…身体があるのかないかよくわからない浮遊感。
思考が上手くまとまらない、全てがぼんやりとしている。
手足を動かそうとしても、接続が切れたように感覚がない。
この感覚を言語化するのなら、靄の立ち込めた水中、だろうか。
正直自分でもこの上なく下手くそな例えだと思うが、それでもこれが一番近い。
最早慣れ親しんだ感覚に、ヘレナは思わずため息をつく。
(……また、か。)
ヘレナにはすぐにこれが夢だと分かった。
そしてどうせ、いつも通りの悪夢を見る羽目になるのだとも。
本当に、自分の脳に面会出来るのなら一言文句を言ってやりたい。
自分への戒めとして忘れることは許されないが、1日に2度は流石に堪える。
気持ちが沈むのを感じながら、ヘレナは重い瞼を上げる。
「……?」
だが目に写ってきたのは、予想とはかけ離れたものだった。
悪夢の象徴である海など、どこにもない。
潮の香りもどこからもしない。
そこにあるのは、燃えていると錯覚するほど紅い夕焼け空。
懐かしい町並みと、住宅街。
そして、懐かしい空気。
この光景には、見覚えがあった。
「ここは…私の、生まれた街?」
恐らくここは、ヘレナの生まれ故郷の街だ。
既に色褪せ始めている記憶の中の景色とも相違ない。
でも何故、今になってこんな夢を?
またいつもの、両親を失う悪夢ではなく懐かしい光景を見ているのだろうか。
「おーいヘレナ? 何立ち止まってるんだ?」
「ーーーー。」
その声に、一瞬呼吸が止まった。
遠くから聞こえてくる聴き馴染みのあった声。
聞くだけで、たくさんの思い出がフラッシュバックしてくる。
聞こえてきた方向を振り向くと、そこにあったのは、
「お父さ」
大好きな、父の姿。
もういない大切だった人。
その姿が、涙が出るほど懐かしくて。
心が弾むまま、駆け出そうとしたその時だった。
「待って〜お父さん!!」
ヘレナの横を、1人の少女が走っていった。
背丈は丁度、現在のヘレナの腰ほどの高さ。
灰色の髪をボブカットにした、齢5歳くらいの女の子だ。
見違えるはずはない。
あれは、昔の自分だ。
幼いヘレナは父の隣に追いつくと、ぎゅっと彼の手を握る。
「…? 何笑ってるんだ、ヘレナ?」
「ふふ、何でもない。」
幼い頃は、ただ隣を並んで歩くだけで嬉しかったことをぼんやりと思い出す。
幼いヘレナは年相応の少女らしく表情を和ませ、そっと身を寄せる。
手を繋いだまま、2人は仲睦まじく歩き出す。
ヘレナはそのまま立っているのはなんだか寂しくて、2人を後ろから見守れるように付いて行く。
きっと自分は、この夢には干渉できない。
それでも、この光景を見ていたかった。
この先これが、壊れるものと知っていても。
「ねえねえお父さん! さっきなに買ってたの?」
「ん〜? 明日のピクニックの食材だよ。 ほら、卵にベーコン、パンにハム。」
父は大量の食材が詰まったビニール袋片手ににこやかに応える。
ヘレナは昔からこの笑顔が好きだった。
目を合わせるだけで、自分のことを愛してくれると分かる眼差し。
そんな父と一緒に過ごすだけのことがどれだけ幸せだったか。
そうだ、ただ一緒にいるだけで、良かったんだ。
それ以上、何もいらなかったんだ。
全てを失ってから、そのことが心に穴が空くほど理解出来た。
しばらく2人は他愛もない会話をしながら歩を進めていると、父は突然立ち止まる。
「……? お父さん?」
「ヘレナ、大事な話があるんだ。」
父は膝を折り、幼いヘレナと同じ目線に合わせるとそっと彼女の頭を撫でる。
この時は父の声色が急に変わって、とても怖かった。
確かあの頃は、そんな風に感じていた。
「…優しさを失くさないでくれ。」
「え?」
あまりに突拍子もない言葉に、ヘレナは言葉を返すことが出来なかった。
「ヘレナは母さんに似て、可愛くて、器用で大抵のことはこなせる子だ。 でもだからこそ、誰かを想うことを忘れないでくれ。」
突然の言葉に、理解が追いつかなかったのをよく覚えている。
今思えば父は、なんで幼い我が子にこんな話をしたんだろうか。
普通、この手の話はもう少し成長してからだろうに。
もしかすると父は、自分の運命を知っていたのではないか。
そんな勘ぐりをしてしまうほどのものだった。
「これから先、ヘレナには辛いことも、嫌なこともたくさんあるだろう。 何もかも上手くいかないこともザラにある。 それでも、思いやりだけは忘れないでくれ。 お父さんとの約束だ。」
「あう……えっと…。」
幼いヘレナー幼ヘレナは思わず口籠もる。
父の話は何を言っているか分からなかったが、それでも真剣に何かを伝えようとしている雰囲気だけは伝わってきた。
だからこそ、適当な返事は出来なかった。
「…よく、わからないけど、わたし、頑張るよ。 わたし、お父さんとお母さんの子どもだもん。 きっと約束守ってみせるよ。」
「……うん、安心した。」
父は心の底から安堵したように笑うと、立ち上がり、ヘレナをおんぶする。
「わあ! 高〜い!」
幼ヘレナは歓声を上げ、振り落とされないように父の頭にしがみつく。
「さあ、帰ろう。 お母さんがヘレナの大好きなシチューを作って待ってる。」
「うん!!」
そうして、去っていく2人の後ろ姿をヘレナはいつまでも見つめていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「……った…。」
硬い机の感触と、ジンジンと痛む頬。
どうやら眠ってしまっていたらしい。
時計に目をやると、時刻は午前1時。
30分ほどの仮眠だったようだ。
姿勢の悪い睡眠のせいで身体の節々が痛む中、真っ先に去来した感情は、
「…何で、今まで忘れてんだろ。」
後悔だった。
こんなに、大事な約束を。
父とした、最後の約束。
本当に、自分が嫌になる。
目先のことに精一杯で、すっかり忘れてしまっていた。
誰かを想う心。
人間に対してのものは、ヘレナは持ち合わせている。
レイシア、リーラ、エドワード。
ヘレナは彼女らが大好きだ。
だが、それ以外は?
レグルスやハダルのことは信頼しているし、家族同然に思っている。
しかし自分が彼ら以外に今までやってきたことは、優しさがあったのだろうか?
復讐の相手でもないノライバーを狩って狩って狩り続けた。
一方的に、無抵抗なものを打ち倒したこともあった。
ただ一つの、怨敵の姿を重ねて。
それはただの、八つ当たりに過ぎなかった。
子供のような、身勝手この上ない愚行。
(ホントにバカだな、私。)
認めまいとしていたことから、もう目を背けられない。
自分の反省の無意味さが身に染みて分かった。
少しだけ目尻に浮かんだ涙を拭って、部屋の隅へ目を向ける。
そこで気が付いた。
「……いなくなってる……。」
横になっていたはずの『彼』が、いない。
だが、痕跡を消すのは得意ではないようで、玄関に向かって薄らと砂の道標が出来ている。
杜撰な脱走に苦笑すると、ヘレナは真っ直ぐ玄関へ向かった。
「やっぱり、ここにいたのね。」
庭では、メテオールが月を見上げていた。
飛び去る目標として見ているのか、それとも人間のように感傷に浸っているのか、それはよく分からない。
それでも、白い満月に、紅い翼は存外映えるものだなとは感じた。
「ーーーー。」
メテオールはヘレナに一瞬目を向けると、すぐにそっぽを向いてしまった。
「寒さは傷に響くわよ。 中に入らないの?」
メテオールは、何も答えない。
先の敗北のせいか、目もまともに合わせてもくれない。
相当な負けず嫌いなのだなと思うと、何だか可愛らしく見えてきてしまう。
以前のヘレナなら、ノライバー相手にこんな感情は浮かんでこなかった。
本当に、年貢の納め時というやつなのかも知れない。
「………ねえ、メテオール。 貴方どうして人間を直接襲わなかったの?」
これだけは、ハッキリさせておきたかった。
ー彼は人間を憎んでいる、
だというのに、直接襲わずにゴンドラやATMなどの人工物の破壊を重点的に行なっていた。
勿論、人間を傷つけたことがなかったわけではない。
しかしそれは、彼を生み出した研究所から脱走する際のものだけだ。
直接ホリダーに危害を加えたわけではない。
どうして、こんなにも回りくどい方法を取り必要があったのか。
「人間が憎いなら、直接攻撃すればよかったじゃない。 なのに、貴方は物の破壊だけしかしなかった。 それは、どうして?」
メテオールは何も答えない。
これまでのヘレナなら、きっと理解出来なかったと思う。
少なくとも、今日の朝までの彼女なら。
「……….憎みきれなかったんでしょ?」
ーーそうだ。
自分と彼が同じなら、きっとそうなんだ。
「貴方を作って、勝手に作り替えて、見捨てた科学者たちが憎くても人間そのものは恨めなかった。 どんなに怒りで塗りつぶそうとしても、出来なかったんでしょ?」
ヘレナだって同じだ。
あの黒いクロノス…オケアノスのことは憎くて憎くて仕方がない。
目の前に現れれば、きっと自分を抑えられない。
きっとこれは生涯抱え続けることになる黒い情念の炎。
でも、他人が使うリバイバーや、自分の相棒たち、カセキバトルを見て憎しみの感情が浮かぶことなんて一度もなかった。
自分の人生を狂わせたただ一つのモノは憎くても、その種の全てを憎むことなんて出来なかった。
「優しすぎるのよ、貴方は。 復讐者に向いてる性質じゃないわ。」
ヘレナは、メテオールに歩み寄る。
「ーー!!!」
だがその瞬間、メテオールはこちらに振り返り、翼を大きく広げて威嚇を始める。
『近付くな。』
その瞳が、表情が、そう物語っていた。
だがヘレナは足を止めない。
悠然と、メテオールの元に足を運ぶ。
一歩一歩、確実に歩を進める。
そうして、手が届く位置までに距離を詰めた。
ヘレナの手が彼の頬に触れようとした時、
「ッッッ!!!」
メテオールの牙が、ヘレナの右肩に食い込み、赤い血が飛び散る。
ヘレナにはこの攻撃が本気ではないことは、すぐに分かった。
だって、リバイバーが本気で人噛み付けば、ヘレナの細腕なんて、簡単に千切れているはずだ。
だがそれでも、肩から赤い血が止めどなく流れ、地面に数滴の染みを作る。
だが、その痛みを堪えてでもするべきことがあった。
このどうしようもない馬鹿に、伝えなければならないことがある。
「!!」
「……ずっと、辛かったよね。」
ヘレナはメテオールを優しく抱きしめる。
「ーー。」
「何もしてないのに、呪いみたいに理不尽を押し付けられて、キツかったでしょ? 貴方は、ずっと独りだった。 …独りでいるから、考えも、心も、歪んで壊れていく。」
思いの丈を、彼に伝える。
この優しくて、孤独な翼竜に。
「…その点、私は恵まれてたかな。 色んな人が私を支えてくれた。 それでも、私も貴方も結局同類。 どこまでも自分勝手で、中途半端な復讐者。」
ーそうだ。
私たちは、一緒だ。
本当に馬鹿で、どうしようも無い。
道に迷って迷って迷い続けた。
そうしてここまで辿り着いた。
「…それでもね、こんな私でも今度は誰かを支えたいの。 震えて泣いている誰かがいるなら、見つけて、抱きしめてあげたいの。 傍に、いてあげたいの。 だから、貴方は私の新しい生き方の被験者第一号ってところね。 だから、大人しく私と一緒にいて? 私も、1人じゃ何もできないから。」
ヘレナが一方的に喋っている間、メテオールはずっと無言だった。
唸り声を上げるわけでもなく、鳴き声一つ出さなかった。
でも、身体が小刻みに震えている。
「……何泣いてるのよ、バカね。」
メテオールの瞳から大粒の涙が流れている。
彼はヘレナの肩から牙を離すと、額をヘレナの胸に擦り寄せ、声を押し殺して嗚咽している。
身体は大きいのに、まるで迷子の子供のようで彼を思い切り抱き寄せる。
メテオールを抱きしめていると、ヘレナはある異変に気が付いた。
「…あれ? 何で私、泣いて…?」
ヘレナ自身の瞳からも、一筋の涙が流れている。
止めようと拭ってみるが、一向に止まる気配がない。
理由は、分からない。
ただただ目頭が、胸の奥が、ひたすらに熱かった。
「ホント、馬鹿ね。 私も、貴方も。」
二人は涙を流しながら、孤独を分け合うようにいつまでも抱き合っていた。
そんな彼らの頭上を、一条の流星だけが過ぎ去っていった。
心の中でカタンと、何かが落ちる音がした。
戦意、敵意という名の、ナイフが自分の手から滑り落ちていく。
もうヘレナには分かっていた。
もう自分には、このナイフは握れないと。
嗚呼、本当に。
こんな結末、泡にでもなってしまえばいいのに。
ヘレナさんのテーマソングは『深海のリトルクライ』です。