幽香は秋の少し弱った日差しを受けながら、無数のコスモスが咲き乱れる花畑の中を歩いていた。辺り一面に咲き乱れる紫色のコスモスに顔を向けて息を吸ってみれば、コスモスが持つ匂いと、どこかで咲いているであろう金木犀の匂いが鼻に流れ込んでくる。今はこうしてコスモスの花畑の中にいるが、もっと探せば彼岸花や薔薇の花畑が見つけられる。
秋は植物達が弱る季節であると思われがちだが、花達は健気に、沢山咲く。それは他の植物が沈黙を始めていても、だ。その健気さと力強さを見るためにこうして花の咲く場所を廻るのが、幽香は好きで仕方なかった。
「貴方達は変わらなくていいわね」
香りを風に乗せて揺れる花にそっと声をかけて、微笑む。季節が変わろうとも、種類を変えて咲き続けるのが花だ。そんな花の妖怪である事が誇らしい。だが、いつまでも同じ花畑にいるわけにはいかない。別な場所へ移動して、他の花がちゃんと咲いているかどうか探しにいかねば。それに、前に博麗神社に住んでいる霊夢の関係者、懐夢に花畑を見せてあげるという約束をしたから、その約束を守れるような花畑を見つけなければならない。まぁ、懐夢がそこまで花に拘りのある子だとは思えなかったから、ここに咲いているコスモスの花畑でもよさそうな気はするが、どうせならもっと豪勢な花畑を見せてやりたい。
そう思って、花の香りが舞う空へ舞い上がろうとしたが、幽香は途中で背筋に違和感を感じて行動を止めた。不快な気を感じる。自分がこの幻想郷で最も嫌っている、花を食らう蟲の気だ。そしてこのような気を放つ存在は、今のところ一人だけ知っている。
そんな事を考えながら、振り返ったところで、溜め息が出た。花畑の中に、深緑色の髪の毛で、白と黒を基調とした洋服を身に纏い、黒いマントを羽織った少女が一人入り込んでいた。その少女こそが自分の育てる花畑の花を苦しめる蟲を司る、この幻想郷で最も嫌いな少女、リグル・ナイトバグだ。美しい花畑の中に全く違う色をした彼女が佇む姿は、花畑を喰らいにやってきた害虫のような印象を幽香に与えた。
「……何しに来たのかしら。貴方みたいなのが、花畑に来るなんて」
リグルは何も言わずに俯いていた。大方、昨日の邪魔の事で怒っているのだろう。幽香は溜め息を吐いて、リグルにもう一度声をかけた。
「ここは貴方みたいなのが来ていい場所ではないわ。さっさと退きなさい。さもなくば、いつもみたいに怪我させちゃうわよ」
軽く脅迫じみた事を言ってみると、沈黙を貫いていたリグルの口が僅かに開いた。
「……れ……んなら……って……な」
リグルは言葉を発したように見えたが、全く聞き取れなかった。そもそもリグルは今言葉を発したのだろうか。
「何か言った? 聞こえるように言いなさい」
リグルは幽香の言葉に従ったのか、再度口を開いて、先程よりも少し大きな声で言った。
「やれるもんならやってみな」
幽香はくすりと笑った。いつものリグルといえば、自分の持つ戦闘能力に怯えて何も言わないし、言ったとしても謝って逃げていく。だから自分に喧嘩を売るような事をしないと思っていたが、リグルはそれを覆してみせた。
「なるほどなるほど。撃退されたいわけね貴方は。わざわざ私にぶちのめされる事を望むなんて、被虐嗜好もいいところね」
そう言って、幽香はリグルに歩み寄る。普通ならば近付かれた時点で、リグルは泣いて逃げ出すが、今日のリグルは泣きもしなければ逃げ出そうともせず、風に揺れる花畑の中で立ち尽くし、俯いているだけだった。ここまでいつもと違うリグルを見たのは、初めてだ。
リグルの目の前まで歩いたところで幽香は立ち止まり、目の前で立ち尽くし、俯いているリグルへ声を浴びせた。
「もう一度言うわよ。今すぐここから立ち去りなさい。ここは貴方みたいなのが来ていい場所ではないの。もし退かないのならば」
次の言葉を言おうとしたところで、リグルは割り込むように言った。
「ぶちのめせばいい。ほら、やってみろよ。やれるもんなら、やってみな」
幽香は拳を握った。幽香にとってぶちのめすといえば、力いっぱいに殴り飛ばす事だ。これまで色んな妖怪や人間をぶちのめしてきたが、ぶちのめした時の感触は今のところリグルが一番いい。そして今、目の前にいるリグルの顔をぶちのめし、心地よい感触を体感する事が出来る。流石に骨を折るまではやらないが、殴られて鼻から血でも出せば、怯えて逃げ出すに違いない。花畑から害虫を追い払える上に快感も得えられて、一石二鳥この上ない。
「じゃあ、お言葉に甘えて。後悔しないでね」
そう言って、力いっぱい拳を振り上げてリグルの顔目掛けて伸ばしたその時、幽香は違和感を感じた。いつまで経っても、リグルの顔を殴った時の快感が来ない。そればかりか、拳が移動していないように思える。一体何が起きたと思って拳を見てみれば、リグルが右手で拳を掴み、がっちりと抑え込んでいた。かなりの力を持つはずの自分の拳を、下級の妖怪であるリグルが片手で抑え込んでいるという普通では考え難い光景に幽香は軽く驚いて、思わず笑った。
「へぇ……いつの間にか抵抗するようになったのね、貴方」
しかし所詮は下級妖怪、自分の拳を抑え込むだけで精一杯だ。もう一回攻撃を防ぐ余裕などあるはずがない。そう思って、目の前で拳を抑え込んでいる蟲の妖怪の顔面へ残った左手で正拳突きを撃ち込もうとしたその時、突如腹のあたりに重い何かが衝突したような衝撃と大きな痛みが走った。間髪入れずに腹の中で何かが破れるような音が聞こえてきたかと思えば、胃の中から何かがすごい勢いでせり上がって口の中を満たした。幽香は胃の中からせり上がってきたものを何とか飲み込もうとしたが、せり上がるものの方が力が強く、幽香はたまらずせり上がってきたものを吐き出した。……口の中から吐き出したものは、血だった。
腹にぶつかったもののせいで身体の中の内臓のどれか、またはいくつかが破裂して出血し、その時の血が口から出てきたと察するより先に、幽香は何故血を吐いたのかわからず、呆然とした。
痛みでぼんやりとした意識で、周囲を見回そうとしたところで、幽香はいつの間にかリグルが身体が触れ合うくらいに接近してきていて、自分の身体に拳を食い込ませている事に気付いた。どうやら自分が再度殴ろうとした隙を突き、リグルは先程の重い一撃を撃ち込んできたらしいのだが、そう気付いたところで幽香は戸惑った。
自分はこれまでリグルに大きな怪我を負わされたことはない。リグルの力は自分に傷を付けることさえ困難なくらいに、自分を大幅に下回っている。自分のように花を咲かせたり、枯れた花を元に戻したりといった事は勿論出来ないし、戦闘能力だって自分と比べたら微弱なものだ。所詮は微弱な力しか持たない下級の妖怪であるはずのリグルが今、自分の腹部に拳を入れて内臓を破壊し、血を吐かせた。
「あ、なた、な、なん、で」
力なくリグルへ倒れようとした瞬間、リグルは倒れ来る幽香の身体から素早く拳を引き抜いて、ぐるんっと身体を回し、遠心力を纏った足で幽香の横腹に蹴り飛ばした。拳を受けて半壊した幽香の身体に襲いかかった回し蹴りは、幽香の身体を再度破壊し、幽香に気が狂いそうになる痛みと衝撃を与えた後に、幽香の身体を息で紙を吹き飛ばすように吹っ飛ばした。
幽香の身体は宙を舞い、花畑から大きく離れた草原の地面へ激突、草原の地面を抉り飛ばしながら停止した。地面を削った際に発生した土煙が口と鼻の中に入ってきて、幽香は咳き込もうとしたが、せり上がってくる血のせいで咳き込む事が出来なかった。
理解できない。先程からこちらに攻撃を仕掛けて、傷付けてきているのはリグルだ。純粋な戦闘能力では幻想郷で一、二を争うほどの実力があるはずの自分が、あの弱いリグルに、遥かに弱いはずのリグルにここまで追い詰められている。一体何が起きているのかわからない。これではまるで……。
「蟲に食べられる花みたいな顔してる」
慣れたくなかったのに聞き慣れてしまった不快な声に、幽香は精一杯身体を動かして振り返った。いつの間にか、わけのわからない事になっているリグルが背後に立っている。まるで泥を見るような、光のない暗い瞳をして。
「こ、このぉ」
自分よりも下の力しか持たない蟲の妖怪。
許せない。あの顔を原型を止めないくらいに滅茶苦茶に吹っ飛ばしたい。そんな欲求に駆られて、幽香は目の前に右手を突き出したが、次の瞬間に右腕から硬くて細いものがへし折れるような音が聞こえてきて、幽香はきょとんとしてしまった。しかし間髪入れずに走った右腕の痛みで幽香は我に返り、顔を歪ませた。痛みの走る右腕を見てみれば、腕が若干あらぬ方向に曲がっている。どうやら、中の骨が折れて、形が若干崩されてしまっているらしい。そしてこんな事をするのも出来るのも、目の前にいる忌まわしい蟲の妖怪、リグル・ナイトバグだけだ。
一体どうやって、と尋ねようとした瞬間、リグルの口角が一気に上がり、口が三日月のような形へ変形して中から笑い声が聞こえてきた。
「はは、あははは」
背筋が凍り付くような笑い声。普通では味わえないような快楽に浸り、たまらず笑い出したような笑い方。あんな妖怪からはとことん縁の無さそうな声とやり方で、肩の力が抜けてしまったかのような姿勢と光を失った目で、蟲の妖怪は笑う。
「あははははははは! あははははははははははは!!」
何を笑っているのか。何がそんなに可笑しいのか。強い相手を生まれて初めて叩きのめせた事に喜んでいるのか。情緒がおかしくなって、笑っているのか。尋ねようとしたところで、蟲の妖怪は顔をがっと近付けてきた。
「すごい、すごいよ! わたし、あの幽香に勝ってる! あの幽香に、勝ってるんだぁ」
興奮と快感、意外が混ざりあったような、奇妙な笑い声。今までやった事のないような笑い方でリグルは大声で笑う。蟲の妖怪を圧倒する花の妖怪であるはずなのに、今はその逆、蟲の妖怪に圧倒される花の妖怪になってしまっている。何がなんだか、もうわからない。
「あな、た、い、いった、い」
尋ねると、リグルはがっと噛み付くように顔を近付けてきて、これまで見せた事のない不気味でおぞましい笑顔を見せ付けてきた。
「ねぇ、どんなに気持ちなの? 今まで散々苛めてきた相手に壊れされる気持ちって、どんなの? どんなのなの?」
まるでこちらの話を聞いていない。というよりもこちらの声が聞こえていなくて、一方的に話したい気持ちになっているらしい。声が届いていない事と、リグルの罵声による悔しさと憎悪で顔が歪むと、リグルは嘲笑するように言った。
「あは、悔しいの? 悔しいんだよね? 悔しいならやり返してみせてよ。いつもみたいに、わたしを傷だらけにしてごらんよ!」
全くもってリグルが言う気持ちだった。今、やり返すだけの力がある……いつも通りの調子だったなら、リグルにやり返している。全身を痣だらけに、傷だらけにして、もう容赦を捨てて殺していたかもしれない。しかし今は動くどころか、呼吸をしているだけで精一杯で、何も出来ずに、目の前の蟲の妖怪に嘲笑されるがままだ。いつもの威勢は、威圧は、力はどうしたと思うと、涙が出そうになる。
そんな気持ちを察したのか、リグルは顔を遠ざけて、ふふんと鼻を鳴らした。
「懲りたんなら、もう邪魔するんじゃないわよ。懐夢とは、誰にも邪魔させないんだから」
そう言って、リグルは地面を蹴りあげて宙へ舞い上がり、幽香を数秒見下した後に幻想郷の空へ消えていった。ほぼ永続的に痛み続ける身体をなんとか動かして、幽香は立ち上がり、博麗神社の方角へ顔を向けた。
リグルは自分よりも強い力を持つ凶悪な存在と化している。そして昨日の様子を見る限り、リグルは懐夢が好きだ。今のリグルが懐夢に接触したら、懐夢はリグルに襲いかかられてしまうかもしれない。
「早く、伝えないと……!」
*
こちらは博麗神社。博麗神社の居間には現在、霊紗と慧音、魔理沙、アリスが来ており、いつもよりも賑わっていた。天志廼の霊紗、寺子屋の慧音、見ず知らずの霊華がいる事に若干興奮した魔理沙によって、良い雰囲気が漂っていると言った方が正しいのかもしれない。
「しかしまぁ、霊紗が博麗神社に現れるなんてな」
魔理沙の言葉に、霊紗が答える。
「あぁ。霊夢と懐夢の様子が気になってな。天志廼から遥々赴かせてもらったよ。二人とも元気そうで何よりだ」
霊夢が隣に座っている懐夢の頭をぽん、ぽんと軽く叩く。
「私も懐夢もこの通り元気よ。近頃は新しい同居人のおかげで調子がいいわ」
霊夢の隣に座る白い服の少女、霊華に注目が集まり、アリスが声をかける。
「霊華、だっけ。自分の姓名が思い出せないくらいの、記憶喪失だそうね」
霊華は頷く。
「そうなの。自分の名前くらいしか覚えてなくて……どこに住んでたとか、何をしてたとか、何もわからなくて」
慧音が腕組をする。
「彼女は人間の里の住民ではない。周辺の村の民でも、ない」
霊華がうんうんと頷く。
「住むところもわからないから、霊夢と懐夢が住まう博麗神社に衣食住させてもらっているというわけか」
霊華が頷くと、懐夢が割り込むように言った。
「でも霊華さん、料理だけは覚えてるみたいで、ぼく達に料理を作ってくれるんです。すごく美味しいですよ、霊華さんの料理は」
魔理沙が目を輝かせる。
「マジか、それ!」
霊夢が自信満々な様子で頷く。
「マジよ。霊華が博麗神社に住む条件が、私達の三食を毎日作る、だからね。霊華の料理の腕は本当に秀逸だわ」
懐夢がにっこりと笑う。
「霊華さんの料理はとても美味しいです。昨日の夕ご飯のタレ焼き鳥も、すっごく美味しかったですよ」
魔理沙が驚いたような顔になって、霊華に問う。
「焼き鳥すらそんなに美味しく出来るのか!?」
霊華は魔理沙の声に驚いたような反応をした後に、頷く。
「えぇ。この神社の調理設備がすごくいいの。だからどんな料理でも美味しく作れるわ」
直後、霊華は少し俯いた。
「でも何で料理が出来るのかまではわからないの。それ以上の記憶が全く思い出せないから」
霊華を近くでじっと見つめていた霊紗が口を開いた。
「しかし……君はもしかしたら博麗に所縁のある人物かもしれないぞ」
一同の注目が霊紗に集まる。霊紗は霊華の服の袖を引きながら、説明を始めた。
「まず霊華の服装だ。霊華の服は我々博麗の巫女のそれと非常によく似通っている。形も、材質もだ。このような服を手に入れるのは、簡単な話ではないよ」
霊夢が首を傾げる。
「えぇっ、私の着てる服って、手に入れるのが難しい服なの?」
霊紗は頷く。博麗の巫女の服は実は純粋な絹と純粋な麻を組み合わせた特殊な繊維で作られており、製造方法は博麗の巫女とその関係者、そして天志廼の民だけが知っている特別なものだ。だから、人間の里の街などで作る事は難しい。万一真似できたとしても、服を着ている博麗の巫女から見れば、一瞬で別物であるとわかる。
「君はその服を着心地がいい服だと思った事はあるか」
「ある。今はもうこの服じゃないと落ち着かない有様だわ」
「そうだろう。その着心地こそが、我々博麗の巫女が着る服の特徴なのだ。霊華の服は、我々が着る服と同じ材質で出来ている。恐らく製造方法も同じだろう」
アリスが顎に手を添える。
「何で霊華が貴方達の服を着ているのよ。それに霊夢と同じリボンを付けてるし」
霊夢は首を横に振った。
「霊華のリボンは私があげたものよ。料理の時に邪魔にならないように」
アリスは「そうなの」と言った後に、霊華に視線を戻した。
霊紗が霊華の服から手を離して、腕組みをする。
「霊華……君は多分、博麗の巫女の関係者だ。私が今まで知らなかった、な」
霊華が眉を寄せる。
「私は……博麗の巫女の関係者……全然思い出せない」
霊紗が困ったような顔のなる。
「そうだろうな。第一、君が何故記憶喪失になってしまったのか定かではないからな。じっくり探していく他あるまい」
その時、霊夢は閃いた。霊華が博麗の巫女の関係者であるならば、同じ関係者である紫が知っているはずだ。紫に尋ねれば、霊華が何者なのか、わかるかもしれない。今度、紫に尋ねてみよう。
そう思った直後、慧音が溜め息を吐いた。
「今日は家庭訪問のつもりで来たのだが、こんなに人が集まっているとはな」
霊夢が首を傾げる。
「家庭訪問? あんた、家庭訪問で神社に来たわけ?」
「そうだよ。学童の家庭を知る事は、教師にとって大事な事だからな。だが、まさかこんなに神社に人が集まっているとは思ってもみなかったよ」
魔理沙が恐る恐る慧音に問うた。
「もしかして、邪魔しちまってる?」
慧音は首を横に振った。
「いや。霊夢とは再三話しているから、家庭状況は聞かなくてもわかる」
慧音は懐夢と霊夢を交互に見つめて、微笑む。
「穏やかに二人で生活。その後変わりなし、だろう」
霊夢は頷いたが、懐夢は霊華に目を向けた。
「今は霊華さんが加わりましたから、三人暮らしです」
慧音は「そうだったな」と言って、苦笑いした。直後に、アリスが霊華に声をかけた。
「ねぇ霊華だっけ。貴方、料理が得意だって言ってたけれど、洋食とか作れたりする?」
霊華は頷いた。
「調理方法がわかれば作れると思う。でも今のところ覚えている料理は和食だけで、洋食は作った事がないの」
魔理沙が目を輝かせて霊華に尋ねる。
「なぁなぁ、今から料理ってできないのか? 私、あんたの料理を食べてみたいぜ」
霊夢が呆れた様子で言う。
「残念だったわね。朝食が終わったばっかりだし、昼食まで時間があるから、作れないわ」
魔理沙が「そんな」と言ってしょぼくれようとしたその時、霊華が笑んだ。
「そんな事ないわよ霊夢。材料はまだあるから、軽食程度なら作れるわ。あ、なんなら、昨日の夕ご飯の時に作ったタレ焼き鳥、また作ろうかしら」
魔理沙が一瞬で喜びの表情を顔に作る。
「マジか! 頼むぜ!」
霊紗が霊華に声をかける。
「どれ、私も一緒にさせてもらおうかな。同じ料理を作る身としては、参考に出来る部分もあるかもしれないからな」
慧音が「あっ」と言って、霊紗に続く。
「私も一緒にさせてくれ。霊華の絶品料理とやら、私も見てみたい」
アリスが続けて霊華に声をかける。
「私も。私、和食そんなに得意じゃないから、霊華、貴方のを参考にさせて頂戴」
霊華は吃驚したような顔になって、少しだけ後ろに下がる。
「ちょ、ちょっと待ってよ。そんなに大所帯で料理を見られたら、集中できないわ」
その事に関しては、霊夢も懐夢も知っていた。霊華が料理をしている様子を横から眺めた事があるのだが、その時に霊華は「気が散るからやめて」と言って、自分達の事を追い払った。霊華は料理をする時にとても集中するのだ。だからあんなふうに美味しい料理を作れる。霊紗、慧音、アリスの三人が台所に行けば、霊華は混乱して料理どころではなくなるだろう。
「あんた達、霊華が困ってるわ」
「やめなさい」と言おうとしたその時、玄関の方から声と戸を叩く音が居間へ飛び込んできた。居間を少し騒がしくしていた者達は一斉に黙り、居間へ静寂を齎した。かと思えば、その静寂は玄関からの声で打ち払われた。
「懐夢、懐夢いる」
懐夢を呼ぶ声だった。その声色は、昨日も聞いた事があるくらいに、ひどく聞き慣れたものだ。その声に聞き覚えのある慧音は、そっと呟いた。
「この声、リグルか」
流石寺子屋の教師、学童の声も覚えているのかと霊夢は思った。確かにこの声は昨日も聞いた、リグル・ナイトバグの声色だ。昨晩に続いて、また懐夢目当てにやって来たらしい。
「ごめんみんな。ちょっと玄関まで行って来るね」
「待ちなさい。私も行くわ」
懐夢が立ち上がると、それに続くように霊夢も立ち上がった。二人で居間を出て、少しぎしぎしという音が鳴る床板の廊下を歩き、玄関までやってくると、玄関先には、昨日も神社を訪れた蟲の妖怪、リグル・ナイトバグの姿があった。リグルは懐夢の姿を黙認するなり、笑顔になって懐夢へ挨拶した。
「おはよう懐夢」
「おはようリグル。どうかしたの」
リグルはしゅんと縮こまって、頭を少し下げた。
「昨日はごめんね。蟲達の演奏会が途中で終わっちゃって」
「え、いいよ。あれは多分、リグルのせいじゃない。悪いのは大声を出したぼくだよ」
「そんな事ないよ! 懐夢は何も悪くない。だから、そのおわびをしたくて、蟲のみんなに頼んだんだ」
リグルは顔を上げて、ぱあっと表情を明るくした。
「そしたら、昼間でも演奏会を開いてくれるって言ってくれたんだ。だから懐夢、急で悪いけれど、私と一緒に来てくれないかな」
懐夢は隣にいる霊夢に顔を向けた。行ってしまっていいかなという、何かあった時にいつも見せてくる意思表示だ。先程、慧音は家庭訪問にやって来たと言っていた。だから懐夢に聞かれたくない懐夢の事などを話したがっているはず。だから今、懐夢は神社の中にいない方がいいのだろう。霊夢は懐夢の意思表示に頷き、声を出した。
「行ってきなさい。今は慧音が家庭訪問で来てるから、貴方がいない方が話しやすい事とかあるはずよ」
懐夢は「そっか」と言って、リグルの方へ顔を戻した。
「リグル、行こう」
リグルは待ってましたと言わんばかりに笑顔になり、頷いた。
「場所は昨日と同じ場所だよ。さぁ、行こうよ!」
懐夢は元気良く頷き、「行ってきます」と言って靴を履くと、リグルと共に神社から飛び出し、地面を蹴り上げて宙に舞い上がり、幻想郷の空へと飛び立っていった。それを見送った後に霊夢は玄関を後にし、廊下を歩いて居間へ戻った。戻って来て早々、魔理沙が声をかけてきた。
「なにかあったのか」
霊夢は頷き、先程座っていた場所にもう一度座った。
「慧音、あんたの言う通りリグルだったわ。懐夢に見せたいものがあるとか言って、懐夢を連れて行っちゃったわ」
慧音は「ほぅ」と言って、腕組みをした。
「リグルと言えば……」
霊夢は頷き、テーブルに肘をつき、手で両頬を覆った。
「そうよ。今なら懐夢に聞かれたくない懐夢の話とか出来るはずよ。あの話を出来るわ」
アリスが首を傾げて眉を寄せる。
「あの話? あの話って何の事かしら」
魔理沙がアリスに続くように言う。
「私も気になるぜ。何なんだ」
霊夢はふふんと言って、霊華に目を向けた。
「あの話よ。はい、霊華」
霊華は驚いた。
「えぇっ、私に話させるの」
アリスと魔理沙の注目が霊華に集まる。
「ねえ、何の話なの」
「懐夢に聞かれたくない懐夢の話とか言ってたよな。何なんだ、それ」
霊紗が興味津々な様子で霊華に声をかける。
「彼の師として私も気になるぞ。何の話だ」
霊華は溜息を吐き、言い辛そうに言った。
「懐夢、あのリグルって子に恋されてるの」
アリス、魔理沙、霊紗の三人はきょとんとして、そのうちの魔理沙が霊夢と霊華を交互に見つめた。
「へ、懐夢がリグルに恋されてる?」
アリスが霊華に尋ねる。
「って事は何よ、リグルは懐夢に恋をしてるっていうの?」
霊華ではなく、慧音がそれに答えた。
「そういう事だ。リグルは懐夢に恋愛感情を抱いている。間違いないよ」
アリスと魔理沙は大声を上げて驚いた。その最中、霊紗は驚愕したような顔をして静かに言った。
「驚いたな……懐夢が恋をしていたとは」
「違う違う。恋をしてるのはリグルよ」
霊紗は「そうか」と言って口を閉じた。直後に、魔理沙が顔をにやにやとさせた。
「って事は何だ、懐夢には本日お日柄もよくまことにおめでとうございますって言わなきゃいけないのか」
アリスが霊夢に問う。
「ところで、その事を懐夢は知っているの?」
霊夢は首を横に振った。鈍感なのか、リグルがその様子を余程見せないようにしているのか、懐夢はリグルに恋されている事には気付いていない。
「知らないみたい。懐夢はリグルの恋には無自覚のようよ」
アリスと魔理沙は「えぇー!」と声を上げた。
魔理沙が怒ったように言う。
「鈍感すぎるだろ! 恋する乙女に気付かないなんて!」
アリスが腕組みをする。
「全く持ってその通りだわ。懐夢はリグルの好意を知らなきゃいけないわ!」
慧音が二人に制止をかける。
「まぁ待て。懐夢はまだそういう事を知らないのだ。だから彼がそういう事を知った時、初めてリグルの気持ちに気付くのだろう。しばらくは、様子見だ」
魔理沙とアリスはむすっと鼻から溜息をした。
その最中、霊夢は胸の中で妙な気持ちが渦巻くのを感じていた。リグルは懐夢が好き。リグルは蟲の妖怪ではあるけれど、心優しい子であるし、とくにこれといって問題を抱えているような娘でもないから、安心出来る相手だ。懐夢の事だから、きっとそんなリグルを好きになる。これは男女として当たり前の事なのに、そんな事を、認めたくはない。リグルに懐夢を渡したくない。懐夢には、ずっと博麗神社にいてもらいたい。離れて行ってほしくない。……そんな気持ちが胸の中で渦を巻いている。自分には懐夢を束縛する権利なんかない。懐夢を神社に縫い留めておく権利なんかないはずなのに。
(なんで……)
胸に手を当てて、自分へ問を掛けようとしたその時、玄関からもう一度音が聞こえてきて、霊夢はハッと我に返った。どうやらリグルに続いて客がやって来たらしい。
玄関からの音は居間にいる全員の耳に届いたらしく、そのうちの一人である霊華が玄関の方へ顔を向けた。
「また、お客さん?」
今日はよく客人の来る日だなと思いながら霊夢は立ち上がり、先程と同じ道を通って玄関へ赴いた。そして玄関先で待っていた者を見るなり、顔を真っ青にして驚いた。玄関先にいたのは、口や頭から血を流し、緑色の髪の毛を真っ赤に染め、血だらけでぼろぼろの服を身に纏い、右腕があらぬ方向に曲がっていて、血塗れの左手で右肩を抑えて、千鳥足で立ち、玄関先の床に血を滴らせている花の妖怪、風見幽香だった。あまりに尋常でない幽香の姿に霊夢は悲鳴をあげそうになったが、何とかそれを呑み込んで、幽香に声をかけた。
「ど、どうしたのよ幽香!」
幽香は顔を上げて、か細い声で言った。
「れ、れいむ、た……たいへ……ん……」
そう言って、幽香はその場に倒れ込んだ。霊夢は吃驚して、靴も履かずに玄関先へと飛び出して、幽香の傍まで近付いた。
見ただけで出血がひどいのがわかる。ここまで来るのに、相当な血を流したようだ。一刻も早く治療しないと、命に係わる状態だ。そう思うと、霊夢は声を荒げて、居間の方へ叫んだ。
「み、みんな! 早くこっちに来て頂戴!!」
霊夢の声は居間へと吸い込まれるようにして消えて行った。それからすぐ後に、居間に集っていた者達が一斉に玄関先へとやってきて、「何事だ」と言おうとしたが、すぐに言葉を切った。
そのうち、魔理沙と慧音が声を荒げて叫ぶように言った。
「か、風見幽香じゃないか!」
「な、なんなのだ、これは!」
霊夢は一同に怒鳴った。
「無駄口叩いてないで、治療するわよ! 回復術使える人は私と一緒に幽香を治療して!」
霊夢の指名にはアリスが名乗り出た。
「私なら回復術を使えるわ。どのくらいまでいけるかどうかわからないけれど……」
アリスはどこか不安そうな顔をしていたが、霊夢もまた同じような顔になりたい気持ちだった。幽香は見ての通り酷い状態だが、見ただけではどこを損傷しているのかわからない。口から血が出ているが、口の中が切れて出た血なのか、吐血によって出た血なのか、わからない。頭からの出血も切り傷によるものなのか、擦り傷によるものなのか……。
どうすればいいか、どこまでの強さの術をかければいいか迷ったその時、霊紗が静かに歩み寄ってきて腰を落とし、幽香の身体に触れ始めた。
霊夢は驚いて、霊紗に声をかけた。
「れ、霊紗」
霊紗は幽香の身体のあちこちを静かに触っていたが、徐々に表情を険しくして、やがて呟くように言った。
「右腕が複雑骨折、肋骨が三本ほど骨折、肝臓と胃が破裂して出血、頭に重い切り傷を負っている」
霊紗の呟いたのは損傷した個所だった。触っただけでわかるのかと霊夢が言おうとしたその時、霊紗は顔を上げて霊夢に言った。
「ひどい状態だ。きっと君達が力を合わせて回復術を使ったところで焼け石に水だろう」
「だけど、このまま放っておいたら……」
「放っておくなど誰が言った。霊夢、手を貸せ。私と君で、回復術を放つ。二人の力があれば、治療できる」
慧音が驚いた様子で霊紗に問う。
「霊紗殿も回復術を?」
霊紗は頷いた。
「これでも元博麗の巫女兼『歴代最強の博麗の巫女』だ。回復術くらい、そこらへんのものより強いのを使える」
霊紗は懐から十数枚、複雑な模様が描かれた札を取り出すと、幽香の身体の損傷個所に素早く貼り付けていった。
全ての札を張り終えるや否、霊紗は霊夢に声をかけた。
「霊夢、私の隣に並べ」
霊夢は頷き、霊紗の隣に並んだ。霊紗は指示を続ける。
「いいか霊夢。私と息を合わせて、「せーの」で一斉に術を唱えろ。君が使用できる回復術と同じ術を唱えればいい」
「そんなので、治せるの。本当に出来るの」
「治せるとも。さぁ、やるぞ」
霊夢は頷き、回復術を発動させる時のように札へ意識を送り、術を発動させる姿勢を取った。同時に、隣の霊紗が同じ姿勢を取り、すぅと息を吸い込む。
「いくぞ霊夢。せーの」
「活ッ!!」
いつもどおりの回復術を唱える時の言葉を、懐夢の師匠であり、かつての博麗の巫女であった霊紗と共に唱えると、霊紗の貼り付けた札は柔らかくて大きな光の珠へと姿を変えて、幽香の身体へ吸い込まれるようにして消えた。直後、血塗れでずたずたになっていた幽香の身体から血が落ち、傷が塞がり、曲がっていた腕も正常なものへと変化。苦痛にゆがんでいた顔も穏やかなものとなって、正常な呼吸の音が聞こえてくるようになった。
「すごい……傷が」
もしも自分一人であったなら、これほどの傷を治療する事は出来なかっただろう。退役したとはいえ、霊紗は博麗の巫女なのだと、霊夢は改めて実感した。
その直後、霊夢は頭に重みを感じた。何だろうと思って霊紗の方へ目を向けてみれば、霊紗がこちらへ手を伸ばし、頭を撫でてくれていた。顔には微笑みが浮かんでいる。
「ほら、出来ただろう」
霊夢は思わず微笑み、うんと頷いた。かと思えば、それまでほとんど何も言葉を発していなかった霊華が、幽香を見ながら言葉を発した。
「みんな、この人!」
一同の視線が一斉に幽香に集まると、幽香は顔を一瞬歪ませて元に戻し、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
目を覚ましたと気付いた魔理沙が、幽香に声をかける。
「幽香!」
幽香は声を発した魔理沙の方へ目を向け、小さく口を動かした。
「貴方は……魔理沙……」
霊夢が続けて幽香に声をかける。
「全く、驚かせてくれるわ、あんたは」
幽香は首を動かして、霊夢へ目を向ける。
「それに……霊夢……」
直後、幽香はゆっくりと身体を起こし、片手で頭を抱えた。
「何が……あったのかしら」
慧音が幽香に事情を説明する。
「お前、血だらけでここに倒れていたんだよ。霊夢とそこの霊紗がお前を治療したんだ」
幽香は霊夢と霊紗を交互に見て溜息を吐き、苦笑いした。
「そっか……私は貴方達に助けられて……」
苦笑いする幽香に、霊夢は問うた。
「ねぇ幽香。何であんな事になってたのよ。あんた、どんな目に遭ったわけ? 戦闘能力じゃ基本的に誰にも負けないあんたがあんなふうになるなんて……」
その次の瞬間、幽香は何かに気付いたような顔になり、辺りを見回して声を荒げた。
「そ、そうだわ! 懐夢、懐夢はどこ!?」
一同は幽香に吃驚し、霊華が幽香に尋ねる。
「懐夢なら今出かけたけれど……」
幽香は霊夢へ顔を向ける。
「霊夢、懐夢のところにリグルは来なかった!?」
「き、来たわ。というか、リグルと一緒に出掛けて行ったんだけど……」
幽香は顔を真っ青にして、恐れを含んだ声で言った。
「拙いわ……懐夢が、懐夢が危ない!!」
霊夢は目を丸くした。
「え?」