荒廃した大地を多脚の馬鹿でかい建造物が歩き回る。いや建造物と言うにはそれはあまりも大きすぎる。むしろ、街と言うのが正しい。さまざな建造物が集合して一つの巨大な街を形作っていた。無論、伊達や酔狂でこんなものが作られたはずがない。
そこには理由があった。
かつて緑と青が覆っていたであろう大地はとうの昔にその豊昇を失い、既にまともな生物の生存できる環境ではない。まともな生物は死に絶えるか、あるいは下界とは異なる環境で生き続ける他なく、そのための方策、技術がつまり多脚の馬鹿でかい建造物なのだ。不浄なる外界の空気を浄化し、街の中に一つの独立した生態系が営まれている街。そして唯一外界に生きる凶悪な怪物、汚染獣と対峙し続ける街。
人はそれをレギオスと呼ぶ。
1.強くなくていい
剣は所詮勁力だ。
この一言がオウロ・スミスの武芸者に対する価値観である。勿論技量、経験そういった要素も考慮に入れる。入れたところでやはり帰結するほかない。
剣は所詮勁力だと。
勁力、汚染獣に対抗するため人間が天から授かった恩寵。武芸者の力の源。人類の生命線などと例えられることもある。通常、あらゆる人間が勁を放つが、それはひどく弱弱しく物理力として作用できるものでは無い。ところが十人に一人ぐらいの割合で勁を強く発することが出来る勁脈と言う器官を備えた人間が存在する。
その者こそ武芸者。・・・の資質在り。
神様は不平等だとオウロはつくづく思う。
天には神がいて、神は皆に平等だととく古文書も図書館を探れば出てくるがそんなものは嘘っぱちだと鼻で嗤う。
そもそも武芸者の存在自体が、不平等の様なものなのだから。神が人を愛しているのなら全員に勁(ちから)を与えればよかったのだ。オウロは勁脈持ちである。そのことが幸か不幸かは判らない、人間万事塞翁が馬という格言ぐらいは知っているからだ。
勁脈持ちで武芸者志望、と志を顕わにしてからちょうど十年の月日が流れて今年十五歳の誕生日を迎えた。当初は燃え立つような強さへの飢餓があったのはまあ、男児ならよくあること。稽古が終われば図書館で子供向けの達人伝を読み漁り、古の達人へそしてその強さを身に付け戦場で無双の強さを発揮する自分。鼓動が高鳴り活力が四肢の隅々まで漲っていく。
未来への期待、それが十年間の自分の人生の大半を占めていたことは偽らざる真実だ。
けれども、
見てしまった、気付いてしまった。
五年前に訪れた槍殻都市グレンダン。武術の最も盛んなその都市で最年少天剣の絶技を。勁力を。古の達人の領域を。
一撃で都市を揺らし、頑丈な石造りの舞台を深く抉った凄絶の一刀を。
そして、いつも意図的に読み飛ばしていた古の達人たち(かれらの)共通点を思い出してしまう。気付いてしまう。
彼らは皆生まれながらの天才で、あるいは絶大な勁力の持ち主だった、と。
比べて自分は?
そこから先は考えないようにした、勁力関係の本を読み漁り成長期に勁脈の発する勁量が増えるという可能性にも掛けた。増えた勁量を制御するために必要と制御力、技術面にも磨きをかけた。それは不断の努力。お世辞抜きにも古の達人を超える努力時間だったと自負できる。
だが、流石にこの年になれば判るものがある。分別がつくようになる。勁量の上昇は一般的で、センスがそこまであるわけでもない。強さも中の下程度で頭を打つ。
つまり、自分は凡人なのだと悟った。元から薄々そんな気がしていたのだ。それを誤魔化すための努力時間、不誠実も甚だしい。
もう、いいじゃないか。十分やったよお前は。
そこで出した結論が結局最初に戻る。
剣は所詮勁力というどうしようもない結論に。