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008
俺は人魚に出遭い、阿良々木は吸血鬼に出遭い、青柳は牛に出遭い、そして喜屋武は犬に巡り遭った。
俺は高校一年の冬に怪異としての彼女と出遭ったし、その一ヵ月後の冬休みに青柳は牛と関わったが、喜屋武の場合はもっと前、四年ほど前から犬と共生していた。最も、本人が認識したのがそこからというだけで、本当はもっと昔からいたのかもしれないが。俺の親は他界し、青柳も右に同じだが(彼女は父親を亡くしている)、彼の両親は、恐らくどちらも健在だと言う。ただ、彼の抱える歪みは、青柳の抱えるそれよりもずっと醜いものかもしれなかった。彼女の悩みは家庭によって生じるのだが、喜屋武は家庭がないことによって生じる歪みだった。
「オレは、小学生の頃に捨てられました」
平然と喜屋武は言った。
随分と慣れてしまったように。
このことに関しては何も思っていないように。
「捨てられたっつうか、
そんな馬鹿な、とは思う。俺は信じられずに相手を見つめる。
青柳とは違って、空っぽの笑みは生じていない、ただの無表情だが、それでも彼女と同じものを感じずにはいられなかった。
そこはどうでもいいという風に、彼はさっさと話を進める。
「道端に捨ててくれりゃよかったのに。あの二人、ご丁寧に施設に預けたんすよ。地獄の孤児院にね」
喜屋武は思い出したくないという風に、顔をしかめた。
「部屋は狭い、ケアはたるい、食事も少ないし寝心地も悪い。学校に行って友達できてもうちがないことがバレたらいけない。帰りはいつも一人でしたよ」
「…………」
俺は静かにコーヒーを口に運んだが、どうも味が薄いようだった。
「だから、かな。オレが
彼も冷えたココアを飲む。
「あそこが本当に地獄なのは、部屋のことでもスタッフのことでも食べ物のことでもない。暴力すよ」
「……暴力」
そ、と喜屋武は頷いた。
「同じく親に捨てられた高校生男子、同じ孤児院に入所している彼のご趣味は、暴力だった。それは殴る蹴るの方もすけど、そっちじゃない、性的な意味でも」
喜屋武は一瞬口をつぐんだが、溢れ出す感情に押されるように、一気に話し出した。
その高校生は一日に一人、幼い入所者を呼んで、風呂場や自分の部屋で、及んだのだそうだ。性別関係なく、嫌がるのもお構いなしに。
ただでさえ傷ついている子供たちの心を、破壊した。
壊滅させた。
撲滅させた。
誰も、何も言わない。知っているのは、幼い被害者たちと、これから被害に遭う者たちだけ。
何も言わないというよりは、どうすればいいか皆分からなかったのだ。
ひとり、またひとりと児童は壊れてゆく。
そして、当時小学五年だった喜屋武も、狙われた。
呼び出しを食らう。
誰もいない部屋に連れ込まれ、そして。
「ワイセツな行為? って言うんすかね。初体験が男っつーのも何だかな、でも、未遂に終わりましたよ」
彼は、叫んだ。助けを求めた。
誰も来ない。
無駄だった。
口を押さえられた。
誰も来ない。
手を伸ばした。
人は来ない。
――ガチリ。
全てを救う音がした。
気がつけば、喜屋武は血に濡れた男子を、見下ろしていた、そうだ。
どうして、どうやってこうなったかはともかく、喜屋武には何が起こったか分かってはいた。自分が望んだことなのだから。
自分に宿った怪異を、それが力を発揮した瞬間理解した。
巴狗。
共に生きる唯一の友。
喜屋武は、男子生徒が気絶している間に血を拭き取り、誰にも見つからないように彼の部屋に寝かせた。
事実、誰にも見つからなかったが、それは怪異の力であって偶然でも何でもない。ただ、怪異が喜屋武の願いに応えただけだった。
「それから――どうなったんだ」
「どうも」
喜屋武は短く答える。答えにはなっていなかったが。
「どうもなりませんよ……勿論。あそこは地獄であり続けた。暴力が消えてもそれは一時的なもんで、また次があるのは当たり前のこと」
「次がある……って」
「みんなストレスを抱えてる。でも発散の仕方が分からない。だから、間違ったやり方でみんな」
暴力を。
他人を巻き込む、解消法。
「でもそれは、オレも同じなんすよね」
「…………」
「子どもがバタフライナイフ持って最強ぶってるみたいに、オレは怪異がいるってことで最強ぶってた」
なんだ。
俺はてっきり、喜屋武は自分が何をしているのか自覚していないものだと思っていたのだが……それは思い違いだったようだ。
彼は、自分のしでかしたこと、今していることに気付いていた。
よく理解していた。
だからこそ。
「あの地獄の連鎖は止まらない。オレは、暴力を振るう奴を止めている。制裁、とでも言うかのように。周りに害を及ぼすのを食い止めるかのように。でも、実際はそうじゃないんすよ。そんなのはただの偽善で――偽りだ。オレも、みんなと同じで、間違ったやり方でストレスを発散しているだけなんだ」
口調が、恐らく本当の彼のものへと変わっていく。
間違いなく、本音だった。
「危害を加える奴を、犬でいじめているのには変わりない。ぶっちゃけ、あの牙の音は心地いいし、すかっとする。一番害を及ぼしているのは他でもない、このオレだってのに、自分を殺すことも、止めることすらできないなんて」
制御できない時があった。と彼は言う。
彼が怒れば、犬も怒る。
無意識のうちに喜屋武が人を憎んでも、犬は一番の理解者で、それを汲み取って報復をする。
実際、あの時。
俺が喜屋武を挑発した時。
俺にあそこまでする気はなかったそうだが、喜屋武が怒りで我を失っているにも関わらず、犬は俺に攻撃したらしい。
喜屋武は周りに自分の世界を強いた。
それに背くものには、罰を与えた。
ガチリ、と。
彼にとっての幸せな音。
歯車が噛み合ったかのような、しっくりとくる、それでいて恐ろしい音で、他を威嚇する。制圧する。
そんな恐怖政治、独裁政治を続けてきて――自然と、気付いたのだろう。
悟ったのだろう。
「オレは――
「周りはオレがしたことに気付いていないだろう。怯えていることにさえ気付かされないでいるだろう。オレという化物が存在していること自体、忘れさせられているんだから」
今までいろんなことをしてきた、と喜屋武は告白する。
盗みもしたし、暴力も振るった。
それは地獄を巡り続ける他の子どもたちと、何ら、変わりない。
それを理解していたからこそ、彼は、怖かったのだ。
誰よりも、恐れていたのだ。
誰かが自分のしてきたことに気付いたら。
全てを思い出してしまったら。
偽りを塗り替えられ、真実を知らされてしまったら。
自分は――どうなってしまうのだろう。
そしてそれだけではなく、そんな力をいつの間にか手に入れていた自分に、それを当たり前のように受け入れ行使している自分自身も、怖かったのだ。
自分は、普通ではないと。
「――怖い」
そう言葉を漏らした。
「怖い、怖いよ。どうしよう、どうしようどうしようどうしよう!
今までしてきたこと、償えるならなんだってする! 許してほしいなんて思わない、でも、だから、どうかみんな気付かないで、忘れていて知らないで! オレがしてきたことは、みんながされてきたことは、っ」
そこで唐突に口をつぐむ。
見れば、――いや。
俺は何も見ていない。
……男というのは、人前では泣いたりしないし、そもそも滅多なことがない限りはそんな女々しいことはしない。
子どもの頃は別として、ある時を境に、家族や友人の前で泣かなくなるし、一人でだって泣かない――誰も見ていないのなら、涙なんて乾いてしまえば泣いていないことになるのだ。
人前で泣くなんてこと、格好が悪いどころの話じゃない。
そう。
男は泣いたりしない。
ただ、目の前で震えている喜屋武を見ていると、あーまだ冬だし寒いんだろうなー、と思ってしまって、でも暖房はないしどうしたものか、仕方がない、気は進まないけど、と。
彼をそっと抱きしめてやった。
何故だか震えが一層激しくなってしまったのだが、男に抱かれて気持ち悪くなったからかもしれない。拒絶反応を示されたのかもしれない。
だけど俺は放してやらなかった。
今までの仕返しも含めて、ちょっと喜屋武をいじめているだけである。
「……喜屋武。お前、全部分かってたんだな」
自分がしてきたこと。
どんなに悪いことをしてきたか、ちゃんと知った上で、怖かったんだな。
「俺はお前を恨んだりしてないし、怒ってもねーよ。このことを、口外しようと思うなんて存外だ」
甘やかしだ。
良いことではない、決して。
本当は恨んでも仕方がないことをしただろう、怒ってしかるべきだろう。でも、そうしないのはやはり、俺が弱いからだ。
今まで犯してきた罪は、確かに軽いものではない。
隠蔽していいものではないだろう。
でも、それを今彼に責めるのは、酷だ。
そう思ってしまうのはやっぱり俺が甘いからなのだが、せめて少しだけでも。
猶予というものを与えてはやれないものか。
ただこいつは、ちょっとないものねだりをしている子どもなんだから。
「でもな、お前のしてきたことはいけないことなんだ。人によっては、お前を許さないと言う奴がいるだろう」
「っ」
びくっ、と喜屋武の体がはねる。こういう時に言ってやらないと、彼は何も変われないだろうから。
今だけは、と俺は辛辣な言葉を口にした。
「いつかはバレる。お前の過去は忘れられてもなくならないけど、お前のことを忘れ続けられる奴なんかいない。いつかは思い出すだろう。ずっと、偽りを植えつけられてきたことを知るだろう」
「うう、ぁ」
「姉さんが知ったら、何て言うんだろうな」
「……ひ」
しゃくりあげるのを堪えながら、それでも漏れる声を隠すことはできなかった。
いじめ過ぎるのも性に合わないし、そろそろ限界かもしれないと思ったので、俺は言った。
「俺は姉さんの代わりにはなれないし、どんな人だったかも分からないけど、それでもお前に、うちにおいでって言ってくれるんじゃないのか? お前が何をしたところで、姉さんはお前にとって大事な家族で――あそこは、お前の家だったんだから」
「う、ぅ、うう」
「お前は化物なんかじゃねえよ。ちょっとベースが上手い、生意気なガキだ」
俺はお前の家族にはなれないし、家になることもできない。
慰めるのだって下手だし、怒ることもできなかった。
ただ、傍にいてやることができるだけ。
怪異なんて曖昧なものが付き添っていても、寂しいだけだろう。俺でよかったら、代わりになってやるよ。
そういう意味を込めて、言ったつもりだった。
「まだまだ小さいのに心配しすぎなんだよ、――ばか」
さすがに腹が立ったのだろう、俺の背に喜屋武の細腕が巻きついてきて、痛いほどしがみついてきた。
文句の一つでも言い返せばいいのに、どうやら衝動に耐えられなかったようで。
喜屋武は、わんわんと泣いた。
全く、誤魔化しようがないじゃねーか。
隣にいた優補はそっと立ち上がって――勿論慰めたりはしない。彼女はそういう行為を何よりも嫌う――キッチンへと向かった。
恐らくは、ココアを用意するのだろう。