わざわいてんじて   作:ふえるわかめ16グラム

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第二話

「お疲れ様でしたー。お先失礼しますー」

「うん、おつかれさま」

 

 

 タイムカードはもう切ってある。ちらほらと残っている上司や同僚に横目で挨拶しながら、早足でオフィスから出た。エレベータホールにたどり着いたオレは操作盤のボタンを押すと、コートのボタンを全て留める。

 早いもので、いつの間にか秋は過ぎ去り、今じゃ木枯らしが幅を利かせている。すぐにやってきたエレベーターに乗り込むと、オレは首に巻いたマフラーに隙間ができていないか再確認した。

 

「っあー疲れた」

 

 誰もいないエレベーターの中、思わず独り言が溢れる。

 今日は週一回の出社日かつ金曜日。普段テレワークのため、運動不足気味で通勤するだけでも結構体力を持っていかれる。それプラス週末でもうヘロヘロだ。

 しかしまあ、悪いことばかりじゃない。気分の問題かもしれないが、ちゃんと身だしなみを整えて一日仕事をして、それが終われば休日だという切り替えの感じとか。ずっと家で仕事をしていると、どうにもそこら辺の境界が曖昧になってしまう。

 そう、体の底に溜まった疲労感を噛み締めている間にエレベーターは地上一階に到着した。

 

 

(寒っ……)

 

 

 感染症対策のため開けっ放しになった出入り口から冷たい外気が吹き付けてくる。なんだか、毎年冬が来るたびに体感の寒さが厳しくなっている気がする。あれかしら、体が女になったから? それとも加齢? ……まあ、どっちだっていいか。

 

 季節に敏感でいたいとは常々思うけど、冬は嫌いだ。

 コートのポケットに両手を突っ込んで、身を縮めながら歩道に出ると、示し合わせたかのように一陣の風が枯葉を散らしていった。

 また一段と冬の匂いが濃くなっている。だからか、死にたくなる。クソ。

 マフラーを口元まで引き上げ、マスクの中で悪態を吐くと、オレはパンプスの踵を鳴らしながら家路を急いだ。

 

 

 

 ——この体になって初めて迎えた季節が冬だった。

 

 今まで歩んできた人生の道程や自分自身のことを、綺麗さっぱり否定されたような気分だったのをよく覚えている。病院から退院した時、女物の服なんて持ってるはずもなく。身長こそあまり変わらなかったものの、完全にサイズの合っていない服のまま街を歩いた。そうそう、歩き方や立ち振る舞いなんかも男女で違うな。つまり、なんだか変な奴がいるぞと、道行く人々の目を引いてしまったわけだ。悪意のない好奇の目は、生理で弱っている時なんかに未だ夢に見る。

 そうして、オレはひどく惨めな気持ちになって、部屋に逃げ込んだ。

 

 大して信じている訳じゃないけれど、神様とか己の運命とか、そういうのを人並みに恨みもした。

 

 だが、オレはとてつもなく臆病だった。自暴自棄にもなれず、ましてや自分自身で人生の幕を引くこともできなかった。

 だから順応した。外面を繕った。

 ある程度仮面をかぶれるようになれば、普通に生きていくだけの仕事もできた。しかし、言い換えればそれはただ生きているだけだった。何もない、何も持っていない。ただただ目の前を素通りしていく世間を眺めるだけの、味のしない日々。そんな無為に過ごすだけの毎日に危機感も持てず、漠然と人生を費やすことに必死になっていたら、性別が変わって一年が経っていた。

 

 

 

 窓の外を流れていく街の明かりを眺めながら、取り留めのないことを考える。

 こんなご時世だって言うのに相変わらず混み合う電車には辟易するが、痛いくらい冷たい風に震えるより何倍もマシだ。うまい具合に開かない側のドア付近をゲットしたオレは、冷気で強張った体が暖房によって解れていくのに嘆息する。すると、意識に余裕が生まれたせいか急激に空腹感がやってきた。

 

(晩飯どうすっかなあ。常備菜も使い切ったし、金曜だしなあ。なんか、こう、テンション上がるもの食いてえよな)

 

 そうして頭の中が夕食のことでいっぱいになった時、ショルダーバッグの中でスマホが振動した。

 

(はいはい何でしょう……お、颯斗か……)

 

 最早片手で操作するのも億劫なサイズ感のスマホの画面には『おつかれしごおわ。うちくる?』の文字が。そういえば、あのやらかしから大体一月ほど経っている。あの後、お互い普通に仕事が忙しくてあまり遊べなかった。まあ、かえってそれが良かったんだろう。これまでと変わらず、あいつとはちゃんと友達のままでいる。

 

『おつかれ。今日はオレん家にすっか』

 

 簡単な返事をして、マスクのせいで据わりの悪い眼鏡を直して顔を上げる。すると、ちょうど線路脇の道路を、デリバリーピザの原付が並走していた。

 

 宅配ピザねえ。

 ……たまにはアリだな。パーッとやるかあ。

 オレは基本的に自炊派だが、こんな日があってもいいと思う。

 

『ピザとってビールで優勝したい。したくない?』

 

 さっき送ったメッセージに既読が付いているのを確認したオレは、颯斗の返信を待たずに追撃した。もう完全にピザの口になっているオレは、早速家から最寄りの宅配ピザチェーンのサイトを開いた。今はウェブ注文とかできてめっちゃ便利になったよなあ。おかげさまでちょっとお腹がぐうと鳴った。……恥ずかしい。

 

『おけ。風呂入ったらいく。しばし待たれよ』

 

 ピザのメニューを眺めていると、颯斗からの返事が届いた。

 

『ハイヨー』

 

 それに対し了承の意を伝えてすぐ、間も無く最寄駅だと告げる車内アナウンスが流れた。ふむ。帰ってから適当に頼むか。酒も買わなきゃロクなのないし。オレはスマホの操作をやめると、再びバッグへそれをしまい込んだ。

 

 今年の正月は、帰省できないだろうな。

 記憶よりは若干空いている車内と、マスクで顔を覆った乗客達を見て、ふとそう思った。

 

 

 

 思い返せば、颯斗にもいろいろあった。今でこそ本人は笑い話だと言っているが、あの出来事は彼の心へそれなりに深い傷を残したはずだ。

 あれは社会人三年目くらいの時か。当時颯斗には一年程付き合ってる彼女がいて、あいつはその彼女のことをめちゃくちゃ溺愛していた。確か、同じ大学の同じ学科だった女の子で、たまたま街で再開して付き合うことになったとか。とにかく、たまに飲みに行けば会話の殆どがノロケ話になるくらいには入れ込んでいた。聞いた話では、結構貢いだり、旅行に行ったりもしていたらしい。

 

 そんな、生きるの楽しい、人生最高状態の颯斗とパッタリ連絡が途絶えたことがあった。どんなメッセージを送っても、電話をしてみても何の反応もない。そして、流石にただ事ではないと思ったオレがあいつの部屋に押しかけてみると、颯斗はこの世の終わりのような顔をしていた。

 

 どうやら、颯斗は最初から二股をかけられていたらしい。しかも颯斗は本命ではなく、逆に二股相手から有る事無い事脅されて金も集られたそうだった。可哀想がすぎる。

 

 その当時の颯斗は哀れすぎて、放っておけば消えてしまいそうに見えた。ちょっとでも強い風が吹いたら真っ二つに折れて、雨に濡れたら溶けそうなくらい。ともかく、その時のオレは、一番身近な友人のはずなのに一言も相談がなかった苛立ちと、ただこいつを何とかしてやりたいという思いを燃料にひたすら構い倒した。有給を取って、男二人北海道へ傷心旅行なんてのもした。

 

 結果として、なんとか颯斗を立ち直させることに成功した訳だが、それ以来彼は女性不信気味になり、特に色恋沙汰から遠ざかるようになってしまった。あんな仕打ちを受けたのだ、それもしょうがないと思う。

 ただ、そろそろあいつもいい歳だ。SNSを覗いてみれば、高校の時の共通の知人が結婚してたりなんて珍しくない。オレはもう色々と諦めているが、一人の友として、あいつにはちゃんと幸せになってほしいと思う。

 

 

 

 駅から出て一番近いコンビニに吸い込まれる。やっぱりここもドアはあけっぱなしでクソ寒い。オレは入り口横に積んである買い物かごを手に取ると、一直線に酒類コーナーへ向かった。なんせフライデーナイトをピッツァでビクトリーするんだ、備蓄のビールもどきじゃあ荷が重い。こんな日くらい、ホンモノのビアを飲んでもバチは当たらねえだろう。

 オレは目ぼしい銘柄のビールをカゴにジャカポコ入れていく。大盤振る舞いでてんてこまいだこのやろう。ふへへへ。高まってきた……。

 

 メインディッシュはピザだから、あと何か必要なものあるかな。あーそうだ。ラップ切らしてたんだ。ううむ、明日買ってもいいけど、もしも食べきれないものが出たら保存に困るな。しょうがない、ここで一緒に買ってしまおう。確か向こうの棚の方だったよなあ。

 

 オレはひとまず酒類コーナーを離れて、日用品とかもろもろを陳列している方へ足を向ける。ええと、ラップはどこだ? 確か、前にこの辺で見た記憶が。

 ああ、あったあった。あちゃー、巻いてるメートル数短いやつしか売ってないか。まあしょうがない。予備とか買ってないオレが悪いんだから。などと胸中でボヤきながらラップをカゴに放る。

 

 あとは、何か買うものあるかな。そう思って視線を巡らせると、とある棚の一角が目に留まった。

 

 煙草にもすこし似たサイズ感の箱に、デカデカと小数点付きの数字がプリントされたパッケージ。

 ——そうだね、コンドームだね。

 突然視界に性的なアイテムが入ってきて、オレは面食らってしまった。…………ハッハッハ、バカいえ、思春期のガキじゃあるまいし。オレしってる。コンドームはセックス以外にも水筒にしたり火起こしに使えるからサバイバルで役立つってしってる。おれはてんさいなので。

 

 ……念の為、買っておくか? あ、あくまで、自衛の為で、他意はないけど、一応? だ、だって、今日は颯斗がうちに来る番だし、オレん家にゴムとか無いし。もしこの前みたいなことになったら、今度こそちゃんと付けなきゃヤバい。いや最初から付けろって話だけど。

 

 もしも、もしもだけど、またあんなことが……。

 

 あの夜、オレのことをベッドに押さえつける、颯斗のからだが脳裏に蘇った。汗でしっとりした肌と、燃えるような体温。外側はもちろん、内側からも同じくらい暖かくて、ひとつに溶け合うような。

 

(やべ……顔あっつ……)

 

 少し思い出しただけで顔に熱が集まる。なんだこれ……一体どうなってるんだオレ。下腹部の方もなんか変だ。なるほど、これがアレか、おなかが切ないってやつかーなるほどなるほど。ちぃ、おぼえた。

 

(もう、なんなんだよ……オレ、そんなんじゃないのに……)

 

 こんなの絶対おかしい。あんなのまともじゃない。あれは、ただの、酒での失敗だ。

 だって、オレは元男で、嗜好自体は昔と変わらない。それなのに、また、あの夜みたいに熱を分けて欲しい。そう思ってしまうなんて、もうどこかおかしくなってしまっているんじゃないか。

 

 なんだか、無性に人肌恋しい。

 寒くて、凍えてしまいそうだ。

 

 どうしようもないくらいひとりぼっち。嫌になるぐらい人がいっぱいのこの世界で、限りなく完結したひとりぼっち。

 出口のない迷路を、思考がトップギアでぐるぐると回る。

 まだ、思春期の香りを引きずっていた頃なら、こんなふうに自意識が拡大していって、足元が揺らいでしまうような感覚に陥ることも許されるだろう。でも、オレは、もう大人なんだ。社会と自分の間で心をすり減らして、年相応に角が取れて丸くなった。なにも、特別なことなんてない。掃いて捨てるくらい有り余った、”普通”の人間だ。清濁併せ吞んで、自分の足で立つしかない、普通の人間……。

 

「あの、すみません」

「あっ、ご、ごめんなさい」

 

 呆けてしまっていたオレは、隣に立つ壮年の女性の声によって現実に引き戻された。どうやら、オレが邪魔で商品を取れなかったらしい。オレは一言謝罪すると、あうあう唸りながら店内の物色に戻った。

 

 

 ++

 

 

「おつかれー」

 

 マンゴー材のローテーブルに宅配ピザの箱を広げ、その上で乾杯する。

 これまでと、普段と何ら代わり映えしない一幕。目の前では、髪を下ろしてオフの装いとなった颯斗が少年のように目を輝かせている。その視線は複数枚のピザの上を行き来していて、なんというか微笑ましい。彼はどうしようかな、と呟くと缶ビールをぐびっと飲み、オレに目を向けた。

 

「何から食っても同じだろ」

 

 オレは、道案内を求めるような颯斗の目に苦笑しつつ、自分から一番近いマルゲリータピザに手を伸ばした。オレが「ほれほれ早く食おうぜ」と颯斗に促すと、彼はオレのと同じピザを取る。

 

「いただきまーす」

 

 軽い調子の声が、二つ重なる。

 

 うん、うまい。とりあえずで選んだド定番なだけある。トマトとチーズの味、バジルの爽やかな香り。言っちゃえばそれでおしまいだけど、シンプルイズベストという言葉もあるし。かなり久しぶりにデリバリーのを食べるけど、楽だしうまいしで文句なしだ。お値段に目をつぶればだけど、まあこれは宅配料ということで。

 すかさずビールを流し込めば、これが合わないわけがない。ビアとピッツァ、合いすぎて合鴨になったわね……。ぐわぐわ。

 

 ここでようやく人心地ついたと、オレはあつい息を吐いた。

 すっかり暖房の効いた部屋、毛足の長いラグの肌触りがくすぐったい。座椅子替わりのビーズソファに体を任せると、しみじみと旨いものを食べているといった顔をした颯斗が目に入った。

 

 

「今日、泊まっていくっしょ?」

 自分でも驚くくらい、優しい声が出た。

 

 

 

 

 

 

 


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