走るその先に、見える世界 作:ひさっち
麻真がメジロマックイーンに指示した基礎トレーニングは、彼女の日常を少しずつ変えていた。
今現在、メジロマックイーンが行っている基礎トレーニングは、麻真の指示で鍛える箇所を上半身と下半身に分けて、この二つの箇所を交互に鍛えている。
メジロマックイーンが上半身を限界まで鍛えた翌日は、当然のように彼女の上半身の筋肉が筋肉痛になる。だが上半身を鍛えた日は下半身を鍛えていないので、上半身が筋肉痛でも下半身の筋肉を鍛えることができることを麻真は指摘した。
そして上半身が筋肉痛の日に下半身を鍛えれば、翌日には下半身の筋肉が筋肉痛になる。なら今度は、既に“筋肉痛の治まっている”上半身を鍛えば良い。メジロマックイーンはこれを一日ずつ交互に繰り返していた。
本来なら筋肉痛は一日程度では治らない。しかしメジロマックイーンの身体の筋肉痛は丸一日休ませると、その翌日には不思議と彼女の身体にあったはずの筋肉痛が消えていたのだ。
基礎トレーニングを始めたばかりの頃はメジロマックイーンもその変化に驚いていたのだが、数日経てば彼女も納得せざるを得なかった。
それは自分のトレーナーである北野麻真の“トレーナーとしての能力”の一端を、メジロマックイーンが垣間見た瞬間だった。
メジロマックイーンが基礎トレーニングで限界まで身体を酷使した後、麻真は彼女に様々なことを指示し、実施していた。
まずは基礎トレーニング後に、麻真が何処からか持ってきた“特製のドリンク”と“スナック菓子のようなモノ”をメジロマックイーンに食べさせていた。彼曰く、それはトレーニング後の栄養補給でとても効果があるらしい。
次に、ストレッチだ。疲れ切っているメジロマックイーンが適当に行わないように、麻真が補助をして丹念に彼女のストレッチを行う。
そしてストレッチを終えたメジロマックイーンがシャワーで汗を流した後、麻真は彼女の身体を丁寧にマッサージしていた。
マッサージをすると麻真から聞いた時、初めは流石のメジロマックイーンも男性に身体に触られることに対して否定的だったが、渋々彼からマッサージを受けてしまったのが運の尽きだった。
このトレーナーこと北野麻真は、マッサージが“非常に”上手かった。実際に受けたメジロマックイーンも麻真からマッサージを受けた途端、心地良さのあまりに惚けた顔をしていた程だった。彼曰く、自分でもトレーニングした後は良くやっていることらしい。
そうして麻真のマッサージを終えて夕食を済ませ、自室で読書などで時間を過ごした後、夜に適温の風呂に入ることで更に身体を癒し、最後はベッドでしっかりと熟睡する。
この一連の流れが、麻真と基礎トレーニングを始めたメジロマックイーンの放課後ルーティンとなっていた。
「ようやく今日の練習も終わりましたわ……」
制服姿のメジロマックイーンがソファに座ると、彼女はそのままソファに身体を預けてるなり全身の力を抜いていた。
今日も厳しいトレーニングを終え、ストレッチからマッサージまで終えた後、夕食までの時間をメジロマックイーンは麻真に呼ばれてトレーナー室で過ごしていた。
トレーニング後に麻真から話があると言われてトレーナー室までメジロマックイーンが彼と一緒に来た後、麻真は何かを取りに行くと言ってすぐにトレーナー室から立ち去っていた。
「……全然戻ってきませんわ」
誰もいないトレーナー室で、メジロマックイーンは麻真が戻ってくる来るまでの時間を部屋に備え付けられたソファで寛ぐ。
トレセン学園のトレーナー室は、文字通りトレーナー達が使う部屋である。部屋にはトレーナーが各々仕事できる用のデスクが並んでいた。
そんなトレーナーが仕事をする場所でも、休憩する為の場所がある。トレーナー室の一角に、ソファに机、そしてテレビが備え付けられている場所があった。メジロマックイーンはそこにあるソファに座って寛いでいた。
何故自分以外に誰もトレーナー室にいないのか不思議だったが、メジロマックイーンはそんなことは疲れていて気にするのも面倒だった。
「ふわぁ……!」
少し待っても麻真が一向に戻らないことに、欠伸をしていたメジロマックイーンの目蓋が少しずつ落ちていく。
メジロマックイーンの疲れた身体にゆっくりと眠気が襲い掛かる。そうしてしばらく経ち、彼女が頭をこくりと落とし始めたところで、ようやく麻真がトレーナー室に戻って来ていた。
しかしメジロマックイーンは、眠気のあまり麻真がトレーナー室に戻って来たことに気付いていなかった。
「ん……?」
トレーナー室に入った麻真が、頭をふらふらと揺らしているメジロマックイーンを見て眉を寄せる。
そして麻真がメジロマックイーンが座るソファの後ろに立っても、一向に彼女は麻真に気付く様子はなかった。
そんなメジロマックイーンに、麻真はニヤリと笑っていた。
メジロマックイーンの後ろで麻真が右手に持っていた厚めの資料を丸めると――彼は勢い良く自分の左手に振りかぶっていた。
――パンッと乾いた大きな音がトレーナー室に響いた
今まで無音だったトレーナー室で、眠る一歩前だったメジロマックイーンの耳に大きな音が響く。
「ひゃあぁぁぁぁ‼︎」
瞬間、メジロマックイーンが大きな声を出して驚いた。耳と尻尾がピンと逆立ち、彼女が心底驚いているのが見て分かる。
眠さのあまり無防備だったメジロマックイーンに、その大きな音は彼女を覚醒させるのに十分な音量だった。
麻真は驚いているメジロマックイーンを見ると、心底楽しそうに笑っていた。
メジロマックイーンが慌てて声の方に振り向くと丸めた資料を持っていた麻真を見るなり、すぐに彼が“犯人”だと理解した。
「なっ……麻真さんっ! なにするんですのっ⁉︎」
「お前が眠たそうにしてたからだ。でもちゃんと起きただろ?」
「むしろビックリし過ぎて死ぬかと思いましたわ‼︎」
「ははっ、俺は珍しいもの見れたから楽しかったぞ?」
「くっ……いつか絶対にやり返しますわ……!」
「やれるものならやってみろ。楽しみにしておく」
当然、メジロマックイーンは怒っていた。
しかし麻真はそんなことを気にする素振りもなく丸めた資料を元に戻しながら、彼はメジロマックイーンの向かいにあるソファに座っていた。
「さて……ルドルフと約束の時間まで少しあるからな。ちょっと時間のあるうちに今後の話をしておこうと思ったんだ」
「……今後の話ですか?」
驚かされて不機嫌ながらもメジロマックイーンが麻真に怪訝な顔を見せる。
麻真は手に持っていた資料を見ながら、機嫌の悪いメジロマックイーンを無視して話を進めていた。
「あぁ、すぐに話しておこうと思ってな」
「……またトレーニングの話ですか?」
「それも少しあるが、本題はそこじゃない。マックイーン、今何月だ?」
唐突に麻真に訊かれてメジロマックイーンが眉を寄せる。彼女はトレーナー室の壁にあるカレンダーを一瞥して答えた。
「五月、ですわ」
「そう、五月の初旬だ。そこで今日、理事長から俺のところに“コレ”がきた」
麻真が手に持った資料をひらひらとメジロマックイーンを見せつける。
メジロマックイーンが麻真の持つ資料に視線を向けていると、彼は楽しそうに告げていた。
「マックイーン、お前のメイクデビュー戦が決まった」
その言葉を聞いた瞬間、眠気が吹き飛んだメジロマックイーンの背筋がピンと真っ直ぐに伸びた。
その反応を見て、麻真が更に楽しそうにしながらメジロマックイーンを見つめていた。
「俺がマックイーンの専属トレーナーとして四月末で“URA”に正式登録されたからだな。メイクデビュー戦は基本四月末だが、トレーナーが決まるのが遅いウマ娘も多い。URAが決めた日時で臨時で行われることがよくある。だから今回、五月末開催予定のジュニア級のメイクデビュー戦への参加指示が俺のところに来た」
URA――Uma-musume Racing Association――とは、ウマ娘競争協会の略称である。ウマ娘のレース登録や競争ルールの策定を取り仕切っている組織である。
このURAにトレーナーがウマ娘を自分の担当として申請し、登録しなければ出走を認められないレースが存在する。基本的にはトレーナーは担当しているウマ娘を自分の担当ウマ娘としてURAに登録するのが一般的である。
麻真の場合、これをトレセン学園の理事長である秋川やよいによって登録されてしまい、強制的にメジロマックイーンのトレーナーとしての活動を強いられていた。
「流石に俺も次のメイクデビュー戦の開催が五月とは思わなかった。多分来月辺りだと思ってたくらいだからな。予定より早いが……もし断ると次がいつになるか分からないこともあって、今回の参加指示を受けることにした」
「もしそれを断ると、どうなりますの?」
「基本的には断らないんだが……断ると次の開催までトゥインクル・シリーズには出れないな」
メイクデビュー戦とは、新人のウマ娘がまず初めに出場するレースである。これを初めに出場しなければ、そのウマ娘は他のレースへの出場権利をURAから獲得できない。
基本的にメイクデビュー戦の開催は、四月末に開催される。トレセン学園に四月に入学したウマ娘がトレーナーを見つけ、URAに登録するのが四月中であることが主な理由である。
しかし四月中にURAへの新規登録ができなかったウマ娘がいるのも、当然である。その場合、URAに新規登録されたウマ娘の人数が適性毎にレース開催可能人数まで集まるまでメイクデビュー戦は開催されない。つまりは、いつ行われるかが分からないということだ。
「……貴方が断らなくて良かったと心から思いますわ」
メジロマックイーンが心から安堵していた。まさかトレーナーの意思でトゥインクル・シリーズへの参加権を失う可能性があることに内心震えていた。
「断るトレーナーなんて滅多にいないけどな。とまぁ、お前のレースが決まったから、その詳細を話してやる」
おそらく麻真の持っている資料がメイクデビュー戦について書かれた資料なのだろう。
麻真が資料を見ながら、メジロマックイーンに詳細を伝えていた。
「お前の適正距離は事前にURAに伝えていたからその辺りは考慮されてるみたいだな。会場は阪神、芝の二千メートルの中距離枠に組み込まれてる」
「二千メートルの中距離……長距離ではないのですね」
麻真からレースの内容を聞いて、メジロマックイーンが呟く。
レースには基本的に四つの距離がある。今回、麻真はトゥインクル・シリーズを仕切っている“URA”にメジロマックイーンの適正は中長距離で登録していた。それによりURAから参加指定を受けたは、中距離となっていた。
「メイクデビュー戦は中距離までだ。新米のウマ娘に長距離はまだキツいだろう。お前みたいにある程度のスタミナがある奴ばかりじゃないんだ」
中距離と言われて首を傾げるメジロマックイーンに、麻真が苦笑する。
メイクデビュー戦では、短距離から中距離の三種類でしか行われない。
まだ練習を始めたばかりのウマ娘では、本来ならば中距離でも距離適性があっても速度を出して走り切るのは難しい。故に、ある意味ではメイクデビュー戦の中距離は、割と困難なレースでもあった。
しかしメジロマックイーンに関しては、麻真はその点は心配はしていなかった。彼から見てもメジロマックイーンは、スタミナ“だけ”はある方だと判断していた。
「そんな訳だ。だからメイクデビュー戦のある月末に向けての方針を今のうちに話しておこうと思ったんだ。マックイーン……聞く気はあるか?」
麻真がわざとらしくメジロマックイーンに訊く。
メジロマックイーンはそんな嫌味ったらしい麻真に頬を僅かに膨らませていた。
「……聞きますわよ。別にそれがトレーニングの話でも」
「不貞腐れるな、ちゃんと前向きに話してやるから」
そう言って麻真が手に持っていた資料の一枚をメジロマックイーンに渡す。
渡された資料をメジロマックイーンが確認すると、資料の内容は今後の練習日程が記載されていた。
「俺はあまり書類とかで残すことはしないタイプなんだが、お前はその方が好みだろう。それがお前の月末までの日程だ」
麻真は基本的に練習日程などを書類などに残すことを好まない。彼の場合、決めた日程通りに練習するよりも担当のウマ娘の成長過程を見ながら随時練習内容を変えていくタイプのトレーナーである。
だがメジロマックイーンの場合は、彼女の性格を麻真が見る限り、今後の練習予定をある程度把握している方が好ましいタイプのウマ娘と判断していた。その為、麻真はわざわざ彼女の為に資料を用意していた。
メジロマックイーンが麻真から渡された資料を読み進めると、彼女は次第に表情を曇らせた。
「これ……本気で言ってるんですの?」
手に持った資料を指差して、メジロマックイーンが引き攣った表情を作る。
麻真はそんなメジロマックイーンの反応に、思わず小首を僅かに傾けていた。
「そうだが? 何か問題あるか?」
「あるから訊いてるのが分かりませんのっ⁉︎」
メジロマックイーンが大きな声で麻真に文句を伝える。
そしてメジロマックイーンが手に持っていた資料を僅かに指を震わせて差していた。
「レースの十日前まで基礎トレーニングだけってどういうことですのっ⁉︎ 流石に走る練習を全くしないのは私も容認できませんわ‼︎」
メジロマックイーンが見た資料には、麻真が考えた大まかな彼女のメイクデビュー戦までの練習日程が書かれていた。
その内容は五月の初旬である今日から約二週間は基礎トレーニングのみで、レース十日前から走る練習を入れながら基礎トレーニングをしていくという内容だった。
レースとは、競争である。つまり走って競う。それなのに直前まで走る練習をしない内容の練習日程には、メジロマックイーンも驚愕していた。
「別に必要ないから入れてないだけだぞ?」
「必要ない訳がありませんわ! レースは競争! つまりは走って競うのですわ! それなのに走る練習をしないなんて……!」
メジロマックイーンが頭を抱える。メイクデビュー戦は初めてのレース、初陣なのだ。メイクデビュー戦で幸先の悪い結果を残すなど彼女には到底許せないことだ。
メジロマックイーンは自分なら基礎トレーニングなどやめて走る練習をする。それこそ競争相手に負けないようにコースを早く走れる特訓をするだろう。
しかし麻真は、メジロマックイーンの考えと全く違っていた。彼は怒る彼女に呆れたように溜息を吐いていた。
「走る練習は後で良い。それに走るのもまだ禁止だ」
「それだとレースで勝てませんわ! 明日から走る練習をしましょう!」
練習しているのは自分だけではない。他のウマ娘も同様に日々練習をしている。きっと毎日コースを走り、速く走る為の努力をしているに違いない。
メジロマックイーンはそれに危機感を覚えていた。故に、彼女は麻真に強く懇願していた。走る練習をしたいと。
「駄目だ。やらない」
しかし麻真は首を横に振ると、メジロマックイーンの希望を拒否していた。
メジロマックイーンが思わず麻真に目を細める。不満を訴えるその視線も、麻真は一蹴していた。
「お前はまだ基礎トレーニング、これは変わらない」
「ですが走る練習をしないと速く走ることなんて――!」
意見を変えない麻真に、メジロマックイーンが再度抗議する。
そんな焦りの見えるメジロマックイーンに、麻真は少し目を細めて答えていた。
「基礎が作れてない奴が――速く走れるなんて思うなよ?」
珍しく、麻真の声が低くなっていた。
その声を聞いたメジロマックイーンが、少したじろぐ。麻真のその声は、メジロマックイーンが彼と初めて会った時に聞いた無愛想な声質だった。
麻真は腕を組むと、その鋭い目をメジロマックイーンに向けていた。
「お前の力量は一緒に走ったから分かる。お前はジュニアクラスなら速い方だ。だが……今のお前は所詮そこまでだ」
麻真の威圧に、メジロマックイーンが言葉に詰まる。
麻真はメジロマックイーンを見据えたまま、彼女に告げた。
「お前にはまだ足りないものが多い。唯一あるのはスタミナと根性だけ、速く走る為の加速力と速度が圧倒的に足りてない」
「だから私に基礎トレーニングをしろというのはわかりますわ……ですが!」
「お前がそう思うのも分かる。だからと言って、走らせるのは話が違う」
持っていた資料の一枚を麻真がメジロマックイーンに見せつけるように顔の横に持ち上げる。
メジロマックイーンがよく見ると、それは先程麻真が話していたメイクデビュー戦の資料だった。
「お前が今から走る練習をすれば、メイクデビュー戦を勝つのは簡単だろう。だが、ただ勝つだけじゃ“足りない”」
そう言って麻真が持ち上げた資料をゴミのように丸めると、彼は丸めた資料をボールのようにして掌で遊ばせていた。
「お前はメジロ家の悲願であり、URAで偉業のひとつと言える天皇賞の制覇を目標にしている。ならメイクデビュー戦のレース程度――圧倒的に勝たなければいけない」
「圧倒的に……?」
メジロマックイーンが麻真の圧力に驚きながらも、小さく訊き返した。
「そうだ。唯一無二の栄誉である“盾”を独占する為に最強のステイヤーになるのなら、初戦は勝つだけじゃ足りない。ウマ娘達に圧倒的な力を示す為のレースをする」
そして麻真は手に持っていた丸めた資料を、近くのゴミ箱に向けて投げていた。
まるでメイクデビュー戦は眼中にないと言っているような麻真の行動に、メジロマックイーンは背筋に冷たいものが通るような感覚を覚えた。
「それが……コレでできると言うんですの?」
メジロマックイーンが手に持っていた練習日程の資料と麻真の顔を交互に見つめる。
麻真は不安そうに見つめてくるメジロマックイーンに、小さな笑みを浮かべていた。
「できるから、やらせてる。後悔は絶対にさせない」
そうして次に出てきた麻真の言葉に、メジロマックイーンは鳥肌を立てた。
「俺について来い。お前の走る先の世界、俺に見せてみろ」
その自信に溢れた顔、そして麻真から感じる強い威圧感に――メジロマックイーンが抱えていた不安が、不思議と消えていた。
故にメジロマックイーンは、答えた。その言葉だけで、麻真に伝わると思って。
「はい。私に後悔をさせないでくださいませ」
その答えに、麻真は心底嬉しそうに微笑んでいた。
読了、お疲れ様です。
実は少し難産でした。
さて、今回はメジロマックイーンと麻真のみの登場です。
ようやく決まったメジロマックイーンのレースについてでした。
麻真の考えとメジロマックイーンの考えの食い違い、そんな話でした。
日々、お気に入りが増えていることに恐縮しています。
また多くの評価を入れて頂けて、感謝の限りです。
感想も頂けて、見る度に“書こう”と思っています。
今後とも、見守って頂けると幸いです。