五月雨の夢の中 前編
しとしとしと……と、降り続ける雨の音。それを聴いていると、わたしは何故か悲しくなった。
外へ出歩く自由はなく、自分が狭い箱の中に閉じ込められているような感覚が、閉鎖的な恐怖となってじわじわ沸き上がってくるような……。
窓は閉められているのに、外気を満たす湿り気が、室内の空気の熱を少しずつそぎ取っていく気がした。
人の気配も途絶えた闇の中からは、微かであるが、遠くのカエルの鳴き声が聞こえてくる。昔、わたしがまだ普通に出歩けた頃は、夜間の水田でカエルの群れが唱和する響きに聴き入ったものであるが、今聴いている鳴き声は、遠い世界のものであるように感じられた。
暗闇に沈んだ室内では、廊下の方から響いてくる何かの機械の音以外は何も聞こえない。わたしは黙って、周囲の小さな音たちの主張に耳を貸していた。
雨の音が急に激しくなった。この時期は、気まぐれな天気が外界の音を支配している。支配者の心づもり一つで、カエルのか細い鳴き声も聴きとれなくなってしまったのだ。
こつこつこつ……と、何かが廊下を歩く音がした。
こんな夜分に珍しい――誰だろう、と、耳を澄ましてみる。
とっ、とっ、とっ、といった風な、少し急ぐような足音に変じ、それはわたしのいる病室の手前でピタリと止んだ。
再び、激しい雨の音と不気味な機械音以外には何も聞こえなくなる。わたしの心中は、足音の正体を確かめたい思いでいっぱいになった。
「小夜ちゃん……?」
わたしの口が開き、この世で最も愛している、妹の名前を口にしていた。何故、小夜の名前が出てきたのか、自分でもよくわからない。小夜が深夜に病室を訪ねてくるなんて、あり得ないのだ。
すーっと病室の引き戸が開いていった。何かが入ってくる気配こそしたが、何の姿も見えない。
わたしは不安と好奇心の入り混じった感情で、上半身をゆっくり起こすと、室内を見回した。自分以外に誰もいない筈の一室に、確かに何かの気配が感じられる。
壁に備えられた時計を見やると、暗闇の中であっても僅かな光によって視認できる白い時計の中の長針と短針は、視界にくっきりと映っていた。時刻は午前二時をまわっていた。
さーっと冷たい風が吹いてきた。頬に冷たい水滴がぽつぽつと付着し、わたしは寒気を感じ、軽い身震いをする。見ると、閉められていた筈の窓が開け放されていた。
白いカーテンが風に吹かれて舞っている。その向こうでは、五月雨の降る夜の世界が広がっていた。
視線を室内に戻すと、キラキラと黄色い光の粒子が空間を揺蕩っている。その光は一点に集中すると、ふわっと宙に広がり、徐々に何かの形になっていく。
やがて、それは翼を備えた一頭の馬の姿へと変じた。馬は翼を折りたたむと、わたしの方に相貌を向ける。
燐光を放っているのは、白い天馬。薄緑色のたてがみが夜の風を受けてなびいており、額にある水色の星型模様が眩しかった。
「天星馬ペガシーダ……」
わたしが相手の名前を口にすると、天星馬は小さな嘶きで答えてくれた。
ペガシーダは鼻の頭を動かして、己の背中を指し示した。背中に乗るように促している――わたしにはそう理解できた。
「……うん」
わたしはベッドから這い出し、すぐ隣にいるペガシーダの肩に捕まりながら、滑り落ちそうになる自分の身体を何とか支え、寝間着の姿のまま、ペガシーダの背中に乗った。
わたしを乗せたペガシーダの全身がふわりと浮き上がった。すると、ペガシーダは心地よい浮遊感と共に、開け放された窓の外へ飛び立った。
冷たい空気は決して耐え難いものではなく、むしろ、わたしは外気に触れることで不思議と活力を得ているような感じがした。ペガシーダはより高い上空へと向かって羽ばたき、舞い上がっていったが、わたしの全身が浮遊感に包まれており、振り落とされるという恐怖も感じなかった。
ペガシーダは瞬く間に雨雲よりも高く飛翔し、満天の星に見守られながら夜の天空を横切っていく。
わたしは青白い満月を見つめた。月の周囲には蛍光灯で照らされているようなぼんやりとした明かりが広がり、夜空を白く染めている。
「美都……」
ふいに、わたしの名前を呼ぶ声がした。鈴を鳴らすような、女性を思わせる優しい声。わたしはペガシーダを見つめたが、ペガシーダは前方を向いたまま彼方の空を目指して飛んでいた。
「誰?」
わたしの問いに答える者はいなかった。
いつの間にか周囲には雲一つなくなっており、眼下に見下ろせる街並みの明かりが、様々な人の生活の匂いを醸し出していた。
街並みから続いている道路の先には水田が広がっており、遠方には高い山々が連なっていた。山が月と星の光に照らされて、暗緑色の樹々の形一つ一つがくっきりと浮かび上がっている。
唐突に、ペガシーダの動きが慌ただしくなる。わたしは振り落とされるかと思い、必死になってペガシーダの背にしがみついた。ペガシーダは速度を上げると、何かから逃げる勢いで夜空を駆けた。
無数の水滴がわたしの顔面に当たる。とても前方を見ていられる状況ではなく、わたしは顔を天星馬の背中に押し付けるようにして強風に耐えた。
ペガシーダが大きな嘶きを響かせ、急停止する。わたしが顔を上げると、目前の空間に不可思議な黄金色の渦巻が現出していた。
黄金の渦巻の向こうには紫色の宇宙を思わせる底知れない領域が広がっており、小さな楕円形の白い星の塊がいくつも散らばっていた。
「美都……その先に行ってはなりません」
背後から再度聞こえてくる、あの声。わたしが後ろへ振り返ると、そこに金色の龍の姿が――。
「金星神龍ヴィーナ・フェーザー」
星の輝きを受けて煌く六枚の白い翼が、大空を包み込むように広げられていた。慈愛に満ちた金星神龍の眼差しは、わたしを見据えている。
「でも……」
逡巡するわたしの心を射抜くかのように、幾重もの束になった黄色い光の筋がわたしのいる中空を通過していく。
「天星馬ペガシーダはわたしを恐れて逃げていたのです。天星馬はわたしのもう一つの姿をよく知っているから……。しかし、美都、その先にいるのはあなたの心に踏み入る禍々しき存在。あなたの日常を大切に思うのなら、今すぐ引き返しなさい」
「わたしの日常……」
わたしは病院での生活を思い返す。今はこうして全身が軽く、心地よい空間で生きていられる。しかし、本来なら突発的な発作に震えながら、全身が重い空気に押しつぶされていくような、ほとんど寝たきりの生活を余儀なくされているのだ。
日々のリハビリを続け、徐々に神経が麻痺していく症状を遠ざけようと努力しているが、こんな日常がいつまでも続く筈はないと思いは日増しに強くなっていた。それは完治に向かうという意味ではなく、真逆の、悪い意味で。
「美都、その先に行けば、あなたを育ててくれた母や……妹の小夜とも二度と会えなくなるのですよ」
わたしの脳裏に、わたしのいる病院で働いている母の姿が映った。それに続いて、悲しそうな顔で何かを訴えるような目をわたしに向ける、小夜の姿――。
初めて小夜と出会ったとき、わたしは何か、今まで感じたことのない深い繋がりを感じた。気づいた時には、小夜がわたしにとってかけがえのない存在、まるでわたしの存在から別れ出て生まれた半身であるかのような、何者よりも尊い存在であることを自覚していた。
小夜がわたしの実の妹だということを母から聞かされたのは、小夜と出会って大分あとのこと。母は、小夜がわたしの腹違いの妹である旨も同時に打ち明けた。
それを聞いても、わたしは驚きはしなかった。既に、小夜はわたしの最も近しい存在として、わたしの産まれてきた意味と深く関わる存在として認知していたからだ。
小夜と別れる道など、考えることもできなかった。わたしは迷うことなく、答えを出す。
「お願い、ペガシーダ。わたし、帰りたい……あの病院に」
ペガシーダは心配そうにわたしと背後の金星神龍を見やった。やがて、こくりと頷き、了承の意を伝えてくれる。
空間に開いた虚空が激しく蠢いた。そして、虚空の向こうから、もう一体の黄金の龍の姿が飛び出してくる……。
「あの姿は知っている……確か……光帝リュミエール」
黄の龍帝、光帝リュミエール。四枚の黄色いステンドグラスのような羽が広げられ、機械めいた鳴き声が響き渡る。細い腕の先にあるかぎ爪が、ペガシーダの上にいるわたしを捕まえようと伸ばされた。
ペガシーダがリュミエールから逃れようとしたが、迫り来る龍帝の魔手は振り払えない。すると、金星神龍が咆哮を上げ、ペガシーダとリュミエールを押しのけるようにして、両者の間に割って入った。
そのまま二体の龍が激しく激突する。ペガシーダは両翼を羽ばたかせ、その空域から撤退する。
(お姉ちゃん、あーそーぼー)
「え……」
聞きなれない、少女を思わせる声。その声はわたしの心の中という領域に、遮るものが何も無いかのように侵入してくる。
(わたし、遊び相手がいなくて寂しいの。リュミエールはちっとも構ってくれないし。お姉ちゃんだって、あんなところにいても、辛いだけでしょう? だ、か、ら、こっちにおいでよ)
「美都、その者の声を聞いてはなりません」
金星神龍が叱咤するような口調で言った。
「う、うん……」
わたしは虚空の向こうから聞こえてくる声を振り払い、懸命になってペガシーダに捕まった。ペガシーダもまた、状況を察したらしく、全速力で直進する。
(お姉ちゃんも、わたしの手の届かないところへ逃げちゃうつもりなんだ……。でも、逃がさない。鬼ごっこの始まりだよぅ……くすくすくす)
前方の空間がいびつにねじ曲がったと思うと、二重になった銀色のリングが出現した。リングの中は先ほどの渦巻の中に見たものと同様の光景が広がっている。
ペガシーダはこれを回避しようと、一旦速度を落とし、上昇した。すると、リングの中の虚空から、黒い手が這い出し、人差し指がピンと立てられ、こちらへ向けられた。
何事かと思うと、指先から紫色の閃光が放たれた。途端に背中から鋭い痛みが奔る。何が起こったのか一瞬分からなかったが、左右に広げられたペガシーダの翼が穿たれ、えぐられた部分から、砕けた星の粒子が冷たい夜空に吸われていく様子が目に入った。
(お姉ちゃんがこっちに来てくれたら、痛い思いをしなくてすむんだよ)
少女の声が、わたしをぞっとさせる。それは無邪気な声色であったが、わたしは底知れぬ悪意を感じ取り、全身が震え出した。
リングの中から、仮面を付けた道化師の如き人物が顔を出した。人を茶化しているような表情の面。その裏にある顔は読み取れないが、わたしを見る視線は冷笑しているようだった。
わたしはペガシーダを勇気づけようと、必死になって呼びかけた。ペガシーダはとても苦しそうであったが、今のわたしには、この天星馬にすがるしかないのだ。
ところが、ペガシーダは空中で静止したまま、眼前の道化師の姿に釘付けになったまま、微動だにしない。わたしは再度ペガシーダを激励したが、効果はなかった。
(お姉ちゃん、まだ分からないの? そのお馬さんはね、怖がっているお姉ちゃんなんだよ)
少女の声の言っていることが、すぐには理解できなかった。だが、その言葉の意味を考えてみると、妙に状況が呑み込めてきた。
ペガシーダはわたしを連れ出しに来てくれたと思っていたが、違ったのだ。わたしは日常から抜け出すことを無意識のうちに願い、このペガシーダを創り出したのだ。
そして、金星神龍のもう一つの姿、堕天神龍を本能的に恐れているのはわたし自身。
(ようやくわかってくれたね。向こうの世界に行くことは、お姉ちゃんの望みだったんだよ。さあ、もう待ってあげない……捕まえちゃうよー)
浮かんでいるリングから身を乗り出した道化師が両手を突き出し、鬼ごっこの鬼が掴みかかるようにして、飛びかかってきた。
わたしが強く願うと、傷ついたペガシーダが身を翻し、迫り来る道化師をかわし、月の真下を滑空しながら一気に距離を離す。
前方に薄い黄金色の灯が映った。灯は空間に溶け込むようにして広がっていき、幻想的な黄昏のような光景が浮かび上がっていった。それは美しい情景と呼べたが、わたしの心に巣食う恐怖の感情は一層増す。
(くすくすくす。わたしのアルカナジョーカーとフラウムからは、逃げられないよう)
所々金色の装飾が施された銀の鎧を身に着けた、騎士の姿。右手には柄に赤いハートを模した大剣を握りしめ、左手には青い五つのダイヤを備えた盾を持っている。
その騎士の背面に天使のような翼が反り返っており、全身から神々しい輝きが放たれていた。
「黄昏の竜使いフラウムに光帝竜騎アルカナジョーカー……リュミエールを操る二人の竜騎……」
早く逃げなきゃ――わたしの願いはペガシーダの意志。ペガシーダから星の煌きを凝縮した光球が出現し、フラウムを狙い撃った。フラウムはダイヤの盾でこれを防いだが、時間稼ぎにはなった。
(空中にいたら、狙われる……)
わたしがそう思ったのと同時に、ペガシーダが急降下を開始する。わたしはその背にしがみつき、凍てつく風と幾重にも重なった空気の壁の圧力に耐えた。
ペガシーダは雨雲が連なっている雲間に飛び込んだ。無数の冷たい水の雫が、わたしとペガシーダの全身に痛いくらいの勢いでぶつかる。
視界が靄で覆われていき、上下左右の区別すら曖昧になっていく。もう、落ちているのか昇っているのかすらもわからない。
接近してくる竜騎たちの放つ熱を背中に感じながら、わたしとペガシーダは曇天がひっくり返ったような水と空気の奔流に逆らい、只管に進み続けた。
急に視界が開けた。その途端、黄色い稲妻が降水の合間を奔り、ペガシーダの額を撃ち抜いた。
視界がショートする。
わたしの身体が空中に投げ出される。後方で黄色と緑の入り混じった粒子となって消えていくペガシーダの姿が見えた。
ほんの一瞬、意識が飛んだ。
気がついた時、わたしは雨水でびちょびちょになった泥で汚れた地面に横たわっていた。湿気の中、腐食した草の臭いが充満しており、吐き気がしてくる。
見上げると、雲に覆われた空が一面に広がり、星の明かりは一つもない。暗い世界の中で、降り注ぐ雨の音だけが響いていた。
黒い雲が金色に染まっていく。追手の竜騎たちが追いついてきたのだ。
わたしは水浸しになっている地面の上を這いずりながら、竜騎から逃れようとした。無駄な努力であることはわかりきっていたが、少しでも最後の時間を遠ざけたかった。
(お姉ちゃん、もう怖がらないでね。わたし、お姉ちゃんと仲良くしたいだけなの。虐めたりなんてしないから……)
眼前に立っている、青いドレスを着た、金髪の少女の姿。澄んだ青い瞳の奥には、底知れない虚空が広がっており、わたしの意識がそこへ吸い込まれるような感覚がする。
「美都」
背後から聞こえてくる、金星神龍の声。少女の眼がひきつり、露骨な嫌悪感が露わになる。
わたしは後ろへ振り返った。そこにいるのは、異様な姿へと変じた金星神龍の姿――。
「堕天神龍ヴィーナ・ルシファー……」
右の翼は聖なる輝きを放つ白翼であったが、左側は漆黒に染まっており、禍々しい光が空間に放たれていた。
(お姉ちゃんはわたしのもの……お前なんかに渡さない)
少女が手を差し伸べると、その手に黒い粒子が収束していき、スペードの形をした刃が出現した。そのまま、刃は少女の手に握られた。
その刃が突き出されるのと同時に、堕天神龍の左右に、それぞれフラウムとアルカナジョーカーが現われ、堕天神龍へ同時に襲い掛かった。
堕天神龍の下半身にある巨大な魔獣の大口が開かれ、右側に女性を思わせる冷たい相貌、左側に角を生やした悪魔の顔が浮かび上がる。魔獣の暗緑色の瞳がかっと開かれるのと同時に、襲い来る竜騎たちに対して炎と雷光の入り混じった波動が発射された。
打ち倒される、竜騎。少女が忌々し気に堕天神龍を睨みつける。
(リュミエール!)
少女の声に応え、天空から黄の龍帝が飛来する。
堕天神龍の両腕が合わせられ、開かれた両手から膨大な魔力によって形成される竜巻が起こった。竜巻はどす黒い雲を巻き込みながら、リュミエールを呑み込む。
これに対し、リュミエールは四枚の翼を四方へ伸ばすと、空中に四つの紋章を浮かび上がらせた。
スペード、クローバー、ダイヤ、ハート。それらトランプのマークが防壁を生み出し、堕天神龍の魔力を跳ね返す。
堕天神龍はわたしを護るために戦っているのだろうか。しかし、わたしの視線が堕天神龍の上半身の先にある頭部の眼と合った時、邪悪な意志の波動がわたしの意識を貫いた。
「ひ……」
わたしは怖かった。ヴィーナ・ルシファーも、リュミエールも、竜騎も、少女も。皆、わたしの意識の深層に侵入し、わたしの心を踏み荒らしていくのだ。
(お姉ちゃん、わたしの方へおいでよ。大丈夫だから、大丈夫だから)
わたしは少女の呼びかけに答えることはせず、その場から逃れようと地面を這っていく。伸ばした手で腐った草の混ざっている泥を掴み、更に前へと進む。
(……そう、わたしの声を聞いてくれないの。それなら……)
わたしの前に、さっきの少女が立っていた。少女は一見すると無垢に見える表情でいたが、その裏側にある、あまりにも悍ましい憎悪の感情が垣間見えた。
(こうするしかないね)
少女の手にした刃が、わたしの顔面に向かって振り下ろされる。わたしは悲鳴を上げた。
突然、地の底から、大きな熱と振動が伝わってきた。少女が足元をすくわれ、凶刃の切っ先はわたしの傍をすり抜け、空を切る。
まるで時間が逆行しているかのように、雨水が上昇していく。緑色の光が周囲に満ちていき、その中で、先ほどまで戦っていたヴィーナ・ルシファーとリュミエールの全身が崩れていった。
少女の口が何かの言葉を紡いだ。しかし、聞き取れない。その少女も緑色の光の中で黒いおぼろげな輪郭となり、やがて崩れるようにして消え去った。
光によって、雨雲が瞬時に取り払われた。空には眩しい太陽の光。
わたしのいる地上には一面の緑色の原野が広がる。心地よい草の香りが、先ほどまでの腐食物の臭いによって催されていた、わたしの吐き気を取り除いてくれた。
そのまま、徐々に薄れていく世界。空には鮮やかな虹が現出しており、消えゆく緑の世界の中で、その虹が最後までわたしの目に映っていた。
「リデル……悪ふざけが過ぎるよ」
蒼樹萌架はそう言いながら、机の上に置かれている水晶球に手を伏せた。それまで映像を映し出していた水晶球は途端に光を失い、手の乗っている部分に表れた虹模様を残して、映像は消え去った。
萌架が手を離すと、虹も消えた。萌架は小さくため息をついた。
「会いに行かないと、ね。美都……」
萌架は椅子から立ち上がると、朝食の用意をするために台所へ向かった。
手際良く、まな板の上に味噌汁の具に使う人参を並べ、千切りにすると、海藻でだしをとった水が入っている鍋の中に落としていく。
調理をしている最中も、萌架の脳裏では、先ほどまで水晶球を通して視ていた世界と、その中で抗う美都の姿が反芻されていた。
午前中のリハビリを終え、狩野美都は自室のベッドに戻り、運ばれてきた昼食を口にしていた。
枝豆を混ぜた白米に、塩分の薄い清まし汁、茶わん蒸し。桜の花を模した麩を箸で掴み、口に運ぶ。美都は麩のやわらかい噛み心地を少し味わったあと、飲み込んだ。
美都にはまだ午前からの疲労感が残っており、自力で歩くのにも苦労していた。それでも、まだ手の感覚が麻痺することには至らなかったので、内心ホッとしていた。
美都は卓の上に置かれている裁縫道具と、作りかけの子熊の人形を見やった。今の自分が誰かのためにできる、唯一のこと。それすらも失われるというのは、美都にとっては考えるだけでも耐え難かった。
食事をとりながら、美都は今朝の夢を思い返していた。
天星馬に想いを託し、病棟から逃げ出そうとした美都。それを引き留める、金星神龍。そして、リュミエールを操る、少女の姿……。
記憶は途切れ途切れであり、今となっては夢の全貌を思い出すことはできなかった。ただ、すべてが緑の光によって中断し、現実に引き戻されていったことだけは鮮明に覚えている。
所詮は夢である――美都はそうも思ったが、あの情景の中で起こった出来事の数々が、何か大きな意味を持っている気がしてならなかった。
美都は食事を終え、看護師に食器を片付けてもらったのち、ぼんやりと外の光景を眺めていた。
窓から見える外では今でも小雨が降り続いている。先日、梅雨入りしたとラジオでも言っていた。
桜の木には青葉が生い茂っており、じめじめとした気候も相まって、季節が本格的に夏へと移り変わっていくのを物語っていた。
こうしている間も、あらゆるものが少しずつ変化していく。良くもなり、悪くもなる。美都には、それら時間の変化がとても残酷なものに感じられた。
リハビリによる疲労が睡魔を促進させたのだろう。暫しの間、美都の意識は白昼の暗闇に落ちていた。
誰かが呼ぶ声がする。浮世と白昼夢の境界線上を微睡んでいた美都は、はっと目を覚ました。
「美都……」
窓の傍の椅子に腰を掛けている一人の女性の姿。いつの間に晴れていたのだろう、差し込む午後の陽ざしを浴びて、彼女の整った顔の産毛がオレンジ色に光って見えた。
美都は、その人物のことをよく見知っていた。
「萌架先輩……」
狩野美都が小学生だった頃の上級生だった、美都よりも四つ年上の蒼樹萌架。萌架とはその後も個人的に親交があり、彼女が高校を卒業して大学に進学するまでは、よく一緒に過ごしていた。
勉強のことで教えてもらったり、二人で遊んだり、進路のことを話したり……美都の持病が悪化してからは、話す機会は減ってしまっていたが。
「先輩、どうして、ここに?」
美都の問いに、萌架は少し微笑んで答える。
「わたし、明けの星小学校の教育実習でこの町に帰ってきているの。それでね、あなたのことを聞いて、どうしても会いたくなって……」
萌架は教師になりたいと言っていた。それで教員免許を取得するために、滝上大学に進学していたのだ。
萌架の話によると、五月の中旬頃に教育実習が始まり、萌架と美都の母校でもある明けの星小学校に通っているという。
「そっか……萌架先輩、夢が叶うんですね……良かった」
「まだまだこれからってところだけど、ね」
萌架はそう言ったが、美都は着実に自分の進路を歩んでいる萌架のことが、まるで自分のことであるかのように嬉しかった。
「せっかく久しぶりに再会したんだから、美都の話も聞きたいな」
「え……。で、でも」
美都は逡巡した。美都が萌架に話せる内容など、それほど無い気がする。しかし、萌架の期待に少しでも添うようにと、美都は身の上話を始めた。
最初、無難でいて当たり障りのない話ばかりをしていた。ところが、妹の小夜の話題が出た辺りから、自然と、美都は萌架に話を聞いてもらうことが嬉しくなり、美都は自分のことであるかのように小夜の話を続けていた。
「ふふ、小夜ちゃん、美都からいっぱい愛されているんだね……」
萌架はそう言うと、寝台の横の卓の上に置かれている作りかけの人形を見つめた。小夜へ贈るために美都が作っている、小さな愛らしい子熊を模した人形――。
「ねえ、美都。どうかな、久しぶりに……」
言いかけた萌架が美都に見せたのは、一枚のカード。緑のスピリット、「パイオニア 樹精ハッパ」であった。
「わたしとバトスピ、やってみない?」
「萌架先輩……と?」
美都にとって、萌架は学校の先輩であり、勉学の先輩であり、バトルスピリッツの先輩でもあったのだ。
「わたし、小夜ちゃんにちょっと嫉妬しちゃった。だからね、わたしも先輩として、後輩の美都と久しぶりに……と思って、ね」
「はい……萌架先輩が良いなら……喜んで」
美都もまた、卓に備えられている引き出しに手を伸ばし、中からいつも小夜との対戦で扱っているデッキを取り出した。
それは、金星神龍ヴィーナ・フェーザーのデッキ。
午後の暖かな空気の流れる病棟の中、美都と萌架の再会を祝した、小さな対戦が始まろうとしていた。
★来星の呟き
五月雨って今でいう六月のものだから、まだ時期は逃していない……かなぁ。
作中で狩野美都の夢の中に出てきた人物、リデル。
リデルという名前は勿論、アリス・リデルの「リデル」がモチーフですが、
黄の七龍帝「光帝リュミエール」からの連想も含まれています。
勿論、「光帝リュミエール」の適合者で、バトルする時には、「不思議王国アリス」などの、不思議王国の名を持つ四道スピリットも使う予定。
既に登場している龍帝の探究者たちとは大分異なる境遇にある人物でもありますが、そのことは追い追い語られる……つもり。