「ほかのみんなは覚えていないかもしれないけれど、私たちの仲間はまだ全員揃っていない。もしかして、みんなはそのことに気付いていないのだろうか? でも、もう一人いたのは間違いない。彼女は疑いようもなく私たちの輪の中にいた。だからいまは、そんなあなたに向けて話してみる。あなたがふたたび私たちのもとに帰ってきたときに、何年かの空白(正確な時間がわからないのはどうしてだろう?)の埋め合わせをちゃんとできるように。それと、私はあなたを信頼していたみたいだから。なんでも話すことができるほどに。
名前も思い出せないあなたは、最初のころはずっと遠くにいて、一人寂しそうだった。輪の中に入るのもおっかなびっくりで、その仕草を見て私は思わず笑ってしまったけれど、共感するところは多くあった。私もそうだった。
茨城の学校から分校に転入してきたときのことを、私はいまでも昨日のことのように覚えている。前の学校で大変な騒ぎを起こして、父にも迷惑をかけて、こんな私が新しい関係を一から築き上げることができるだろうか、こんな私に本当の友達ができるだろうかと内心は不安でいっぱいだった。そんな私に救いの手をさしのべたのは、沙都子ちゃんの悪戯、魅ぃちゃんの衒いのなさ、梨花ちゃんの愛らしさ、悟史くんの暖かさだった。宥めすかすような視線、微笑。私の不安はどこかへとかき消えていった。
『茨城から転校してきた竜宮礼奈です。レナって呼んで貰えたら嬉しいです』
万雷の拍手とともに竜宮レナという存在は受け入れられて、私は私の居場所を手にすることができた。みんな私のことをレナ、レナさんって呼んでくれて、笑みがこぼれるのを止められなかった。
竜宮礼奈は雛見沢にはいない。ここにいるのは嫌なこととは無縁の、明るくて、お淑やかで、たまに暴走気味な竜宮レナだけだった。
そんな私だったから、あなたの不安が手に取るようにわかって、みんなにしてもらったように、今度は私が受け入れる番なのだと直感した。そして、手と手が触れたその瞬間、深い悲しみと孤独の重みで魂がきしむ音を聞き取った私は、そこではじめて無量の涙の理由を知った。なおも流れ続けるあなたの涙が呼び水になって、あやうく私まで涙ぐみそうになった。
どうしてかな、あなたのことを思い出そうとすると、連鎖的に、いろんな情景の断片がぽつりぽつりと甦ってくる。たぶん、あなたは記憶の奥深いところでみんなを見守ってくれているからなのだろう。
名前も知らないあなた、みんなが待ってるよ。深い意識の底で、ずっと待っている。忘れちゃったとしても、心にはちゃんと残っている」
鷹野さんの誠意は、はたして彼女に届いたのか、届いていないのか。その二択しかないとするなら、後者だろうと私は思う。というよりも、梨花ちゃんは何か別のことに気を取られているようにも見える。焦点が定まらず、ときおり眼をふせたりするけれど、長い髪に隠れて表情はいっこうに窺いしれない。
私は無意識のうちに、オヤシロさまの巫女である梨花ちゃんならば、鷹野さんの罪をも受け入れてしまうのではないか、と考えていたし、半ばそれを期待していた。けれど、あいかわらず梨花ちゃんは鷹野さんに返事をしないままで、柱時計のかちかちという規則正しい音だけが部屋を満たしていた。
「……梨花?」
梨花ちゃんの鈍い反応を心配して、沙都子ちゃんが呼びかけた。そこで、はっと顔をふりあげた梨花ちゃんは、つくろった表情を浮かべて、なんでもないのだと返したけど、それはむしろ沙都子ちゃんの心配を増幅させただけだった。そして鷹野さんに、
「鷹野、あなたの謝罪を受け入れるわ。両親の死は確かに悲しいことだったけれど、ずっとずっと前のことだから、もう区切りはついているから」
と無表情で言ってから、気分が優れないからと中座してしまった。私たちの呼びかけに、大丈夫、すぐに落ち着くと思うから、と返しただけだった。
私は去っていく梨花ちゃんの背に向かって、だったらどうしてあなたは仮面の下で泣いているの? と、そう問いたかったけれど、結局口に出して言うことはしなかった。いまは梨花ちゃんの意志を尊重しなければならない。いや、それもたぶん言い訳で、私は梨花ちゃんを追いかける勇気が湧いてこなかっただけだとも思う。
ともかく、一つだけはっきりしたことは、梨花ちゃんが何かにとらわれているということだった。過去と未来の鎖に繋がれて、この土地に縛り付けられているようだった。それが具体的に何なのか、私にはわからないし、もしかしたら梨花ちゃん自身もわかっていないのかもしれない。
私たちは完全に見えなくなるまで、遠のいていく梨花ちゃんの後ろ姿を力なく見つめていた。
夕闇が落ちはじめていた。残光がみるみるうちに薄れていった。
あれから私たちはなんとなくばつが悪く、言葉少なになって、自然と解散することになった。興宮まで車で送ってくれた魅ぃちゃんは、せっかく東京から足を運んでもらったのに、と私と圭一くんに謝り、梨花ちゃんの気持ちも考えずに、梨花ちゃんにもあとで謝らないと、とだいぶ責任を感じていた。それで私は、久しぶりにみんなに会えたから大丈夫、梨花ちゃんだって別に怒っているわけじゃないと思うよ、ただ気持ちの整理に少し時間が必要なだけ、と言って落ち込む彼女を励ました。私たちは彼女の車の後ろ姿がみえなくなるまで手を振り続けた。
電車に乗るのは私と圭一くんだけ。だから彼と二人きり、プラットホームで電車を待つのは必然だった。けれども、私たちはお互い交わす言葉が出て来ずに、まごついたままでいる。
恋の甘い味わいを知りはじめたばかりのころ、私は彼に懸想していた時期があった。
これはとても不思議なことだけど、初めて圭一くんと出会ったとき、つまり彼が転校してきて、私と同じように沙都子ちゃんの罠の洗礼を受けた日には、もう彼に惹かれはじめていた。胸の動悸がいつもよりはやくなって、心をきゅっと締め上げられるような息苦しさを感じた。それと同時に、初めて会った人なのに、まるで旧知の仲のような親しみを覚えた。
知恵先生が黒板に書いた彼の名前を、まかり間違っても忘れないようにと、私は小声で復唱した。前原圭一くん、という名前が一瞬間、私の身体を雷光のように駆けめぐった。幸せという概念が彼の存在と結び合ったのを感じ、これが恋なんだろうと思った。
私は彼のまえで、魅ぃちゃんたちにするのと同じような言動や行動をとった。私のそれがしばしば奇行とみなされることは自分でもよくよくわかっていたし、事実茨城の学校では受け入れられることはなかった。けれども、そんな私を見るたびに彼は楽しそうに笑ってくれて、時には私の頭にごわごわした手で触れてきたりした。その際の、私の顔の火照りの意味が、単なる羞恥だけだと彼が誤解するたびに、私は安堵と物足りなさを感じた。彼の鈍さに翻弄されてばかりいるのがどうにももどかしくて仕方なかった。
彼を部活に勧誘してからすぐ、魅ぃちゃんも彼に視線を向けてばかりいることに気がついた。このころ、まだ詩ぃちゃんの存在を知らなかったから、私は魅ぃちゃんが悟史くんといい関係にあったと思い込んでいた。それで改めて圭一くんの顔をまじまじと見つめていたら、どこか悟史くんの面影を感じさせなくもないことに気がついた。そう考えれば、どちらかと言えば気難しい沙都子ちゃんが、あれほどすぐに彼に懐いたのも理解できたし、私が初めて会ったように思えなかったのは、悟史くんに似ていたからか、と表面的には納得した。私があまり長いこと見つめていたせいか彼の頬も少し赤みを帯び、不器用な言葉とともにふいと目をそらしたのを見て、彼に一矢を報いることができたことにちっぽけな満足を覚えた。
圭一くんは転校してまだ日が浅いうちから、私だけじゃなくみんなの心をがっしりと掴んでいった。分校は学年混在で、圭一くんはどちらかといえば年長の部類に入っていたけれど、低学年の子供たちのために目線を下げる度量があった。そしてあっという間にクラスの中心人物に登りつめていった。ちょっと抜けているところもあるし、どこか変態じみたところもあるけれど、誰からも信頼される、底抜けに明るい少年。
……そんな圭一くんの目つきがしだいに険しいものに変わっていった。なぜか私を避けるようになり、金属バットを持ち歩くようになった。それはあまりに不吉な前兆だった。悟史くんの鬼隠しについて、これ以上圭一くんを怖がらせないように、不安がらせないように、転校したんだと諭しても聞き入れてくれない。私の言葉は届かない。理由もなしに、私の世界から離れていこうとする彼を追いかけていく。すると、地に伏して気絶した彼を発見する。
とめどない不安を少しでも宥めようと、魅ぃちゃんに連絡して助けを求める。魅ぃちゃんも圭一くんの様子がおかしいことをずっと心配していて、すぐにかけつけてくれた。二人して圭一くんの身体を彼の部屋まで運んで介抱し、念のため監督に電話をして来てもらうように伝えておいた。そうこうしているうちに彼の目が覚めた。
……魅ぃちゃんが頭から血を流して、ぐったりと横たわっている。これは悪夢だ、私の悪夢。なおも暴走を続ける彼は私めがけて、手に持った血塗られた凶器を振り下ろす。寸前まで、どうにかして避けようと考えていた。けれど、避けたところで悪夢が終わらないことに気がついた。
彼は震えていた。恐怖に突き動かされながら。そして彼の目頭から涙があふれ、その一滴がしたたり落ちてきて私の頬を熱く濡らした。その瞬間、彼の魂の底に滲んでいた深い苦悩と後悔がはっきりとわかった。そして、避けてはいけない、受け入れなければならない、という使命感が湧きあがってきた。鈍い音とともに激しい痛みが襲ってきて、別の意識の私が、今のは額の骨がひしゃげた音なのだと脳髄にささやいた。衝動的に、今できる一番やわらかい笑みを浮かべようとした。あまりの激痛に、自分がちゃんと微笑んでいられるか心許なかったけれど、こういうのは誠意が大事だろうと思った。だから私は、信じて、信じて、と繰り返す。ああ、頭が割れるように痛いよ、痛い。信じて、信じて、私を信じて……。
けれどもこれはしょせん悪夢にすぎなかった。だから目が覚めれば、私はもはや痛みを感じていないことに気付く。そして、時間とともに恐ろしい記憶は薄れだし、痛みは記憶とともに心の奥深くへと封印されていき、やがて跡形もなく消えた。消えなかったのは感情だった。恋、信頼、心配、信じてほしいという切なる願いといった類いのもの。
だがそれらの感情も、時間の経過による腐敗を免れることはできなかった。私は私の恋の蕾が萎れていくのをはっきりと自覚した。もし仮に欲望が開花したとしても、その花に水をやりつづけることも、陽の光を降り注ぎ続けることも、風雨から守り続けることも不可能だということが、私にはわかってしまった。それは私が悪いわけでもなければ、まして圭一くんが悪いわけでもなかった。すべて、すべては時機のしわざだった。
こういうふうにして、私は故意に、そっと、そしてすばやく、圭一くんへの想いを遠い過去の世界へと置き去りにした。日常のありふれた風景のうちにときおり、ふとしたことでそれが甦って、懐かしい匂いや音、色のことが脳裏に過ぎっても、季節や天気のせいにして、この匂いとねばつきは恋や欲望のためではなく、降りしきる雨と湿気のためだ、と言い繕うことに心を傾けようとした。
けれど私の知らない過去は、私の心から消えてくれなかった。それはちらと顔を覗かせて、私を支配するきっかけを窺っていた。彼が私の額を殴打する過去、蒼く幻想的な月の光の下、涙を流し続ける私を彼が胸に抱いてくれた過去、時間の凍り付いた世界で、彼に向かってまっすぐに突き進む死の弾を、絶望とともに見ていた過去。そういう不可思議な過去は決して姿を消してくれなかった。
私は、これらの過去がすべて事実と異なることを知っている。圭一くんも私もちゃんと普通に呼吸をしながら、夜気の吹きかうプラットホームのベンチの上、ちょうど手が触れるか触れないかの微妙な距離を空けながら、静かに座りこんでいることを知っている。だけど、別の記憶の彼が、はるか遠くのほうから何度も何度も私の名前を呼びかけてくる。レナ、仮に俺たちのどちらかが死のうと、俺たちは絶対にまた会えるから。だから。やめて、それ以上を聞かせないで、思いだすと、私が築き上げたと信じてきたものが崩れてしまう、閉じ込めてきたものがこぼれ出てしまう、と私は耳をふさぎ続ける。レナ、レナ……
「おい、レナ」
「あ……」
肩を揺すぶられる感覚と振動。私はいつのまにか眠っていたらしいことがわかる。続いて電車が来ることを告げるアナウンス。次第に大きくなる走行音に、闇を照らすまばゆい光。私たちは立ち上がって電車へと乗り込む。雛見沢はあっという間に遠ざかっていく。私という存在が、竜宮レナから竜宮礼奈へと移行していく感覚。揺られ続けて、私の軸はぶれていく。レナが礼奈になる。私が私になって、私が消える……。
そんな私を知ってか知らずか、車窓から消えていった雛見沢のほうをじっと見ていた圭一くんが、ぽつりと小さくこぼした。
「この村、沈んじまうのかな」
咄嗟に何と返していいかわからず、返事をする機を失ってしまった。しかし彼は繰り返した。沈むのかな、雛見沢、と。その憂いの響きには、故郷を失って宙ぶらりんになった者の哀調が含まれていた。
けれど、彼は自分を鼓舞するように言った。
「沈ませるかよ」
「……うん」
はたして彼にとって雛見沢はほんとうに故郷なのかと疑問に思うことがなくもない。それは私にとってもだけれど。私たちは、純粋な年月だけで考えれば、雛見沢にいた時間よりも他の土地にいた時間の方が長いのだ。
実際、もし仮に雛見沢が水底に沈んでしまったとして、今の私にとって、意地悪な言い方をするならば、しょせんは他人事なのだと考えられなくもなかった。私は都会で一人暮らしをして、たまにアルバイトをしながらそれなりの規模のデザインの専門学校に通い、それなりに仲の良い友人関係を築いている。雛見沢の日々を懐かしく思えば思うほど、その記憶が遠のいていくことを実感する。離れていればいるほどに愛着は増していくけれど、当事者意識は否応なく薄れていくのだ。
彼はどうなんだろう……。
それを聞いてみたくなって、口を開こうとしたときだった。どこか歯切れの悪い口調で彼が言った。
「……もう一人いたんだよな」
「え?」
「俺たちの仲間が、もう一人」
「それってまさか……」
「仲間を忘れるなんて、最低だな、俺」
圭一くんはとても寂しそうな表情で言った。
でも、仲間を忘れることが最低だとするならば、私もまた最低だった。私は雛見沢に戻ってくるまで、彼女の存在を思い返すことがなかった。懐かしい土を踏みしめたとき、未舗装の道路脇に生えた夏草の湿り気が足元に伝わってくるその瞬間に薄ぼんやりと思いだすまで、私はきれいさっぱり忘れていた。都会で浮遊するために、暢気に時間を浪費するために彼女の全存在を切り捨てていた。
私は圭一くんに言った。
「私も忘れていたよ、彼女のこと」
「レナもなのか?」
「うん。あんなにずっと一緒にいたのに。私は忘れていた。ううん、今も忘れてる。彼女の名前を思い出せないもの」
名前を呼びかけてもらえないこと。レナのことを、礼奈と呼ばれること。化け物と呼ばれ蔑まれること……。
私たちは思いださなければならない。そしておそらく、これは直感だったけれど、もし万一雛見沢がダムに沈んだら、彼女の存在もまた深い海の底に沈みこんで、二度と引き揚げることができなくなってしまう。そこで彼女が助けを求めて涙を流したとしても、きっと誰にも気付いてもらえないだろうから。私たちは、彼女のあの涙を手がかりにするためにも、村を沈めさせるわけにはいかない。
この唐突な決意とともに、再び、私が私へと引き戻されていくのがわかった。電車は終点へと近づき、もう雛見沢とは遠く離れてはいたけれど、いまならば私は、胸を張って、私の名前は礼奈ではなくレナなのだ、と言うことができるだろう。