朝、気が引き締まるような、初春の朝。
まだ息の白さが残り、シャッターを開けようと手を温める。ジャンバーのポケットから鍵を取り出そうとする。
「本当に三玖ってば目覚め悪いんだから。遅れたら怒るわよ……」
紫がかった赤毛の女性、中野二乃は、そのようにぶつくさと呟いてシャッターの持ち手部分に手をかける。
冷たい、鉄の感覚。こんなことなら一旦引き返して手袋を持ってくるべきだったと小さな後悔を抱く。
そんなところで、その抱いた後悔もどこへやら。建物と建物、その間に出来た小さな隙間、そんなちんけな場所から物音が。その物音に思考は遮断されてしまった。
猫だろうか、猫ならばホットミルクの一杯や二杯を入れてやろうかと恐る恐る人一人分の隙間を覗き込む。
「何よ、猫ちゃん?」
「ぇあ……?」
「……へっ!?」
そこにいたのは猫ではない。黒色の長い髪から、紺碧の瞳を覗かせる大男だった。ただ、浮浪者、という訳ではなく、若くて、どこかの学校の部活ジャージを着ている。エンブレムとスローガンが書かれているだけでどこのものかはわからない。
いや、それよりも二乃にはもっと分からないことがあった。
「な、なんでこんなところで……」
「あぁ……まぁ、ちょっと自分も記憶が混濁してます……はは、ごめんなさい」
青年、と一目でわかるようなはにかみ顔だった。優しそうなタレ目にちょっとだけ釣り上がった眉。鼻は高くて、顎のラインは端正。ハーフとも思しきその男子は頭を恥ずかしそうに掻いている。
それにしても、どこかで見たことのあるような顔だなと、二乃はその青年を訝しげに眺めた。
他方、見られてる側はというと、鼻を赤くして、手は悴んでいるのか少し震えている。
段ボールも何もない、ジャージ一丁でこの初春の夜を越えたのだろう。冷たい路地の上で。
「みすぼらしいことこの上ない。君、少し入ってきなさい。スープぐらいは作ってあげる」
二乃はそんな青年を見かねて、人情をかけてしまうような優しさを持っているのだった。
「いや、大丈夫です。すぐ、帰りますから。ほら、お金もあるしコンポタか何かを買えば済みますよ」
「君ねぇ、そんなガチガチに震えてる手で百円玉見せつけられてもこっちが更に困るの」
二乃の言う通り、青年の手は震えて、その掌の上にある百円玉は今にもこぼれ落ちそうになっている。
青年も恥ずかしそうにその手を後ろにしまった。
「遅いわよ。ほら、素直になんなさい。君見るからに高校生でしょ。あんなとこで寝てた理由も知りたいし。ほら!」
そう言ってからよいしょと掛け声をかけてシャッターを開けた。
二乃にとって、鉄の擦れる音は1日の始まりを告げる音だ。その始まりがこんな特殊な形になるとは誰が思っただろうか。
『なかの』という店の看板がそれを教えてくれるはずもない。彼女は少し微笑んでその看板から目を離した。
「適当に腰掛けて。今空調整えるから。あ、あと手持ち無沙汰なら内側からドアに準備中のプレートかけといて」
青年は言われた通りに手持ち無沙汰。となればやることは一つで、目の前にある簡素な看板を裏返すだけの簡単な作業。
「ん、ありがとう。じゃあちゃっちゃと作るからちょっと待っててね」
「は、はい。なんか、ありがとうございます……」
「いいのよ。その代わり名前と高校教えて。あんなとこで寝てたあなたの話、少し気になるわ」
好奇心といえばそれになる。しかしながら少しの心配もあった。普通、高校生が路上で冷たい夜を過ごすなんてことはありえない。なれば虐待か家出か。ただ、そのどちらにしても見過ごせない事態であることは確かなのである。
「名前は、その……」
「何? 指名手配でもされてるの?」
「いや、その、笑いません……?」
名前を笑うとはどのような了見だろう。と二乃は考える。笑われるような名前といえば最近流行りのキラキラネームだろうか。佐藤ピカチュウなんて名前もあるらしいし、と頭の中で浮かべていた。
「…………小町咲良って言います。『咲く』に『良い』って書いてさくらって読みます」
赤くなった顔から告げられた可愛らしい名前。その男性らしい声からするとおよそ意外なその可愛らしい名前。
あぁなるほど、と二乃は納得し、なんとなくその聞き覚えのある名前に、少しだけ笑った。
「なるほどね。女の子っぽい名前ってことでしょ? 要は」
「まぁ、はい、そうですね」
「いいじゃない。いい名前よ。てっきりキラキラネームかなんかと思ったわ」
「そ、そうですか」
「そうよ。可愛い名前」
二乃はポタージュを作る手を休めず、器用に話をしている。その手の技巧は鋭く、ただ、その喋る口も休むことはない。
「それで、高校は?」
「美濃谷高校です……」
「あぁ〜、あのバレー強いとこでしょ。妹がスポーツ好きで春高の県予選とかよく見るのよ。いっつも決勝まで行って……」
「はい、そこの、バレー部です」
「はいはいなるほど。そういえば去年なんかすごかったわよね、あの一年の子。確か……」
確か……と繰り返し呟いて思い出す。そういえば美濃谷の一年エースといえばハーフっぽい子だったなと。
そうして記憶を手繰るうちに名前が朧げに思い出される。
「小町君……小町くんねぇ……」
「はい……」
名前を復唱するうち、芋づる式にどんどんと思い出される。そういえばU-18の選抜メンバーで、名門美濃谷のエースで、一年ながらに新聞一面を飾った。
スポーツ好きの妹、四葉も選手紹介ページをデカデカと開いて解説していたなと思い出す。
「え!!? 美濃谷の小町君!!!!!!」
「は、はいっ!?」
「君! すごい子じゃないの! いや、それこそなんで君みたいな子が路上で……」
その子の凄さを思い出すほどに分からなくなる。
「……まぁ、今はちょっと」
「あ……そ、そうよね。ごめんね。23にもなってはしゃいじゃって」
「いえ、言った方が良いのはわかってるんですけど」
「いいわよ。嫌がるならわざわざ言わせるほどでもないし。今日会って初めての人に言いづらいこと言える人なんてそうそういないわ」
そう言ってスープを小皿に少し分けて味見をする。よし、と小声を漏らしてガスを止める。青々と輝いていた火はすぐに消えて、揺らぐ周囲の空気もすぐに元に戻った。
小綺麗な様子でスープを深皿に注ぎ、上品に咲良の前に据える。
「召し上がれ。ジャガイモのポタージュよ。あったかいうちに」
「ありがとうございます……」
空調はもう十分に効いていて、手の震えも粗方治った。その手でスプーンを手に取り、白色に煌めくスープを掬う。暖かいそれを口元へと持っていき、喉に流し込む。
暖かさが体の芯に染み渡る。
「……おいしい……!」
そう呟く咲良を目に、二乃は微笑んだ。自分の夢がまた一つ達成されていく、そんな気がして顔が綻んだ。
自分の作った料理で誰かが喜んでくれている。心も体も温まってくれている。何より、そのおいしいという一言が、嬉しかったのだ。
「そう。何回聞いても良い言葉ね」
「えぇ、あ、はい。おいしいですよ。これ」
「よかったわ」
「長崎から越してきて寒さで悴むなんてあんまり知らなかったから、正直助かりました」
長崎から越してきたということは一人暮らしをしているのだろうか。いずれにせよしっかりした青年だと感心する。
ただ一つ、浮浪人もどきをしていたことを除けば。とはいえそれも訳ありの様子。
二乃は頬杖を付いてそんな彼を眺めた。
「ごめん二乃、遅れた!」
ある人以外が開くはずのない扉が開いた。ということはある人、中野三玖のご登場だ。
登場後すぐ、三玖は後退りした。
それもそうだ。姉の二乃が正直男を連れ込んでいる。何かしらの事件ではないかとも疑う。
「どうしたのその子」
「店の前で倒れてた」
「倒れっ……!? えぇ!?」
「そう、なるわよね」
そんな男浮浪者ではないかと言いたくもなる。ただ、美濃谷高校のジャージを見ればその気も失せてしまった。ほかに思いつく節があったからだ。
「あ、NNKで見た。インタビューの人」
「ど、どうも」
「春高バレーで活躍した人……」
「……ど、どうも」
気弱そうな青年と元根暗な女性が初対面となればそうなるのは必須とも思われた。仕事とプライベートは違う。オーダーはいくら明るく取れても、いざ知らない人間と話すとなると会話も続かなくなる。
そこに二乃が助け舟を出した。
「はい、そろそろこっちも開店準備。アンタ遅れたんだから厨房整えなさい。私はこの子送ってくる。美濃谷なら、まぁこっから車で30分てとこでしょ」
「うん……。そうだね。悪い子では無さそうだし、何より学生なら送ってあげないと……」
二乃の言うことに三玖も賛成といった様子で返事する。自分が遅れた分の仕事に文句を言うつもりもないし、今は未成年の無事が急がれた。
「あー……。そうっすよね。名前は分からないけど、ありがとうございます」
「中野二乃、で妹の三玖。二人でお店をやってるの。まぁまた機会があったらいらっしゃい。いつでも待ってるわ」
「うん、私も……。食べ盛りの子に合うかは分からないけど、色んなもの食べられるから、よかったら」
「はい、ありがとうございます」
咲良はペコリと頭を下げてそういった。
「まぁそれにしてもでかいわね。うちの車に収まるかしら」
「すいません……」
「いいのよ。これも何かの縁か何か。私も有名人なら会えて嬉しいわ。じゃあいきましょ。三玖、あと、頼んだわよ」
車の振動に右に左にと微動する。慣れた手つきで車を運転する二乃の横で、咲良は窮屈そうにしていた。
「身長、改めて見るとすごいわね。180とかあるのかしら?」
「187cmあります……」
「ほぼ190じゃない」
「バレーの世界ではその3cmが重要だったりするんですよ」
「それを春高でぼんぼん点を稼ぎまくってた君が言うんじゃ説得力も失せるわ」
「嫌味ではないですけどね……はは」
大通りに出て一旦赤信号に捕まる。朝方、大通りは、歩道の静けさに反して車がそれなりに走っている。
働く人は今日も1日が始まる。
「……これからどうしようって、思ったんすよ」
「……うん」
咲良はぽつりと話しだした。自分のことについてだ。二乃もそれを理解して、相槌を打つだけだ。
「うちは父さんがイギリス人で、母さんが日本人なんすけど、その父さんは俺が2歳の時に家を出ていきました。だから母さんが女手一つで15年間育ててくれたんすよ」
「そう」
戸籍上とはいえ、父親しかいない中野姉妹からすると逆の状況だった。ただ、片親であることの寂しさは分かる。育ててくれるのが母親だから幾分はマシかもしれないが、それでも父親がいればと思ったことは少なくないだろう。
「それで、まぁ、そんな立派な母親も、2年前に癌が発覚して……」
「…………うん」
「俺がプロバレーボーラーになったら年俸もたくさんもらえるだろうし、母さんの病気も治せると思ってた。ここに来たのもこの県にすごい病院があるって聞いたからなんです。だから美濃谷の推薦貰って、長崎からはるばる母さんを連れてきて……」
「偉いわね。親孝行じゃない。私があなたと一緒ぐらいの歳は……恋に惚けてたわ」
二乃はあの黒髪の男を思い出す。もう今は自分の妹と結婚してしまって、義弟と呼ぶべきか。その人を愛していたことを思い出す。
「惚けてたって言う割には素敵な顔してますよ」
「なっ……! 大人をからかうんじゃないの! ……話の続き、聞かせてよ」
「そうですね。それで、一年生の春高では見事にチームを準優勝まで導けて、そんな中でエースを張ってたもんだからいろんなプロチームからも話を頂きました。これで母さんを治せるって思ったんです」
「そんな矢先に、膝と太腿を壊しました。おかしい話ですよね、母さんを連れて行こうとした病院に運ばれて手術も受けて、結果選手生命はほぼ終わり。一年はバレーをできないと言われました」
「高校生にとっての一年。選手としてこれがどれほど大きいか。そんな絶望をしてる毎日、気付けば一年ももう過ぎる。やっと回復の兆しが見えてきた。そんな時に、今度は母さんが死にました」
「……なるほどね」
「それで、あんなところにフラフラとやってきて」
咲良がその後語るには、お葬式にはきちんと出たようで、その後に練習を見に行こうとした時、ふとその気が失せたという。
正直、二乃には答えかねた。
「まぁ初対面で重い話ね。話したくなくなるのは分かる」
「……あはは」
青年は、ただ申し訳なさそうに笑うのみだった。泣きそうな目と、震える喉に気付かれないように必死で笑った。
「今は一人暮らし?」
「はい。お金もないし、近々長崎に帰る予定です」
「……そう」
そんな話をしてると、美濃谷高校の前へと着いたようだった。大きくて、厳かな門はその学校の権威を主張しているかのようだ。そびえたっていると言わんばかりである。
「お金に困ってるなら、うちでアルバイトしていきなさいよ。賄いも作ってあげる」
車を停めて、咲良がそのドアの手口に手をかけたところで、二乃がそう言った。
「もちろん、あなたがまだバレーボールをここで続けたいならね。ちょうど店も安定してきてバイトも欲しかったところだし、いっぱい働いてくれればその分多めに給料も出す」
「それに、長崎に帰ったとて、あなたの寂しさは埋まらないでしょ」
少なくとも、母親のために頑張ってきた彼にとって、その寂しさは大きいはずだ。ぽっかりと心に穴が空いたように感じるかもしれない。
その感覚を二乃は、三玖は、彼女の姉妹である五つ子は知っている。だから、情けをかけてしまうのかもしれない。
「あなたの好きなようにすればいい。初対面のあなたに講釈を垂れるほど私も偉くないもの」
「でもね、辛くなったら大人を頼ればいい。恥ずかしいかもしれないけど、それは悪いことではないから」
そういって二乃は彼の頭を撫でた。大きくて撫でにくい。そんな彼を撫でながら、感傷に浸る。
彼と同じくらいの時分、私は素直になれなかったなと、素直に慣れていたらもっとよかったろうにと、小さな後悔だ。
「なかのって、SNSで検索したら場所は出てくると思う。ここから電車と徒歩で20分くらいだし、バイトしたかったらきてくれたら良い」
「それじゃあ、いってきなさい。どんな人生もまず一日から。シャキッとして!」
そんな激励を受けて、青年は車を出た。その身長に見合った背中の大きさだった。立派な背中だ。
二乃はそんな様子を見て、少し安心した。
「ありがとうございます。まだ、先のことはわからないけど。とりあえず今日は学校に行って、色々考えます」
「そ。頑張んなさい。こんな美人のお姉さんに学校送ってもらえるなんて滅多にないんだから」
「そうですね。二乃さん」
そう言って、彼は校舎へと向かっていった。
手持ち無沙汰になった二乃は帰路へと着く。一人車の中、何か物寂しくなったので音楽をかけた。最近流行りのポップな曲だ。女優の姉が何かの際に出した曲も入っている。
「ほんと、似てるのよ。雰囲気というか……」
「惚れた男を忘れられずに、違う男の子に面影を重ねてる。ほんと、ダメな女ね」
そう言って一人で笑った。今この場では、誰に共感されることもない、静かに無音と散っていくその声。
「フー君……ね。今度また家に突っ込んで行ってやろうかしら」
彼女は微笑むだけであった。
だいぶと二乃が丸くなってると思いますが歳を重ねるっていうことはこういうことではないかなと。
それでもツンデレは抜け切ってません。
後々他の姉妹も出てきます。ごゆるりと見守ってくれれば幸いです。