006
人に恐怖を植え付ける、はたまた記憶まで消してしまう、モノは粉砕させるわ、魅惑の歌すら周囲に浸透しないようにするわ、主人に仕えるという点に置いて巴狗に勝るものはなし、と言った感じだった。
そう、ヘッドホンが噛み砕かれたとき、優補が歌ったとき、気持ちの悪いくらい周りが反応を示さなかったのは、犬の力に他ならない。
「で、その俺の犬の名前ってなんでしたっけ」
「巴狗だ」
「そうそう、そんなんだ――なんだか、いかにも凶暴な犬って感じすね――先輩、MWとか読んでます?」
「ムウ? 手塚治虫の? 聞いたことはあるけど」
「あれに出てくる雌犬は
「ふぅん……」
またニッチな漫画を持ち出すな。
俺は武将の妻の方しか出てこなかったっての。
俺達三人は、あの二階建てアパートに向かっていた。
ちゃんと楽器も道具も片付けて、粉々のヘッドホンも拾ってだ。
積もる話は、盗み聞きされたいものではない。たとえ、忠犬がついているとはいえ、聞かれてよいものではない。
「手塚先生が、『鉄腕アトム』だとか『ジャングル大帝レオ』だとか、そんな可愛らしいヒーローモノしか描いてないと思ったら大間違いなんすからね」
「まあ……そりゃ青年誌向けとかも描くだろうよ……」
「個人的には未完に終わった『火の鳥―大地編―』とか『ネオ・ファウスト』とか気になって仕方がないんすよ」
「随分古い上に大人な漫画を好むんだな、お前……」
デスノだって少年漫画とはいえ、結構濃ゆいし。優補とかゲラゲラ笑いながら読んでたな。
ちなみに今彼女がハマっているのは『バカボンド』。
「MWってあれっしょ? ちょっとボーイズラブ的な要素も入っちゃってる」
と、優補が言う。
ていうか読んだの!?
「あー、姉ちゃんそこだけ取り上げたら折角の話が台無しすよ……というか、BL好きの人が読んでも面白くはないと思います」
こいつら何話してんだ。
「あんなドロドロした漫画は素晴らしいと思うよー、でも絵も凄いの。写真かと思ったし」
「大人にはなりたくないっすね」
「あと核廃絶はホントに思った」
「ですね」
薄く盛り上がるな。
俺にも分かる話をしてくれ。
「で、巴狗は、凶暴にもなれば大人しくもなる、そうなんすね?」
「ああ」
あくまで主人に従う。
絶対服従だ。
こうして帰ってるときも、何だか周りの人が
って。
犬は狛犬なんだって。
「狛犬って、神社に対になってるとかいうアレすね。守り神みたいな。シーサーとは違うんすか」
それは俺もさっき阿良々木に訊いたよ。
「仲間でも、別モンだ。シーサーはな、攻撃する生き物じゃない。敵にだって噛み付かずに取り込んで調和させる。平和を好む奴なんだ。一方狛犬は、敵には牙を剥く。容赦なく襲い掛かる、だそうだ。これが主な違いだな」
「ふうん……まあオレにはそっちの方がいいすね。攻撃型の方が」
「怪異をゲームのモンスターみたいに分類してんじゃねえ――と。おら、あれが俺達の
彼は敏感に反応した。
「『
とりあえず無視して鍵を取り出す。優補も空気を読んで黙っていた。
「なんすかなんすかー、どう見ても兄弟とかじゃなさげだし、まさか同棲っすか」
俺達がいつまで経っても喋らないので(いや、優補は別に話すことには躊躇いがないのだが)、喜屋武はますます確信を深めたようだった。
いいさ。
別にバレること承知の上でのご招待なんだから。
喜屋武は子供っぽい笑みを浮かべたまま、リビングに腰を下ろした。俺も重い荷物を下ろして、優補は飲み物の準備に取り掛かる。喜屋武はもとから手ぶらだった。荷物持ってやろうとか思わないんだろうか。全部俺一人で運んだし……いやまあ、行きも一人で全部運んだけどさ。
「てゆうか先輩、二人だけでこんな豪華なとこに住んでんすか。有り得ないすよ」
「今ここが存在しているなら有り得てるよ」
「おならの理屈、よーするに屁理屈すね」
「うるせえ」
そういうことを口にすんな。おっさんかてめえ。
羨まし。
ぼそりと相手は呟いてから。
再びにやにやしだすのだった。
「いやあ、先輩ってなかなかなんすねえ」
「何がだ、同棲のことかよ」
シツっこいな。
「いえ……まあそれもなんすけど」
喜屋武は急に声を潜め、囁いてきた。優補に聞こえるとまずいのだろうか、ちらりと彼女が忙しいのを確認して、言う。
「だって彼女超ベッピンさんじゃないすか。声だってきれーだし」
「ああ……?」
暗に人魚ってことを言いたいのか。
「きっと足とかだって透き通るように綺麗なんしょうね」
「……」
「何回二人で夜を明かしたんすか?」
「黙りやがれ!」
何を知ってる中学三年さんよ!
とまあ、年頃の男子はそれくらい知ってるのか。
全く思春期真っ盛りじゃねえか。
「いや、でも先輩二人きりならあんなことこんなことなんでもできますよ?」
「それはそうだがしていいことと悪いことがあんだよ!」
「あんな美声のねーちゃんが叫んだり髪を乱したりすんのとか興味紳士っしょ?」
「そいつは紳士じゃない。変態と言うんだ」
興味津々なのはお前くらいだ。
いや、まあ、……多分。
はー、とつまらなそうに溜め息をつき、喜屋武は伸びをする。
わざとらしい奴だ。
「なーんだ、童貞野郎なんすか」
「年下に言われて傷つくことこの上ない台詞だな」
「はいはい、どうぞご自由に傷ついちゃって下さいよ。先輩がダメ男なのはよく知ってます」
「会って間もない奴が何したり顔してんだ!?」
「マダオでした?」
「その訂正はいらん」
「そーそー、しょーじはマダオなんだよ」
飲み物を
オーダーはもう聞いていて、俺と優補はコーヒーで、喜屋武はココアだった。どれもホットで。ここらへんで子供と大人の違いが表れるんだよな(と強がってみる)!
「夜トイレに行けないし、朝は私があーんしてあげないとご飯食べられないんだよ」
「そんなマダオじゃねえよ!」
断じて!
なんてデマを!
しかも相手がどんな奴か分かってて言ってるから怖い。
でもこれだと、少なくとも俺はまるでダメな男と認めたことになるな……日本語ってやだな。
苦いコーヒーを
「――で。喜屋武。怪異の話だけど」
「先輩。その前にその怪異について、どうしてそんなに知ってるんすか? そのねーちゃんがそういう類だから?」
随分ストレートに訊いてきやがった。
「いや、それもないことはないけど。なんつーか、こないだ知り合いができてさ。そういうのに詳しい」
「……はあ」
「そいつが、色々教えてくれたんだよ。お前のその犬について」
「で、そいつはなんか言ってたんすか? 世界を滅ぼすとか、人に攻撃するとか、物騒なこと言ってたんすか?」
「いや……」
急に声を荒げる喜屋武をまじまじと見る。
「なら、もう
まただ。
また彼は、敵意をむき出して……立ち上がり、息を荒げて帰ろう
とする。
「幸音くん!」
すかさず、というか、優補が呼び止める。しかし彼女が指さしたのは、喜屋武ではなく、飲み物だった。
「まだ、飲み終わってないじゃない。駄目、最後まで飲まないなんて」
「んなことどうだって――」
穿き捨てるように言いかけた彼は、一瞬そこで優補の顔を見て、怯んだ。
真っ直ぐな目に、言葉を忘れたようだった。
二人が見詰め合うこと数秒。やっと、喜屋武は目を逸らして、座り込んでしまった。顔を伏せていて、表情は分からない。
俺が名前を呼ぼうとしたその直前に、相手は口を開いた。
「すみません」
謝罪の言葉だった。
最初に漏れたのは、謝罪だった。
「すみません、二人とも……オレは、」
言葉を紡ぐように、本当に小さな子供のように、彼は言った。顔は伏せたままだ。
「……幸音くん」
そっと、優補が後押しする。喜屋武は言われずとも、心の内を打ち明けようとしていた。そうした方が、そうするべきなのだと、彼は最初から分かってはいた。ここに来た時点で、そうなることは彼にも分かっていたのだ。必要なのは覚悟だけで、催促は必要なかった。
「オレには、か、帰る場所が、ない」
喜屋武が、震える。
「帰る場所がないって、でもお前、家がないわけじゃないって――」
「家はあります。でもないんです」
「……」
「オレ、孤児院にいるんです」
ぎり、と音がした。
歯を食いしばる音。
何かに耐えるように、何かを堪えるように。
「で、でもオレはあんなとこにいるのが嫌で。嫌で嫌で嫌で。出て行きたくて。でもできなくて。ずっと願って。そしたら、いつからか、犬が、側に居て」
震えが、少しだけ、治まった。
「オレの願うことは、何だってしてくれた。何でもできた。だから、オレは、あそこを飛び出した」
「出てったのか……?」
「というよりは、何と言うか、あそこの連中にはオレが出て行ったとかそれ以前に、オレがそこにいなかったんだって思わせた。今だって、オレが出てったことすら知らない……と思う」
だって、とここで喜屋武は顔を上げて、俺を見た。喜屋武の目は、不安気だった。それもそのはず。
「
「ああ、そうだけど、でも」
「他にも効かない奴がいるのか? そうだったら、オレが今まで嘘偽りを植えつけていた事が知れてしまったら、オレは? オレはどうなるんすか? オレは、オレはただ忘れたかっただけなのに。偽りを信じ続けてもらいたかったのに」
高い声で、訴える。
独り語りを。
言葉を紡ぐ喜屋武を見つめながら、俺はやっと、理解した。
家がない、人間。
行くべき場所がない人間。
まさしくそれは、巴犬に憑く対象だったが、それは。
その怪異と対象者は、酷く似ているのだと――
「家がない人間って、どういうことだ?」
俺が阿良々木にした質問だった。
相手はそれには答えず、しばらく黙っていたが、突然こんなことを言い出した。
「
「は?」
そうか?
「喪中の家の狗って書くんだけど。史記に載ってるな。あれが、巴狗の元だな」
「はあ……」
「そのまんまの意味で、それ以上の意味だ。喪家の『喪』は『喪失する』、『
して、憑かれた人間も同じ」
……なるほど。
それで、巴犬は自分と同じ境遇にある人間に憑くというわけか。
でも、家がないって……?
「……詳しいんだな」
「あ? あ、これ受け売りだから。ひたぎと忍の豆知識だよ」
そうそう、こうして彼と話をしたのは久しぶりだが、何度かメールでやり取りはしていた。自分で言うのもなんだが、幾分か俺達は親しくなっていた。
「そうだった、あとは名前の由来か。ええっと、巴は模様だろ? え? 何だって?」
「……」
人に聞いてるのがバレバレだった。
「尻尾の形、か。ふうん、柴犬みたいな尾なんだな。巴狗。かっこつけて書くと『ともゑゐぬ』ってとこか。別の漢字で当てると、友へ、狗ととって狗が親友であるととれるし、あとは、友へ去ぬ、共へ去ぬ――要するに一緒に死ぬってことだ。似たもの同士の怪異と人間、ふたりは同じ苦しみを体験した。家がない、居る場所がない、行くべき場所がない……そうして一度は死すら望む……。粟国。巴狗は、害を及ぼす怪異じゃない。ただ、対象にどこまでも忠実で、守護し、敵には牙を剥くだけ。友人と共に居るだけ。いつまでも居て、いつかは死ぬ。それも一緒に。ただそれだけで、でも、そういうことだ」
「じゃあ……ずっと居ても、大丈夫な怪異なのか」
「その喜屋武って
「……すみません、えっと、喜屋武は男です」
「え? そうなのか? 幸音って言うからつい……なんだ、裏切りやがって」
えーと……何を?
「その喜屋武って子が、突拍子もないこと考える奴か? 犬の力を使って好き放題やらかしてるか?」
「うーん……」
判断できない。俺の記憶を消したけど、それだけって言えばそれだけのことだし。別にそんな風には見えなかったけどな。
自信ないけど。
「ま、本人の意思に委ねな。少なくとも何かが憑いてることくらいは本人も知ってるんだし、とっくにことは解決してんのかも」
「……分かった。友達の輪を広げるとします」
「ん? なんだそれ、いいともか?」
「古……」
みんなで輪するのか。
「粟国。分かってるかもだけど言っとく。
もし喜屋武がそのままでいいって言ったとしたら、そのままにしてやれよ。僕もお前も、同じように怪異を身に宿した人間だからこそ、放置することも選択肢の一つだ」
「あ、それで思い出した」
ちょっと訊きたい事があったんだった。
今訊くタイミングではないだろうが。
「戦場ヶ原さんって、彼氏が吸血鬼って知ってるのか?」
「え? ああ、というか、彼女と話すようになった初日から、もうバラしちゃったんだけどな」
「ええ……」
それを、彼女も知っていながら、交際しているっていうのかよ。
なんて言うか……相当戦場ヶ原さんも化物じみてるな。
普通そんな彼氏と付き合わねえだろ。
いや。
俺も、優補が人魚だと――怪異を怪異と――知っていながら、同棲しているんだ。まあ、俺はとっくに、化物……人間以下の、化物だが。
「旦那様は吸血鬼、みたいな?」
「うーん……?」
ボケ?
微妙な線だ。
「んま、僕が言いたかったのは――僕たちは怪異に身を宿した人間だけど、だからこそ、人のことなんて言えねえよな、ってことだ」
お前だって人魚と交際してんだからよ――と、彼は言う。
「でも、」
と俺は続ける。
「そのままでいいとは、思ってはいない――阿良々木も、そうだろ?」
相手も、答えた。
「ああ、そうだな」
「だから、」
だから。自分の思うことを、正直に言った。
「俺が、あいつと犬が一緒に居るのがいけないって引き剥がしたとしても、阿良々木は何も言わないよな?」
しばらく沈黙があり、やがて呆れたような笑い声が聞こえてきた。
「お前は、本当に僕に似ているな――ずけずけ他人に関わって、いいことなんてないぜ?」
「別に、いいことがなくても、俺は構わない」
見返りなんて求めない。
俺は、何も、求めない。
ただ、何としてでも、怪異に関わった人は助けたいのだ。
自分と同じような目に遭う人を、助けずにはいられない。
同じ道を辿ってほしくない。