「んしょ……んしょっ……」
30キロダンベルを上げ下げしながら、私は下肢の柔軟を行う。本当なら気持ち的にも訓練的にも外で走るのが一番なのだが、今の私はそういった練習は医者にもトレーナーにも止められていた。
「あんまし入れ込みすぎるなよ。夏が終わるまではしっかり休めって言われただろ?」
「んーそれはあたしも分かってるけどさ。やっぱり少しは身体を動かさないとストレスが溜まるんだよね。まーあれだね。これがウマ娘の本能ってやつかな。悲しいさがだねえ」
「何を悟ってるんだか……しっかり休憩は取れよ」
「はいはい、分かってますとも」
私とトレーナーさんの声が小さな部屋の中にこだまする。まだ新人である彼に部室は準備されていないため、こうして練習以外で集まる時は彼のトレーナー室を利用していた。ほっとくとすぐ散らかるこの部屋を整理整頓するのは私の役割であり、誰にも譲れない仕事だった。
「ふい~ちょっと休憩。冷蔵庫開けて言い?」
「許可なんていらねえよ。いつも通り勝手に使ってくれ。それと、ネイチャが食べたいって言ってた巷で有名なケーキ屋のシュークリームも買っておいたぞ。食え食え~」
「いやあのさ、気持ちはすごーく嬉しいんだけど……流石にこれを食べたら……ううっ……!」
「体重を気にするのは分かるが、ちょっとくらいなら大丈夫だろ」
「そのちょっとが危ないんだよトレーナーさんや」
「お、おう……」
語気が強くなるのも仕方のない事だ。普段なら走り込みをしているからと、一つくらいはつまんでいたが今は療養中。復帰した時に腰に勝負服が通らないような無様な体型にはなりたくなかった。だからこそ、シュークリームに伸びる手を鋼の意志で止める。その代わり、常備していたミネラルウォーターに手を出した。
「そういえばトレーナー、最近おかしくない?」
「急にどうした?」
「いやさ、最近いつにも増してニヤケ面が増えたとか、ちょっと煙草臭いとか色々言いたいんだけど……やっぱり格好が変な気がする。何と言うか、ダサイよね」
「ひでえ! まさかネイチャまでコ〇ネを馬鹿にするなんて……」
「メーカーまでは知らないけど、どうみても室内着じゃないでしょ」
私の指摘に、トレーナーは項垂れる。ちょっと前までは着古したジャージを愛用していたのに、ここ数日は目に痛い赤色のウェアを着込んでいた。それがバイク用の服である事は分かるが、何故そんなものを屋内で着ているかが分からなかった。
「ネイチャ、俺がコ〇ネマンになったのも悲しい理由があるんだ」
「はあ……」
「俺は近いうちに死ぬかもしれないんだ。だから少しでも生存率を上げてるだけだ」
「ふーん……なんだか分からないけど、頭の病院行く?」
「結構辛辣だな! 少なくとも普通の病院にはお世話になるかも……ってこの話はこれくらいにして、ほらよ! 今月の食事代だ!」
そう言ったトレーナーから手渡されたのは一つの封筒だった。そして、中身を見て思わずうげっとした声が漏れてしまう。そこには、諭吉さんが何枚も入っていたのだ。それはチームに所属するウマ娘が一月に与えられる食事代の上限の額であった。
「またこんなにいっぱい……太らそうとするのはやめてよね」
「一応は食事代という名目だが、好きに使って構わないって言ったはずだ。怪我は残念だが、少しくらい豪華な食事を食べたり、趣味にお金を使ってみたらどうだ?」
「んー……でもなー……あたしとしてはちょっと前までこんな大金とは無縁だったから……うーん……」
「いらないなら別に返して貰っても構わないぞ。学園に返納するだけだし……こんな額でも、ネイチャが今までに稼いだ賞金と比べたら雀の涙も良い所だからな」
そう言って微笑むトレーナーに私は苦笑いを返した。ウマ娘がレースに勝利した時に得られる賞金は結構な金額だとされている。それに加え、ウイニングライブでの収入やグッズ代が加算されると、デビュー戦を勝利するだけでも結構な金額が動くそうだ。
だが、その一勝で得た賞金で満足し、結果的に潰れてしまったウマ娘も多いという。また、賞金を得るために体調不良を押してレースに出走したり、連続出走を行い、それが原因での怪我を負って競争生活を終えてしまったウマ娘もいるそうだ。
その結果、このトレセン学園の生徒が得た賞金は競争生活を引退するまでは学園側が管理するパターンがほとんどだ。別に申請すれば賞金は貰えるのだが、それで競争生活が狂ってしまった先輩方の話は一種の怖い話としてウマ娘達に語り継がれてきた。
そんな私も、引退までは賞金の管理を学園側に任せている。月に一回、お母さんが私の口座に振り込んでくれるお金をお小遣いとして使っていた身としては、これは手に余る金額だった。
ちなみに有り余る引退資金を使ってあの手この手で見初めた相手を囲い込むウマ娘も多いという眉唾な噂話もあったりする。
「トレーナー、あたしの奢りにするからちょっと豪華な晩御飯でも食べに行く?」
「おいおい、流石にそれはトレーナーとしても男としても受け入れられない提案だな」
「ですよねー! でも、トレーナーさんも意外と真面目だねえ……」
「もう長い付き合いになるんだからネイチャも理解してるだろう? 俺が真面目なわけないだろ!」
「それ別に自慢気に言うことじゃないからね!?」
満面の笑みでどうしようもない事を言いながらサムズアップする彼には呆れてしまうが、彼との会話は不思議と苦にならない。むしろ心が弾んでしまうのを感じられる。この感情が一体何を示すのかは、今はあまり知りたくはなかった。
そうして少しセンチな気分になっている時、ふと私のウマ耳がトレセン学園には似つかわしくない下品な音をとらえる。彼もその音に気付いたのだろう。表情を少し強張らせながら、急に床に這いつくばって亀のように体を丸め始めた。
「トレーナーさん……?」
「ネイチャ、俺に構わず逃げろ。もし死んだら骨だけでも拾ってやってくれ」
「トレーナーさん!?」
意味不明な行動を取り始めた彼にドン引きしているうちに、トレーナー室の扉がドカンと蹴り破られる。そこには、数日前にツーリング先で遭遇したステイゴールドの姿があった。だた、あの時と比べても随分と機嫌が悪いようだ。文字通り、額に青筋を立てていた。
「カチコミじゃクソボケええええええっ!」
そう叫んだ彼女は私の姿を視界に捉えてすっと表情を真顔に戻した。
「おう、驚かしてすまないネイチャの姉貴。あのクソ雑魚トレーナーはいるか?」
「えとっ……そこで丸くなってる……」
「はあ? っておいおい! 本当に丸くなって怯えてやがる。まるで何か心当たりがあるみたいじゃあないか」
ツカツカと部屋に入って来た彼女は無言で丸くなっているトレーナーの背中に片足を乗せる。それでも、一言も喋らなかった彼だが、ステイゴールドがグリグリと足先を動かす度に、ぐえっという苦悶の声が聞こえてきた。
「あの後、バイク屋に寄ったんだけどよ。どうも、あのオイル漏れは誰かが人為的にやったんじゃないかって整備士のおっちゃんが教えてくれたんだ。そう考えると、状況的に怪しいのはお前しかいねえんだわ。理解出来たかクソ雑魚?」
「うっ……本当に俺だと思うか……?」
「はっ! てめえに決まってるだろ! だって、あの時のお前は少し変だったしよ!」
「本当にそう思っているのか? 俺以外にそういう仕返しをしでかす候補者はいないのか?」
「な、なんだよ……」
「もしかしたら、つるんでた連中の誰かかもな。不良の世界は案外陰湿だしな」
「アイツらがそんなことするわけ……ない……ないだろ……」
トレーナーを足蹴にしながらも、少し涙目になってしまった彼女に私は思わず同情する。そして、想像以上の外道であった彼に私はまた一つ幻滅してしまった。
「まあ安心しろステイゴールド。あれは俺がやった事だ」
「そ、そうなのか!? 良かった……ってやっぱりお前かあああああっ!」
「おぐっ!?」
ステイゴールドに蹴り上げられたトレーナーは、丸まった状態で壁に激しく激突する。そのまま、白目を向いてしまった彼にツカツカと歩み寄る彼女を、流石の私も止めざるを得なかった。
「ちょい待ち! 貴方の怒りは理解出来るけど、流石にこれ以上は勘弁してくれない? こんなんでも、一応あたしのトレーナーだからさ」
「でもよ姉貴! こいつはオレのバイクに……!」
「だから、ごめんなさい。全部、このバカせいだから。あたしはバイクの事はよく分からないけど、これで足りるかな。足りないなら、あたしからも追加で出すから」
私が差し出したのは、先ほどトレーナーから貰った”食事代”であった。仏頂面で私から封筒を受け取ったステイゴールドは、中身を見て目を丸くする。そして、何かに葛藤するように数分間唸っていた後、彼女は封筒を私へと突き返してきた。
「確かに金は必要だけど、姉貴からは受け取れねえよ……」
「大丈夫、大丈夫! こういうとこは遠慮する場面じゃないの。悪いのは全面的にこのバカトレーナーじゃん。それに、そのお金はこのバカから貰って持て余した”食事代”だしね」
「う……くっ……!」
ステイゴールドはしばらく葛藤の時を過ごし、結局はそれを懐へと入れた。それを見て私も少しだけ安心する。正直言って、この手の沙汰は現金による弁償以外に何も出来そうになかったからだ。そして、落ち着きを取り戻した彼女はと言うと、何故かいまだにトレーナー室をうろうろと歩き回っていた。そして、時折、私や倒れ伏すトレーナーへとチラチラと目を向けていた。
「どしたのステゴ、何か忘れ物?」
「いや、別にそういうわけじゃないんだけどよ……」
「だけど?」
「ううっ……」
そのまま固まってしまったステイゴールドを見ながら私は溜息をつく。彼女が何を求めているかは薄々理解出来る。しかし、それを口に出すのは私にとっても勇気が必要だった。それは、今の安定した環境の変化を意味しているからだ。
「なんつーかアレだ……オレってちゃんとした勧誘受けるのは初めてでよ……そりゃあ選抜レースも散々だし、新バ戦は負けるし……」
顔を伏せるステイゴールドに私は何と言っていいか分からなかった。メイクデビューに関しては私も1位で通過した身だ。彼女には私お得意の自虐ネタも通用しない。むしろ、煽りとして受け取られてしまう可能性もあるだろう。こうして、私達はしばらく気まずい沈黙を過ごす。しかし、そんな空気もボロボロになりながらもフラリと現れたバカトレーナーのおかげで消え去った。
「ステイゴールド、やっぱお前の蹴りはすげえよ。もう一発喰らいたいくらいだ」
「チッ……! 生きてやがったか! つーか気持ち悪い事言うんじゃねえよ!」
「まあまあ落ち着け。前に勧誘した時、俺がお前の事を社台家のお嬢様って把握してたよな。それが意味している事は賢いお前なら理解できるはずだ」
「な、なんだよ……」
「俺はお前を勧誘しようと、以前から目をつけてたってわけだ。だから、改めて言おう。俺達のチームに入らないか? 後悔はさせないつもりだ」
トレーナーの声に彼女は少しだけ顔を伏せる。だが、顔を上げた時には彼女お得意の自信満々な表情を浮かべていた。
「はっ! まあネイチャの姉貴には色々と教わりたいからな。だから、仕方なく、仕方なくだ! 仕方なくはチームに入ってやるよ! 決してお前みたいなクソ雑魚トレーナーになびいたわけじゃないからな!」
「ああ、分かってる……これからよろしくな! ステイゴールド! ところでネイチャ、ここにステゴの新バ戦の時のパドックインタビューの映像があるんだが……」
「あっ、てめえ! よこせ! そのスマホをよこしやがれ!」
「いでででっ!? 俺はお前の雄姿をネイチャに見て貰いたいんだよ!」
「わざとだろ! てめえ絶対わざとやってんだろ! それは反則だろうが!」
早くも息のあったように取っ組み合いを始めたトレーナーとステイゴールドの姿を見て、私は溜息をつく。そして、随分とうるさくなってしまったトレーナー室に少しだけ嫌気が差した。
「そっか……もう二人きりじゃないんだ……」
私の口から漏れ出た言葉は、顔を真っ赤にしたステイゴールドに腕を嚙みつかれたトレーナーの悲鳴に打ち消された。
結末が予定変更したので今まであった1話は幻になりました。