その日、グレンダンが揺れた。
といっても十二人いる天剣の一人が毎朝の鍛錬で引き起こすほどのものではなく。常人どころか、並の武芸者では些細な違いには気付かなかった。
その程度の揺れだった。
術理には二種類ある。
一つは具体的な勝ち口を示した小法。もう一つは動きの根幹をなす大法。
大法に四つ――――一つに軽きを以って重きを凌ぎ、遅きを以って速きを制す――――常の速さの理を脱した遅速不二の力の動き。――――一つは意即動、もっとも最初に起こる心の動きと現実の動きに遅滞(ラグ)が存在しないこと。――――一つは
視界を遮る強烈な白は、漆黒と大差ない。
続いて振動。あるいは音速を越えて押しのけられる大気の軋み。
もう一つおまけに砂の味。
「やりましたか……?」
無駄な試みと知りながらも、サヴァリスは右手で視界を遮る埃を掃う。そのたびに男の小太刀が付けた傷がひりつくような痛みを訴えた。
いや、皮膚だけではなく更に奥からも体は危険信号を発している。
痛みの原因はとうに知れていた。先程発動した千人衝の重ね技のせいと見てまず間違いはあるまい。流派の勁技というのは先古の磨き上げて来た精密なる技術の結晶体だ。いかにサヴァリスが絶後の天才であっても、センスと技量だけでぶっつけ本番をどうにかできるほど甘いものではなかった。
誤った通勁は人体に取って有害である。ましてや、汚染獣を相手取るために作られた絶技の行使。ルッケンスの歴史には自らの勁によって爆ぜた武芸者というものも少なからず記録されていた。
「ち……、」
先程の発想任せの強引な勁技に、サヴァリスの神経系と筋は耐えきれなかったというところか。
活勁が二割低い。衝勁は右肩から右の人差し指の先に奇妙な違和感が残り、左肩甲骨のあたり硬直が体軸を3cmほど狂わせている。
一部の勁技は使用不能。戦闘力は通常引く二割ぐらいだろう。
そして敵は…………。
(健在ですか……、)
煙の向こうに男は立ってた。上半身を覆う衣服は破れ顕わになった金属質の肌は僅かに煤けてはいるものの、開戦から変わらない表情は会心の打撃を叩きこんだとは思えない。
次の交錯のそなえて再びサヴァリスの細胞が蠢き始める。
学んだぞ、と不意に男は言った。
「なんですか?」
問い掛けへの回答をサヴァリスはすぐに知る。
「確か……ルッケンス秘奥の一つ、千人衝」
答えの直後に、サヴァリスの目の前で男が増えた。それは殺勁による目くらましではない。使い手であるサヴァリスならば一目で見抜くことが出来る。
それは実体をもったもう一つの影。数は五百分の一ではあるが、男の傍らにあるのは紛れもなくルッケンスの秘奥によって作り出された分身で相違ない。
「沼男(スワンプマン)というらしい。マッドマンは間違いだった」
男の些細な言い直しなど今のサヴァリスにはどうでもいい。
「天才……」
かつて、天剣を剥奪されたあの少年のような―――――。
「違う」
男はサヴァリスの独白を否定する。
「俺は錬金鋼のスワンプマン。錬金鋼故に一度受けた技を――――勁の残滓を即座に復元することが出来る。と言っても復元したことと理解したことはまるで違う。俺の復元はあくまで型枠を作るのみ、そのままでは中身は虚の―――黒箱のままだ。」
男は人差し指と中指を立てサヴァリスに向けた。
「二年。俺がサイハーデンの刀術を修練してきた時間だ」
それはつまり、不断の反復。虚ろな型枠の内を時間と考察の厚みで埋める修行。天才であるがゆえにサヴァリスは目が眩んだ。
目指すべき目標が常に見え、完成への最短ルートを歩むこと。
完成だけ与えられ、どうしていいかも分からずにひたすら考察を続けていくこと。
(対極……、)
サヴァリスが一を教えられて十を知る者ならば、彼は十を教えられて一を積み重ねていく者なのだ。
「つまり、普通の極み」
あるいは、極みに近いもの。自らの言葉にサヴァリスは笑い、つられた様に向かい合う敵も頬を緩める。
「普通の極みか……、悪くない。そして、」
そして、オウロが笑った。
「復讐はあんたとの戦いを持って終わりとする」
「ああ……、そういえばそんな話もしていましたね」
終焉が近い。
「そう。そんな話、今となってはそんな話だ。それよりも、俺はあんたに勝ちたい。この戦いの向こうにきっともっと、先がある。もっと素晴らしいものがある。俺は……それが見たくなった」
オウロの言葉に相手は何も言わなかった。
凄絶な気迫を纏い、サヴァリスは腰を落とし構える。両の手はそのどちらも拳ならぬ開掌、あるいは手刀。攻防に応用性の高い柔の構え―――その手刀は生半な武芸者の一太刀よりも鋭く、その掌は触れたものを内部から破壊するだろう。
息を吐き切って、オウロは太刀を構えた。半ばから小太刀の長さに折れた太刀は、衝撃の余波で今や通勁もままならない。
(あと勁量は一撃、太刀のほうも持つか否か、か)
ならばあと一撃で決める。そう決断するのは容易い。だが、具体策は?あの本気になった天剣をただの一刀で打倒する技などのありえるのか?
自らの胸の内を反駁する疑問にオウロはある、と頷いた。
すでに体は構えを取っていた。左手は勁を秘め、折れた刀身を包み込む。右手は柄に、左腰から延びる形の柄頭はサヴァリスを向き盤石。
ある。仇と決めた汚染獣を絶命させるために編み出した超絶の一太刀が。すでに彼我の距離は三十メートルで、すなわちこの技の前には零に等しいということだ。
風が吹いている。
地下だというのに向かい合う二人の間には風が吹いている。崩れ落ちた白亜の床を二つの風が洗い流していく。
衝突を繰り返す二振りの気流が相克の果てについに釣り合い何もかもが静まったとき、
「行くぜ」
オウロは誰にも聞こえないほど小さな声で宣言した。
全身に秘めた勁を変化する。
鼓動はいつもと変わらない。
性質を変えた勁は姿を変え紫の光となり大気を焼いた。勁を通し刀身まで一体となった体内で反発しあう陰陽の気は統制され、一つの秩序だった無形の力の動きを示す。
今こそ奥義を。
風の向こうで極限を超えて高まる勁をサヴァリスは感じていた。
「……来い」
つぶやきは風に呑まれて消える。
サヴァリスの知るどの勁動にも当てはまらないサイハーデン流刀争術にして異形の動き、だが敵の構えは焔斬りの形によく似ている。
加速する感覚。停滞する世界。
複数の老成体を一人で相手取る時よりも、なおひりつくような乾いた間をただ一条の筋が駆け抜けてくる。
目で全てを追えたわけではない。肌で大気を押しのけるものを感じただけではない。耳が振動を伝えるよりもなお早く敵は踏み込んでくる。
五色の消えかけた世界で、それでもサヴァリスは確信をもって踏み込んだ。
あと一話。