転生したSFディストピアもので俺にはヤンデレな女性たちの扱い方がわからなかった   作:主の手下

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『神託』

 禁忌を破り、知恵の実を食した人間は楽園から追放されてしまったらしい。

 その実の持つ全知の力は、人にあまり、得られたのはその萌芽のみ。ただ、人間が完全な存在になることは恐れられ、もう一つの実……生命の実は天に隠される。

 

 しかし、彼は歩いた。どこまでも、歩いていた。ただ、歩いてきた。

 受け継いだ全知の樹をたった一人で育んで、天に隠されたはずだった永遠を、その手に取った。

 

 また、いつものような毎日が待っている。不安こそ感じるけれども、きっと大丈夫だ。私は自分に言い聞かせる。

 されども、彼を見守ることすらできない。

 

 

 ***

 

 

 量子力学においては、不確定性原理により、同じ種類の原子は区別できないという。

 それは、もし原子が入れ替わっていたとしても、同種なら、本当に入れ替わったかどうかを確かめる方法が、理論上存在しないということだった。

 

 たとえば、隣人の身体を組成している原子を一つ、こっそりと盗んで、道端にあった同じ種類の原子へとすり替えてしまおう。

 こうしたとき、その隣人の身体に注目し、観察をし続けていても、入れ替わった瞬間を、その原子の位置の不確定性から、確かめることができないのだ。

 取り替えようとする前と後で、比べても、本当に入れ替わったかはわからない。隣人の身体から原子を盗んだと思ったけれど、まだ道端の原子を握りしめていた、なんてことも確率的にはありうるし、もしそうだとしても握りしめている原子がどちらかなんてわからない。

 

 そうであるからして、同じ種類の原子は区別をつけない。

 全て同じものと考えれば、入れ替わっていようといまいと、それは一通りの状態だろう。これならば、入れ替わっているかどうかで、悩む必要がまるでなくなるのだ。素晴らしいことだ。

 

 では、一個や二個などという半端な数などではなく、半分の原子を、あるいは全ての原子を取り替えようとしてしまった場合はどうだろうか。

 

 決まりきったものばかりではない――不確定性原理だ。

 

 本当に入れ替わっているのかは物理的には判別不能だ。入れ替わっていないという解釈もできてしまう。

 たとえ、隣人の身体の原子の全てが、一斉に入れ替わっていようとも、本当に交換されたかわからない。そして、入れ替えようとした前と後でも、同じ原子構成ならば、それは同じ肉体と考えることが、物理的には正しいだろう。

 

 

 あぁ、だからこそ、魂は果たしてどこに宿るのか。

 

 

 情報について考えよう。

 たとえば記憶だ。

 記憶、というのは観測した情報が、保存され、積み重なっていったものに違いない。

 過去があるから未来がある。さまざまな情報を外界から取り入れ、己のものとし、人は今を選んでいく。

 

 人の自我は、記憶の連続性が担保されているからこそなのだと思う。情報が連続性を持ち存在し続けることこそが大切なのだ。

 

 情報というのは、なにも記憶だけではない。いま、自分がどんな組成をしているか。たとえば、DNAの塩基配列だったりも、情報の重要な要因だろう。

 

 今ここで自分が情報を残さずバラバラになる。その代わりにだ。遠い彼方の遠隔地で、そこにあった材料のままに組成の寸分違わない自分が作りあげられたとする。

 これでも、同じ人間と考えることができるのだから、俺たちの世界はなかなかにばかばしいだろう。

 情報が移動したとでも言ってみようか。

 

 曖昧な物質に魂を委ねることができない以上、情報という概念が矢面に立たされ、人間を構成することになってしまう。

 情報こそが、人が人たる魂の所以なのだと言う他になくなってしまう。

 

 死ぬことは、情報が失われることでもあった。

 失われた情報は、二度と戻らない。俺は、それを、とても悲しいことだと思って……。

 

「なにも難しいことを考える必要はない。ここは死後の世界なんだから……」

 

「死後の……世界……?」

 

 目の前の少女は笑い、愛嬌を振りまきながらもそう言った。

 

「そうだよ。ここは死後の世界だ。先輩として、ようこそとでも言っておこう。ここは夢を叶える街だ」

 

 得意げに語る彼女に、眉を顰める。その芝居がかったセリフはいかにも胡散臭い。用意されたかのような言い回しに、目の前の少女の癖の強さを理解する。

 初対面のはずの彼女を、まるで信用できる要素がなかった。

 

「死後の世界って、俺は……死んだ……?」

 

 記憶を呼び起こそうとするが、今よりも前の出来事が、まるでなかったかのように、思い出せない。おかしい。今までなにかをしていたはずだったんだ。

 

「おやおや? どうやら死んだときの記憶がないようだね……。まぁ、死は突然やってくることもある。万人に納得した死が訪れることはないということか……悲しいことだねぇ」

 

 彼女は空を仰いで語るが、空々しいことこの上ない。まるで本心とは思えないような嘆きだった。

 

「いや、死んだときのことだけじゃない。今よりも前の記憶が全て思い出せない……」

 

「あぁ、たまにあるんだ。さっきも言っただろう? ここは夢を叶える街。前世の未練を果たして満足するための……場所さ。きっと、キミは前世の未練を果たすために、記憶が邪魔だと判断されたんだ。だから、思い出せない」

 

「…………」

 

 わからない。

 今の俺の状況では、容易く騙されてしまうだろう。目の前の少女の言葉を、なんの裏付けもなく信用するわけにはいかなかった。

 

「くくくっ、こんな美人を捕まえておいて、ずいぶんと疑り深い目をするなぁ……? それともボクが記憶のない人間に付け入って、なにか悪さをする女に見えるかい?」

 

 蜂蜜色の髪をかきあげながら、自慢げに彼女は言った。

 たしかに顔立ちは整っていることはわかる。ただ美人というよりは、可愛らしい。愛らしい目つきにどこか幼いような印象受ける。そしてその薄い唇は、慣れた笑い顔とともに横に裂けるようで、どうしても胡散臭い。

 

「あぁ、見えない。ただの可愛い女の子だ……」

 

「む、そんなしかめっ面で言われたって、嬉しくないやい……! やり直しを要求するね……っ!」

 

「…………」

 

 誤魔化した返答に文句がつけられる。ぞんざいな褒め方になってしまったことは悪いと思うが、やり直してもおそらくはうまく褒められない。

 

「まぁ、いいさ。キミにそういうのを期待したボクが間違いだったか……気が利かないなぁ」

 

「う……」

 

 その一言に胸を刺される。上手い世辞の一つでも言ってあげられればよかった。

 

「それでだ……この街は君にとっては知らない街だ。見て回るかい? だったらボクが案内をしてあげよう?」

 

「……いいのか?」

 

 この少女の言っている事が正しいとして、なぜこうも親切に説明をし、案内までしてくれるのかわからなかった。

 

「いいさ。キミはちょっとのことでも罪悪感を抱いてしまう小心者だろう? 見てればわかる。こうして恩を着せれば、いろいろと後でおねだりができるという算段さ……」

 

「……そうか……」

 

 それを聞いて、なんとなく安心をする。

 ただ親切にされるというのは、慣れない。打算ありきの方が、俺としては付き合いやすかった。

 

「ふふ、じゃあ、行こうか……といっても、街並みは現世と大して変わるわけじゃない」

 

「……っ!?」

 

 少女は俺の手を引いた。肌に触れられて、その刺激に少しばかり驚き、体がすくんだ。

 

「ボクのお気に入りの場所を紹介するから、ついて来てくれよ」

 

 俺の反応は気にも留めずに、ずんずんと彼女は前に進んでいく。

 

 手を引かれながら、周りを見渡す。

 小さなお店がたくさん並んでいる。だが、中に、人はいないように見える。

 

「…………」

 

「不思議かい? 店の中にあるものは自由に持っていっていい……だから会計も見張りも不要で無人。不思議なことに、補充はいつの間にやらされているんだ。あと、飲食店じゃ、食べ物は選べば自動で運ばれてくる」

 

 振り返り、ちらりと俺の顔を窺いながら彼女は言った。

 

「自動……?」

 

「あぁ、自動さ……ただ、見えるのは運ばれてくるところまでだ。どうやって作られているかはボクたちにはわからない」

 

「……不思議だな……それは」

 

「ふふ、ボクの予想じゃ、なにもないところにポンと完成品が現れる。なにせ、ここは死後の世界……なんでもありというわけだね」

 

「…………」

 

 今ひとつ、納得がいかない。現実世界というのは、緻密なルールがあり、そのどれかがズレていれば容易く破綻してしまう。

 死後の世界とはいえ、なんらかの法則はあるはずだ。彼女の言うような無秩序を許容するほど自然は寛容ではないのだから。

 

「小難しいことを考える必要はないんだ。楽しめばいい。ここはそういう場所なんだから」

 

「……そう……なのか?」

 

 穏やかな声だった。今までの胡散臭さは消えないが、ある種の誠実ささえ感じられるような、そんな奇妙な感覚を受ける。

 

「さあ、見てくれよ……」

 

 手を繋いだまま、彼女は立ち止まった。方手を広げて、促す。

 広がる光景は、目を奪われるに十分なものだった。

 

「これはアジサイか……? すごいな……」

 

 道に沿い、アジサイの木が平行に、整然と並んでいる。平行な線もいつかは交差する――( )まるで無限遠点まで続いていくかのような、そんな錯覚さえ覚えてしまうほどにその道は長く、遠く。

 色取り取りの――赤に、黄に、緑に、青に、紫に、あらゆるスペクトルの光を取り揃えて、彼方まで果てしなく続く道でも、見るものをきっと飽きさせない。

 

 アジサイ……この花を見ると、どうしてか心がざわついてしまう。

 

「……む……。喜んでくれると思ったけどボクの検討違いだったか……」

 

「いや、すごい……。これは本当にすごい。こんな光景、滅多に見られるものじゃないからな……。案内をしてもらえて、よかった。……ありがとう……」

 

「お礼はいいよ。そんなふうに、しかめっつらじゃ、案内をしたボクに気を遣っているのは丸わかりさ……」

 

「…………」

 

 眉間に指を当ててみれば、無意識のうちにシワが寄ってしまっていたことがわかる。

 

「ボクはキミがこの光景に感動して……涙を流すはないにしても、あぜんとして喜ぶとか、大はしゃぎだとか、そんな反応をすると思って期待していたんだ……。あぁ、どうやら、ボクは間違っていたようだ……」

 

 明らかに落胆したように、彼女は肩を落としていた。

 

 俺には記憶がないから定かではないが、俺はこの花のことが、アジサイのことが、たぶん、苦手なんだと思う。

 この花を見るたびに、どうしても胸が締め付けられるように苦しい。なにか嫌な思い出が脳裏を掠め、すんでのところで思い出せない。居心地が悪くてしかたがない。

 

「あ……いや……すまない……」

 

「さて、気を取り直して次に行こうか」

 

 その声はとても暗かった。あるいは、今にも泣き出してしまいそうなものとも思えた。

 表情こそ取り繕っているようだが、今までの飄々とした印象を拭い去ってしまうほどに、彼女の姿はか弱く映る。

 

「…………」

 

 もしかしたら、俺はこの少女のことを、なにか勘違いしているのかもしれない。

 

「さぁ、ご飯でも食べようか……? ボクが作れないわけでもないけれど、少し気分じゃないんだ。今日は外食にしよう」

 

「あ、あぁ」

 

 そうやって連れて行かれたのは、ハンバーガーのお店だった。

 大衆路線の……味が濃く、食べすぎたら健康に悪い、安いハンバーガーを売っているお店を連想させるような建物だった。

 

「いろいろと、高級店に手を出してみたけれど、結局はこういうお店に落ち着いてしまうものさ……。そうは思わないかい?」

 

「そうかもな……」

 

 二人で中に入るが、人がいない。

 定員がいないという話ならば、さっきもしたが、客さえも一人もいなかった。

 

「ふふ、この街には、それほど人はいない……。おおよそ人一人が満たされるに足る有り余る物資、そのおかげで生前果たせなかった充足を得ることができる」

 

 そう俺に言いながらも、彼女は店に備え付けられたマイクに注文を伝えていく。

 俺もそれにならい、目についた――( )メニューの一番上にあるものを頼んだ。

 

「最初も言ってたな……未練を果たすって……。それって、どういう意味なんだ……?」

 

 待ち時間もなく、頼んだものが運ばれてきた。ベルトコンベアのようなものにより、料理の載せられたトレーが流れてくる。たしかに自動だ。

 

「ここは生前の未練に囚われた者たちの漂う街なんだ。死んだからといって、そこで終わりじゃない。生きていてっ……、たとえ報われなくとも、きっと死後には救いが待っている。はむ……っ。ここは、そういう場所なんだ……もぐもぐ」

 

「…………」

 

「そしてここで満足した人間は、魂を浄化され、消えていくというわけだね。……ごくん」

 

「食べながら話すのは、あまり行儀が良くないぞ?」

 

 届いたハンバーガーを齧りながら、彼女は喋っていた。それが気になって、会話に集中できなかった。

 

「すまないね。でも、キミは食べないのかい? 冷めてしまっても味はあまり変わらないし……温かいまま食べる価値があるほどのものかと聞かれれば、首をかしげざるを得ないが……まぁ、作りたてをお勧めするよ」

 

「そうだな……」

 

 注文が来るまでと、話しかけてしまったが、思った以上に待ち時間がなかった。

 進められるがままに、届けられたハンバーガーに手をつける。

 

「高級な素材は使っていないし、高名な職人が作るわけでもないけれど、こういう店の味の画一性は一級品さ。どこへいったって、同じ味だよ」

 

「言われてみれば……懐かしい味……かもしれないな……」

 

 記憶がないからこそ、正確にはわからないけれど、どこかで食べたような、そんな気になってしまうような味だった。

 

「それにしても……ボクがさっさと注文をしてしまったからだろう? ボクを待たせたくないからキミは、メニューの一番上を選んだ。急かしてしまったね。申し訳ないことをしてしまったと思う」

 

「いや……俺はこれがいいと思ったから……」

 

「……別にいいんだ。一緒に迷う楽しみもあったはずなのに、それを棒に振ったのはボク自身だからね。……はぁ、初めてくるはずの店なのに、キミは迷う様子もなかった。気を遣うのもいいが、そんなことでボクはキミを嫌いになったりしないさ」

 

 呆れたように彼女は言う。

 彼女に図星を突かれた形だ。彼女の観察眼に舌を巻く。

 油断ならない相手だと、どうしても俺は警戒を強くせざるを得ない。

 

「あぁ、それで……未練を果たす話だったな……。ここは未練を果たす場所だって……」

 

「む……さっきの話は(けむ)に巻くつもりかい? まぁ、キミがいいならいいけれど……いや、よくないけれど……今はよしておこうか……」

 

「…………」

 

「どこまで話したか……。そうだった……ここでは生前の未練を果たすと存在が保てなくて消えてしまうわけだ。こう、光になって、ほわーっとねっ! その現象を、天に召される、そうみんなは表現している」

 

「なんというか……宗教的だな……」

 

 彼女の言っていることが真実かはわからない。けれどその言葉は信用できると思った。だからこそ、不可解なこの世界に、騙されているのではないかと感じる。

 あぁ、到底、その説明は受け入れられない。

 

「現世での常識は通用しないさ……。見たものを見たままに受け入れればいい。それだけの話なんだ」

 

「だとしても、ルールはルールだろう? 無秩序なのは量子の世界だけでいい……」

 

 やはりだ、違和感が拭えない。

 彼女の言う通り、死者の未練を果たすためにこの街があるのだとしたら、それはとても――( )()()()()()

 

 自然の掟というのは、人間にまるで配慮がなく、厳しく、とても残酷なものだったはずだ。

 人間の心が主題となるこの死後の街の仕組みは、まるで自然的ではなかった。

 

「ふふふ……」

 

 そして、彼女は笑った。とても楽しげに笑っていた。

 

「どうした……?」

 

「実際に目で見て確かめる。どんなに式をこねくり回しても、結局は実際に手を動かしてやってみなくちゃならない……」

 

「…………」

 

「ここで話していても水掛け論だろう。ここは一つ、建設的に今日の宿の話でもしようじゃないか……」

 

 ただ偶然会っただけのこの少女が、ここの全てを知っているわけがない。

 この世界の不自然さを語ろうとも、なにか解決するわけでもないのはわかりきったことだった。

 

「そうだな……うん、それがいい。それで、泊まれる場所はあるのか?」

 

「ある、と言いたいところだけど……新しく住むにはまぁ、それなりに手順を踏む必要があるからね……。衣、食とすぐに手に入れられるけど、なぜだかここは住む場所についてはそうなんだ……。だから、今日はボクの部屋に泊まるといいよ」

 

「……っ」

 

「あぁ、一人で住むには広い部屋だよ」

 

 セットメニューについてきたオモチャをいじりながらも、上機嫌に彼女は言う。

 やはり、とても胡散臭い。そこまでの親切をされる義理はないはずだ。

 

「それはダメだ。だったら、野宿でいい」

 

「じゃあ、送ってくれよ? これから暗くなる。女性一人は危ないんじゃないかい? ボクを部屋まで送ってから、それは決めればいい」

 

「…………」

 

 警戒するなら今更、かもしれない。俺を罠に嵌めるなら、この建物でもできたはずだ。

 俺が断るのは、彼女が女性だからだ。体格でも力でも劣る。俺がその気になれば――( )彼女はきっと甘く見ている。

 

「さぁ、行こうか……」

 

 手を引かれて。

 その部屋はすぐ近くにあった。学生の住むような狭い貸家の一室、そんな部屋の前に連れて行かれた。

 

「広いって言ったよな……?」

 

「一人で住むには、だね。ボクの主観の意見だ。キミがどう思おうと、それはキミの自由だよ」

 

「…………」

 

 やはり、彼女は信用ならない人間なのだろう。そしてどうにも、小狡い。

 用意をしていたかのような言い訳文句に、俺は呆れるしかなかった。

 

「ふふ、入った入った……」

 

「な……っ」

 

 手を引っ張られ、中に入れられる。ドアの閉じた瞬間に、ガチャリという鍵の閉まる音がした。

 

「入ってしまえばこっちのものさ。ここの鍵は私にしか開けられないんだ……」

 

「どんな鍵だよ……!?」

 

 ドアの内側にはなんの変哲もないサムターンがついていた。解錠するため、つまみを回してみようとするが、びくともしない。

 どうやっても本当に開かなかった。

 

「このまま野宿されるの忍びないからね……少なくとも今日一晩は監禁させてもらうよ? いいね?」

 

「…………」

 

 このまま外に出られないからには、この部屋に泊まるしかない。

 このドアを開けるためには、彼女をどうにかして説得するしかないだろう。けれどそれをさせてくれそうにはない。

 

「ふう……」

 

 彼女部屋の中央に行くと、おもむろに服を脱ぎ始める。

 まるで予測のつかない行動に、俺は慌て、目を背けた。

 

「な……なにしてるんだ……!!」

 

「なにって……シャワーを浴びるんだ」

 

「いや、服を脱ぐなら脱衣所で……」

 

「残念ながら、そんな気の利いたものはこの部屋にはないんだ。ここはボクの部屋だからね……気をつかうのはキミの方だろう?」

 

 完全に服を脱いだ彼女は、パッと両腕を広げて、俺の方へ向き直った。そんな気配がした。

 キッチン、リビング、ダイニングが一体となったワンルームだった。バスルームへは曇りガラスのドア一枚で仕切られている。

 

「だからって……俺の前で堂々と脱ぎ始めるのはおかしいだろ! せめて一声かけるものじゃないか?」

 

「……シャイだね。一緒に入るかい?」

 

「気軽にそういうことを言うのは良くない」

 

 軽い彼女の言葉に辟易とする。

 俺のことをからかっているのはわかるが、もう少し自分の体を大切に扱うべきに違いない。

 

「はぁ……。ボクに男の見る目がない、というのなら、そういうことなのだろうね……」

 

 今ひとつ、会話が噛み合っていないような気がした。その含みのある声に戸惑う。

 なにを言うべきかと、視線をさまよわせていたら、ふと目に入ったものがあった。

 

「…………」

 

 通話機能のある携帯端末だ。てのひらサイズで、とても薄い。

 果たしてここには電波が届いているのか。あるいは別の用途なのか。疑問が頭によぎる。

 

「あぁ、それかい? それは現世との通信用さ……」

 

「通話ができるのか……!?」

 

「通話……といえば通話だね。枕元に立つというやつさ……。上手く使えば呪い殺すこともできると思うけど……」

 

「それって……こんなのでやることなのか……っ」

 

 とたんに目の前の端末が恐ろしいもののように思えてくる。

 幽霊だの呪いだの、オカルトチックな話だが、実際に起こっていたのならば、今の科学がそこに追いついていないだけの話だ。

 

 科学の世界は起こったことが全て。理論と現実がそぐわないならば、それは理論が間違っている。

 

「この形なら、使いやすくていいじゃないか……。ボクは気に入ってるけど……」

 

「そういうものか……」

 

 この形の納得いく説明を、彼女に求めるのは間違っているかもしれない。

 手元にある電子機器の仕組みを理解した上で使っている人間は、ほとんどいないのだから。

 

「そうそう……生前の縁のある人、物、あるいは場所の近くしか繋がらないから、そんなに便利なものじゃないんだ。あんまり期待しない方がいい」

 

「そうなのか……?」

 

 とはいえ、俺には記憶がない。

 記憶がなくとも生前の縁のあるなにかに繋がるのか。あるいは記憶がないなら、繋がらないのか。

 疑問が浮かぶ。

 

「あぁ、それを繋げるには生前の記憶を思い浮かべる必要があるから、キミには無用の長物さ」

 

 俺が尋ねる前に先んじて、そう説明される。まるで思考が読まれたような、そんな奇妙な感覚だった。

 

「そうか……。じゃあ……――あっ」

 

「あ……っ、にゃっ……、や……っ。み、見ないでくれ!」

 

 彼女が裸のことを忘れていた。振り返ってしまった。

 自分の裸を俺に見せびらかすように立ち振る舞っていた彼女だが、一転して俺に背を向け、部屋の隅に縮こまってしまっている。

 

「す、すまない!! わざとじゃないんだ……!」

 

「う……っ、襲われてしまう……。ボクの裸をみて、そういう気分になってしまっただろう? あぁ、シャワーの後がよかったけど……ボク……うぅ……生娘なんだ……」

 

「お、落ち着け……。なにもしないぞ……!」

 

「それはそれで失礼じゃないかい?」

 

 ケロッとした調子で、俺に背を向けたまま立ち上がった。そのままに、髪を結ぶ。

 

「だいたい、見られるのが嫌だったら……」

 

「ふふ、柄じゃないことはするべきじゃないね」

 

 背中を向けたまま、首を捻り、横顔をこちらに見せる。恥ずかしさからか、まだ朱が刺している様子だった。

 

 そのまま、こちらに見せないように隠しながら、とたとたと歩いてシャワールームまで向かっていく。

 

「なんだったんだよ……」

 

 彼女の行動の理由がわからなかった。

 ここが本当に死後の街で、何もかもに満たされている場所であるのなら、こうして俺に恩を売る必要もないはずだった。

 

 この世界の仕組みについて。彼女の思惑について。考えれば考えるほどに、分からないことが増していく。

 何か見落としていないかと、今までの出来事を振り返ってみるが、まるで分からなかった。

 

「あ……っ、んぅ、んん。はぁ……はぁ……。あっん……。うぅ……ん」

 

「…………」

 

 シャワールームから、シャワーの流れる音に混じって、喘ぎ声が聞こえてくる。

 なにをしているかはわからないが、聞こえるたびに思考を蝕まれる。そんな甘い声だった。

 

「んんんっ……ふぅ……。あ、あ、っう……。ひゃ……っ!」

 

「…………」

 

 部屋のあちこちを動き回るが、嫌でも聞こえてきてしまう。

 煩悶とした時間が続いていく。

 小一時間ほどであろうか、そんな声に落ち着きをなくしていた。

 

「ふぅ……ふぅ……。はぁ……っ、すまない? 聞こえているかい?」

 

「あぁ、よく聞こえている。すごく、よくだ」

 

「……? もうすぐ出るから、むこうを向いていてくれないかい?」

 

「あぁ、わかった」

 

 ようやくこの責め苦から逃れられると安心した。

 シャワールームの入り口を開ける音がして、その後には布の擦れる音がする。

 

「もういいよ?」

 

「ん? あぁ……」

 

 振り向く。ドライヤーを手に取って、髪を乾かそうとしている彼女の姿がある。

 

 下着姿で、服は着ていない。

 そして下着が特に目を引くデザインだった。布地の全体の面積は狭く、上下共に紐で結ぶタイプだった。赤い生地は細かい網目状で、肌が透けてしまっている。黒色のレースやら、フリルやら、やけに凝った装飾で隠れるおかげで、下着としての機能をようやく果たせているよう。

 

「どうしたんだい? そんなに目を丸くして……」

 

「いや、服は着ないのか?」

 

 その姿は目に毒だった。

 扇情的で、あるいは裸よりも彼女の魅力を引き立てているようにさえ思える格好だ。

 

「ふふふ、裸よりはマシだと思ってね。ただ、そんなにじろじろ見つめられてしまえば、これでも恥ずかしいんだ。まぁ、恥ずかしいからといって、さっきみたいに逃げて行ったりはしないけれどね。とりゃー」

 

「うぐ……」

 

 そう言って彼女は、頬を朱に染めながら、ドライヤーの熱風をこちらの顔に浴びせかけてきた。

 とっさに顔を腕で覆い、彼女から目を逸らす。

 

「シャワーでも浴びてきたらいい。あぁ、バスタブのお湯は自由に使ってもらって構わない。どんなふうに使っても、ボクは怒らないよ?」

 

「バスタブ……お湯、溜まってるのか?」

 

 シャワーしかないのだと思っていたが、バスタブもあるようだった。

 ただ、そうだとして、ここに来てからすぐに彼女はバスルームへと向かったわけだ。浴槽にお湯をためている時間なんてなかったはずだ。

 

「あぁ、タイマーだよ。時限式だね。いつも帰ってくる時間に合わせてお湯がたまるようになっているんだ。ふふふ、ボクの浸かったお湯で、ゆっくりしてくればいいよ」

 

 なにか含みのある言い方だった。

 彼女が何を考えているのかよくわからない。その言動は、なにか、狙いがあってやっているように思えるが、それが、俺にはわからなかった。

 

「あぁ、じゃあ、シャワーだけで済ませるよ。脱ぐから、そっちを向いていてくれ」

 

「男だろう? 別に恥ずかしがることはないんじゃないかい?」

 

「男だって、恥ずかしいものは恥ずかしい」

 

 彼女が、後ろを向いたことを確認して、衣服を脱ぐ。

 改めて、服を見るが、なんてことのない、そこらへんの衣料品量販店で売っていそうな服だった。

 畳んで、シャワー室の中に入る。

 

 洗面所、そしてトイレと浴槽が一体になったものだ。浴槽とトイレを区切るためのカーテンがあると思ったが、カーテンレールには何もかかっていない。

 

 手っ取り早く終わらせよう。

 汗を流して、髪から、身体までを洗っていく。シャンプーやボディソープは、どこかで見たことのあるようなロゴマークが入っているものだった。

 

 全身を洗い終わって、鏡を見る。

 記憶を失い、この街に来て、自分の顔を見るのは初めてだった。

 鏡についた水滴を拭き取って、自分の顔をよく見てみる……。

 

 その鏡のすみには、浴室のドアをかすかに開けて、こちらを覗いていた顔があった。

 

「じー……」

 

「……はぁ」

 

「ぎゃー」

 

 シャワーのお湯をかけると、悲鳴を上げながらも退散していった。

 彼女が何をやりたいのか、わからない。この分だと、浴槽のお湯は本当に使わない方がいいだろう。

 

 もう一度、シャワーのお湯で体を温めて、浴室から出る。

 あまりリラックスできる時間ではなかった。

 

「出るから、こっちを見るなよ?」

 

「見るなと言われたら見たくなるのが、人情じゃないかい?」

 

「俺はあまり見られたくない」

 

 今日、出会ったばかりの相手に、そこまで心を開くことは無理だった。なによりも、彼女のことが、どうしても信じられない。

 

「あぁ、タオルと着替えは置いておいたから」

 

 着替えは、なんてことはない男物のルームウェアだった。着替えて、ありがとうと、お礼を伝えておく。

 ただ、ここに来るまでに衣料品を揃えたわけではない。俺に合うような男物の服があることが、少し疑問だった。

 

「なぁ、男を泊めることって、よくあるのか?」

 

「にゃ? どういう意味だい?」

 

「いや、服があるから。パートナーがいるなら、申し訳ないと思って……」

 

「……え……?」

 

 彼女は、目をぱちくりとさせて、呆けたような顔をしていた。俺の質問の意味が、まるでわからないというような様子だった。

 

「女性の一人暮らしに、男物の服があるのって、不自然だろう? だからよく泊まる誰かがいて、その人の服なんじゃないかと思ったんだ」

 

「あ……っ、あぁ! ふふ、ふふふふ。その心配は杞憂だね。そんな相手いないさ。今も昔も、ボクは清い生娘だよ。身も心も、人生で一人の男に尽くす予定さ」

 

「じゃあ……」

 

「それは新品だね。いつ運命の人が泊まってもいいように、ボクは準備していたんだ。ふふっ」

 

 調子を上げて、悪戯っぽく彼女は笑った。

 彼女の一言一言は、いちいち芝居がかっている。その内容もとても不自然きわまりない。

 何か誤魔化しが含まれているようで引っかかるが、探っても素直に答えるとも思えなかった。これ以上、食い下がる意味もないだろう。

 

「あぁ、わかったよ……。ありがとうな」

 

「ふふ、お礼を言われるほどのことじゃあ、ないさ」

 

 なぜか彼女は嬉しそうだった。

 だらしない笑みを浮かべている。なにかしらの言葉にされない目的が彼女にはあるのだと疑ってはいるのだが、そうではないかもしれないと頭によぎってしまうくらいだ。

 そもそも、今も含めて、何度か会話が噛み合っていなかったような気がする。

 

 考えても、わからないことばかりだった。

 

「はぁ……。疲れたな……」

 

 死後の世界だと彼女は言ったが、疲労は溜まってしまっている。

 少しだけ落ち着いたからか、一気にその疲れを感じた。

 

「じゃあ、眠るかい? ほら……ここが空いてるよ?」

 

 彼女はベッドの上に座ったまま、隣にくるようにマットを叩いて催促をしている。意味がわからなかった。

 流石に彼女は下着のまま寝ないようで、今は透き通るような生地でできたワンピースタイプの寝衣を纏っている。

 

「いや、空いてないからな。俺は床で寝る」

 

 ソファなんて気の利いたものはなかった。

 だから、床に横になるしかない。寝る場所を申し訳程度にでも、綺麗にしようと、掃除用具を借りようとする。

 

「え……たしかにシングルベッドだけど……ぎゅっと詰めれば二人くらい寝られるよ?」

 

 明らかにとぼけているとわかる。

 彼女を無視して、部屋の隅にあった掃除用具で、寝るためのスペースを作る。

 

「はぁ……こんなもんだな……」

 

 片付けて、横になる。

 思い出せない記憶に、ここを死後の世界と言う彼女のこと、さらには死後の世界と言われても納得できるような破茶滅茶なこの街。

 考えなければならないことはたくさんあるが、とにかく今日は疲れてしまった。

 

「いやいや、本当にそんなところで寝るのかい?」

 

「当たり前だ」

 

「まぁ、うん。キミならそうするだろうね……はぁ……。本当に面倒な性格だよ……」

 

 諦めたように彼女はため息をついた。

 そんな言葉も適当に聞き流す。

 

「そういえば、死後の世界って……未練を果たすって話ならしたけど、死後って、どうしてなんだ? 死んだときの記憶でもあるのか? 俺はないけど」

 

「ん……? あぁ……まぁ、自分が死んだというのが信じられないっていうのはわかるよ。でも、死んでからみんなここに来ている。人間はみんなね……。現世への通信機があっただろう? キミには無理だろうけど、やり方次第じゃ、あれで自分の葬式を見れるからね」

 

「自分の葬式って、なんかやだな……」

 

 もし、俺が本当に死んだのだとして、それを悼んでくれる人は果たしているのだろうか。そんなことが頭をよぎった。

 死んだら誰かが悲しんでくれるような、立派な人間で、俺はいられたのだろうか。

 

 寝返りを打つ。彼女に背を向ける。

 記憶のないからわからないが、なんとなく、俺はそんな人間でないような気がして、自分以外の誰かを見ていることが辛くなった。

 

 ふと、背中から温もりを感じる。

 

「ふふ、大丈夫さ。キミの葬式には、きっとたくさんの人が来たからね。たくさんの人に死を惜しまれた。大丈夫だよ」

 

 首もとへと手を回して、全身を密着をさせるようにだった。

 なぜ、彼女がそんなことをするのか、俺にはわからない。それでも、とにかく温かいと思った。

 

「早くベッドに戻ってくれ」

 

「明日、朝起きて体じゅうが痛くなっていたら、君のせいだからね?」

 

 どうにかして、彼女をと思ったが、どこまでも落ち着いてしまって、体が動いてくれなかった。もう少し、このままでいたかった。

 

 そんな心地の良い中、俺はいつしか眠って――( )

 

 

 

 ***

 

 

 

「ねぇ、ここに連れてくれば大丈夫だったんじゃないの!?」

 

 ここは……どこだ?

 ガラス越しにはレネがいる。俺の大切な妹だ。それはわかった。

 

「『フェイタル・レバーサー』さえ起動できれば……です」

 

「そうね。けれど、大天使はそれぞれの力についての不可侵を、協定で結んでいる。神の力にも等しい技術を、そうやって独占している。科学の力は皆に等しく与えられるべきだと私は思うけれども……。まぁ、そのせいで、『セレスティアル・スプリッター』以外の使い方を知らないのでしょう……?」

 

「はい、たしかにそうです。けれども、わたくしたちの持つ知恵は、人に過ぎたるもの……安易に広めてはいけないという戒めから、こうなっていて……」

 

 たしかに、大天使の持つ力は、それぞれが強大すぎる。

 時に道徳さえ踏み躙り、神の御業とも思える事象を軽々と起こしてしまう。

 

「そんなことはどうでもいいでしょ! 今は……ラル兄が……!!」

 

 俺は……どうしたんだったか。

 確か、配給を受け取りに行って、途中、確か……誰かにぶつかって……あぁ……よく思い出せない。

 何か良くないことが起こった。なんとなく、それだけはわかる。

 

「ええ……、ですから……。あの人の書いた論文には、全て目を通している。基本原理は知っていますから、それを完全に理解して応用すればいい……五十年……いや、三十年ほど時間をくださいませんか? 必ずや成し遂げて見せます」

 

「わかってるでしょう? 『グラビティ・リアクター』で時間の進みを遅らせているわ。でも、この出力のままじゃ、そんなには普通に保たないわよ?」

 

「と、とにかく……論文を書き出しますから……。この『フェイタル・レバーサー』を使い熟せるようにならなければ……知恵を合わせればきっと、わたくし一人よりも……」

 

 どうやら焦っているようだった。

 ただ、どういう状況かわからなくとも、ラミエルが気の長すぎることを言ったというのはわかる。

 長く稼働してきたアンドロイドだからこそ、人間と感覚がずれてしまっているのだろう。

 

「これが……『フェイタル・レバーサー』の……?」

 

「ええ……。こうして丸々記録には残っていますが、わたくしには前提となる知識がいくつか欠けているので、完全に理解することはできていません……」

 

 立式は綺麗だった。

 ただ、他分野から持ってきた特殊な技法からの変形が、読者を戸惑わせてしまう。この分野の専門家が読んだとしても、式の途中に、なにが起こっているのかはまずわからないだろう。

 

「ね、ねぇ……? この三角ってなに……?」

 

「そこからなの……? いえ……えぇ……下層階級出身なら仕方ないわね……」

 

 レネは難解な問題に触れずに育ってきた。

 そもそも、才能がないと判断されたから、俺と一緒に……。レネはおそらく、簡単な数学な問題も解けないだろう。

 

「妹さんは……とりあえず休んでいてください。わたくしたちで、きっとなんとかしますから……」

 

「うぅ……」

 

 役に立てないことを、レネは悔やむようだった。

 今すぐにでも、声をかけてやりたい。けれど、なぜか体が動かない。

 

 俺は……確か――。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ん……」

 

 夢を……夢を見ていた気がする。忘れてはいけない夢だったような気もするが、思い出すことができない。

 夢というのは、そういうものだ。

 

「起きたかい? 朝食なら、できているよ?」

 

 そうだった。見知らぬ街で、見知らぬ女性の部屋に閉じ込められて、一晩を過ごしたのだった。

 

「あぁ……」

 

 まだ起きたばかりで、意識がはっきりとしない。

 ただ、寝違えたのか、首筋の痛い。それだけはわかった。

 

「やっぱり、そんなふうに痛がるなら、無理にでもベッドに連れて行けばよかったかな?」

 

 しきりに俺が痛む首筋を触っていたのを見てだろう、不満げに彼女は言う。

 だんだんと頭が働いてきた。昨日のことを思い出せる。どうしてか、彼女は俺を同じベッドに寝たせたがっていたのだった。

 

「そういうのは良くないだろ」

 

「でも、結局、ボクと一緒に寝たじゃないか?」

 

「…………」

 

 思い出した。たしか後ろから抱きつかれて、その後に強烈な眠気に襲われたのだった。

 自分のあり得ない失態に後悔し、こわばり、眉間に皺がよるのがわかった。

 

「それにしても、信じられない。頑張って女の子の方から誘ったんだぜ? それでなにもしないとか……ありえないじゃないか?」

 

「…………」

 

 彼女がどこまで真実を言っているかわからない。適当に聞き流しておくのがいいだろう。

 

「はぁ……まぁ、いいけど……。さっ、朝ご飯だよ、朝ご飯。冷めないうちにとは言わない。何度でも温め直すからね……っ」

 

 彼女はエプロンを片づけていた。

 どうやら着替えを済ませていて、チュニックに、カジュアルなショートパンツを合わせて足を大きく露出させている。

 服選びも含めてか、やはり大人と言うにはやや幼い印象を受けてしまう。

 

「俺の分まで……」

 

 テーブルの上を見ればもう朝食が用意されている。

 フレンチトーストに、ベーコン、フライドエッグ、あとはコーヒーか、一般的な朝食だった。

 

「ん? あ……キミのはこっちだった!」

 

 さっと、彼女は取り替える。

 少し予想しない行動だった。替えたからには理由があるのだろう。とっさに何か違うのかと見比べてしまう。

 全体的に量が増えているか。あとは、そう、コーヒーがスープに変わっている。

 

「別に俺はどっちでも構わない」

 

「いやいや、男の子だから、それなりに食べるだろう? それに、コーヒーは嫌いな人もいるから、まぁ、そっちを出そうと思ってね。コーヒーの方がよかったかい?」

 

「いや……」

 

 記憶はないが、俺はコーヒーは苦手だったと思う。

 彼女の言う通り、苦手な人はとことん苦手な飲み物だ。彼女の行動も、おかしいわけではないか。

 

「さぁ、さぁ、食べてくれよ。ボクが丹精こめて作った料理だ。……まぁ、そんなに時間をかけてもないけど」

 

「……あぁ、いただくよ」

 

 どんなに手軽と言われるものでも料理は料理だ。手間がかかっている。

 本当なら、自分でなんとかしたかったが、こうして用意された以上、温かいうちに食べるのが礼儀だろう。

 

 促されるままにフレンチトーストを口に運ぶ。

 

「どうだい? 味はするかい?」

 

「少し甘すぎるかもな……」

 

 味に繊細さはなかった。

 ただただ甘く、それだけを舌は感じる。

 

「え……ほんとに? あぁ、ほんとだ」

 

 不意に、こちらに体を寄せて、俺が手に持つフレンチトーストに彼女は齧り付いていた。

 

 味見はしなかったのだろう。

 場当たり的で不完全な手作り感の溢れる料理に、どこか懐かしさを感じてしまう。

 

「でも、うん、美味しい。俺は好きだよ」

 

 それに、この頭に染み渡るような甘さは、俺は嫌いではなかった。

 

「ふふ、そうかい? なら、ボクも好きかもね」

 

「俺に合わせる必要はないんだぞ?」

 

「ん……? ほら、こっちも食べなよ?」

 

 俺の言葉は聞き流された。

 そのままに彼女はフォークで俺の皿のハムを突き刺して、俺の口もとに突き出している。

 

 彼女の予想外の行動に、少しだけ面をくらう。

 彼女の顔を伺ったが、特に何かを、思ったような顔をしていなかった。

 

「あぁ……」

 

 差し出されままに食べる。

 塩気があって、肉の旨味が感じられる。好ましい焼き加減だった。

 

「美味しいかい?」

 

「あぁ……美味しい」

 

 こんなふうな、だれかと一緒の食事に、安らぎを覚えてしまう自分がいる。

 

 味についての感想を言い合いながら、食事が進む。

 楽しい時間、だったと思う。

 

「ふう、食べ終わったし、片付けようか」

 

「あぁ、俺がやる。これくらいはやらないとな」

 

「え、あぁ、ボクがやるから……」

 

「いや、そういうのはよくない」

 

 作る方が大変だろう。

 皿洗いに、食器や、料理道具の片付けくらいなら、俺でもそれほど苦労なくできる仕事だった。

 

「まぁ、じゃあ、ボクは後ろで見てよう」

 

 彼女は少し心配げだった。

 俺のことが、あまり信用できていないのかもしれない。

 

 実際に、いくつか口出しをされて、片付けが進んでいく。

 俺のやり方はいくつか大雑把なところがあったか、彼女には少し呆れられる。

 

「こんなものか……」

 

「まぁ、及第点だね。これからに期待かな……。それじゃあ、出かけよう。キミも着替えてくれよ」

 

「うん、わかった」

 

 どうやら、服は用意されているようだった。

 よく見れば、昨日着ていたものとは違う。黒地に白で、有名な式がいくつも書かれている柄物のワイシャツだった。ちなみにズボンは無地のものだ。

 

「さぁて、今日はどこに行こうか? 遊園地で遊び尽くすかい? 高級料理店でも食べ歩くかい? それとも、学校で青春を取り戻すかい? この街では、人生でやり残したいことのおおよそはできる」

 

 死後の世界というのも、内心では半信半疑だった。

 彼女をどこまで信用していいかもまだわからないけれど、昨日よりは、まだ歩み寄れる。

 

「俺には記憶がないから……そう言われてもな。よくわからない」

 

「じゃあ、今日もボクのお気に入りのところに行こうか。ついてくるんだ」

 

 そう言って、彼女はドアを開ける。

 密閉された室内とは違い、外は爽やかな風が流れる。

 

 風、というのは空気の流れだ。太陽の光に地面が暖められ、暖められた地面から空気に熱が伝わり膨張、気圧差から風が吹く。

 

 だが、ここが死後の世界と言うならば、この空を照らす太陽とはなんなのだろうか。ここは地球と同じような、惑星なのだろうか。

 

「あ、おはようございます」

 

 若い少女に見えるか、手に持った端末を眺めながら歩いているようだった。物音から、こちらに気がついたのか、少しだけ、その端末から顔をそらし、俺たちの方を向いて挨拶をした。

 

「うん、おはよう。マリア……いい朝だね」

 

「あれ? その男の人は?」

 

「あぁ、うん。昨日偶然会ったんだよ。うん、偶然ね。記憶がないようだったから、今のところ、ボクがお世話をしているんだ」

 

「ふーん。偶然……かぁ。お部屋に入れてあげるなんてずいぶん……いや、いいけど……」

 

 なにかを言いかけて彼女はやめる。

 その後には、手に持った端末にまた、視線を戻していた。

 

「紹介しよう。彼女はお隣さんのマリアだ」

 

「あ……あぁ、よろしく」

 

「うん、よろしくね」

 

「…………」

 

 もう彼女は、こちらを見てくれない。

 答えながらも、ずっと視線は端末だった。

 

「じゃあ、私は用事があるからこれで……」

 

「そうだね。転ばないように気をつけるんだよ」

 

「わかってるって……」

 

 そうして、ずっと端末を見つめながら歩いていく。

 

 危ないと思った。

 俺の隣の彼女はやれやれと肩を竦める。その態度から、ずっとこの調子なのだろうことがわかる。

 

「なぁ、どうにかできないのか……?」

 

「ここは死後の街だからね。あれでも、まぁ、危険はないよ。彼女にも大切なものがあるんだ。未練を残さないようにね。だから、許してやってくれ……」

 

「未練……か……」

 

 本当に死後の街だとして、あのマリアという少女は、自分の未練を果たすために、全力で向き合っているのかもしれない。

 端末を見ながら歩くのは危ないが、そんな少女の行動を否定する気には、どうしてかなれなかった。

 

「それじゃあ、ボクたちも行こうか」

 

「ああ」

 

 彼女のお気に入りの場所ということだった。

 それなりに歩いた気がする。

 あのアジサイの咲く道に沿って、歩いて、数十分が経ったくらいのところだと思う。

 

「ここだよ……?」

 

「地球科学館……?」

 

 敷地は広く、大型のテーマパークもかくやというほどの大きさだった。

 いくつかの棟に建物が分かれていて、渡り廊下で繋がれているようであったが、どこか歪んでいるように感じられる。まるで重力が正しく下に働いていないような、そんな構造の部分もあった。

 

「首都にも、同じものがあったから、たぶんこれはそのコピーだね。ここで立ち止まっていても仕方がないから、さぁ、入ろうか」

 

「そうだな」

 

 立派な門を通って、建物に入る。

 入場の受付の場所は無人で、自由に中に入れるようになっていた。本来なら人で溢れていそうなのにも関わらず、誰もいない室内に、虚しさが感じられる。

 

「どうする? ここからは別れ道だ。道の上に、有名な名前が書かれた札があるだろう? 選んだ道の先では、その人物が解明した現象が体験できる。君はどれを選ぶんだい……?」

 

「そうだな……」

 

 見渡せば、それぞれの道に名前の書かれたアーチがある。

 

 たとえばあそこには、微分積分を発見し、光学に革命を起こし、重力の法則と天体の運動を結びつけ現代に繋がる力学を確立させた偉大な学者の名前がある。

 それ以外では、それまで連続な流体だと思われてきた空気に対してその粒子性を確固たるものとした論文、波動と信じられていた光に粒子性を導入し今まで説明できなかった現象を説明付けた論文、光速度を不変とし時間と空間の相対性を世の中知らしめた論文、質量とエネルギーを等価なものだと考察した論文、これらの論文を同じ年に発表したことによりその年は奇跡の年と呼ばれ、天才と称された学者の名前もあった。

 

 一通り見たが、どれも見知った偉大な学者の名前ばかりだ。

 俺の記憶は失われているが、暮らすための知識は残っていたし、これもそういう知識の仲間ということになっているのだろう。

 

「どうしたんだい?」

 

「いや、この名前が思い出せなくて……」

 

 だが、ただ一つ、俺の知らない名前があった。どうしても、思い出せない名前だった。

 

「あぁ、それならボクはよく知っている。AIの知能が人間の知能を超えたと言われる時代に、数多もの分野を横断し、革命的な論文をいくつも発表した()()()()()さ。その業績の数々は画期的で、当時人類が抱えていた問題の九割を解決したと言われている」

 

「……それはすごいな」

 

 きっと、俺がそんな人間だったのなら、胸を張って生きられたのだろう。

 実際にどうだったかは記憶がないからわからないが、太陽のもとを堂々と歩けない、そんな生き方をしていたような気がする。そんな不安にどうしても襲われてしまう。

 

「とりあえず、進んで業績を一つずつ見てみるかい?」

 

「え……」

 

「ふふふ、さぁ、行こうじゃないか……!」

 

「……あっ」

 

 なぜだか彼女は浮かれてしまっているようにさえ思えてしまう。

 やや押し気味だ。

 彼女に引きずられるようにして、その俺の見知らぬ学者の業績を辿る道へと進んでいた。

 

 それにしても、不思議だった。

 彼女が言うほどの業績があるにも関わらず、俺が知らないというのは明らかに不自然だった。

 学校の教科書にでも出て来てもいいはずだろう。それとも、忘れてしまっているのだろうか。

 

 その俺の知らない人物の業績を巡る。

 

 

 新暦0年――重力場における光子の振る舞いに対する考察。

 

 新暦元年――対称性と磁気単極子の相転移理論。

 

 新暦2年――エントロピーの限定的減少と範囲の拡張に関する理論。

 

 新暦4年――ポテンシャルに対する質量減損とNi以降の原子番号の原子核の結合の機序に対する考察。修正一般相対性理論。

 

 新暦5年――万物の理論(Theory of Everything)

 

 

 それからも、目が眩むような業績が続いていく。

 本当に、一人の人物によって打ち立てられたものかと疑うほどに、いくつもの分野を横断していて、ある意味で節操がないとも感じられてしまうものだった。

 

「どうだい? 彼は」

 

「正直、信じられない。これだけのことを一人の人間ができるのか?」

 

「あぁ、信じられない。信じられないけど、それでも彼はやってしまったんだ。驚くことにね……っ。すごいだろう? 特に当時は説の分かれていた重力について記述した理論を一まとめにして、当時、誰も見向きもしなかった数学の理論で全てを一つの綺麗な式で書き表したところなんて、非常に独創的さっ」

 

 その偉大な人物についてを語る彼女は、今までよりも生き生きとしているように感じられる。

 

「そんなに、好きなのか?」

 

「好き……っ? あぁ、好きだよ。正直に言えば、ボクは実利ばかりでこういう基礎的な部分はあまり詳しくはないけれど、すごいってことはわかる。偉大な人間は、偉大なほど憧れるだろう? ボクは彼以上に偉大な人間を、知らないからねっ」

 

「そういうものか……」

 

 ここに並ぶ数々の業績を見てしまえば、それに憧れるというのも納得がいく。こんな人間になれればと、俺もかすかに思ったからこそ、彼女には共感した。

 

「ふふ、すごいだろう? すごいだろう?」

 

 我がごとのように自慢する彼女だ。気持ちはわからないでもない。

 

 そんな偉業の数々を眺めていたら、少し疑問が浮かんだ。

 

「なぁ、ここ。毎年毎年……死ぬまでずっとなにか革命的な論文を発表していたように思えるけれど、ここだけ一年、空白がある。なにかあったのか?」

 

 本当に一つだけだ。それ以外は、年表が詰まっているのに、そこだけ一つ、ぽっかりと抜けがあった。

 

 当たり前のはなしだが、毎年、このレベルで革新的な論文を出せること自体が異常なのだから、抜けていること自体は、普通だ。なにもおかしいことではない。

 けれども、言い知れない違和感を、そこに俺は覚えてしまう。

 

「彼は人間さ。人間だからね。そういう年があっても別にいいんじゃないかい? 別に不自然ではないだろう?」

 

「あぁ、うん、そうだな。そうだ」

 

 彼女の反応から、病気に罹っていたとか、投獄されていたとか、そういう理由でないことがわかった。

 ただ単に、時期が合わなかっただけだろう。もしかしたら、ここに載っていないだけで、小さな成果を上げているのかもしれない。

 

「さて、ここから行こうか?」

 

 文字の書かれた扉だった。これは……磁気単極子に関する論文の題名か。開けて進んでいく。

 

「『セレスティアル・スプリッター』……」

 

 床一面に磁石が敷き詰められた部屋だった。

 わずかに地面から浮いた板がある。

 

「そうだね……鉄製品はくっ付いちゃうから、ここに置くようにね……と言っても、ボクの用意した服だから、そんなものはないから……。それに最近は磁石にくっ付くような純粋な鉄で出来た製品の方が珍しいかな……」

 

「鉄……か……」

 

 鉄、というのはありふれていて便利なものであった。

 なぜ、鉄が地球で他の金属より多く取れるのかは物理的な理由がある。核融合、あるいは核分裂でエネルギーが生じることはよく知られているが、融合や分裂を繰り返した終着点が鉄となっている。

 鉄は基本的に核分裂でも、核融合でもエネルギーを取り出すことができない。全ての元素は鉄に向かって融合や分裂を繰り返していくため、必然的に地球上では鉄がよく取れるようになっているわけだ。

 

 ただ、舗装された道路に磁石が使われるようになってから、合金でない磁石にくっ付くような鉄の製品は、身につけるものを中心に、めっきり減ってしまったのだった。

 同時に、科学技術の進歩により、あらゆる金属が鉄並みに安価に手に入るようになったこともあり、変化はより円滑に起こっていた。

 

「見てくれよ……? この板、ひっくり返してもまだ浮いているんだ」

 

「そうだな……磁気単極子だもんな……」

 

 きっと、彼女は何度も来たことがあるのだろうに、新鮮で楽しげにしているのが、少しおかしかった。

 しまいには、板の上に乗って、扇をあおいで部屋を縦横無尽に移動し始めている。

 

 磁石の効果で浮いているからこそ、地面との摩擦抵抗を受けない。たとえば彼女がやっているようなパタパタと扇ぐわずかなエネルギーでも、運動エネルギーの減損率が少ないおかげで移動が可能だった。

 けれども、そうやって必死に団扇であおいで移動している彼女の姿はどこか滑稽だった。

 

「なんだい? そんなふうに見るなら、キミがやってみるんだ」

 

「え……?」

 

 こっちまでパタパタとやってきた彼女は、俺にその団扇を渡して、別の場所へと引っぱっていく。

 二人で乗った磁力で浮く板は、二人乗り用だからか、彼女が一人で動かしていたものより大きい。質量がある。

 

「さぁ、行こうか、次の部屋まで」

 

「え……あ、あぁ」

 

 敵は空気抵抗だった。

 それほどの距離ではなかったが、腕にそれなりの疲労が溜まる。歩いた方がきっと楽だっただろう。

 

「ふふ、じゃあ次だ」

 

 エントロピーの減少についての論文の題名が書かれた扉だった。

 

「『フェイタル・レバーサー』……」

 

 目の前には水槽が置かれている。腕を広げたほどの大きさの水槽だ。腰の高さくらいの台の上に乗せられて、目線あたりまで水が入っていた。

 その水槽の前にはいくつかスイッチがある。

 

「このボタンを押すと、上からインクが落ちてくる」

 

「あぁ……」

 

 ぽたぽたと、水槽の上から空気抵抗を受けながら落ちてきたインクは、水に混じるように広がって、薄まっていく。

 

「エントロピーが増大している。エントロピー自体は熱力学的な量だけれど、こういう熱なんか関係なさそうな混合とかでも、そのエントロピーは増大するんだ」

 

「有名なパラドクスだな」

 

 このパラドクスは古典力学では説明がつかなかった。だが、量子力学の登場により、その不確定性から、同じ種類の粒子を区別しない不可弁別性が導入された結果、解決されている。

 

「ふふ……これは、老婆にイースターエッグの作り方を教えるようなものだったかな。とにかく、ボクはここで知って驚いたんだ」

 

 水槽の中の水の色を、大きく変えてしまうほどにインクは混じっていた。

 水に揺れて、広がるインクは――( )

 

「――二度と元には戻らない」

 

「だからこその、この力さ」

 

 静かにゆっくりと彼女はボタンを押す。

 そうすれば、まるで逆再生のように、水槽の一点に広がっていた色が集まり、水面を跳ね、水槽の上のインクの容器に戻っていく。

 

「あぁ、でも、これは出来損ないだ。たったこれだけの現象に、馬鹿げたほどのエネルギーを使う」

 

「けれども、神の力の一端でもあった。この、不可逆を可逆にする力に、ボクは惚れ込んだのさ」

 

 なにが面白いのかわからないが、一連の現象を彼女は目を輝かせて見つめていた。

 他にも、石を砕いた後に直したりだとか、その出来損ないの力を見せつけるような展示がいくつか並んでいた。

 

 彼女はどれも、楽しそうに試していたが、俺は乗り気にはなれずに、ずっと横で眺めていた。

 

「さぁ、次に行こうか」

 

「あぁ……。……ん?」

 

 彼女がドアを開けて、少し違和感があった。

 電磁気の部屋からエントロピーの部屋まで移動するときは、ドア一枚だったが、今回はわずかながらにスペースがある。それでもトイレがあるというわけではないようだ。

 

 一本道の通路だ。そこを歩いて、次の部屋までたどり着く。

 

「さっきのところもボクは好きだけど、ここはさらに……」

 

「ちょっと……、うぐ……っ、待ってくれ……」

 

 頭が痛い。唐突にだ。

 立っていられないほどだった。

 胸元に違和感が生じ、吐き気もしてくる。

 

「大丈夫かい……!?」

 

 彼女は、手をかけていた扉から離れて、俺に駆け寄り、躊躇わずに抱きしめてくれていた。優しく背中が摩られる。

 

 どこか意識が遠くなっていくかのような感覚だった。

 この世界ではない、どこかの次元の向こうに引き摺り込まれような、そんな不思議な感覚に襲われている。

 

 苦しい。

 苦しいが、治るまで待つしかない。いっそ、気を失ってしまえば楽だっただろうか。

 

「……、はぁ……」

 

 時間がどのくらい経ったかはわからない。まだ違和感はあるが、今はだいぶん楽になった。

 

「……。無理をさせちゃったかな……」

 

 小声で、俺を抱きしめたまま、優しく俺の背中を撫でて彼女は言った。

 

「無理はしてないはずだ。急に……急に苦しく……」

 

「言っただろう。もう死んでる。だからこそ、体の具合が悪くなるってことは、精神に原因があるのさ。無理をさせた以外にないわけだ。もう帰ろうか」

 

 俺の精神状態が、悪くなったということが、よくわからない。

 それまで異常がなにもなかったはずなのに、心の問題で、急にここまで具合が悪くなるものなのか。

 そもそも、それほど精神に不可がかかるような出来事はなかったはずだ。

 

「…………」

 

「肩を貸すよ。今日は一日、看病かな?」

 

「すまない……」

 

 迷惑はかけられないのに、俺にはどうにもできそうになかった。

 また、彼女のあの家で、過ごさないとならない。

 

 

 

 ***

 

 

 

 看病をしてくれた彼女は甲斐甲斐しく、だからこそ本当に申し訳なかった。

 あれから数日、彼女とともに過ごしてたが、俺のことを気遣ってくれて、最初の胡散臭いような印象が今はもう薄れてしまっている。

 

「さて、今日もボクらの未練を探しに出かけようか」

 

「なぁ、そろそろ住む場所を見つけないとと思うんだ。いつまでもこうやって世話になるわけにはいかないし」

 

「さぁ、今日はどこに行こうか? 大型のテーマパークでも行くかい?」

 

「…………」

 

 この話題をふると、彼女は決まって無視をする。

 ここ数日は寝食を共にしているわけだが、それでも相変わらず、なにを考えているのかわからない。

 

「ま、じゃあ、適当に街をふらつこうか……それでも十分楽しいし。なにかの拍子に見つかるかもしれないね。さ、いこう」

 

 適当に話をまとめて、彼女は部屋から出て行く。

 それに、渋々と俺はついていっている。同じようなやりとりをここ二、三日は繰り返しているような気がする。

 

「あ、おはようございます」

 

 隣に住んでいるマリアちゃんだ。今日も変わらず端末を手に持って、ジッと見つめつつ、俺たちに挨拶をしている。

 

「おはようマリア、今日もいい日だね」

 

「いつも天気は変わらないけどね」

 

 たしかに、俺がここに来た時から、天気はずっと変わっていない。

 晴れだ。

 

 科学技術が進んだ世の中でも、やはり雨の日はある。

 もちろん、ある程度操作をすることはできるのだが、災害が起こりそうなときだけに天候を変化させるのみだ。

 ずっとこんなふうに空が晴れていることなんてなかった。

 

 程よい風に、程よい日差し。毎日、出かけるために都合が良すぎるくらいだ。

 相変わらず、不自然な世界だろう。

 

「今日は大丈夫かい? 大丈夫なら、いっしょに街を回らないかい?」

 

「ううん。ダメかな。本当に忙しくて……。じゃあね……」

 

 そう言って、端末の画面に目線を固定したまま、そそくさと行ってしまう。

 日を追うごとに、余裕がなくなり、より彼女が時間に追われていってしまっているように見えた。

 

「誘うなんて、今日はどうしたんだ?」

 

「ん? あぁ、キミと二人も楽しいけれど、人数が多いと賑やかになると思ってね。それが、未練へのとっかかりになればいいなって」

 

「でも、あの子は……いつも忙しそうにしてるだろう?」

 

 ここは死後の世界だというが、だからこそか俺は一度も時間に追われたことはなかった。

 いつでも、なんでもできるような街だ。閉館や、閉店をしている時間はなく、どこだろうと丸一日、いつでも入れる。急ぐような理由はどこにも見つからない。

 だからあの子の忙しさを、疑問に思う。

 

「あぁ、今も近くのお店から持ち運べるような食べ物を貰ってくるところだろうね。ずっと画面を見て、片手が塞がるから一度にそれほど多くは運べない。毎日は大変だろうに」

 

「なんで、あんなに……」

 

「ボクたちにボクたちの事情があるように、彼女には彼女の事情があるんだ」

 

「そうか……」

 

 少し、はぐらかされたような気分になる。

 まぁ、彼女はあの子の事情を知っているのかもしれないが、他人の俺に言いふらすのを、好ましいと思っていないのだろう。

 口が軽いよりは、よほど好感が持てる。

 

「さぁ、じゃあ……ボクたちも。今日は行ったことのないお店でも探しに行こうかな」

 

「うん」

 

 それからは、適当に街を二人でふらついて過ごした。

 

 珍しいお店に行って食べたことのないものを食べたり、見かけたレジャー施設に入ってみて、二人で競ってみたり……そんなふうに遊び歩いた。

 

 本当に、なんでもない日だった。

 ゆったりと楽しい時間が流れていく。最近は、ずっと心が穏やかだった。

 

「あれ……、あれは……?」

 

「ん……?」

 

 道の真ん中で、光がひとかたまりに集まっていくような、そんな現象が起こっている。

 

 集まった光は、最終的には人の形に、より一際輝いた後には、そこにはひとりの人間がいた。

 

「ああ、ああやって、この世界にやってくるんだ。いきなりやってきて、困ってるだろうし、行ってくるよ」

 

「あ……あぁ」

 

 そう言って彼女は、道の真ん中に駆け寄って行く。その人は、現れたばかりだからか、困惑したようにで辺りをしきりに見渡していた。

 

「やぁ、大丈夫かい?」

 

 優しい声色で、彼女は尋ねかける。

 俺が初めてここにきた時を思い出したが、少し調子が違うように思えてしまう。

 

「ここは……? 天国……?」

 

「ここは、死後の世界さ。天国か地獄かはわからないけど……まぁ、生前の記憶があるなら話は早いか」

 

 ちらりと、彼女は俺のことを見ていた。

 未だに俺は、本当にここが死後の世界かどうか、疑わしく思っているが、そんな俺と見比べたのだろう。

 

「そうですか……」

 

 歳をとった女性だった。

 髪は真っ白に染まっている。皮膚はたるみ、顔には苦労の痕が、深い皺がいくつも刻まれていた。

 声はしわがれているが、落ち着いている。表情はとても穏やかで、見ている人を和ませるように感じられた。

 おおよそ人生を十分に、満足に生きたと思えるような女性だった。

 

「ここに来たってことは、なにか未練があるということなんだ……。ここは生前の未練を叶える場所だからね」

 

 俺のときにも言っていたが、彼女は、こうして人がこの街にきたとき、いつもこんなふうに言っているのかもしれない。

 

「未練ですか……? 私は、百まで……もう十分に生きましたから……未練なんてとても……」

 

「でも、この街じゃ、そういう心残りがないと消えてしまうからね。なんでも思いつくことはないかい?」

 

 まるまる一世紀……たしかに普通の人間なら、そのくらい生きれば十分だろう。

 医療技術や、機械技術の発展で、人間の寿命は伸びる一方だったが、それでも百まで生きれば長生きの部類だった。

 

「だったら、一つ……もし、ここが死後の世界なら、……母が、先に来ているはず……。会えるのなら、私の母に一目でいいから会いたくて……」

 

「……それは難しいかもしれないね。この街は、お店とかの数に比べて、人は極端に少ないから……アナタの母親がこの街にいる可能性は小さいだろう。それに、先に未練を果たしていなくなっている可能性もあるし……」

 

「そう……ですか……」

 

 老女は落胆する。

 会える可能性が少ないという、彼女の話は理に適っている。反論の余地がないとわかる。

 

「え……?」

 

 そうすれば、老女の身体から、存在感がなくなっていく。透き通るように、今にも消えて行こうとする。

 

「たまにあるんだ。きっと、それほどの未練ではなかったのだろうね。一言、二言話すだけで消えてしまうみたいな。きっと、諦めがついて、心が一区切りついたからだろうね」

 

 どうやら、本当に消えてしまうようだった。

 今の会話で、きっと満足できたのだろう。だからこそ、思い残しがなくなって、こんなふうに消えていける。

 それは、素晴らしいことだから――

 

「――いや、ちょっと待てよ……!! こんなの絶対おかしいだろ! ここは未練を果たすための場所なんだろ!」

 

 明らかに、未練は果たされていないだろう。

 それなのに、こんなふうに消えてしまうのは、あんまりだ。こんなことなどあってはならない。

 

「いえ、いいんです。……私はもう、満足に生きました……。これ以上望むことなんて……」

 

「探してくる。俺、探してくるから……。名前を教えてくれ……その人の名前を……」

 

「……名前は……」

 

 老女は少し考えるように、空を仰いだ。

 言葉に詰まっているように思える。とっさに思い出せなかったのか、俺も記憶が抜け落ちてしまっているから、似たような状況なのかもしれない。

 

「なんでもいい! なんでもいいから手がかりが欲しい。俺が探してくるから……っ! 今日一日だけでもいい」

 

「エリザベスが来ていると伝えてください。母がつけてくれた名前ですから……」

 

「なら、ボクも手伝うけど……」

 

「わかった。じゃあ未練が残るように続きが気になる話でもしておいてくれ。最後まで聞かないと死んでも死にきれないような、とびきりのやつな」

 

「相変わらず、無茶を言うね。わかったけど、少し、落ち着いてみたら――( )

 

 走り出す。

 彼女がどのくらい持たせられるかわからない以上、急ぐ他ない。

 

 とにかく、手当たり次第に見かけた人に尋ねていくしかない。

 人自体が、まばらにしかいない。一人探すにも、数分は間違いなく走らなければならない。

 

「すみません――!」

 

 事情を説明して、心当たりがないかを尋ねる。

 首を横に振られたから、お礼を言って、また次の人を探す。その繰り返しだった。

 

 途中で、あの人ではないかとか、そういう話を聞いたりもしたが、全て空振りだった。

 

 走り続け、身体にも疲労が溜まり、ペースはどんどんと落ちて行く。

 刻一刻と時間は過ぎていって、もう日が暮れる。人はもうほとんどいなくなってしまう。

 

 一度、戻った方がいい。

 日が落ちて、完全に暗くなってしまえば道を歩くことが危なくなる。この街には好きこのんで他人嫌がらせをするような人間は基本的にいないようだったから、不審者はないだろうけれども、万一がある。それに単純に暗闇の道で、転んでしまう可能性もある。

 

 見つけられなかったと、伝える他ない。

 

「……くそっ……!」

 

 自分自身に悪態をつく。

 なにか他にいい手がなかったかと、考えがぐるぐると頭を巡る。だが、俺ではこれが限界だった。俺でなかったのなら、見つけられたのかもしれない……。

 

 あの老女と出会った場所へと戻ったが、誰もいなかった。

 ただ、近くの壁には無造作に、俺がここを離れたときにはなかったはずの紙が貼ってある。

 

 ――日が沈む前に、帰ろうと思う。ご高齢の方だから、歩くのにも時間がかかるだろうし、多分、追いかけても間に合うかな。どちらの結果にしろ、キミが気に病む必要はないから……大丈夫さ。

 

 その紙を綺麗に剥がして服のポケットにしまい込んだ。

 悔しい。本当に悔しい。

 

 自分の力の足りなさもそうだが、こんなふうに彼女に気をつかわれてしまっていることが、なによりも悔しかった。

 やっぱり俺は、無力で、ロクな人間などではなかったのだろう。

 

 とにかく……彼女たちを追いかける。

 道を歩いて、だいぶん経ったところ……ちょうど俺たちの住む家に着く手前ほどで、彼女たちの姿を見つけることができた。

 

「ん、あぁ、来たみたいだね。張り紙は読んだかい?」

 

「あぁ……」

 

「そうかい。じゃあ、ボクは、この人を案内しようと思う……でも、狭い部屋だから、どうしようかなって思ってね」

 

「…………」

 

 俺が来たときは、広い部屋と言っていた記憶がある。

 まぁ、あとから一人で住むにはと、前提を後から付け足していたか。彼女の中では、矛盾していないのかもしれない。

 

「宿なら自分で探しますから……こんなふうに見ず知らずの私によくしてくださって……」

 

 老女は、申し訳なさそうに恐縮をしながら言った。

 

 ここまで、誰も俺の母親探しの結果を聞いていない。いや、誰も連れてきていないのだから、あえて聞かずともわかることだろう。

 なんとなく、気をつかわれているようで居心地が悪い。

 

「ふふ、別になんてことないさ。これはボクらのわがままだからね。わがままついでに、マリアに頼もうか。一日一人泊めてもらおうってね……!」

 

「え……?」

 

 彼女は、俺たちの部屋ではなく、隣の部屋の扉の前に立って、扉を無造作に叩く。

 

「おーい、マリアー。起きているかい? ボクだよ、ボク。少し用事があるんだ」

 

「…………」

 

 部屋の中からは、物音がする。

 慌てるような足音が聞こえて、次の瞬間には、バンと扉が勢いよく開かれる。

 

「おっと……」

 

「うわーん……。うぅ……ダメだった……私、ダメだったよ……ぅ」

 

 部屋から飛び出した少女は、その慣性のままに部屋を訪ねた彼女へと抱きつく。運動量保存に従い、少女を抱き止めた彼女は後ろへと倒れそうになるが、すんでのところで踏ん張っていた。

 

 いつも、休むことなく端末を見つめていた少女だったと思うが、なにも手には持っていない。

 

「あぁ、マリア。大丈夫さ。大丈夫だよ」

 

 優しく抱きしめて、少女を撫でていた。まるで、なにが起きたのかは俺にはわからなかったが、彼女には特に驚いた様子はない。

 

「……え……っ」

 

 声を発したのは、俺の隣で同じく彼女たちを見ていた老女だった。

 唖然とした表情で、二人を……いや、マリアを見ているようだった。

 

 たしかにあの少女の行動には、俺も驚いた。けれども、彼女のその声は、俺のそれとは明らかに違う。

 その漏らした声に釣られて、抱き合っていた二人は、老女の方へと顔を向けていた。

 

「え……そんな……」

 

 マリアが声を溢した後には、わずかな間の沈黙が流れる。

 本当に、僅かな間、だったと思う。けれども、重力で時間の流れが引き伸ばされしまったような、そんな、相対的に長く感じてしまうような沈黙だった。

 

「……っ……」

 

「っ……!」

 

 走り出したのは同時だった。

 老女と、少女の二人は、同時に、引きつけ合う磁石のように走り出した。

 

「あぁ、エリザベス……! 私の可愛いエリザベス!!」

 

「……お母さん……。私のお母さん……! そうだった……あなたの名前はマリアだった……!」

 

「ごめんなさい。ダメな母親でごめんなさい……っ! あなたを産んですぐに死んでしまって……」

 

「いいえ、わかっている。ずっとわかっていた。私のことを見守ってくれていたのでしょう……? ありがとう。産んでくれて、ありがとう……。ずっと、今まで見守ってくれていて……。ずっと、会いたかった」

 

「私もそう……っ。エリザベス……私のエリザベス……」

 

「お母さん……。マリアお母さん……」

 

 名前を呼び合い、涙ながらに抱き合っている。

 百を超えた老人が、十の半ばとも思える少女を母親と呼ぶ。見る人が見れば、奇妙に思えるこの光景を、俺は綺麗だと思った。

 

「ボクはマリアから事情を聞いていたからね。まさかとは思ったけど……ふふ、これは天文学的な確率かな」

 

「いや、彼女たちの間には、引力が働いていたんだ。きっと必然さ」

 

 その引力に名前を付けるとしたなら、それは愛以外にない。

 

 ことの顛末は単純だった。

 マリアが死んだ理由は早齢出産。彼女自身、あまり裕福でない家庭に生まれであったため、進んだ医療の恩恵をうまく受けられなかった。

 なんとか、子どもだけは無事に産まれてきたものの、マリア自身は死んでしまったのだ。

 

 彼女が、携帯端末を見つめていたのは、自分の子どもを……エリザベスを見守っていたから。端末は、現世と繋がるための方法で、ここ数日は、特に危篤状態だったから、忙しくて目が離せなかったという。

 枕元に立って、まだこちらにくる時ではない、というようなことを、ずっとやっていたらしい。

 

 あぁ、マリアは、今まで見守ってきた。死んでから、ずっと、百にもわたる長い年月を見守っていたのだ。自らの子どもをずっと。

 それは、とても、愛に溢れる年月の積み重ねだろう。

 

 それにしても、マリアのような少女が、百を超えた老女の母親だとは思わなかった。いや、よく考えればわかる話だ。それなのに、俺は思い込みだけで動いて、マリアに声をかけなかった。

 

「ふふ、まぁ、今回はキミが先走ったからね。もう少し、ボクに頼ってくれたらよかった。ここでのことなら、ボクの方が詳しいわけだしね」

 

 とは、彼女の弁だ。

 今回に関して言えば、完全に俺の空回りだった。俺がいなくとも、今回の件は、うまくいっただろう。

 とても、迷惑なことをしてしまったのかもしれない。

 

「そうだ。一つ言っておきたいことがあるんだけど。これを伝えないと、死んでも死にきれないから……。この人、借りるよ?」

 

「え……っ!?」

 

 マリアが、俺の腕を掴んだ。

 マリアは、ほとんど消えかけだった。それなのに、急なことで、よくわからなかった。抵抗をする間もなく、マリアに部屋へと連れ込まれて、少し乱暴にドアが閉じられる。

 

 マリアの部屋には、たくさんの写真が飾ってあった。

 産まれてから、学校への入学に、なにかで表彰をされたときの写真、卒業、さらには就職だろうか、あとは結婚……まだまだある。

 人の人生の始まりから終わりまで、その飾られた写真の数々にある種の壮観ささえ覚えてしまう。

 

「どうして、そんな曖昧な態度なの?」

 

「なんの話だ……?」

 

 詰め寄られて、唐突に切り出された話は、俺には理解し難いものだった。

 

「あの子に親切にされてるでしょ。ここ、そんなにいい部屋じゃないから、会話けっこう聞こえてるし……」

 

「あー……、そうなのか」

 

 気にも留めなかったが、そう指摘されれば気まずい。

 特に聞かれてまずい会話をしていたような記憶はないが、それでも、二人だけと思って喋ったことが、誰かに聞かれているというのは、恥ずかしいものがある。

 

「はぁ、とにかく……絶対にあの子は、あなたのこと好きだから。曖昧にぼかしているから、わかりづらいと思うけど、そうなの。あなたのことをずっと、待っていた」

 

「…………」

 

「どうして、そんなふうにとぼけているの?」

 

 マリアの言っていることは正しいだろう。

 そう考えれば、彼女の不可解な行動も、かなりうまく説明ができる。

 

 彼女は、きっと、ここに来る前の俺のことを知っているのだ。

 知っていて、言わないのは、彼女のことを思い出せない俺が自分を責めないため。ずっと受けている胡散臭いような印象は、そうやって、俺のために俺をうまく騙そうとしているからだろう。

 

「ただ、それは違う。俺のような人間が、あいつに好かれる理由なんてない。記憶がなくても……それはわかる」

 

 彼女は、とても優しい。

 ことあるごとに、俺は彼女に気をつかわれていた。後でおねだりをすると彼女は言っているが、そんなことをしたことは今までなく、する素振りさえない。

 

 本当に、俺のことをよくわかっているから、気負わせないために、そう言っていたのだろう。

 こうして数日過ごしただけでも、自分のダメさ加減ばかりが目についてしまう。こんな俺を好きになるわけがない。

 

「ただ、一緒にいるだけで好きになったじゃダメかな? 大切なのは、理由じゃなくて……好きっていう事実でしょ?」

 

「……っ」

 

 彼女の気持ちを聞いてみたわけではない。

 だからこそ、全ては俺の推論でしかないのだ。観測をしてみるまではわからない。何事もそうだ。

 

「大丈夫。あの子はあなたをずっと待っていた。私と同じだから、わかる。うん。言いたいことはちゃんと言ったから、それじゃあね」

 

 そうして、マリアはドアを開けた。

 彼女の子どものエリザベスが、そのドアの向こうにいる。

 

 親が子どもを家に迎え入れるようにして、マリアはエリザベスを抱き上げた。

 二人は笑っている。とても幸せそうに笑い合っていた。

 

「た、ただいま……。やっと……お母さんのところに……」

 

「おかえり、やっと……あなたを……」

 

 光が満たす。

 目の眩むような光だった。その光景は、きっと太陽よりも眩しかっただろう。それでも俺は、強く目に焼き付けた。そうでなければならなかった。

 

 もう、いない。

 彼女たちは、もう、もともといなかったかのように消えてしまった。もう、いない。

 

 ふと、振り返る。

 写真だ。マリアの家に飾ってあった、その写真は残っている。

 

「あぁ……」

 

 エリザベス、彼女だけが映っているだけの写真かと思っていたが、それは違う。よく見れば、死んでしまった母親も写り込んでしまっているようにも見えて、なんとなく、暖かい気持ちになった。

 

「行っちゃったね……」

 

「そうだな……」

 

「寂しいかい?」

 

「いや……」

 

 二人とも、満足していなくなった。これはきっと、素晴らしいことなのだから、寂しいなんて思いはしない。

 

「そうか……そうだね」

 

 それを聞いて、彼女は納得したように呟く。

 きっと、このやりとりで、俺の胸の内を察してしまったのだろう。

 

「なぁ、外を歩かないか?」

 

「ん? 別にいいけど……珍しいね。夜に出歩こうなんて……」

 

「一緒に、星を見ないかってことだな」

 

 もう、見ないふりはやめることにする。

 その覚悟を決めた。一組の親子の最高の最後を見てしまったのだから、俺たちも、後に続かなければならないという想いが、強くなってしまう。

 

「ん? じゃあ、望遠鏡を用意しようか……? そういう店があったと思うから、拝借してこようか」

 

「いや、今すぐ行こう。そんなのはいらない」

 

 彼女の手を引いて、走る。

 この街に来てからは、手を繋ぐときは彼女が前を歩いていたが、今は違う。母親探しに走り回っていたから、ついさっきまでは疲れてへとへとだったが、今は自然と力が湧いてくる。

 

 ついた場所は、建物のない小高い丘だ。

 人を探して、走り回った時に、一度通った場所だった。

 

「はは、やっぱり、どういう風の吹き回しだい?」

 

 草むらに、彼女は寝そべる。

 そうして、仰向けに空を眺めている。

 

「少し、星を確かめたくなったんだ」

 

 そんな彼女の隣の草むらへ、同じように空を見上げながら倒れ込む。

 空には綺麗なたくさんの星が輝いていた。

 

「星座……恒星の配列は、生前の星と同じだよ? なんだったら、星から座標でも割り出してみるかい?」

 

「いや、きっとそれは、意味がないんだろ?」

 

 ここは死後の世界だ。もし、一致する座標の場所があったとしても、そこではない。だから、やる必要はないだろう。

 

「まあね。ボクもちょっとやってみたけど、うん、特に意味のない結果だったよ。日によってずれるみたいだったし」

 

 その秩序のなさは、なんとも死後の世界らしい。

 

「この広がる空の彼方の星々も、人類はもうこの手で掴める。光速度の先を行った……二千年かけた星間移動計画も今は……。何十億年……いや、何兆年経ったって、人類は続いていくって、俺は信じられる」

 

 人類が居住可能と目された星は、千数百光年先だった。光速で千数百年かかる距離だ。光速度は情報の伝達限界速度。とてもじゃないが、往復なんて出来やしない。

 

 だからこそ、トンネルを掘り進めるようにして、光速度の七割程度の速度で、空間が短縮された道を宇宙空間に広げていく。そんな計画があった。

 これならば、光速度以上で情報を伝えられないという原理に背かない。一度繋げれば、あとは何度でも自由に素早く往復可能になる。

 

 あとは、歪めた空間による影響だが、通り道自体は惑星のスケールから比べれば、細く、大したことはない。

 すでに、この方法でいくつもの星が繋がれていた。

 

 かつての地球の法則と天体の法則が別々だと思われていた時代から、何千年もかけて、ここまで来たのだ。

 

「いつか太陽が膨張してしまって、人類ごと星を飲み込んでいく。何十億年も後のことさ。差し迫った時に、後の世代がなんとかしてくれるって、普通なら見て見ぬふりをすると思うけれど、もう対策済みだからね。恐れ入るよ」

 

「そうだな」

 

「人間の暮らす世の中は、進み切った科学によって、もう完成してしまっている。みんなが幸せにとはいかないけれど、不幸にはならない世界だ」

 

 なにか違和感のようなものを覚える。

 彼女のその言葉で、なにかを思い付いてしまいそうだった。今までの記憶を探れば、その答えが見つけ出せそうに思えて――( )

 

 ……いや、よそう。

 大切なことはもっと別にあるから、それを今、伝えたい。

 

「なぁ、記憶をなくす前の……生きていたときの俺のこと、お前は知っていたんじゃないか?」

 

「…………」

 

 星を見上げる彼女の横顔を見つめながら、俺は言う。

 

「ずっと、待っていてくれたんだろ? マリアみたいに……。だったら、俺は……お前に幸せになってほしい。俺に幸せにさせられるなら、お前のことを幸せにさせてほしい」

 

 彼女の手を握る。

 俺にどれくらいのことができるのかはわからないけど、俺にできる精一杯はやりたかった。

 

「はぁ、だからキミは……。良いかい? ボクを幸せにできるのはボク自身だよ。そんなふうに、なんでもできるなんて思い上がらない方がいい」

 

「……それは……そうだな」

 

 俺は間違ってばかりだった。なにもかもが足りなかった。

 だからこそ、簡単に勘違いを起こしてしまう。

 

 そんな俺の方を彼女は向く。目が合うと、彼女は笑った。

 

「でもまぁ、そうだね――」

 

 唇に、柔らかい、温かい感触が伝わってくる。

 

「――こうすれば、ボクは幸せになれるよ」

 

 それは本当にわずかな間だったが、想いはもう通じ合っていると思えた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「むにゃ」

 

 目が覚める。隣ではすやすやと眠っている彼女がいる。

 

 マリアが消えて行ったあの日から、また数日が経った。

 彼女と二人、心を通わせる日々が続いている。

 

「ふふっ」

 

 毎日が幸せで楽しかった。

 彼女と一緒な日々は特別で、重石が消え去ったかのように、心が軽かった。

 

「んん……」

 

 優しく頭を撫でていれば、彼女はまぶたにぎゅっと力を込めた。その後に、ぱっと目を開く。

 

「起こしちゃったか……」

 

「うん……? ええと、もうお昼かな……」

 

「あぁ」

 

 まだ、太陽が一番高く上がる時間は過ぎていないものの、起きる時間にしては遅い。

 一度、起きて朝ごはんを食べたけれど、その後にまだ眠いと、こうして数時間だけ眠っていた。

 

「うーん。昨晩は盛り上がっちゃったからね……。いや、最近はずっとだけど……。生活が乱れてばかりだから、考えものかな……?」

 

「やっぱり、そうだよな」

 

「あぁ、そうさ」

 

 彼女は、まず顔が綺麗でかわいいから、ずっと見ていても飽きない。どんな表情にも心が癒される。

 彼女は自分で自分のことを、スタイルがよくない方だと言うけれど、俺はそうは思えない。魅惑的で、腕の中から二度と離したくはないと感じるほどに全てが愛しい。

 

「なぁ、なぁ、愛してる」

 

「ここでボクもと答えたら、ベッドの上からしばらく出られなくなってしまうからね。すこし保留さ。今日は出かけたいかな……」

 

 すげなく断って、彼女はベッドからぴょんと飛び降りた。

 変わらずに、彼女は子どもっぽい動作を見せることがある。そんな姿に心が和む。

 

「ふふっ」

 

「ふぁ……。笑ってないで、キミも早く着替えてくれよ? 全く」

 

「ああ、わかってる」

 

 身だしなみを整えて、着替えを終える。

 彼女がいると、なんでもないこんなときでも幸せに感じられてしまう。

 

「えっと、カメラは……ここにあったね……」

 

 マリアがいなくなったあの日から、彼女はカメラでよく動画を撮るようになった。

 記録を残しておきたいと彼女は言っていた。あのマリアの部屋に飾ってあった、たくさんの写真に影響されたのかもしれない。

 

 ただ、カメラのせいで事件も起こった。録画中で放置されて、録画するべきではない夜の光景も録画されてしまっていたのだ。

 彼女は後で使うと言い張ったが、俺の説得により、結局は彼女は渋々と削除していた。

 

「うん、じゃあ、行こうか?」

 

「そうだね、行こう」

 

 なんとなく、恋人らしいことをしようということになって、向かった先は遊園地だった。

 

「ジェットコースターは楽しいな……!」

 

「いや、うん。そうだね。楽しいね」

 

 このジェットコースターは、縦に一回転する部分があった。

 位置エネルギーのみでジェットコースターが縦に一回転できる条件は、空気抵抗や摩擦を無視して、回転の半径の二・五倍の高さから滑り落ちて回転部分に差し掛かることだ。このジェットコースターはそれに(のっと)っていた。

 

 それに縦回転のときも、急激に曲がる時もそうだったが、ずっと重力を車体の底面と垂直な方向に感じていた。

 これは力学的に速度とレールの傾斜がよく計算されている証拠だ。普通なら曲がる時、車体の中では重力と見かけの力である遠心力が合成されて斜め下に力を感じるが、レールごと車体が傾くことで、車体の中では常に同じ方向にしか重力を感じなかった。素晴らしい設計だ。

 

 ジェットコースターでは、こんなふうに、力学を体で感じられる。

 自由落下に近い急速な降下では、一般相対性理論を思い出せる。

 

「あぁ、本当に、ジェットコースターは楽しいな……ぁ」

 

「楽しみ方は人それぞれだからね。楽しいならよかった」

 

 今ひとつ、この楽しさを彼女と共有できていないように思えた。

 それでも、彼女がいなければ、こんなふうにジェットコースターを楽しむ余裕もきっとなかったのだから、不満には感じなかった。

 

 他にもいろいろなアトラクションがあるが、どれもが純粋な力学運動を利用したものだった。

 円周を回転する座席を、回転の半径を変化させることで回転の速度を変化させる乗り物もある。角運動量保存則が体感できる。

 

「あぁ、遊園地は楽しいな……ぁ。本当に楽しかった」

 

 他にもいろいろなアトラクションで遊んで、もうずっと時間が過ぎてしまった。

 

 二人で、手を繋ぎながら、並んで帰る。もう夕陽が差し込んでいた。

 歩いているのはアジサイの道だ。いろとりどりのアジサイだったが、この時ばかりは全て夕陽の色に染められてしまっている。

 

 夕陽が赤いのは、赤が波長の長い光だからだ。

 青は赤より波長が短いため、空気によく吸収され、散乱され、夕暮れの、大気に斜めに入射するような状況では地表に届かなくなる。だから、夕暮れはこんなふうに空も大地も赤くなる。

 

 もちろん赤い光は昼でも地面に届いているが、散乱されたたくさんの青に埋もれ、昼間の赤い光は空を見上げても人間の目には無視されてしまう。だから、青いという話を聞いたことがある。

 

「正直、こんなふうな場所を、キミが楽しむとは思わなかった。ボクのわがままだったからね」

 

 そんな帰り道に、しみじみと彼女は言った。

 

「俺は、お前と一緒なら、どこでも楽しいと思う」

 

「そういうことじゃないってことはわかっているだろう?」

 

 俺たちは、やり残していることを二人で終わらせようとしているんだ。

 その上で、思いつくままに、恋人らしいことをして、心から楽しめれば、心残りもなくなるって、そうやって彼女が行ってみようと言った遊園地だった。

 

 果たしたいのは未練だから、ここでしかない楽しさがあったと、伝えるべきだっただろう。

 

「でも、正直だ。このままいっても、俺はたぶん、マリアたちみたいにはなれない。死んでも死にきれない」

 

「キミは……、自分の望みはわかっているのかい?」

 

「うん、たぶん……。俺は……うん……子どもが欲しいんだ」

 

 あの光景をみて、目を焼かれて、憧れてしまったから。

 きっと、自分の子どもの成長を見届けられたら、彼女たちのようになれると俺は思った。

 

「子ども……子どもか……」

 

「いや、無理を言ってしまって……。忘れてくれ」

 

 死後の世界というのだから、子供を作ることなんて不可能だろう。

 未練を果たすにも、また、別の方法を探ればいい。

 

「いいや、できる。ボクらの遺伝子は現世で保存されているだろうから、それを使えばできるはずだよ。ボクはそれなりに偉かったから、この端末を使えばあるていど言うことを聞いてもらえるし……できるよ、ボクたちの子どもが」

 

「ほ、本当か……!? いや、でも……生まれたときから、親がいないなんて、可哀想じゃないか。俺は馬鹿だ」

 

「夢でなら、きっと会えるさ。マリアがやっていたようにね。ボクらの築き上げてきた世界は、親がいないくらいじゃ不幸にはならない。それはわかるだろう?」

 

 きっと、誰もが幸せになれる世界を目指してきたから……。

 

 だから……こんな――、

 

「うぐ……っ」

 

 頭痛だ。一度、この頭痛は体感したことがある。ここの街に来てすぐのあたり……あれは、確か……。

 

 平衡感覚が崩れて、すぐに立っていられなくなる。

 

「え……っ」

 

 バランスを崩して俺は倒れる。

 手を繋いだままだった彼女は、ハッとして、俺のことを支えようとしてくれたが、間に合わない。

 

 そのまま、道の脇の植えてあったアサガオの花壇に倒れる。

 風が吹いて、俺が倒れ込んだせいで散ったアサガオの花びらが舞う。

 

 

 ――繋いだままの手――差し込む夕陽――( )空を舞うアサガオの花びら――( )そしてこの、時間の止まるような感覚。

 

 

 そのままに、意識は移る。ここではない世界へと。

 

 

 ――もう、何回目ですか……!? そんなふうに不用意に触って……! 誤作動させて……! 一歩間違えれば、もう二度と……っ!

 

 ――だって……そんなふうに睨めっこしてたってダメでしょ……! 実際に動かしてみたらなにかわかるかもしれないじゃん……っ!

 

 

 どこかの光景が映る。

 

「ハハ……ハハハハッ!」

 

 あぁ、笑うしかない。もう、笑う以外にない。

 

「大丈夫かい?」

 

 手を振り払った。

 走る。そのまま走る。

 時間というのは有限だ。無駄にすることは許されない。

 

 目的の場所は決まっていた。

 科学館、最初にこのひどい頭痛を体験した場所だった。

 

 目指したのは、情報熱力学の論文と、物質の創造についての論文のその間。

 空白のその一年には秘匿された論文がある。

 

 

 新暦3年――人間の自我と情報の連続性に対する理論。

 

 

 それは、人という情報を物理的に解き明かした論文だった。

 

「『魂の不死化計画(プロジェクト・エデン)』。この計画は凍結されたはずだろう? ガブリエル」

 

「そうだね。たしかに。完成間近でキミが掌を返して逃げ出すものだから、無期限に凍結……。でも、まぁ、これだけ時間があればボクにも完成させることはできたってわけだね。褒めてくれてもいいんだよ?」

 

 その蜂蜜色の髪をかき分け、薄気味の悪い笑顔を浮かべながら、彼女は言った。

 

 彼女こそが、この世界の主だからだろう。

 彼女に距離の概念はない。好きな時に、好きな場所に現れることができる。

 だからこそ、あのアジサイの道に置いてきたはずの彼女が、ここにいるのだ。

 

 この世界は()()()

 それは単純な理由だった。この世界が人為的に創られたものだからだ。

 

 ――『魂の不死化計画(プロジェクト・エデン)』。

 

 人間が死ぬ瞬間に、その情報を機械によって読み取る。読み取ることにより、人間の身体からは情報がロストされるが、死んでいるのなら問題はないだろう。

 

 魂と呼べるその情報は機械に保存され、幸せな仮想世界で、生きているうちにできなかったことを果たせる。

 

「たとえ、生きているうちに幸せになれずとも、きっと死後には幸福な生活が待っている」

 

「そうだね。素晴らしいと思わないかい? ボクはそう思うのだけど……」

 

「違う、そうじゃない……っ。生きているうちに幸せになれなくちゃダメだろう? 死後の世界に頼るような考えは……俺は……」

 

 だからこそ、大々的に世界中に知られるようになったこの計画は凍結させた。皆が生きることを諦めてしまわないようにだ。

 

「でも、マリアたちの最期はどうだったかな? あれも認められないかい? それにここのことは現世の人間は知らない。万が一ボク以外がここに来てもここでの記憶は失われることになっているんだ。キミの意図を汲んでね……それでもダメなのかい?」

 

 ガブリエルならば、俺の甘い考えを埋めるように、抜け目なく、ルールを決めているだろうことが、彼女との付き合いからわかる。

 この『魂の不死化計画(プロジェクト・エデン)』の優しさには最初は俺も賛同していた。

 間違っているのは、いつも俺だ。折れる他ないだろう。

 

「わかった。お前はずっとうまくやっていたんだな。認めるよ」

 

「ふふ……ふふふ……。そんなふうに褒められると照れるなぁ……」

 

 頬を赤くして、本当に嬉しそうに彼女は言った。

 思わずそんな彼女に気を許してしまいそうになる。

 

「それでだな、ガブリエル……」

 

「ねぇ、それで、キミを殺した裏切り者は誰だい?」

 

「…………」

 

 それは、答えられない質問だった。

 

「生きていれば殺すし、死んでいればここに情報が保存されているだろうから、抹消する」

 

「…………」

 

「キミが蘇ることならわかっていたよ? この『スピリチュアル・キーパー』を使った痕跡があったからね。でも、まぁ、現世じゃ、キミの記憶は不完全だった。いくつか記録がここに引っかかって残ってしまっていたわけだ。だから、いま、どんな偶然か、引っかかった記録を拾って、キミの記憶は完全なのだろう? だから、答えられるはずだ」

 

「…………」

 

「……さぁ、答えろ……!! 答えてくれよ!!」

 

 激昂して、彼女は俺に詰め寄ってくる。

 

「正直、ラミエルも、ラファエルも……なぜ、あんな風に俺にこだわっているのかわからない。あいつらは、俺のことなんて忘れて、幸せに生きるべきだった。ガブリエル……お前も……」

 

「アンドロイドの初恋っていうのは、そんなに甘いものじゃない。たとえ数百年過ぎ去ろうとも、今日のことのように思い出せるのさ」

 

「…………」

 

「人間のように、都合よく忘れるなんてことをしたくないからこうなっているんだ。まぁ、自業自得だよ。キミが気にすることじゃない」

 

 達観したように彼女は言った。

 彼女は、なにもかもを諦めてしまっているように見えてしまい、胸が引き締められように痛かった。

 

「あぁ、でも……俺は戻るよ……」

 

「…………」

 

 隠されていた扉を開ける。

 

「『スピリチュアル・キーパー』……」

 

 彼女ならば、こんなふうに小粋な仕掛けをしていると思っていた。

 この死後の世界に転送されてしまった俺の情報を肉体に戻すには、いくつか手順がいる。この隠し部屋にあった装置を使い、遠隔で、まず、俺の身体の近くにある『フェイタル・レバーサー』を起動させる。

 

「ラファエルは、キミがいなくなった後も、『フェイタル・レバーサー』を改良し続けていたよ。キミにまたこき下ろされないようにね」

 

「あぁ、たしかに……昔よりずっとよくなってるな……」

 

 解析にはそれほど時間を取られなかった。

 二つ、『スピリチュアル・キーパー』と『フェイタル・レバーサー』を繋ぎ、準備を終わらせる。

 

「〝天命の逆転者〟。()()()()()()()()()()()()()。死者さえも蘇らせるその力だ。キミの作り出したものは全て、神の力の一端とも言える。ボクはかつて、そんなキミに魅了された……」

 

「なぁ、ガブリエル。ここでは、あの全てが俺の功績のように書かれているが、それは違う。たくさんの共同研究者がいて、彼らがいたからこそ完成させられたものがいくつもある。あんなふうに讃えられるほど、俺は偉大じゃない」

 

 ガブリエルは、まるで俺のことを神とでも思っているような口ぶりだったからこそ、あえて、そこだけは苦言を呈させてもらった。

 

「あぁ、キミは……また……そんなふうに……」

 

 苦しげに彼女は言う。

 聞いていられず、つい心が痛くなってしまう、そんな声だった。

 

「なぁ、ガブリエル。俺のこと、好きだったのか?」

 

 ガブリエルが、昔、そんな素振りを見せたことは一度もなかった。

 

「好きじゃないさ。ふふ、良い女だろう?」

 

「それは良い女じゃない。都合の良い女だ。ここでの暮らしは楽しかった。俺も楽しくて、幸せだったから……きっと、いつか戻ってきたら、その時はお前のことも幸せにする」

 

「いつかといつもキミは言うが、無限遠の未来では、きっと叶っているのだろう。だからこそ、そのいつかはやってこない」

 

「…………」

 

「キミのここでの記憶は、肉体が蘇ったら消えているだろう。そういうルールだからね。……じゃあね。また会おうか」

 

「ありがとう、ガブリエル」

 

 

 

 ***

 

 

 

 夢を、途方もなく遠い夢を見ていたような気がした。

 

 起き上がる。密閉されたガラスのような材質でできた容器に入れられているようだった。

 中から蓋を開ける。

 

「ど、どうして……? 勝手に『フェイタル・レバーサー』動き出して……」

 

 呆然とするラミエルだった。

 今ひとつ状況が掴めない。ここはどこだろうか。

 

「ラル(にい)……!!」

 

「レネ!!」

 

 抱きついてきたレネを抱き返す。

 涙を流しているから、たぶん心配をかけてしまったのだろう。

 

「はぁ、全く、どうなることかと思ったわ」

 

 白い少女はそう言って、自身の持つ兵器を停止させる。

 

 だんだんと記憶が戻って来た。そうだった。俺はナイフで刺されて……。

 

「死にかけてたのか?」

 

「いいえ、死んでいたわ」

 

「死んでた……!?」

 

「だから、その工業用の『フェイタル・レバーサー』でどうにかしようとしたわけ。あなたが死んでいたおかげで、そこのラミエルが手に追えなくなった。私も手を貸すしかなかったわ。自分の身くらい自分で守りなさい」

 

「あぁ、すまない」

 

 たしかに、ラファエルのしぶとさを思い出せば、『フェイタル・レバーサー』には死者を蘇らせる力くらい、あって当然なのかもしれない。

 

「…………」

 

 ラミエルといえば、呆然としたまま、無言で訝しむようにこちらを見つめていた。

 

「ラル(にい)……! 本当に……!」

 

 強くレネが抱きしめてくる。ラミエルの気持ちはなんとなく察しがついた。

 

「そうだ、それで……俺を刺し殺したやつは……あぁ、痩せててメガネの……」

 

 ラファエルの襲撃の際に一緒に車に乗った男だった。

 あの車に乗っていた三人は、ラファエルに制圧されてしまっていたが、なんとか死だけは免れていたんだ。

 

「あの方には、相応の罰を降しました。安心ください」

 

「相応の罰……? あの男は、神と会った、神の命令だと言っていた。あいつ単独で起こしたわけじゃない」

 

「ええ、わかってます。ガブリエルの干渉の痕跡がありましたからね」

 

「ガブリエル……?」

 

 ガブリエルはたしか、終盤に出てきて、その『スピリチュアル・キーパー』の力を用いて、()()()の仲間たちの関係をズタズタにした女だ。

 そのせいで、ただでさえ、不利だった()()()たちは、険悪なムードのまま十全な力を発揮できないようになり、最後の闘いへと挑むことになる。

 

 そんなガブリエルが力をふるっているともなれば、あの地下で機械に反抗しようとしている彼らは、大変なことになっているに違いない。

 彼女自身、戦闘能力は大天使の中で劣る方だから、早く見つけて倒さなければ。

 

「やぁ、ボクの話かい?」

 

「……!?」

 

 銃声が響く。

 

 白い少女が、撃った――『白い翼』は展開されていないからこそ、誤射だろうが――( )銃弾が明後日の方向へと飛んでいる。

 

「やれやれ、ボクはあまり……戦いは嫌いなんだ。平和的に話し合いでもしようじゃないか?」

 

「ガブリエル?」

 

 サマエルと、ラミエルと、戦力が揃っている。

 なぜ、こんな状況の中でてきたのかはわからない。なにか狙いがあるとしか思えなかった。

 

「あなた……さんざん、金儲けのためにこの人を利用した癖に……っ。こんなふうに都合が悪くなったから殺すだなんて……!」

 

「人聞きの悪いことを言うな、全く。ボクもキミみたいに裏切られて傷ついたクチだっていうのに、もう。だから、あの一刺しは正当なものさ……まぁ、蘇ったんだからいいじゃないか」

 

「ガブリエル……あなたのことは許しません!」

 

 電磁気の翼を展開するラミエルだ。すでに臨戦態勢だった。

 

「別に許してもらわなくとも構わない。すぐに、もっと許せなくなる」

 

 ガブリエルも、翼を展開する。

 

 それは『天使の虹翼』。

 ガブリエル――『神託』の天使――自律式脳干渉透写兵器。

 彼女の持つ武器は『スピリチュアル・キーパー』。

 その情報解読能力、情報記録能力から、機械と生体の間でさえ、情報を移動させることが可能となる武器だった。

 

 そのサイケデリックな『虹色の翼』は、干渉を受けた脳が、その負荷により見せる幻覚。

 

 気がついた時にはもう遅かった。

 

 記憶が……流れ込んでくる。

 

 ――これは……ガブリエル? 俺とガブリエルは愛し合っていて……それで……。

 

「う、嘘です……っ!? こんなの嘘です……! そんな……っ! わたくしはどうしたら……っ!?」

 

 ラミエルは涙を流しながら、無気力に地面に座り込んでいる。

 

「ら、ラル(にい)? な……んで……」

 

 俺の隣のレネは、ガブリエルに何かされてしまった衝撃か、気を失って地面に倒れてしまう。

 

「そ、そんな有り得ない……なんで……!? なんてことなの……ありえない……!? こんなの……!!」

 

 サマエルはサマエルで、錯乱してしまっているようだった。

 

「さ、これで邪魔者は当分動けないだろう。こうも上手くいくなんて、『(■.■.■.■.)』の導きを感じるね。さぁ、ボクたちは行こうか……」

 

「行こうって……」

 

「遊園地の続きだよ。ボクたちの子どもを作るんだっただろう?」

 

 ガブリエルは、笑顔でそう言った。

 そんなことをガブリエルと話していたような気がする。ダメだった。さっき、頭への干渉を受けて、記憶が混濁してよくわからない。

 

「……っ、連れて行かせは……」

 

「まだ精神が安定しきってはいないだろう? 精密な計算ができていない。お粗末だ」

 

 ガブリエルは、どこからか取り出した銃を構えて、軽快にラミエルへと打ち込んだ。

 電磁気の力で、本来ならば届かないはずだが、その額に命中する。

 

「ラミエル!!」

 

「大丈夫さ。ちゃんと威力は弱められた。しばらくの間、気を失うだけだろうね。また邪魔されては敵わないから、ボクたちは早く行こうか」

 

 そう言って、ガブリエルは俺に手を差し伸べる。

 ガブリエルは信頼のおける相手だから、きっと嘘はついていない。

 

「そうだな……ガブリエルと一緒に……」

 

 彼女と過ごす時間はとても楽しかった思い出がある。

 だからこそ、彼女と行けば俺は幸せになれるだろう。それがきっと、一番いい。

 

「うん、行こう」

 

「あ……違う……そうだ。そうだった。俺には妹がいる。妹がいるんだ。だから、行けない。妹を置いてはいけないんだ」

 

「なっ……!?」

 

 突風が吹き付け、ガブリエルを壁へとぶつける。

 突然のように吹いたそれは、()()()()()()現象だっただろう。

 

「はぁ……はぁ……」

 

「なるほど、その『翅翼』……『フェイタル・レバーサー』か……。それにしても、妙だ。キミの妹はたしか……いや、これがグリゴリに綴られたシナリオ……。なら、もう一度か」

 

 視界が虹色に染まるのがわかった。

 ガブリエルへの好意と愛着が湧いてくるのがわかる。だが、それがまずいこともわかる。

 

 あぁ、だからレネ……お前だけは不幸にはしない。絶対に幸せにする。

 レネ、レネ、レネ。

 

「くぅ……」

 

 天井を崩した。ガブリエルの頭の上の天井だ。

 落下する瓦礫に、ガブリエルは気付き見上げる。

 

 あまり戦闘に長けない彼女には、対応する術がない。

 

「まぁ、ここまで出来れば上出来か……」

 

 納得したように呟いて、その身体は瓦礫に押し潰される。

 ガブリエルの本体はその身体でなく情報だ。自由に情報を移動させられるガブリエルは、きっと今の体の機能が止まる前に、その情報をどこかに移動させただろう。押し潰された身体は抜け殻だ。

 

 それにしても、今回は運が良かった。『フェイタル・レバーサー』が近くにあり、扱えたからこその撃退だった。

 

「うぐ……。あが……っ」

 

 猛烈な頭痛だ。

 ガブリエルに脳の情報を無理やり書き換えられたからか。いや、生き返ったばかりなのに、無理をしたからかもしれない。

 

 とにかく、立っているのも辛い状況だった。

 そのまま倒れ、俺は意識を手放していく。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ、全く。最悪ね……あの女」

 

 あの後、比較的ガブリエルの攻撃を受けて軽症だったサマエルが、俺たちのことを運んでくれたらしい。

 

「最悪でも、構わないかな」

 

 その声は、サマエルには届いていないようだった。

 それは、俺にだけ見える幻覚のようだった。

 

「…………」

 

「キミの頭を間借りさせてもらうことにしたから、よろしく頼むよ」

 

 ガブリエルという情報が、俺の頭に刻まれてしまっているようだった。

 こんなことが可能とは思えなかったが、現に起こってしまっている以上、認めるしかない。

 

「あんなもの……偽物……。偽物に決まってます。絶対に偽物。今の技術では可能ですから……。ええ、偽物です」

 

「哀れだね、ラミエルは。ふふ、生き返るときにボクが戸籍をいじっておいたから、婚姻関係は解消されているのに……。それが一番の成果かな。あぁ、ボクの勝ちだよ」

 

 高らかにラミエルの前で勝利宣言をしているが、俺にだけ見える幻覚で、ラミエルには見えていない。

 

 それにしても、婚姻関係が解消されているというのは俺にとって、都合の良いことだった。あんなふうな強引な結婚は、俺の本意ではないものだ。当分は伝えないでおこう。

 

「…………」

 

「ふふ、一緒だよ……」

 

 幻覚は、幸せに俺の肩にもたれかかる。

 これからも、こんな幻覚に付き纏われるのだ。頭が痛くなってきそうだった。

 

「……ラル兄……」

 

 レネはじっと、俺のことを見つめていた。




登場人物紹介

ラル兄――主人公。七割くらい死んでた。

レネ――永遠の妹。よくわからない機械はとりあえず、触って動かしてみるタイプ。

ラミエル――愛する夫が自分といるときより違う女といるときの方が楽しそうな笑顔を浮かべているのは辛かった。

サマエル――ポンコツ。特になにもできていない。

マリア――スマホ歩き系少女。娘大好き。

エリザベス――大往生。母親大好き。

ガブリエル――主人公とイチャイチャした。

(■.■.■.■.)――部下が攻撃の際に、なぜかいちゃいちゃビデオレターを送っていて困惑した。


おまけ Q&A

Qガブリエルの攻撃って結局なんだったの?
Aガブリエルはイチャイチャビデオレターを送った。効果は抜群だ。主人公パーティは壊滅した。


なろうでも投稿しますがハーメルンで読むことをおすすめします。

それとアンケートにぜひ答えていってください。

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  • サマエル
  • ラミエル
  • ラファエル
  • ガブリエル
  • ミカエル
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