愛してるって幾ら呟いたとして──
──彼は彼女を相手にしなかった
お母さん、と声をかければ、台所にいた母は振り返りどうしたの?と優しく声をかけてくれる。
「…行ってくる」
「あら、今日も?」
うん、と返せば、母は少し寂しそうな顔をした後、早く帰ってきてねと言った。それにまた私はうんと返した。
母は酷く優しい人だった。
いつも仕事で家を留守にしている父に文句ひとつ言わず、ずっと静かに待っている。困っている人には、手を差し伸べてあげるほどにお人好しで、それでいて暖かい人だ。
そんな母を見てられないと思ったのはいつだっただろう。別に母が寂しくて泣いている場面を見たわけでもないけれど、でもなんだか見てられないなとふとした時に感じた。
母が、哀れな女に、見えてしまったのかもしれない。
それとも、私のせいで父は帰って来られないと私は知っているのに、知らないふりをしているからか。
私の父の職業はかなり特殊だ。
その分、父の稼ぎがよく、私の家はとてつもなく無駄に大きくて、それなりに母の懐にもお金が入ってきている筈なのに、母は全くそのお金に手を付けなかった。
お手伝いさんが家にいるのに、母は絶対に自分でご飯を作ると言い張るし、買い物だって自分でやると譲らなかった。
どうしてなのか、理由は聞いていないけれど、そこがまた、哀れに見えてしまった。
笑っているけれど、笑っているようには見えなくて、そんな脆くて弱い母を見たくなくて、半ば逃げるようにいつも外に出ていた。
友達なんていないんだから、外に出ても意味がないのに、それでも外に出た。お城のように酷く大きいあの家は、息が詰まって、息の仕方を忘れてしまう。
「あり? この辺だったと思うのになー」
声が、聞こえた。
キョロキョロと辺りを見渡している彼は、どうやら道に迷っていたようだった。話しかけようか、いや話しかけていいものだろうかと悩んでいれば、どうやら彼は私に気づいたらしい。テクテクと私に近づいて来る。
「なあ、お前」
「は、はい…」
目の前の彼を一言で表すなら『派手』。多分、人によって印象はかなり変わってくると思うけれど、私の中の印象は
父と母、それにお手伝いさんぐらいしか見たことがないからそう思ってしまうのかもしれない。
「『 』ってヤツの家知ってる?」
「…あ…」
やはりというか、彼が探していた家は私の家だった。この辺り一体は森と草原しかないので、探し物といえば大抵私の家だ。そこ、私の家ですと答えれば、急に彼はまじまじと私を観察し始める。
「…言われてみれば似てんな『 』に」
「父、ですか…?」
「ま、どっちかと言えばお前、かーちゃん似だろ」
似る方
「…父に用があるんですか?」
「いーや。お前のかーちゃんに」
「母なら家にいますけど…」
案内しましょうか?と聞けばお前はオレを案内した後どうすんの?と質問を質問で返された。少しムッ時だけれど、父の知り合いという時点で普通ではないことは確かなので、大人しく答えるとする。
「また、ここに戻ってきます」
「見たところお前ひとりっぽいけど」
「1人です」
「…あー、ぼっち系?」
ズカズカと土足で上がり込んでくる人だなあと、客観的に思った。別に嫌な気はしていないが、父も母もこんな感じの人間では無いので、少し新鮮に感じる。
「…そうですけど…」
「何それ、悲しいヤツだな。父親にそっくり」
彼は笑った。
…全然、私は父とは似ていない。父の周りは人で溢れかえっているけれど、対して私はぽつんと1人。全然、似てなんかいない。
「オレは思わないけど、普通って1人だと寂しいって思うんじゃねぇの?」
「……」
彼の質問に私は俯いた。
私が1人なのにはそれ相応の理由があり、父があんなに血眼になって仕事をしている理由も私にあった。
「ま、オレもどーせマフィン届けに来ただけだから、もう少しここに居座っとすっかなあ」
大して興味は無かったのか、私の反応を見て無理に聞き出そうと彼はしなかった。
「つかさ、マフィンぐらい自分で届けろって思わね?」
どさりと彼は地面に座った。私はただその光景を見つめていると、座んねぇの?と声をかけられた。隣に座っていいものかと、悩んでいたら、彼に思いっきり手を引かれ、彼の足の間に座らせられた。
「…セクハラ」
「はあ? 餓鬼のくせに何ナマ言ってんだよ。オレ、丁度寒かったから、これでいいの。やっぱ餓鬼は体温たけーな」
若く見える彼は随分とおじさんのようなことを言う。いくつ?と聞いてみたらいくつだと思う?とまたしても質問が返ってきた。
「…20」
確か、父が今25だったような気がする。父よりも若く見えるので、そう言ったら彼は嬉しそうに笑った。
「残念。ふせーかい」
「…じゃあいくつ?」
「さあ?」
「さあって…」
教える気は一切ないのか、彼はまたカラカラと笑った。それにつられて、私も笑えば彼は少し驚いた顔をした後笑えんじゃんと言った。
「お前、母親とは違って全然笑わねーんだもん。やっと笑ったな」
「…確かに笑わないかも」
いつも1人。話す相手なんて母しかいないから。母はいつもニコニコしているけれど、私にはそれが理解できなくて、確かに無表情だった。
「お前はかーちゃん似なんだから、笑ってた方が得するぜ」
「お母さん、キレイだもんね」
「オレのタイプじゃねーけど。でも、少なくとも笑ったお前の姿は──」
きっと、この日から私は彼に恋をしていた。
彼は私の笑顔が
──彼の笑顔の方が俄然綺麗に見えた
これは彼と私が初めて出会った話である。