007
「どこから話したらいいか。最近のことから、話すのが楽かな、オレにとっては。
「オレが地獄から逃れようと施設を出たのは、一年前。
「中学二年生の頃すね。
「オレは脱走した。やっと。
「とうとう、かな。
「もっと早く気付けばよかった。犬の力のハンパなさに。みんなに、
オレが施設に元々いなかったんだと暗示をかけることができるなんて――
「実際、上手くいったと思うんすよ。
「まあ、今日の先輩を見て、どうなんだかって気もするんすけど。
「え? 怪異を知る者には効果がない? 怪異ってのは、犬とかのことっすよね。
「……なるほど。でも、それを知った上でも、あの地獄には怪異を知っている人がいたかもしれないんでしょ。
「まあ、まあまあ。紆余曲折を経て。
「オレは、出会った。
「もったいぶって言わせてください、ここだけは。
「先輩なら、分かるはずですよ。
「だって、オレの初めての楽器だったんすから。
「ベース。
「オレを変えるきっかけのひとつ。
「
「
「うん。オレには兄弟はいません。
「一人っ子のはずです。もしかしたら何人か子どもがいたかもしれないすけどね、あの二人には。
「でも、血が繋がっていない、赤の他人であるオレを、弟のように、子どものように育ててくれたひとを、姉と呼んで何が悪いんですか。
「赤の他人。そう、オレたちはそうだった。でも、最後までオレたちは家族だったんすよ。
「オレの、最初で最後の家族。
「話を戻しますね。
「這いまくる体、よーするに這う這うの体で、文無しのオレは疲労と空腹である家に転がり込んだ。
「信じられないすよね。
「オレも三日三晩飲まず食わずで歩き続けておかしくなってたんでしょう。
「もっとだったかな。あそこから一刻も早く逃れたかったから。
「もちろん、繁華街には食べ物だって売っている。自販機には飲み物だってある。でも先輩、だからって、犬がついているからって、盗んだり機械ぶっ壊したりしていいはずはないすよね。
「ヘッドホンを壊した? まあ、あれは、オレも怒り心頭だったから。
「その話はあとでさせてくだい。オレも最近ちょっとおかしいんすよ。一年前ほどじゃないと思うけど。
「それで、ほんと無意識なんすけど、オレは一軒の家にふらふら侵入した。
「食べ物はともかく、とにかく寝たかった。
「生憎雨も降っていたし――オレはぐしょ濡れで、戸が開けっ放しだった家に当たり前みたいにお邪魔した。
「オレは玄関マットの上で文字通り死んだように眠った覚えがあるんすけど……目が覚めたら、オレは布団の上に寝ていた。寝かされていた。
「わけが分からないまま、とりあえず体を起こすと、オレからちょっと離れたところに、女の人がいた。
「そこは狭い畳の部屋だった。オレが迷い込んだ家は、他よりも相当小さかったみたいで。
「女の人は、座ってギターを弾いていた。
「そのアコギの音は、今でも覚えてる。
「オレは警戒することも忘れ――犬がいることも忘れ――ただ、聞き惚れていた。
「あのひとは、オレが目を覚ましたことに気付くと、にっこりと笑ったんだ。
「おはよう、って。
「そう言ってくれた。
「赤の他人に。勝手に入ってきた、泥棒みたいな真似したオレに。
「それは生まれて初めて貰った言葉だった。
「すごく、嬉しかった。
「オレは思わず、あのひとのことを、
「姉さんって。
「呼んでしまったんだ。
「あのひとは優しかった。オレが姉さんと呼ぶと、むしろ嬉しそうな顔をするんだ。
「綺麗で、格好よくて、強くて。
「姉さんは目が見えない。
「今までずっとひとりで暮らしてきて、寂しかったと。オレに言ってた。
「オレは、二人で助け合って暮らしたいと、そう願った。
「もちろん、初めは色々あった。オレは人を警戒してしまうし、人が怖かった。それがいくら優しい姉さんでも、恐怖に耐えられないことがあった。
「たくさん怒鳴ってしまった。迷惑をかけた。
「姉さん、佐弐ねーちゃんにちょっと似てるかも。
「さっきみたいに、オレは何度も出て行こうとしたことがある。自分のことを分かってくれる人がいないとか、そんな風に勝手にキレて。
「あのひとはいつもオレを呼び止めてくれた。
「そういえば、初めて会ったときも、こう言ってくれたっけ。
「『幸音くん、今から、どっか行くとこでもあるの?』って。
「『うちにおいで』って。
「そう。そうだったよ、それから幾度となく出て行こうとしたけど、その度にあのひとはそう言って、オレを呼び止めてくれたんだ。
「落ち着いた後は、二人でココアを飲む。心の底から温まるんすよ。
「オレは、夜が怖かった。
「眠れない日もあったし、眠れた日に見る夢は怖かった。
「そんな時も、あのひとは傍に居てココアを淹れてくれる。弱くて小さいオレに、一人じゃないよって言ってくれた。
「ずっとオレを家に置いてくれた。お陰で、オレもだんだん、普通
ってこういうのかな、と思える程度には普通の人間になれたと思う。
「あのひとも、オレが安定してきたと分かったのか、ベースをくれた。ほんと嬉しかったなあ。
「これで一緒に弾けるんだ、と思って、めっちゃ練習したんすよ。
「学校にも通えるようになった。まあクラスメイトはオレが長い間旅行に行ってたと思ってるんすけど。誰も、オレが施設にいたことなんて知らなかったし、赤の他人の家に居候していることも知らなかった。
「そう、住所だって前のまんまだったし――先生も知らなかった。
「それでいいんだよ。
「あんな平和ボケした世界の住人は知らなくても。
「あれは三ヶ月前だったか。ある日、学校から帰ってきたオレは、家がないことに気付いた。
「いや、あまりにも唐突過ぎて、オレにも分からなかったんすけどね。
「どうも、火事があったらしい。
「あのひとの隣の家だろうか、火元の消し忘れか何かで、ガスが漏れて、大火事。
「辺り一体が、火の海だった。悪夢だった。
「オレはあの時何を思ったか、何も憶えていない。
「ただ、火の音も、周りの人の声も、何も聞こえなかった。
「変な耳鳴りがして。オレはそのまま家へ向かった。
「名前を呼んだけど、返事はない。でも、オレは見たんだ。見てしまったんすよ。
「燃えていく、姉さんを。もう助からない、灰になっていく姉さんを。
「油の臭い。
「肉が焼ける臭い。
「姉さんの匂い。
「家の匂い。
「全部ごっちゃになって、オレの鼻をついた。
「何で助からなかったんだ。目が見えなくても、すぐに逃げ切れたはずなんすよ。
「でも、そうはならなかった。
「あのひとは、オレの大好きな、あのひとの次に大好きなベースを守るために、ただそれだけのために、死んでいったんだ。
「周りの人が言っていた。一旦外に出たのに、また中へ戻ってしまったって。
「馬鹿じゃねえの、そう思った。
「そんなもんどーだっていいじゃんか。オレは姉さんの方が大事なんだよ。
「なのになんで。
「なんで、
「それから――オレの中で眠っていた、もう二度と呼び出すまいと思っていた犬が、目覚めてしまった。
「抑え切れなかった。
「オレは、家もろとも壊して、崩して、死のうと思った。
「でも、無理だったんすよ。家は崩れたけど、オレは無事だった。死ねなかった。
「それは、犬がオレを殺すことだけはできなかったからかもしれないけど、オレには、姉さんがオレに生きろと言っているみたいで、嫌だった。
「何もかもどうでもよくなった。
「オレは、全部失った。
「それからは何でもしましたよ。生きるためなら盗みだってなんだってした。
「でも結局、あの地獄にオレは帰らざるをえなかったんすけど。
「何もなかったみたいに、平然と、オレを迎えてくれた。オレが、昔自分でかけた暗示を解いたから。
「誰も、オレが逃走したことなんて知らなかった。
「今までのことが嘘みたいだった。でも、ベースが、オレに真実を教えてくれていた。
「結局、オレは捨てなかったんすよ。壊そうとも思ったけど、ていうか家を崩した時に壊れてておかしくなかったんすけど、無傷だった。
「内心、オレは手放したくなかったんでしょう。
「ベースを失えば、あの時のことも忘れてしまう。それだけは嫌だった。
「唯一オレが幸せだった時間だったから。
「それから特に何もなかったすよ。今日に至るまで、何も変わっちゃいない。
「ただ、オレは地獄に帰ってきてから、また人と接するのが怖くなっていた。
「それは、かつてあそこであった吐き気のすることの所為でもあるけれど。
「どうせみんな死ぬんだろう、そう思うと、人と関わりを持つのすら面倒だった。
「誰も関わって欲しくない。
「オレに干渉して欲しくない。
「このまま、何もせずに死んでいきたいのに、犬がいる以上それもできない。
「何も食べなくても、オレ、死ねなかったんすよ。
「だから逆に――オレのことをみんな忘れてしまえばいいと思った。それなら、犬も実行してくれるだろうって。
「犬の力は凄かった。
「誰もオレを必要としない。オレから関わったときだけ、オレの存在を認める。オレが関わらなければ、誰も近づいてこない。
「教師ですらオレを忘れている。健康診断でさえ、オレは参加しなくてもバレなかったくらいだ。
「だから、何を言っても許された。
「何をしても許された。
「寝たいときに寝て。怒りたい時に怒って。それでも誰も、気付かない。
「それでよかった。
「それでのんべんだらりとした生活を送っていたけど、ついこないだ。先輩とぶつかったオレは、偉そうな口叩きましたよね。あれも、どうせ忘れられるからってあんなこと言ったんすよ。でも、そうはならなかった。
「オレを憶えている奴がいる。
「それだけで腹が立った。
「だから先輩にあんな口きいて、物をぶち壊したりできたんすよ。
「オレの世界には、オレだけで十分だったんだ。
「誰も関わってくんな。偽りを信じ続けてくれさえいれば、それでいい。
「自分がどんなにわけの分からないことを言ってるかくらい分かってますよ。
「でも――もうオレは疲れたんすよ。
「人と関わることに。
「犬とずっと一緒にいるしかないんなら、生きていくしかないんなら。
「あとはどうだってよかった。
「え? 犬はいつからいたかって?
「その話は、あんまりしたくないっつーか、オレ自身にもよくわからないんすよね。
「……。
「じゃあじゃあ、今更隠したって仕方がないし、勢いに乗せて全部ぶっちゃけちゃいます。
「あそこで――何があったかを。