白い一等星 作:冬ウマ娘
人の最期というものには、色んな形がある。
大往生もあれば、若くして病気で命を落とすこともある。
不慮の事故だってありえるし、誰かに殺されることだってあるかもしれない。
色んな死に方があるけど、僕が選んだのは……自殺だった。
いつもよりも少しだけ高い視点に映るのは、変わり映えのしない自室の風景。
これがきっと、最期に見る世界なのだと思うと、心が軋むような感覚と、抑えきれない後悔で涙が止まらなかった。
顎の下をちくりと縄が刺した。
僕の心のようにささくれ立ったそれは、僕が足元の椅子を蹴り飛ばせば、たちまち頸を絞めあげて僕の命を奪うだろう。
首吊り自殺。
それが、僕の選んだ答えだった。
僕だって、死ぬのは怖い。
でも、走れなくなっても人生が続いていくのは、もっと、ずっと怖かったんだ。
僕には陸上しかなかった。
緑がかった瞳、目立つ顔立ち、向けられる奇異の視線。
そして、人より恵まれた身体能力。
顔も見たことないけれど、僕の父親はロシア人だったらしい。
僕はハーフだった。
いわゆる「いじめ」とか、そういうものは幸運にもなかったけれど、主に友達の家族からは、怪訝そうな目をされることも多かった。
少しばかり人と違う外見と、血。
たったそれだけのことが、幼い僕にはとても大きな壁だった。
小学生を終えても、親友と呼べるような友人は一人もいなかった。
そんな僕も、体育祭ではヒーローだった。
その日だけは、先生や母以外の大人たちも、僕のことを応援して、僕の勝利を喜んでくれた。
秋が来るたび、僕の周りには人が増えた。
親友とまではいかなくても、胸を張って仲がいいと言えるような友人もできて、ずっと乾いていた自尊心が、ようやく満たされていくのを感じた。
そんな僕がスポーツへと傾倒したのは、当然のことだったのかもしれない。
十年も前に卒業した大先輩が、ついに金メダルを取ったんだと聞いて、高校に上がった僕は迷わず陸上部に入った。
僕はそのとき、本気で陸上選手を目指そうと思っていた。
地元では大スターだったから、彼女の背中に憧れて陸上選手を目指したって、誰もミーハーだなんて言わなかった。
僕は中距離走者になった。
先輩の影響もあって、地方都市の公立校とは思えないほど、陸上部にはたくさんの人がいた。
人が多くいるなら、気の合う仲間もその分多い。
たくさんの友人たちに囲まれて、僕は幸せだった。
過酷なはずのトレーニングも、一度も辞めたいとは思わなかった。
二年の夏、1500mでぶっちぎりの全国一位になって、天才だと持て囃された。
才能を自覚して、僕はますます努力するようになった。
いつからか、走ることそのものが、僕の中で一番の幸せになっていた。
順調だと思っていた。
19歳の時、初めて大きな怪我をした。
医者からは、アキレス腱の断裂だと言われた。
予後が悪く、再び走れるようになった時には、すっかり走る感覚を忘れてしまっていた。
酷く落ちたタイムを取り戻そうと、これまで以上に努力した。
してしまった。
碌に結果の出ない日々に、スポンサーからは契約を打ち切られてしまった。
あちこちを回って頭を下げて、ようやく新しいスポンサーを見つけられた頃には、世間の関心もふっかり冷めてしまっていて。
それでも応援してくれるのは地元の皆だけだった。
新しいトレーナーに至っては、僕と碌に話そうともしなかった。
死に物狂いで努力しても、18の時の自己ベストは高く、高く聳え立っていた。
一年、二年と重ねるごとに、地元でも僕を応援してくれる人は減っていった。
いつしか地元に帰ることも怖くなって、僕は一心不乱にトレーニングに打ち込むようになった。
気がついた時、僕は病院のベッドの上で寝かされていた。
無理が祟って倒れた時には、とっくに手遅れだったらしい。
医者から、君はもう二度と走れないと、死刑宣告にも等しい言葉を告げられた。
茫然自失になって、何一つ考えられなくなった。
二ヶ月の入院を経て、帰った家賃五万の1LDKは、すっかりと荒れ果てていた。
家で食事を取らなくなって久しかったので、冷蔵庫の中身や三角コーナーが腐る、なんてことにはなっていなかったけれど。
埃が厚く積もった部屋は、まるで今の僕自身のようだった。
何もする気になれず、貯金を切り崩して引きこもる日々。
10キロ近くは痩せこけて、髪も髭も伸びっぱなし。
買い物に行くと周囲から胡乱な目で見られ、それが嫌でいつしかゴミすら捨てに行かなくなった。
そんなある日、母の訃報が届いて、とうとう僕は生きる気力を無くしてしまった。
がんだった。
母の葬儀には出たけれど、陸上のことや近況を色んな人から聞かれて、腹の中を焼けた鉄の棒で掻き回されるような心地だった。
善意すらもが、僕の心をずたずたにした。
それを受け取れない自分自身を嫌悪して、何度も、何度も啜り泣いた。
アパートに帰って玄関を閉めると、不気味なほどの静寂に、悲しむ気力すら無くなってしまったようだった。
全身が鉛のように重たく、何もする気が起きなかった。
ただ、飢えて死なない程度に、カップラーメンを啜る日々。
僕は生きた死体だった。
その中にたった一日、たった一日だけ体が動く日があった。
ほんの少しだけ、壊れ切ったはずの心が揺れた日があった。
そして、
僕はその日に自殺した。
あぁ、もう一度……
走りたかったなぁ。