早苗は不思議な感覚に捕らわれて、身動きをとれずにいた。身体を液体のような何かが包んでいて、ぷかぷかと浮かんでいるような感覚。まるで、SF映画とかに出てくる大きな試験管の中にいるみたいだった。
頭の中がぼんやりしていて、上手く物事を考えられないうえに、ここがどこなのかを確認することも出来ない。どうやってここに来たのか、ここに来る前はどこにいたのか、何一つ考える事が出来ない。ここは、自分は、何なのだろう。
そう思ったその時に、目の前に映像が流れてきた。いや、頭の中に浮かんできたと言った方が正しいのかもしれない。
火が燃えている。色んなところで、火が燃えている。まるで火事のように、至るところで火がごうごうと燃え盛っている。ここは、火災現場か、山火事の現場かなにかだろうか。そう思ったその時に、早苗はある事に気付いてぎょっとした。
この火災現場は、ただの火災現場ではない。ここは、人間の里の街だ。火が包んで燃やしているものは、街に並び立つ家屋や建物だ。しかも、家屋や建物だけでなく、街に住まう人や妖怪も炎に包まれて燃やされている。普段何気なく暮らしている人々や妖怪が火災に巻き込まれ、燃え盛る火炎に飲み込まれ、死んでいく様を見て、早苗は目を逸らそうとしたが、いくら目を逸らそう、瞑ろうとしても地獄絵図は消えなかった。
一体誰がこんな事をーーその時、早苗は身体から燃え盛る火球が発射されたのが見えて、唖然としてしまった。発射された火球が街の奥で大爆発し、辺り一面を炎の海に変えた光景で早苗は我に帰り、同時に街に火を放っているのが自分であることに気付いた。
違う。私はこんな事がしたいんじゃない。誰も殺したくない。何も壊したくない。そう思っても身体は止まらず、火球を放って辺りを燃やし尽くしていく。どんなに身体に力を込めても、止めようと足掻いても、身体は独りでに動いて、独りでに暴れ狂う。
壊れる――暴れ狂う身体が街を破壊する。
殺される――身体が放つ火球に人も妖怪も死に行く。
もう嫌だ――身体は言う事を聞かない。
助けて――誰も助けに来ない。自分がみんな嫌いだと思ってるせいで、みんなもまた自分を嫌ってしまった。
こんな時はどうしたものだろう。そういえば、前にもこんなふうに私一人じゃどうにもならなくなって、もう駄目だって思った事あったっけ。その時は、そうだ、その時は神獣様が助けてくれたんだ。神獣様はいつだって私の味方でいてくれて、私のお父様みたいな人だったっけ。だから、いつでも助けてくれた。
でも、もう駄目だ。神獣様がこんなよくわからないところまで来れるわけない。それに神獣様は私に全然会いに来なかった。ーー多分、神獣様は私が嫌いになったんだ。私、嫌な娘だもん。駄目な娘だもん。神獣様もきっと、私と一緒に過ごしてそれがわかって、私が嫌になったんだ。
でも駄目だ。もう私じゃどうする事も出来ない。こんなの止めたいけど止められない。
ごめんなさい神獣様。私は嫌な娘です。駄目な娘です。だからこんな事、一人じゃどうにもなりません。私が嫌いでも、顔を見ることすら嫌になったとしても、お願いです。一度だけ、一度だけでいいから、
「助けて神獣様――――――ッ!!」
「早苗――――――――ッ!!!」
*
霊夢は言葉が出なくなるくらいに驚いた。紗琉雫の身体が激しい閃光を放ったかと思えば、紗琉雫は自分達の目の前から姿を消した。しかしそれと入れ替わるように、紗琉雫のいた場所には、白金色の毛皮に身を包み、人の髪の毛のような性質の、空色の鬣を頭の周囲に生やし、背中から猛禽類のそれのような白銀に輝く翼を六つ生やし、首の周囲から空色の透き通った羽衣のような器官を生やす、全長十五メートルはあろう巨大な狼が姿を表していた。周囲に揺らめく炎で毛を赤く染める狼を見るなり、霊夢は呟くようにその名を口にした。
「神……獣……」
神獣。外の世界にいた時から早苗を子のように思い、可愛がって育てたという神の獣。幻想郷に早苗が来てからは、早苗に危機が襲いかかったときに、早苗の元へ現れ、天候を自由自在に操る力を持つうえに、とんでもない戦闘能力を持つが、詳しい事がほとんどわかっていない神。
それが今、先程まで紗琉雫がいた場所に現れている。まるで紗琉雫と入れ替わったか、紗琉雫が姿を変えたように。
突如として現れた神獣に驚いていると、隣に懐夢が飛んできて、声をかけて来た。
「なんで、なんで神獣が!?」
霊夢は懐夢の言葉に答えず、紗琉雫と腐れ縁であると言っていた神奈子と諏訪子に視線を向けた。二人は神獣の姿を見ながら驚いていたが、やがて神奈子が苦虫を噛み潰したような顔になった。
「紗琉雫の奴、ついにやりやがった!」
霊夢は神獣を見直した。やはり、紗琉雫が何かをしたらしい。先程までいたはずの紗琉雫がいなくなり、代わりに神獣が現れているこの状況からは、紗琉雫が神獣に姿を変えたようにしか思えない。神奈子が言う紗琉雫がついにやりやがったとは、これなのか。
そう思った瞬間、神獣は目の前の<嫉妬の<
霊夢達が「神獣の攻撃が来る!」とそれぞれの心の中で呟いたすぐ後に、神獣はかっと口を開き、口内に滾る青白い稲妻を雷球として発射。雷球の接近に驚いた<嫉妬の<
「すごい、一撃であいつを……!」
<嫉妬の<
「霊夢、助けよう! このままじゃ神獣が」
霊夢も同じ気持ちだった。<嫉妬の<
そう思うや否、霊夢は懐夢へ目を向けて答えた。
「わかってる。私は夢想封印を仕掛けるから、貴方は夢想封槍を」
そう言った瞬間、<嫉妬の<
その時に、霊夢は神獣の口元に視線を向けて気付いた。黒く染まった神獣の口元に、<嫉妬の<
「あれは……早苗!」
<
早苗を失った<嫉妬の<
「ま、<
それを霊夢と懐夢の背後で見ていた神奈子と諏訪子は、神獣の口元に銜えられている早苗を見るなり、悲鳴を上げるように叫んで、神獣の元へと飛び込んだ。
「早苗!!」
神獣は神奈子と諏訪子の方へ数秒程度目を向けた後に、ゆっくりと姿勢を低くして、静かに早苗の身体を地面に横たわらせた。その後に、神獣は辺り一面の燃え盛る炎に視線を向け、更に顔を上に突き上げて、指笛のような甲高い声で咆哮した。次の瞬間、街の上空に分厚い雲が出現し、滝のような雨が炎の海に降り始め、神奈子と諏訪子はその場に立ち止り、霊夢と懐夢は悲鳴のような声を上げた。
「ちょっと、いきなり大雨!?」
神獣には気象を操る力がある。こんなふうに局地的な大雨を降らせる事など、容易い。
神獣は雨に身体を濡らしながらも、空へ祈るように咆哮し続けた。雨脚はどんどん強くなり、槍や矢のように降り注ぐ雨は、街を包み込む炎を瞬き間に消していく。やがて、街を覆っていた大火は完全に消え去り、大火が燃え盛っていた場所には木炭のようになった崩れた家屋が残されただけとなった。街の大火が完全に消し止められた事を察したのか、神獣は更にもう一度空へと咆哮した。神獣の声に応えた空は、雲を遠のかせて滝のような大雨を止め、満月になりかけた月と星空を映し出した。
雨が止んだ事を察すると、神奈子と諏訪子は再度神獣の元へと飛び、その足元に倒れている早苗の元へと駆けつけた。一糸纏わず、全ての肌を露出させている早苗の身体は、まるで血の気が抜けてしまったかのように青白く染まっていた。生気を感じさせてくれない、冷たくなった早苗の裸身を、神奈子は抱き上げて、揺すった。
「早苗、早苗!!」
早苗は何も反応を示さない。それは霊夢と懐夢が駆け付けた事でも変わらなかった。
早苗の肩に触れて、諏訪子が顔を青白くする。
「ひどい……冷たいよ早苗の身体」
霊夢が一つ提案をした。
「ここは寒いわ。ひとまず身体を温められる場所……博麗神社に早苗を運びましょう。大分衰弱してるみたいに見えるし」
神奈子が頷く。
「そうだな……ひとまず、博麗神社に世話になった方がよさそうだ」
霊夢は横でじっと早苗の事を見つめて悲しそうな表情を浮かべている神獣に目を向けた。
「博麗神社に行くわよ。あんたも来なさい、
神獣は一瞬驚いたような表情を浮かべた後に頷き、立ち上がった。
*
一同は博麗神社に戻り、早苗を寝室に寝かせた。何も着ていなかった早苗の身体には霊夢が着用している寝間着の予備が着せられ、ずぶ濡れになった神奈子と諏訪子にはそれぞれ大きさが違う予備の寝間着を貸し出し、霊夢と懐夢はそれまで来ていた服を選択に出し、明日の分の服を早めに着用する事にした。早苗の身体は徐々に熱を取り戻し、僅か十数分程度で健康そうな色を取り戻したが、意識は全く戻ってくる気配を見せてはくれなかった。それまでに、霊夢は神奈子と諏訪子、そして紗琉雫に<
意識を取り戻さない早苗に、諏訪子が心配そうな表情を浮かべる。
「早苗、大丈夫なの」
霊夢は頷いた。早苗は意識がないだけで呼吸をしているし、体温も通常時と同じくらいに戻ってきている。なので大丈夫と言えば大丈夫なのだが、やはり意識がなかなか戻ってこないから何とも言い難い。
「大丈夫なはずなんだけど……」
神奈子が悔しそうな苦い表情を顔に浮かべて、自らの髪の毛をぐっと掴んだ。
「私達は」
霊夢と懐夢は神奈子へ目を向けた。
神奈子は続ける。
「私達は、親も友達もいない早苗を一人ぼっちにさせないように、ずっと一緒に過ごしてきた。だけど、私達は何一つ早苗の事を理解しちゃいなかったんだ。早苗を一人ぼっちにさせなかったかもしれないが、早苗の心を一人ぼっちにさせてしまっていたんだ。だから、早苗はあんな事になってしまった」
神奈子は顔を半分、手で覆った。
「だから、目を覚ました早苗に合わせる顔がないよ、私達は」
霊夢は何も言えなかった。早苗が<
「待ってよ。別にあんた達が悪いわけじゃ……」
諏訪子が呟くように言う。
「じゃあ、どうして早苗はこんな事になったの。誰が悪くて、こんな事になったの」
霊夢は再度言葉を詰まらせたが、霊夢の代わりにと言わんばかりに、懐夢が口を開いた。
「誰も悪くありません。早苗さんも、神奈子さんも、諏訪子さんも、紗琉雫さんも、誰も悪くないはずです。悪いのは、この幻想郷に起きてる異変そのものです。この異変さえなければ、早苗さんがあんなふうになる事だってなかったはずだから」
一同の注目が懐夢に集まる。
「早苗さんも、<
懐夢が口を閉じると、沈黙が部屋を覆ったが、それを神奈子が破るように懐夢に言った。
「そう、坊ちゃんは思うのかい」
懐夢は頷いた。
「そう、思います」
神奈子は少しだけ表情を穏やかにした。
「……そうかい。そう言ってもらえると、少しは気が楽になったような気がするよ」
諏訪子もまた頷いて、表情を穏やかにした。
「ありがとうね、懐夢」
懐夢は何も言わずに、表情を変えずにただ早苗の事を見ていた。しかし、突如として懐夢は驚いたような表情を浮かべた。
「み、みんな、早苗さんが!」
一同は一斉に早苗に目を向けた。早苗はいつの間にか薄らと目を開けて、天井を見ていた。ようやく意識を取り戻した早苗に感動したように、神奈子が早苗に声をかける。
「早苗っ!」
早苗は瞳をゆっくりと動かして、神奈子の顔をそこに映した。早苗の瞳には、元の色と光が戻って来ていた。
「……神奈子……様……」
「あぁ、あぁ! 私だ、神奈子だよ早苗」
神奈子の隣にいる諏訪子が、瞳に涙を浮かべる。
「早苗……早苗! 私がわかる?」
早苗はもう一度ゆっくりと瞳を動かし、諏訪子の姿をその中に映した。
「……諏訪子様」
早苗の呼び声に、諏訪子は瞳に溜めていた涙を頬へと零し、やがて顔を袖で覆った。
「よかった……一時は……どうなるかって……」
早苗は目を神奈子へ戻し、力なく声を出した。
「ここは……どこですか……」
「ここは博麗神社だ。お前は<
神奈子は早苗の身体に手を伸ばし、その身体をゆっくりと起こさせた。
早苗は頭を片手で抱えて、少し苦しそうな顔をした。
「私は……一体……」
「<
早苗はハッと顔を上げた。
「私が……<
直後、早苗は今までやった事の映像の全てが頭の中で再生されたような気がして、唖然とした。自分は霊夢に罵声を浴びせて首を絞めて殺そうとし、駆け付けた神奈子と諏訪子にも罵声を浴びせて、更に火球を放って街を火の海へと変えて、罪のない人々や妖怪達を次々と惨殺した。目を閉じればその映像がより鮮明なものとなり、耳を塞げば、外の音が聞こえなくなる代わりに、その時音や声が聞こえてくる。早苗は頭を両手で押さえつけて、叫んだ。
「嫌ぁぁぁッ!!」
突然叫ぶ早苗に霊夢達は驚き、咄嗟に神奈子が早苗の肩を掴む。
「早苗!!」
早苗は構わず叫び散らす。
「違う、違う! 私はそんな事をしたかったんじゃない! そんなつもりじゃ、そんなつもりじゃなかったのぉ!!」
「落ちつけ早苗! 悪いのはお前じゃないんだ! お前は、<
「違う、違うのぉ!!」
神奈子は早苗の顔を掴み、自分の方へ向かせた後に、大声で怒鳴った。
「聞け、早苗!!!」
早苗は叫ぶのをやめて、黙り込んだ。神奈子は早苗を抱き締めて、静かに言った。
「……霊夢から聞いた。<
お前が<
神奈子は早苗に小さく尋ねた。
「早苗、教えてくれ。お前は辛かったんだよな。辛かったから、あんなふうになってしまったんだよな」
早苗は何も言わずに黙り込んでいたが、やがて神奈子の言葉に答えた。
「……辛かった、です」
「それを、話してくれるか。それとも、話したくないか」
話したくない。いつもならばこう考えて、神奈子の頼みを断っていただろう。でもなぜか、今はすんなりと話せるような気がした。神奈子と諏訪子、そして霊夢と懐夢に全てを打ち明ける気が、する。
「……私は、一人ぼっちでした」