竹の言葉は鷹野を闇から引き上げようとする力強さがあった。
「鷹野さん、君が本当に罪を償いたいと思うなら、いつまでもここで手をこまねいていちゃいけない。もう一度、君が雛見沢を救うんだ」
「私が、この村を? 私はこの村を滅ぼそうとしたのよ、そんな私に、この村を救えるというの?」
「そうさ、君にしかできない」
村を滅ぼそうとした者は、村を救うこともできるはずだ、富竹はそう言った。彼は何の計画性もなく、ただ思いついたままに、鷹野を励ますためだけに口をついた言葉だった。霧が晴れていった。鷹野は卒然と、施設の外へと踏み出してみたい気持ちにかられた。その意を汲んだ富竹は彼女の腕を支え、一緒に地下室を出て、階段を登りはじめた。寄生虫たちはなおも蠢きをやめなかったが、不快さは不思議に薄れていった……。
重苦しい沈黙がしばらく続いたが、ふいに鷹野は立ち上がり、頭を下げた。それは誠心誠意の謝罪であった。そして、私と目を合わせて言った。
「梨花ちゃん、さっきの話を聞いていてわかったでしょうけど、あなたのご両親は自殺じゃなくて、本当は私が殺したの。許してもらおうなんて思わない、ただあなたに謝らせて」
彼女は別人みたいに生気がなくやつれていた。髪には色つやがなく、目尻の小皺を隠そうともしていなかった。その姿に、私は動揺を隠せなかった。
私は言いたかった、違う、と。彼女は私の両親を殺したかもしれないが、それはもう過ぎたことで、私の中でもとっくに区切りはついていた。だからそうじゃない。そんなことじゃない。
あなたは。口元を引き締めて、叫びたくなる衝動をぐっとこらえる。みんなを、虫けらのように殺した。あなたは、数多の世界で数多の人間の命を奪った。私を百年の牢獄に閉じ込めた、そして羽入を……
だから、あなたの苦悩はあなたの罪に釣り合っていない。そう言いたかった。
けれども、雛見沢大災害の防がれた世界では、昭和58年の鷹野は結局誰も殺さなかった。彼女の言う通り、彼女が自分の意志で直接殺めたのは私の両親くらいのものだった。だから、この不満が理不尽なものだと私はわかっている。
それでも私は鷹野の心の底からの改悛を、しんから憎らしく思ったのだ。