走るその先に、見える世界 作:ひさっち
(そう言えば……私のレース、麻真さんはどこで見てますの?)
ウォーミングアップをしている最中に、ふとメジロマックイーンはそんな疑問を抱いた。
自分のトレーナーである北野麻真は、自分のレースを観客席のどこで見ているのだろうかと。
担当ウマ娘のレースをトレーナーが見るのは当たり前である。しかし自分の担当ウマ娘がレースに勝つことを信じて疑ってすらいないあの麻真なら、結果の分かりきったレースなど見ないとでも言い出しそうな気がしてならない。
本バ場をゆっくりと走りながら、メジロマックイーンが麻真の姿はどこかと観客席に視線を向けるが……この会場に集まっている大勢の人間達を見ると、たった一人の人間である麻真の姿を探すは困難だと思ってしまった。
もし麻真がレースを見る場所を予想するなら、おそらく最前列だろうか。そう思ってメジロマックイーンが視線を動かして探してみるが、どうにも彼の姿を見つけることができなかった。
メジロマックイーンの視力は、かなり良い方である。観客席の最前列で麻真の姿を見つけられないということは、立ち見エリアの人の群れの中に紛れているのか、もしくは観客席後方の座席にでも座っているのだろう。
「まったく……」
こと“走り”に関してだけは人一倍細かい配慮を欠かさず行うのに、相変わらず“そういうこと”には無頓着で自分勝手なトレーナーである。堪らず、メジロマックイーンが溜息を漏らしていた。
出会ってから何度もデリカシーがないことを指摘しても、一向に変わることのない麻真にメジロマックイーンはうんざりしてしまう。
このレースが終わったら、担当ウマ娘にレースを見る場所くらい初めから教えることを絶対に言い聞かせよう。メジロマックイーンはそう決心して、後で麻真の脛を蹴り飛ばそうと決意した。
『レース開始時間まで、残り僅かです。レースに出走するウマ娘はゲート前に集合してください』
「……もうそんな時間ですの?」
そんなことを考えながらメジロマックイーンがウォーミングアップをしていると、いつの間にかゲートインの時間になっていた。
アナウンスからゲート前に集合を促されて、レース出場のウマ娘達が続々とコース上に設置されたゲートへと向かっていく。
本バ場に入場してからレース開始まで十五分という短い時間だったがレースに向けた準備を終えて、全員が緊張した面持ちでゲート前へと集まっていた。
しかしその例外として、ゲートに向かい合うメジロマックイーンの表情は平然としたモノだった。
開かれた自分が入ることを待っているゲートを見つめて、メジロマックイーンが自分の胸の前で思わず拳を握り締めた。
(遂に始まりますのね。私の……初めての公式レースが)
これからレースが始まる。その時間が近づいていることを実感してしまう。
そんな気持ちでメジロマックイーンがゲートを見つめていると、ふと唐突に胸を鷲掴みにされたような感覚が彼女を襲っていた。
しかし、それがレースに対する恐怖ではないことメジロマックイーンは不思議と察していた。自分の足が竦むようなこともなく、むしろ正反対に心が高揚しているくらいだった。
それなのにレースの時間が迫るにつれて、麻真の“有難い”おまじないのお陰で収まっているはずだった身体の震えが僅かに戻っているような感覚があるはどうしてだろうか?
「調子が悪いはずありませんのに……」
そわそわと震えている自分の身体に、思わずメジロマックイーンが呟いてしまう。だが、それも違うと彼女は直感していた。
ウォーミングアップの時も、間違いなく身体の動きに問題はなかった。身体が温まる程度に軽く走って、麻真と練習していた時と同じ感覚が身体にある。不調ではない、むしろ身体の調子は良い。
ならば、この震えはどうしたのだろうか。身体も、気持ちも、怖気づいてなどいない。一向に収まることのない自分の身体の僅かな震えに、メジロマックイーンは首を僅かに傾げていた。
『レース会場まで、残り一分です。ゲートに集まっている各ウマ娘はゲートインをお願い致します』
メジロマックイーンがそう考えているうちに、アナウンスからゲートインを促される。
アナウンスの声が会場に響いてから二拍程の後、静かになったレース会場内にレース開始を告げるファンファーレが鳴り響いた。周りにいたウマ娘達が、その音と共に続々と各々のゲートへと入っていく。
いつまでも呆けている場合ではなかった。自分も、ゲートに入らなければ。ゲートインするウマ娘を横目に、メジロマックイーンも自身の割り振られたゲートへと足を動かしていた。
六枠六番。自分の割り振られたそのゲートに、メジロマックイーンが向かっていく。
開かれたゲート内にメジロマックイーンが入ると、早々に開かれていたゲートが彼女の背後で大きな音を立てて閉じられる。
過去にトレセン学園で何度も入ったことのあるゲートだが、この窮屈さには慣れそうにもない。徐にメジロマックイーンが顔を左右に動かせば、他のウマ娘達は真剣な眼差しで前を見据えていた。
『美しい青空が広がる阪神レース場! 天候に恵まれ、ターフは良バ場となりました!』
ファンファーレの音が終わり、アナウンスの声が会場内に響く。レース開始時間まで、残り時間は本当に僅かとなった。
「……集中、しないといけませんわ」
自分も、他のウマ娘と同じようにレースに集中しなければならない。そう思うと、自分の胸の前でメジロマックイーンが両手をそっと合わせていた。
レーススタート前に自分が必ず行なう、もはや自身のルーティンと言っても差し支えない所作。幼い頃から行なっている慣れ親しんだ動作は、まるでスイッチのように自分の気持ちを切り替えてくれる。
走ることだけに意識を強制的に向ける為の“おまじない”。これをいつから始めたのか、メジロマックイーンは覚えてすらいない。
だが、これは“誰か”に幼い頃に教わったモノだということだけ、彼女は朧げに覚えていた。今更、彼女はそれを思い出したいとも思っていない。誰に、どのように、どこで教わったかなど彼女にはどうでもいいことだった。
胸の前で合わせた両手に、メジロマックイーンが祈るように頭を少し下げた。
「すぅ……はぁ……」
一度だけの、深い深呼吸をゆっくりと行う。それがメジロマックイーンのルーティンに、終わりを告げる。
その瞬間、カチリと頭の思考が切り替わった。それにより先程まであった雑念が綺麗に消え去り、メジロマックイーンの意識が走ることだけに向けられていた。
「…………」
走ることだけに意識を集中させたメジロマックイーンが、構える。
余計なことは、考えなくていい。
ただ走ることに、勝つことだけに意識を向ける。
今から自身が見据えるのは、前だけ。
そしてこのゲートの先にある、ゴールへと。
レース開始のゲートが開かれる瞬間を、メジロマックイーンはじっと前を見つめて、待つ。
『各ウマ娘、ゲートイン完了。出走準備が整いました』
アナウンスから、ゲートイン完了の知らせが響く。
これでレース開始の準備が、全て整った。
最後に残されたのは、ゲートが開かれるだけだった。
レース会場に、静かな沈黙が訪れる。会場内にいる全員が、ゲートが開かれるのを見守る。
そして遂に――その時が訪れた。
沈黙を破るようにガシャンと大きな音を立てて、メジロマックイーンの前にある閉じられたゲートが開かれた。
『レーススタートですッ‼︎』
「ッ――‼︎」
ゲートが開いた瞬間、メジロマックイーンが駆け出した。
周りに出遅れることなく、自身でも満足できるスタートだと思いながら、メジロマックイーンの足が芝を力強く踏み締めた。
◆
「スタートはまずまずか、もう少し早く反応させないと駄目だな」
レースが始まって、すぐに麻真がメジロマックイーンのスタートに小さく肩を落とした。
長い時間を掛けて色々と準備をしてきたレースだが、昔と変わらず始まってしまえばなんとも呆気ない光景に、麻真がつい苦笑いを見せる。
「……アレでまずまずって本気で言っているの?」
横で聞こえた麻真の突拍子もない発言に、トウカイテイオーが頬を引き攣らせた。
トウカイテイオーから見て、レースに出走しているウマ娘達は全員揃って綺麗なスタートをしているように見えた。
メジロマックイーンの今回のスタートも、何も問題ないスタートだとトウカイテイオーが思ったくらいだった。
レースを見るのに集中している麻真が驚愕していたトウカイテイオーを一瞥すると、彼は怪訝に眉を寄せていた。
「本気も何も、アレだとまだ遅いだろ? まだメイクデビュー戦だから大目に見てるが、重賞クラスのレースならまだ全然足りないからな?」
「えぇ……」
一体、この男はメジロマックイーンにどれほどの能力を求めているのか。麻真が求める能力の高さに、トウカイテイオーが呆れてしまう。
しかしシンボリルドルフを含む有名なウマ娘達を育てたアルタイルのチームトレーナーであった麻真ならそれも当然のことなのだろうと、トウカイテイオーは呆れながらも渋々納得することにした。
「もしかしてボクも麻真さんと担当ウマ娘になったら、それくらいできるようにならないとダメ?」
「勝手に俺をお前のトレーナーにするな」
「必要か必要じゃないか、それくらい教えてよ」
「まったく……」
トウカイテイオーと話している間、決してレースから目を逸らさない麻真が溜息を漏らす。
麻真から見て、今のところメジロマックイーンの走りには問題はない。今までの練習通り、彼女の走りに若干の“癖”が出ているが、その点は及第点と言ったところだろう。
「そんなの必要に決まってるだろう。スタートを上手くする技術なんて、どんなウマ娘にもいずれ必要になることだ。それが重賞クラスなら尚更、特に逃げや先行脚質のウマ娘なら必須項目だ。俺はお前のレースを一度しか見てないがマックイーンとレースした時、俺のスタートの声に反応するタイミングは二人とも大体一緒だったな」
先日の二人のレースを思い出して、麻真が片手間に語る。
メジロマックイーンとトウカイテイオーのスタートに関しては、麻真から見れば平均的なスタートだった。
特別に優れたと言えないスタートの時点で、麻真が育てるのならば必然的にそれも強化する項目のひとつとなる。
逃げや先行などの位置取り争いが激しい脚質なら、早いスタートで好位置を獲得しなければ話にすらならない。
「その言い方ならボクもスタートが上手くならないといけないじゃん」
「音に対する反射神経だけなら、ジュニア級ならまだ良い方だ」
スタートの上手さが求められるのは、一定のラインを超えた能力を持つウマ娘達とのレースである。トウカイテイオーのジュニア級ならば、彼女のスタートは麻真から見れば“まだ良い方”というのが彼の評価だった。
「ジュニア級ならって今の言葉、すっごいムカつく」
「事実を言っただけだ。勝手にムカついてろ」
むくれるトウカイテイオーに、麻真が淡白に応えて彼女の顔を見ることもなくレースを見つめる。
その麻真の態度が相手にされてないと思ったのか、トウカイテイオーは目を吊り上げて彼を睨んでいた。
そんな怒りを向けられても、麻真は平然とした表情でメジロマックイーンの姿を見つめていた。
◆
『各ウマ娘、揃って綺麗なスタートを切りました』
『これは位置取り争いが熾烈になりそうです』
アナウンスから実況と解説の声が会場内に流れる。
無名ウマ娘達が出走する人気のないメイクデビュー戦だが、観客席にいる人々はウマ娘が好きなのだろう。人気とは言えないレースでも、レース開始と同時に観客席からは大きな声援が響いていた。
スタート直後、メジロマックイーンの最初の順位は二番目だった。今回は不利とされる外枠からのスタートだったが問題なく外側へ入ることができ、スタート後の先行ウマ娘の位置取りとしては好位置を彼女は獲得していた。
『ここで一番人気ハギノレジェンドが前に出た!』
コース内側を走るメジロマックイーンの視界に、ひとりのウマ娘の後ろ姿が映った。
長い鹿毛を靡かせて、ハギノレジェンドが走っていた。他にウマ娘達の姿はなく、単独で先頭を駆ける。
自身から見えるその情報から、現在のレース状況をメジロマックイーンは即座に推察した。
(逃げは一人。他の方々は私より後ろ、みたいですわ)
メジロマックイーンから見えるのは、前方から二バ身前にいる逃げウマ娘のハギノレジェンドただ一人。他のウマ娘は自分より前にいない。
これに加えて、メジロマックイーンが聞こえる周りの足音から察するに、各ウマ娘のスタート直後の位置取りは自身の後方に先行ウマ娘が数人、それ以外の差し、追いウマ娘が更に後方の位置についていると判断する。
メジロマックイーンの脚質は、先行である。逃げの走りをするウマ娘を前に出やすい位置でマークしつつ、終盤で加速して差すのが一般的な先行脚質の動きである。故に、スタート直後でこのレース展開なら、彼女の位置取りは文句なしの好位置となる。
だがしかし自分の脚質が先行だと言っても、メジロマックイーンはこの好位置を維持し続けることはないだろうと思っていた。この後のレースの展開を見た人達は、自分の脚質が先行だと思うはずがない。今からこの場で見せる走りは自分で思うのも問題だが……到底、先行とは言われないだろうと。
このレースでメジロマックイーンは麻真の指示通り、位置取りやポジションキープなど一切気にしないで走るのだから。
唯一レース開始直後に懸念される点があったのは、前に多くのウマ娘が位置取りを行って自身が前に出れないことだったが、いざレースが始まってみれば、その懸念はメジロマックイーンの杞憂だった。
(始まりでこの位置は上々、これなら前を塞がれてませんので加速が問題なくできますわ)
スタートから初速の加速をメジロマックイーンが終える。走っているこの感覚が確かなら、次の加速を終えるのは第一コーナーを抜けた辺りだろう。
長い直線を進み、スタート地点から百メートル程度でメジロマックイーンの視界に“大きな壁”が迫る。
次第に大きくなるその壁を見て、メジロマックイーンは眉間に皺を寄せながら息を呑んだ。
(これが、坂? まるで壁ですわ……!)
高低差二メートルの高い登り坂。このコースに於ける第一の関門がスタート後のウマ娘達に襲い掛かった。
(壁でも関係ありません! こんな坂、軽々と超えて差し上げますわ!)
メジロマックイーンが覚悟を持って、坂道に入った。
一歩、また一歩とメジロマックイーンがいつも通りの走りで坂道を登った瞬間だった。
坂道を数歩走っただけで、メジロマックイーンが苦悶の表情を見せていた。
(足が思うようにっ……!)
坂道を登る足に掛かる負荷が、メジロマックイーンの予想よりも数段大きかった。踏み込み、そして前に進む足が数段重くなった。傾斜に対する対応など一切していない従来の走りでは、思うように足が動かせない。
間違いなく、今まで通りの走り方では思うように前へ進めない。つまり、速度が落ちてしまうこの状態では、この坂道を最速で登れないことを否応なしにメジロマックイーンが理解した瞬間だった。
(これはマズイですわ! 麻真さんの言う通りに走り方をっ――!)
即座に、メジロマックイーンは走り方を変えることを選んだ。坂道に適した走り方は、既に彼女は麻真から聞いている。
(歩幅を半分に――!)
そして、メジロマックイーンが走りを変化させる。
まず、大きく振っていた足幅を小さく振る。その足幅は、本来の足幅からしっかりと半分に。
(足の回転を――早くッ!)
半分になったあしでいつも通りの足の回転数で走れば必然的に前に進む距離が少なくなり、走る速度が下がってしまう。それ故に、足の回転数は縮めた歩幅に比例して上げる。
その瞬間、メジロマックイーンの足が驚くほど簡単に前に進んでいた。
(先程まで重たかった足が、嘘みたいですわ)
ただ足幅と足の回転を変えただけで、前に進まなかった足が嘘のように前に進む。
走り方ひとつで、ここまで変わるとは。メジロマックイーンも麻真と知り合って何度も理解させられたことだが、こうして体験すると何度も実感してしまう。
こと走りに関して、やはり北野麻真は全幅の信頼を寄せるに値するトレーナーであると。
(これなら、まだ速く走れそうですわっ!)
坂道を駆け上がりながら、メジロマックイーンがその走りを自身の足に合った走りへと更に最適化させる。
この走り方を、少し走っただけでメジロマックイーンは分かった。この走り方に一番必要なのがパワーであることは分かるが、それよりも大事なのは足の回転数だと。
一歩毎に足へ強い力を込めてしまうと、足を早く動かしにくくなる。歩幅が短くなっている以上、歩数を多くしなければならない。
芝を踏み締める力は、坂道に対して走る姿勢が崩れない程度だけに留める。だが芝を蹴るインパクトの瞬間だけは、力強く。
回転を早くしつつ、最低限の力で芝を踏み締め、前に進む為の力は強く。
(まだ速く、もっと速くっ!)
そしてメジロマックイーンの走りは、更に変化した。坂道を登る為に用いる必須と言われる走法のコツを彼女が掴み取る。
ピッチ走法――坂道を最速で登る為のその走法を、メジロマックイーンが会得した瞬間だった。
読了、お疲れ様です。
メイクデビュー戦、執筆難航中です。
執筆、遅くてすいません。
とても難しくて、頭を抱えてます。
さて、お待たせしました。ようやくレーススタートです。
武者振るいするマックイーン、そして彼女もまたルドルフ達と同じ道を辿る予兆を見せる。そんなお話。
今回はスタートから坂道まで。次でゴールまで行きたい所存です。
メジロマックイーンが麻真と出会って一ヶ月程度、彼女が身につけたモノを全て出すレースにしたいと思っています。
※あらすじを修正しました。あまり気にしないでください。
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