目を覚ます。
夢を見ていた。とても、とても温かい夢で永遠にそこに居たいと心の底からそう願った。
内容など欠片も覚えていない。とするならばあの夢は彼岸の出来事で、つまり俺はまだこっちの世界の住人でいられたということなのだろう。
「じゃあ、戦うか」
決意を口にした瞬間にここに至る過程がフラッシュバグ。狙撃失敗。ビル崩落。落下そして今に至る。どうやらオウロが落ちた場所は、プールや下水処理場の類らしい。暗闇でよく判らないが液体の感触があるということは大方そんなところだろうとオウロは結論付けていた。
「それにしても、よく生きていたものだなぁ……」
着地地点が水だったから良かったのか。はたまた肉体が火事場の馬鹿力を発揮して瞬間発生勁量が増えたのか。
「さてさて、」
何から始めたものかとんと見当が着かない。ということは何から始めてもいいということである。まず、戦えるか。ただ生き残ることに徹すればいい一般人と違って、武芸者としては其処から始めなければならない。
まず巡らせるのは気だ。手先に走る三陰三陽十二経、錯綜する気の疾駆が武芸者の肉体に眠る勁脈と重なりオウロが眠らせていた勁を揺り起した。
握りしめた手を開き、再び閉じる。親指を基点に足首を回して勁と肉体の親和性を確認。オウロの肉体に異常はなかった。勁量、つまり瞬間的に発生させられる勁の量に変化は見られない。
続く一連の体操で、現実の肉体と脳味噌が作り上げた仮想の肉体の誤差を確認。これも問題ない。
内力系活勁変化―――威嚇術。
平行発動、活勁変化―――鼓鯨耳。
梟の目も聞かない闇の中では音と触覚だけがオウロの頼みの綱だ。
「……貯水槽?錬金鋼か?調整場……?」
左右に並ぶ合計十二の貯水槽、オウロから最もとおい壁に音の反響が違う箇所が存在する。子宮の暗闇を壁を這うように手探り進む。ついでに落ちていた愛銃を拾うと、もうすぐそこに。
あった。
苛立ちも込めて扉を蹴り開ける。そんなに強く蹴った覚えのないオウロの足は、分厚い金属製の扉を二十メートル先の突き辺りまで吹き飛ばし、ついでにその突き当りの扉も粉砕して
空気が舞い込んでくる。湿り気を帯び澱んだ貯水場の空気が、埃の臭いに取って代わられた。そこに待つのは螺旋階段だった。
日の下で、オウロの世界は死んでいた。
都市からは生活の音が根こそぎに消えている。都市を一つの生命体だとするなら、ここにあるのは死んで生理機能を停止した朽ち果てていくだけの残骸だ。天を突く肋骨のような尖塔に飃と風が哭く。
塔と塔の隙間から見える狭い空の色がオウロの目に染みた。
もはや誰もいない。恐らくあの貪欲な老成体は最後の一人まで残さずに食い尽くしたに違いない。一通り都市を巡回したオウロは、適当な瓦礫に腰を下ろして肺の中の空気を吐き尽した。
都市の保護機能―――エアフィルターはまだ生きている。だが、それがいつまで持つかなど考えるのも愚かしい。都市を動かすエネルギーの源たるセルニウムの供給が途絶えれば、この過酷な世界で人類は呆気なく滅びてしまう。
いまや、この都市にはセルニウムを掘り出す者もいなければ、機関部を管理する者もいないのだから。
「俺はどうするべき、なのだろうな……」
守るべき故郷は死の都と化し、磨き抜いた狙撃の技を使う理由は消えて失せた。このまま、都市と共に滅びを受け入れるのも悪くないとさえ思う。
食料と水の供給がなければ、武芸者とて普通の人間と変わらない。痩せ衰えて、死ぬだけだ。
だがそれも悪くないと、オウロは日の下で溜め息をつく。
結局のところ、来るであろう死を受け入れることを選択したのは現実逃避に過ぎない。面倒で考えたくない未来の事を、これから先の自分に預けるのは現実逃避としてはよくある手だ。
明日からは本気だす。
そう言い続けオウロは約一月を残された水と食料で食いつないだ。
そして、食料が尽きて三日が過ぎた。活勁を巡らせた武芸者の肉体は水無しでもまだ生きている。ただ本格的に不味い事になっているのは分かる。未来の自分に回し続けたつけがとうとう今に追いついたのだ。
寝台の上で皴の入ったシーツを眺めるオウロの心は最早、死んでいた。
どうでもいい、先の事など知ったこっちゃない。だから眠る。
はずなのに、胸の内で膨らむのは不安という感情。一カ月前からじりじりと成長していたそれは、ここに至る前での怠惰な日々を糧に、抑えきれないほど巨大な怪物へと変化していた。
シーツを跳ね除け、洗面台の鏡の前に立つ。
おそらく、恐怖で真っ白に変化した髪はあの日がオウロに残した爪痕の一つだ。けれども、本当の爪痕はもっと深いところに、致命的なまでの損傷を刻んでいるに違いなかった。
「……くそ、くそぉ、」
独白など虚しい。零れ落ちる涙なんて更に虚しい。けれども泣くことに意味がないと言われたら、それは違うと言いたい。心にたまった膿を出し、傷口を癒着させる。オウロの涙はそういった類のものだった。
地平線の向こうから太陽が昇る。
歩みを止めた都市から一台の、多脚のバスが覚束ない足取りで赤茶けた荒野を踏みつぶす。行く当てなどなく、辿り着く道筋など判らない。
半年分の保存食とともにオウロは旅立った。
次からは、無双する戦闘回。一触必殺の奥義「針功波濤掌」が老成体を打ち砕く、多分。どんな技かは全く考えていないけれど。