「お父様とお母様、そしてお婆様を失ってから、神奈子様と、諏訪子様と一緒にいても、私の心はいつも一人ぼっちでした。本当は、神奈子様と諏訪子様とも仲良くしたかったんです。でも、表面上はそういう事が出来ても、心の底からお二人を、その他の皆さんを信じる事が出来なかったんです。でも、幻想郷に来ればそういう気持ちはなくなって、普通に色んな人と仲良くなれると思っておりました。
でも、その気持ちは変わりませんでした。幻想郷に来ても、私の心は勝手に回りが私を仲間外れにしているって思い込んでしまって、どうにもなりませんでした。神奈子様や諏訪子様と仲良くするどころか、より二人を拒絶して、私の日常をただの苦痛に変えていきました」
早苗はいったん言葉を区切った。
諏訪子が驚いたような顔になる。
「早苗、そんなふうに……」
早苗は続けた。
「神社の経営は最高でした。信仰者も参拝客も沢山集まってくださいましたから、守矢神社は安泰でした。でもそこに集まる人々を、私は一人も信じる事が出来ませんでした。
そんな時に、懐夢さんと一緒に暮らして、幸せそうにしている霊夢さんを見つけたんです」
懐夢が首を傾げる。
「ぼく達、ですか」
早苗は頷いた。
「私は霊夢さんが不思議でした。だって霊夢さんの経営している博麗神社は参拝客もいなければ信仰者もいない、経営がたがたのおんぼろ神社。なのに、そこで暮らしている霊夢さんは私よりも何倍も幸せそうな顔をしているんですから」
霊夢は眉を寄せた。確かにここ博麗神社は参拝客も信仰者も賽銭もない、妖怪退治や異変の解決で経営が成り立っている、がたがたのオンボロ神社だ。酷い言われようだが、否定できない。
「私が、幸せそうにしてる?」
「そうです。おんぼろ神社の霊夢さんの方が、私よりも幸せそうに暮らしている。……それが、許せなかったんです」
「許せなかった……?」
「はい。そしたら、私の目の前にもう一人の私が姿を現して、私と一つになろうと語りかけて来たんです。
私と一人になって、霊夢さんを殺して、私が幻想郷の巫女になろうって」
霊夢は驚いた。あるときもう一人の自分が目の前に姿を現した――リグルの時と同じだ。
早苗は続けた。
「私はそれを拒みませんでした。そしてそのまま、私はもう一人の私と一つになりました。
その後の事はよく覚えていませんが……霊夢さんを殺そうとして、神奈子様や諏訪子様に罵声を浴びせて、街に火を放った事だけは鮮明に覚えています」
早苗は神奈子の胸元で拳を握った。
「全ては私のせいです。私が一人ぼっちだったから……一人ぼっちだと思い込んでいたから、私は<
霊夢さんにした事も、神奈子様や諏訪子様に行った事も、街の人々を大勢殺した事も、全部私のせいです」
やがて早苗は神奈子の胸に顔を押し当てながら泣き始めた。一同はしばらく黙っていたが、やがて神奈子が口を開いた。
「なんでかな」
早苗は顔を上げた。
神奈子は目に涙を浮かべながら険しい表情を浮かべた。
「なんでこんなになるまで、私達は早苗の事に気付かなかったんだ」
神奈子はより強く、深く、早苗の身体を抱き締めた。
「ごめんな……ごめんな早苗。私達は、お前の事を思ってるつもりだった。でも実際は早苗の事を欠片も理解しちゃいなかったんだ。全部、私達のせいだ」
神奈子の瞳から涙が零れ、早苗の頬に落ちた。その涙の温かさに驚く早苗の身体を、神奈子は痛みが生じるくらいに抱き締めた。
「今まで誰にも理解されないで、一人ぼっちになってて、<
神奈子の抱き締める力は強くて、腕の当たっている部分が少し痛いし、生きも少し苦しい。だけど早苗はそれらが気にならず、神奈子の温もりだけしか感じる事が出来なかった。神奈子の言葉に答えを返そうと、口を開こうとしたその時、早苗は背中にも神奈子と同じ温もりがある事に気付いた。少し振り向いてみれば、そこには諏訪子の腕があった。いつの間にか、諏訪子が背中に抱き付いてきていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい早苗……私が、私達が無能だったばっかりに……早苗を一人で苦しませる事になってしまって……全部早苗に抱え込ませて……巫女の気持ちひとつすらできなかった私達は、守矢の神失格だ……!」
その時、早苗は驚いた。こうやって神奈子と諏訪子に抱かれるのは初めてではない。だけど、二人に抱き締められて温もりを感じたのはこれが初めてだった。これまで神達は冷たい物なのだと思っていた。しかし本当は、この二人はこんなにも暖かった。こんなにも、心が温かい神達だった。
自分が一人ぼっちになったのは神達のせいだと思っていた。でも違った。自分は勝手に一人ぼっちであると考え込んでいただけで、一人ぼっちなんかじゃなかった。いつもそばにいてくれた神達は、ずっと、ずっと、自分の事を第一に思ってくれていた。ずっと、自分の事を考えてくれていた。それに、自分はずっと気が付かずにいた。
そう思った瞬間、目の前がぐにゃりと歪み、頬に温かいような、冷たいようなものが落ちたのを感じた。――いつの間にか、涙があふれて止まらなくなっていた。
「私こそ……私こそごめんなさい、神奈子様、諏訪子様! 私は、私は、お二人の気持ちに気が付かなかった……勝手に一人ぼっちだと思い込んでいました……」
神奈子は首を横に振った。
「そう思い込ませたのは私達だ。だから早苗、一つ、頼みがある」
早苗は顔を上げた。
神奈子は続けた。
「私達は、今まで早苗を苦しませた償いをしたい。お前の家族として、一緒に、守矢神社で暮らしていきたい。お前が、大人になって、年老いて、寿命をまっとうするまで、お前と共にありたい。それが私達に出来る唯一の償いだ」
諏訪子が涙声で早苗に声をかける。
「私達にはそれしかできない。それでも許してくれる、早苗」
二人の言葉に、これまで募っていた不満が全て消え去り、この二人と暮らしていきたいと言う感情が一気に高まったのを感じた。
もう、この二人と一緒にいたくないなんて思わない。
もう一人ぼっちじゃない。
この二人と一緒に、守矢神社で、暮らしたい。
「勿論です……一緒に、暮らしましょう。神奈子様、諏訪子様っ……!!!」
早苗は神奈子の胸に顔を押し当てて、大きな声を出して泣き始めた。それこそ、これまで生きてきた中でも出した事のないくらいに大きな声で、早苗は泣いた。その様子を、霊夢と懐夢は黙って見つめていたが、どちらの顔にも微笑みが浮かんでいた。
しかしその最中、霊夢はある事に気付き、早苗の声が小さくなった機会を伺って、早苗に声をかけた。
「まだ、数人あんたに謝ってない人がいるわ」
早苗は振り返り、霊夢と目を合わせた後に首を傾げた。
「え、誰ですか」
霊夢は中庭の方を指差した。
「まず一人目……外であんたを待っているわ。会いに行ってやったら」
霊夢は続けて、神奈子と諏訪子の二人に声をかける。
「神奈子に諏訪子。あんた達はここに残りなさい。外に出るのは早苗だけで」
二人は頷いて、早苗の身体を離した。早苗は立ち上がり、霊夢に尋ねる。
「外のどこにいらっしゃいますか」
「中庭。というか出てすぐのところにいるわ」
早苗は頷き、寝室から縁側へ出たが、そこで驚き、言葉を失った。
中庭にいたのは、神奈子と諏訪子と腐れ縁で、度々守矢神社を訪れていた神、憶礼紗琉雫だった。
「紗琉……雫……様……」
紗琉雫は顔を上げて、その空色の瞳に早苗の姿を映した。
「早苗……」
紗琉雫の呼び声を聞いた瞬間、早苗は頭の中に、守矢神社を出て行く前に紗琉雫にかけた言葉が響き渡ったのを感じた。
――行きたくないって言ってるでしょ!! もう放っておいてよ!!
だいたいなんなのよあんたは! いきなり私が心配だとか言って、いきなり付きまとって来て、
いきなり好きだとか言って来て! 何も知らないくせに勝手なことしないでよ!!
私が一緒にいたいのはあんたみたいな人じゃないッ!! 大嫌いよあんたなんか!!
あの時は確かにそう言ってしまった。でも、冷静に考えてみればあの時紗琉雫は本気で自分の事を心配している顔をしていた。もし、あの時の紗琉雫もまた、神奈子や諏訪子と同じだったとだとすれば……自分は紗琉雫の善意さえも……。
「紗琉雫さ」
言おうとしたその時、紗琉雫は頭を下げた。
「すまなかった、早苗」
いきなり謝られて、早苗はきょとんとした。
「おれは今まで、何も知らないでいた。自分がやってる事も、それが早苗を苦しませていた事も、何も知らないでいた。早苗をここまで追い込んでしまった。おれが本当の事を話してさえいれば、早苗をこんなふうに……」
早苗は少し戸惑いつつも、紗琉雫の言葉を黙って聞いていた。
紗琉雫は言葉を区切り、沈黙に入ったが、すぐにそれを破って口を開いた。
「だからな早苗。おれはもう隠すのをやめる。お前に本当の事を話す」
「本当の事……?」
紗琉雫は頷いた後に静かに目を瞑った。直後、紗琉雫の身体が激しい閃光を放ち始め、早苗は思わず腕で目を覆った。そして閃光が収まり、目の前が見る事が出来るようになった時に、早苗は言葉を失った。
先程までの場所に紗琉雫の姿はなく、数年間ですっかり見慣れた、白金色に輝く毛並みに身を包み、背中から猛禽類のような六枚の大翼を、首元から空色の透き通った羽衣のようなものを生やし、頭に人の頭髪のような、空色の鬣を蓄えた、空色の瞳の、全長十五メートルはありそうな、巨大な狼の姿が代わりにあった。
早苗は口元を両手で覆い、その狼の、呼び慣れた名前を口にしようとしたその時、それは言葉を言い放った。
「早苗、おれが、何に見える?」
狼から聞こえてきた声は、紗琉雫の声と同一のものだった。聞き間違いかと思ったその時に、狼はもう一度静かに言った。
「早苗、おれの姿が、何に見える?」
やはり紗琉雫の声だった。紗琉雫の声で喋るそれの名を、早苗は静かに呼んだ。
「神獣様……」
神獣は静かに頷いた。
「そうだよ。これがおれの本当の姿。お前達人間が神獣って呼ぶ存在が、憶礼紗琉雫の真の姿」
これまで直接言葉を話す事のなかった神獣に、早苗は頭の中が痺れたようになって、じっと神獣の言葉を聞くことしか出来ずにいた。
しかし、冷静に考えたところで神獣と紗琉雫には妙な関連性があった事に早苗は気付いた。紗琉雫がいる時には神獣は現れなかったし、逆に紗琉雫が姿を消している時には神獣がやって来ていた。それこそ、紗琉雫と神獣が交互に入れ替わって来ているように。――紗琉雫と神獣が同時に現れたところは、これまで確認されることはなかった。
「じゃあ、紗琉雫様と神獣様は同一人物……だったって事ですか」
神獣は頷いた。
「そうだよ。おれはずっとお前の前に、紗琉雫と神獣の二つの姿を交互に繰り返して現れていたんだ」
そう言われて、早苗はこれまでの紗琉雫の奇怪だと感じていた点の謎が解き明かされたのをまざまざと感じ取った。紗琉雫は最初から自分の名前を知っていて、毒舌で皮肉屋な性格なのに自分にはそれを言わないで、何かと自分の傍にいようとした。これらの全てに神獣であったからという答えを添えると、どれも納得ができるものとなる。
神獣は会いに来てくれないのではなかった。神獣は、紗琉雫として、自分の傍にいてくれようと、一緒に過ごそうとしてくれていたのだ。そんな事にも、自分は神奈子や諏訪子のように気が付けなかった。
神獣がいつも傍にいてくれていたという嬉しさと、それに気が付けなかった申し訳なさと後悔が心の中を瞬く間に満たし、やがて心の外へと溢れ出して、涙となって身体の外へと出てきた。
「神獣様……紗琉雫様ぁぁぁぁぁぁ!!」
早苗はたまらず靴を履かずに中庭に飛び出し、すっかり慣れ親しんだ神獣の胸元に抱き付いた。雨、太陽、風、雪、雲といったものが混ざりあった空の匂いと、獣臭くも暖かくて優しい匂いを胸いっぱいに吸い込んだ後に、早苗は神獣の毛並みに顔を押し当てながら涙声で言った。
「ずっと、ずっと傍にいてくれてたんですね、初めて出会ったあの時から」
神獣は静かに目を閉じて、再び閃光に身体を包んだ。そして光が晴れると、早苗が抱き付いていたものは紗琉雫へと形が変わっていた。
「本当は、お前が幻想郷に来た時から、お前の傍にいようとしてたんだ。でもなかなかお前と一緒にいれそうな姿にはなれなくて、やっとこの姿になったんだ」
紗琉雫は早苗の身体を深く抱き締めた。
「聞いたよ早苗。お前、おれがいなくなった時に親を亡くして、そのあとすぐに栄恵を亡くして、馬鹿共に苛められながら外の世界を生きてたんだってな」
紗琉雫の声が静かになる。
「そういう時にこそ、おれが守らなきゃいけなかったのに、おれは幻想郷に逃げてお前を外の世界に取り残した。そして、お前は散々な目に遭って傷付いた」
紗琉雫はきつく早苗の身体を抱き締めた。
「ごめんな早苗。あの時おれが一緒にいてやる事が出来たら、こんな事にはならなかったかもしれないのに。あんな事をしちまって、ひどい目に遭わせてしまって、ごめんな早苗……」
紗琉雫は早苗の頭に顔を埋めた。
「肝心な時に一緒にいてやれなくて、寂しい思いをさせてしまって、本当にごめんな」
紗琉雫の思いを聞いて、目の前がさっきよりも歪んで何も見えなくなった。――大粒の涙が溢れ出て止まらない。早苗は嗚咽を混ぜながら、紗琉雫の胸に顔を埋めた。
「私は、私は紗琉雫様に、酷い事を、言い、ました、謝らなけ、れば、いけ、ないのは、私の方です」
紗琉雫は静かに言った。
「お前は、おれの事は嫌いか」
早苗は首を横に振り、上を見上げて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔に笑みを浮かべた。
「逆、です。私は、神獣様が、紗琉雫様が、大好き、です」
紗琉雫は目を一瞬見開くと、すぐに微笑みを浮かべた。そして、手を早苗の頭に当てて、静かに優しく、撫で始めた。
「おれも、お前の事大好きだよ。お前は、おれをずっと助けてくれてた」
「私が、紗琉雫様を?」
「そうだよ。今だから、話すよ」
紗琉雫は神の中でも特殊な性質を持った神だった。普通、神というのは数多くの人々の信仰によってその存在を維持しているのだが、紗琉雫の場合はたった一人信仰者がいるだけで存在を維持できる。だからどんなに信仰者が減ったとしても、信仰者が一人でもいれば、その世界で生きていける。紗琉雫はこの性質を持っているがために、太古から人を助け、人から信仰を集めるという行為を繰り返していたのだった。
しかし、そんな紗琉雫にさえも、神々への信仰の薄れは消滅を齎すもので、紗琉雫が司る気象が科学によって解明されると、紗琉雫への信仰は一気に薄れ、ついにはなくなってしまった。それでも、紗琉雫は他の神と比べて生命力の強い神であったため、他の神達と違って長らく外の世界へ居続ける事が出来た。だが、時が平成に来たところでそれに限界は訪れた。江戸、明治、大正、昭和と跨いできたが、平成になった今、とうとう、幻想郷へ行かなければならない時がやって来たのを紗琉雫は実感した。
紗琉雫は外の世界を気に入っていたために、力尽きる寸前まで、幻想郷へ行かずに外の世界の空を飛ぶ事にしていた。しかし、その飛行は信仰と力を失った紗琉雫には苦痛でしかなかった。翼に力が入らず、自慢の毛が次々と身体から脱落する。力を振るおうとしても力は発動せず、雲を動かす事さえもできないうえに、暴風に煽られて地面へ落ちかける。それでも、紗琉雫は幻想郷へは行かず、外の世界に残って飛び続けた。
そんなある日、分厚い雲の上まで飛び、容赦のない風を浴びていた時だった。力を失って弱り切った身体に突然力が戻った。身体を見てみれば、新しい毛が生え代わり、ぼろぼろになっていた翼も元通りになっていた。紗琉雫にとって力が戻ってきたという事は、紗琉雫を進行する物がこの世界に現れたという事を意味する。紗琉雫はここまで忘れ去られた自分を信仰してくれた人間が気になって、進路を急遽変更し、その人間の元へと向かった。
その人間の気配を追いかけて空を駆け、人間の気配が一気に色濃くなった時に眼下に広がっていたのは、大きくもなければ小さくもない、街だった。
様々な施設と無数の人家で構成される街のただ一つに、自分への信仰心を抱いている人間が住んでいる。紗琉雫はそう感じ取ると、自分を信仰する者の家に近付いて、どうにかそのものの顔が見えないかどうか探った。家には結構な数の窓があって、中を覗く事が出来た。その中の一枚に目を向けたその時に、紗琉雫はこの世界の唯一の信仰者の姿を黙認した。
信仰者は、三歳から四歳くらいだと思われる、翡翠色の髪の毛が特徴的な、小さい少女だった。紗琉雫は信仰者が子供だったことに心底驚き、自分の見間違い、感じ間違いではないかと疑ったが、少女の周りに立っている大人達からは信仰心が感じられない事で、少女が信仰者である事を確信した。
紗琉雫は嬉しさのあまり、少女に会おうと考えたが、それを実行に移すところまでは踏み込めなかった。今まで、信仰者の目の前に姿を現した事は何度かあったのだが、信仰者達はどれも紗琉雫の姿を見るなり、化け物と勘違いして怯え、逃げ出し、信仰をやめてしまう傾向にあった。そのため、紗琉雫は人が好きでも人と会う事は避けるようにしていたのだった。今回もまた、それだった。
しかも相手は三、四歳くらいの少女。そんなのが自分の姿を見たなら泣いて逃げ出すに決まってる。紗琉雫は少女に気付かれない空から、ただ少女の事を見守る事にした。
しかし、それは少女が六歳の時に崩された。ある大雨の日に、学校から自宅へ帰っていた少女に一台の車が突っ込んだ。きっとこの雨でスリップでもしたのだろう。だが車の速度は思ったよりも早く、人を十分に撥ね殺せるだけの力を持っていた。それまで空を飛ぶ事しかしなかった紗琉雫は少女の元へと駆けつけ、迫り来た車から少女を守った。――逃げられてしまうかもしれないが、そんな事はもう紗琉雫は気にしていなかった。
「……その少女はおれから逃げなかった。そしていきなり現れたおれに、礼を言ってくれて、後で名前を教えてくれた。東風谷早苗って」
早苗はきょとんとしていた。
「って事は……紗琉雫様は私が三歳の時、絵本で紗琉雫様の事を知った時からずっと、私の事を……?」
紗琉雫は頷いた。
「あぁそうだ。お前の事を守ろうと考えてたよ。実行に移したのは、お前が六歳の時だったけれどな」
紗琉雫は早苗の髪の毛を撫でるのをやめて、早苗の瞳に顔を映した。
「お前ってば、あんな小っちゃい子供だったのに、今じゃ立派な守矢の巫女。ほんとさ」
紗琉雫は早苗の額に、自らの額を付けた。
「大きくなったな、早苗」
紗琉雫の言葉を受けて、早苗は心と身体の中が一気に温かくなって、また涙が溢れそうになった事を感じ取った。もう泣くもんか――そう思って涙を我慢しようとしたが、その我慢は空しく、瞳から雨のように涙が零れ落ち始めた。早苗は紗琉雫の胸にむしゃぶりつくように顔を埋めて、叫ぶように言った。
「紗琉雫様、紗琉雫様っ……」
早苗は紗琉雫の胸に顔を埋めたまま、更に言った。
「紗琉雫様、この前の話、覚えてますか」
紗琉雫は首を傾げる。
「この前の話?」
早苗は頷き、顔を上げた。
「紗琉雫様への答え、見つかりました。私、紗琉雫様と一緒に暮らしたいです。ずっと一緒にいてくれた紗琉雫様と、もっと一緒にいたいです」
紗琉雫は一瞬きょとんとしたような顔になったが、すぐに笑顔になって、早苗の身体をぎゅっと抱きしめた。
「そうか。わかった。お前の傍にいて、お前を守る力になろう。これからは、お前に嘘を吐かない」
早苗はうんと頷き、紗琉雫の胸に頬を擦り付けた。
その直後、早苗は何かを思い出したような顔になって、紗琉雫に言った。
「そういえば紗琉雫様、どうして紗琉雫様は神獣様である事をずっと隠されていたんですか」
紗琉雫は苦笑いする。
「あぁ、それはだな」
紗琉雫が答えようとしたその時、博麗神社の方から声が聞こえてきた。
「言うな紗琉雫。私が話す」
早苗は振り向いて、声が聞こえてきた方に目を向けた。そこには下駄を履いてこちらに歩いてきている神奈子と諏訪子の姿があった。何やら気難しそうな表情が顔に浮かべられている。
「神奈子様、それに諏訪子様」
「八坂に洩矢、か」
二人はすぐに早苗と紗琉雫の元に着き、神奈子は早苗に目を向けた。早苗は紗琉雫に抱き付くのをやめて、神奈子と目を合わせる。
「私が話すって……何か知っているんですか、神奈子様」
神奈子は頷いた。
「神獣……すなわち紗琉雫に正体を隠せって言ったのは、私と諏訪子なんだ」
早苗が驚く。
「えぇっ! お二方が、紗琉雫様に?」
諏訪子が頷く。
「そうだよ。紗琉雫は今まで私達との約束で、早苗に何も言わないで来たんだよ」
「何故ですか。何故、紗琉雫様にそんな事を」
神奈子は髪の毛を手に絡めた。
「早苗は熱心に神獣の事を信仰していたじゃないか。そして、神獣とすっごく仲良くしてた。でも、神獣は見ての通りの紗琉雫。皮肉屋で毒舌家の紗琉雫だ」
諏訪子が困ったような顔をする。
「神獣の正体が紗琉雫だって知って、早苗がショックを受けるんじゃないかって心配でね。だから紗琉雫に正体を隠させていたんだ。でもまさか、約束は破らないのが信条の紗琉雫が、約束を破って正体を早苗にさらけ出すなんて、思ってもみなかったさ」
紗琉雫が呆れたような顔になった。
「そりゃそうだろ。だってあの時、早苗は本当に危ない状態だったんだぜ。おれが元の姿に戻って戦わなかったら、今頃早苗はどうなっていた事か」
「だからって私達の約束を破っていい理由にはならないよ。おまけにいつの間にか守矢神社に住む事になってるし」
早苗は立ち上がり、神奈子の目の前まで歩いた後に、神奈子を顔を合わせる。
「紗琉雫様と住みたいと言ったのは私です。神奈子様に諏訪子様、どうか紗琉雫様を許していただけないでしょうか」
神奈子が困ったような顔になる。
「早苗……でもねぇ」
早苗は後ろにいる紗琉雫をちらと見た後に、もう一度神奈子と目を合わせる。
「紗琉雫様は根はいい人なんです。今はイザコザしているかもしれませんが、お二方なら、紗琉雫様と仲良くなる事も出来ると思うんです」
諏訪子が驚いたような顔をする。
「私達が紗琉雫と仲良くするぅ!?」
早苗は諏訪子に顔を向けて頷いた。
「そうですよ。腐れ縁というからには、お二方と紗琉雫様は仲良くなれる可能性がちゃんとあるという事です。きっと同じ屋根の下で暮らせば、お互いを認められるようになるはずですよ」
早苗は神奈子と諏訪子の手を取り、一歩後ろに下がって、紗琉雫の手を取った。
「神の皆様、私と一緒に、守矢神社で暮らしてください」
神奈子、諏訪子、紗琉雫の三人は互いに目を合わせ、直後にほぼ同時に溜息を吐き、神奈子が苦笑いしながら言った。
「……しょうがないねぇ。わかったよ。紗琉雫、お前の事は今はそんなに気に入らないけれど、私達のところで暮らしていきな」
紗琉雫はふっと鼻で笑った。
「あぁいいともさ。ありがたく暮らさせてもらうぜ、柱女に蛙女」
諏訪子がははっと笑う。
「まぁ結構長い付き合いではあるけれど、改めてよろしくね、狼男」
紗琉雫は苦笑いした。そんな様子を傍で見つめて、早苗は神達への不信感というものがすっかり消えて、神達と暮らしていきたいという気持ちが心の中を満たしている事を、まざまざと感じ、笑んだ。
その様子を、霊夢と懐夢、そして夕飯の準備を終えた霊華は、縁側で見つめていた。
「やれやれ、一時はどうなる事かと思ったけれど、何とかなったものね」
「でも、まさか紗琉雫さんが神獣だったなんて、驚きだね」
「えぇ、とんでもない事を隠してたものよ、あの神は」
霊華が微笑む。
「でも早苗、何だかさっき来た時よりもいい顔をしてるように見えるわ。雨降って地固まるってところかしらね」
霊夢と懐夢は頷いた。
とうとう明かされた、神獣の謎。