次の日は、目を覚ました時から忙しかった。離そうとしないライスをどうにかなだめ、誰にも見つからないように自室へ戻る。
そのまま、何食わぬ顔でスカウトをした二人の朝練習に付き合い、二人を見送る。そのまま、朝が早いことを気にもせず、先輩へ電話をした。
「朝早くにすみません」
「構わんよ。何かあったか?」
「実は、二人の面倒をこれから見て欲しくて」
「……それがどういうことを意味するのか、わかって言っているんだよな?」
電話越しでも感じる威圧感に俺は短く返事をする。
「理由は聞いてやるよ」
「トレーナー業を引退します。ライスシャワーのために」
その言葉だけで、先輩は理解してくれた。しかし、当然、怒鳴られる。
「二人の人生とお前たちの人生、どっちが大事かなんて言えないけどな、それは無責任というものだ。トレーナーとして考えることすら許されない」
「はい」
「それを考えてしまった時点で、お前はトレーナーの資格がない。どこへだって行けばいい」
最後は、失望も憤怒も感じられない声で、先輩は電話を切った。
俺に感情を味わっている時間はなかった。すぐにたづなさんへ電話をかける。
「どうかされましたか?」
「私の進退について、ご連絡が」
息を飲む音と小さく深呼吸をする音が聞こえた。
「……どうぞ」
「ありがとうございます。私はトレーナー職を辞したいと思います」
「理由は、おそらくライスシャワーさんのことですか?」
「はい」
ため息の音が入り、たづなさんは言葉を選んでいるようだった。
「トレーナーと担当していたウマ娘がより近づくことは、あると言えばあります。思春期に親身になって一緒にいた異性に恋心を抱く気持ちもよくわかりますから、否定するつもりはありません。もちろん、結果的にトレーナーが退職することになったとしても、それはそれで祝福するべきことだと思います」
たづなさんは一度、言葉を区切った。その後の言葉は本気で怒っている声だった。
「あなたは、自分の仕事を放棄しようとしているんですよ。普通の仕事なら退職でいいかもしれませんが、あなたの職は夢を叶えようと頑張るウマ娘たちを支えることです。あなたが退職するということは、ウマ娘たちの信頼を裏切るということです。そのことを理解しているのですか?」
「理解しています」
「弁明もされないのですね」
「何を言っても自分勝手な都合ですから」
もう一度、ため息の音が聞こえた。
「わかりました。所定の書類を作成次第、私にください。今後のことはその時に話しましょう」
「ありがとうございます」
そして、電話は切られる。残りは、俺がスカウトした二人への説明だった。
⭐︎
二人への説明は思うほか、すんなり終わった。どうやらライスが悩んでいることを察していたようで、「これから幸せにしないと許しませんからね」と笑って言ってくれた。
俺はそんな二人の心根に涙した。
「本当に申し訳ない」
くりかえす謝罪に二人は、苦笑いだった。
「もう私たちのことは気にせず、ライスシャワーさんのところへ行ってくださいよ。
「ありがとう」
その言葉を最後に、俺はトレーナー室を出る。もう二人のことを気にすることはできなかった。
⭐︎
説明すべき人に説明し終えた俺は、再びライスの部屋の前に立っていた。
「ライス」
その言葉だけで、ドアは開かれた。
お互いに無言のまま、ドアは閉まり薄暗い灰色の空間になる。俺の正面に立つライスは不安げに両腕を広げた。俺はライスの小さな体を包むように抱きしめる。触れた瞬間は少し硬くなっていたが、すぐに俺へ体を預けてくれた。
静かな呼吸音が聞こえる。ライスは俺の胸へ顔を当てていた。
「もう離さないからね」
「もう傷つけないよ」
静かな誓いを交わして、もうしばらく俺とライスは抱きしめあった。
それは部屋が真っ暗になって、夜の明かりに照らされるまで続く。互いの体温、匂い、髪や体の感触を確かめ続けた。
そして、お互いの腹の虫が鳴った時にようやく俺たちは離れた。
「最後の仕事をしてくるよ」
「いってらっしゃい。お兄さま」
頬へのキスをもらい、俺はライスの部屋から出る。そのまま、すぐに退職届を作成し、たづなさんへ連絡した。
「トレーニングのバ場でお待ちしています」
その言葉に従い、俺は満月に照らされる芝の上で、たづなさんに届けを渡す。
「確かに受け取りました。あなたが担当されていた子の後任はどなたに?」
「先輩にお願いしました。二人も了承済みです」
「そうですか」
その言葉を最後に、たづなさんは月を見上げる。月の周りには負けじと星々が瞬いていた。
「今日の夜空は、月にしか目が行きませんね」
確かに見えているはずの星を無視した言葉は、おそらく俺を詰っているのだと思った。だから、俺も言い返す。
「こんな明るい夜だと、気分が下がらずに済みますね」
意味が通じたのか通じなかったのか、たづなさんは無言だった。その表情から色は感じ取れない。
俺も何も言えず、空を見上げる。
「あなたはライスさんが生きる理由なんですね」
「もう傷つけないと誓いましたから」
「わかりました。では、今後のことを話しましょう」
改まって、たづなさんは俺の正面に立つ。
「我が校の決定としては、今年度での、トレーナー養成に関する業務の辞退は認めていない、ということです」
「謹んでお受けいたします」
「あなたにも要望があると思いますので、細かい部分の調整は後日。おそらくメールでのやりとりになると思います」
「承知いたしました」
たづなさんは言葉をつぐみ、ため息を一つついてから、踵を返した。
「それでは」
「ありがとうございます」
俺の言葉に、たづなさんは二度と反応しなかった。
⭐︎
次の三月を迎えるまでは針の筵に座っているような気分を学園で味わいながら、仕事を行なった。
その空気は当然、受け入れなければならないものであった以上、俺は黙々と仕事をこなした。
おそらく、来年度からはトレーナー候補生として若い人間が学園にやってくるだろう。候補生たちが半年間受講するカリキュラムと選別のために行う試験の骨組みを俺は作った。残りは、経験豊富なベテラントレーナーと理事会、生徒会によって実用化されるはずだ。
しかし、周囲からの敵意を浴び続けることはとてつもないストレスがある。そのストレスをアパートの一部屋に残してしまっていたライスに慰めてもらっていなかったのなら、俺はどうにかなっていたに違いない。
「ありがとうな」
「どうしたの、急に」
隣で微笑んでくれるライスに、俺は笑みを返す。
「言いたくなったんだ」
「ふふ、じゃあライスも。お兄さま、いつもありがとう」
アパートを出る時と帰ってきた時はライスのキスと笑みが待っていた。そう思うことで毎日を耐えていた。
きっとライスに寂しい思いをさせていただろう。誓いを破ってしまった償いとして、退職日の今日は目一杯、ライスに幸せになって欲しかった。
「ライスは、今日はどうしたい?」
「えー? ライスはお兄さまのそばにいられれば幸せだよ」
そう言って、ソファに腰掛けていた俺の肩へもたれかかる。ライスの甘い香りに安心した。
「これからは、本当にずっと一緒だから」
「今度こその約束だよ?」
そうして、俺はポケットから一つの箱を取り出す。箱の中から、指輪をつまみ、ライスの左薬指にはめた。
「この指輪に誓うよ」
ライスは指輪に収められた石と意匠を見つめる。
「これって……」
「ブルーダイヤモンドのプラチナリングにバラの意匠を彫ってもらった」
「ありがとう!」
ブルーダイヤモンドの石言葉は、『永遠の幸せ』『幸福を願う』といったものがある。まさにライスにふさわしいものだと選んだ。
これから俺はライスのために生きる。『しあわせの青いバラ』のお兄さまがそうしたように、俺はライスのそばに寄り添い続ける。そして、ライスが幸せであり続けられるよう笑顔でいることを誓うのだった。
どうか、
これにて、『ブルーローズをそばにおく』完結です。
想定していたよりも多くの方に読んでいただけて本当に嬉しく思います。
まさか、お気に入り登録をしてくださる方や感想をくださる方、評価をくださる方もいて、とても楽しい時間でした。
いただいた感想に安心したりどきりとしたり、いただいた評価ににやけてしまったり、そんな感覚は本当に久しぶりだったのです。
また、最初にも書いた通り、実は二次創作を完結させたことがなかった人間でした。二次創作だけではなく、オリジナル小説ですらも、途中で筆が止まってしまう物書きだったのです。
だから、完結できたこの作品は思い出に残る作品となりました。それも、この作品を見つけてくださった貴方のおかげです。本当にありがとうございます。
完結することができた今、もっと上手に描写ができたらな、と思う部分があり、もう完結でいいかなという気持ちがあったのですが、その気持ち以上にもっと読者の皆様に幸せな気持ちになってほしいという欲(意訳:砂糖を吐いて欲しい)も出てきました。まだまだ未熟な身ではありますので満足していただけるかはわかりませんが、これからは時間がある時に気ままに元トレーナーの玉輪知里くんとライスシャワーちゃんの結婚生活を書いていけたらなと思います。
ひとまず状態は完結にしておきますので、あまり期待はせずに(逃げ)、いつか更新した時にそういえばこんな作品があったなと思い出して、再び読んでいただけますと幸いです。
それでは、またこの作品でお会いしましょう。ご愛読いただき、本当にありがとうございます!
⭐︎トレーナーのひみつ
主人公:
⭐︎作者のひみつ
けっきょく、ライスシャワーと温泉にいけていない。