二人並んで歩いた夜の翌日から、トレーニングを再開する。
メジロマックイーンという、すでに実績十分の相手を負かすには、今まで後にまわしていた瞬発力と今まで以上のスタミナが必要だった。そのためのトレーニングを考える。
無理な高負荷をかけては意味がない以上、だんだん負荷を上げていく方法がベストだ。その上で不要な休憩時間を減らすスケジュールを組めるトレーニング法がよい。
おそらく、ライスだけではなく俺自身にも相当な負担があるだろう。しかし、俺はライスに人生を捧げると決めた。
今までに得た知識を基に、タイムスケジュール表とトレーニングメニュー一覧、京都レース場を分析した情報を寝ずに作成する。あとは、ライスの学業を助けるための資料とメジロマックイーンの分析のまとめ、食事のメニューも決めないといけない。が、それをやるには頭の体力がもたないか。いや、せめて食事のメニューは決めてから寝よう。
そして、どうにか一ヶ月分の献立を作成する。これで一ヶ月分は同じ料理を食べることがないはずだから、飽きもどうにかなるだろう。ライスは気にしないかもしれないが、飽きはストレスの一因になるから、手を抜くわけにはいかない。あとは、たづなさんにお願いして、料理士を紹介してもらう必要があるな。
時計を見ると、すでに午前三時を回っている。残り二時間で朝練の時間だ。
右の拳で自分の右頬を殴る。そして、冷水で顔を洗って、どうにか眠気を取り、いつもの顔に戻す。少し赤いがいずれ治る程度にまで、殴った痕は薄まった。
服を着替えて、学園のバ場に向かう。まだライスは来ていないようなので、軽くストレッチを行うと、背骨や首から音が鳴った。
そして、深呼吸を行う。冬が間近に迫るせいか、肺へ染みる感覚が強かった。
「お兄さま、おはようございます」
「おはよう」
いつもより早い時間にライスはやってきてくれた。どうやら、やる気は十分のようだ。
「今日から、打倒メジロマックイーンを掲げて、トレーニングを行う。厳しいものになるが、一緒に頑張ろう」
「よろしくお願いします!」
ライスの真剣な表情とかすかに緩む口元に、俺も笑う。
「まずはこの資料を見て欲しい」
俺はタブレットに今朝まで作っていた資料を映す。改めて見ると、やはりストレスの解消が一番の問題になるだろう。
「やってみてからでないと判断がつかないと思うが、どうだろう?」
「やれるよ」
静かな熱い宣誓をしてくれる。その事実だけでも、俺は嬉しかった。
⭐︎
そして、始まったトレーニングはおそらく周囲から見ればオーバーワークに見えただろう。しかし、一週間も経てば明らかに体つきが素晴らしいものに変わっている。そのご褒美というわけでもないが、毎週日曜日はライスが行きたいという場所へ行った。
本屋での絵本探しや劇場での観劇、カラオケでは一緒に歌い、ゲームセンターではぬいぐるみをどうにかライスへ渡した。そのどれもでライスを笑顔にできたと思う。
これで多少はストレスが軽減されているのか、今のところ調子はよさそうだった。
そうして迎えた日経賞。春の天皇賞における前哨戦だ。ここで一着を取り、勢いに乗りたい。
「勝ってくるよ」
ライスの言葉を信じて、俺は出走の合図を見守った。
スタートは今までで一番よいものだった。最初はいつも通りに真ん中へ落ち着く。
そのままレースは進み、ライスはじりじりと先頭へ迫っていき、終わってみれば順当に一着を取っていた。
「よし!」
小さく俺はガッツポーズを決め、ライスを迎えに行く。そして、出会い頭にライスはつぶやいた。
「いよいよ天皇賞」
俺は相槌を打ち、手を差し出す。
「一緒に頑張ろう」
少し硬くなってしまった小さな手が合わさり、ライスは笑った。
「がんばるぞー、おー」
⭐︎
天皇賞の一週間前から俺たちは、すでに使う者がいなくなったトラックに来ていた。
「ここが仕上げの場所だ」
「ただ、走るんだよね」
ここからは、基礎体力やテクニックを伸ばすより、精神の状態をレースでの最高へ持っていくことが重要だと考えたが故のものだった。武道における型に倣い、一種の禅をイメージしている。
「後は、精神力でメジロマックイーンに勝ることができればいい。それでライスは勝てる」
俺の言葉にうなずき、ライスはさっそくランニングシューズへ履き替え、走り始める。その間に、俺は野宿の支度を始めた。
ただひたすらに走り続けるライスの表情に、弱さは感じられない。まさに真剣のような鋭い視線でただ前を見続けている。
日が暮れる頃になると、一度ランニングを止め、食事にする。たづなさんに紹介してもらった料理士に無理を言い、習った料理を振る舞った。
しかし、ライスも俺も黙々と口へ運び、箸を置いた。ライスは「ごちそうさま」と一言を残し、またランニングへ戻る。俺も何の感慨もなく、後片付けを行う。
そんな時間をわずかな仮眠でくりかえし、五日が経った。
「それじゃ、帰ろう」
やはり言葉は少なく、ライスは俺が手配した車に乗り込み、すぐに眠りに就いた。
「いよいよだな」
誰に聞かせるでもなく、俺は口にした。ライスの頭を太ももに乗せながら、ライスの頭を撫でる。
心なしか、久しぶりにライスの表情が和らいだようだった。
⭐︎
そして、天皇賞の前日を軽い運動と休息に費やし、当日を迎える。
観客の声援が熱いが、俺とライスの周りにはただ冷たい空気があった。
「勝て」
「うん」
この会話を最後に、俺とライスは別れた。もう結果が出るまで、言葉を交わすことはない。
スタンドへ出ると、やはり観客たちはメジロマックイーンの名をくりかえしていた。
その状況にすら何も思わず、俺は平静を保っていられた。おそらくライスもそうだろう。しかし、どうやらライバルたちは違うようだった。
ライスがターフに姿を表すと、その姿を見たライバルたちは一瞬、固まる。それはメジロマックイーンだって例外ではない。
いや、メジロマックイーンこそがいつもと違った。
いつもの余裕は失われ、焦りを隠すかのように自らの尻尾を前へ引っ張っている。なかなかゲートに入ることができないでいるメジロマックイーンを係員が押してどうにか収まった。
全員がゲートに収まり、いよいよ出走となる。ゲートが開かれ、一斉に走り出した。
ライスは、三、四番手につくメジロマックイーンを追うように五、六番手の位置についている。ちょうど、メジロマックイーンを見据えることができる好位置だ。
レースは淀みなく進み、残り八百メートル付近でいよいよメジロマックイーンが仕掛けた。その後ろでライスも仕掛ける。
最終コーナーでライスは半バ身差まで詰め寄り、直線でついにメジロマックイーンを抜いた。
そのままライスは後続を突き放し、終わってみれば二バ身以上の差をつけてレースを終える。
菊花賞のような悲鳴はもはや聞こえなかった。ただすべての観客がレコード勝ちをしたライスに目を向けている。
ライスは少し悲しそうな表情でスタンドを見て、一礼をして退場しようとした。
その時、どこからか拍手が聞こえる。
ライスが足を止め、振り返った視線の先には、たった今夢を摘んでしまったライバルたちがいた。その中心にメジロマックイーンの威風堂々とした姿があった。
「おめでとうございます」
スタンドにいても聞こえる澄んだメジロマックイーンの声に、ライスは泣きそうな顔を隠すように一礼をし、走ってターフを去った。その後ろ姿に届かんとばかりに、スタンドからも盛大な拍手が長く贈られた。
その様子を確かに目に焼き付けた俺は、控室へ向かう。
そして、控室で見たライスは、やはり泣いていた。
「お兄さま……ライス、やったよ」
「ああ。ああ! やったな!」
その涙と声に、俺も涙が溢れる。ライスが涙に濡れるのも構わず、俺はライスを抱き上げた。
「ライス、やったぞ! ようやく夢が。夢が叶えられる!」
「うん、うん!」
その喜びはもう二度と味わえない感情のように思えた。だからこそ、ウイニングライブの係の人が来るまで、俺たちはずっと抱き合ったまま泣き続けた。
⭐︎
ライスシャワーがセンターとなる二度目のウイニングライブは、一回目と違って温かな拍手から始まった。
「ライス! おめでとう!」
「マックイーン! 次こそ負けるなよ!」
ライスへの罵声はメジロマックイーンへの声援に代わり、ライスへの声はすべて祝福のものだった。
「これから応援するから!」
ライスはその言葉たちに涙をこぼしそうになるも、どうにかライブを終える。そして、去り際に、アドリブで言葉を付け足した。
「ありがとうございます」
その震えた言葉をきっと、観客たちは忘れないだろう。なぜなら、その言葉への応答は、盛大な歓声だったのだから。
なんだかんだとR15に触れるような表現をすることなく、菊花賞と春の天皇賞を書き終えることができました。
物書きとしては、そこまでの描写力がなかったと悔やむべきか、タグをつけずにすみ喜ぶべきかと悩むのですが、皆様が楽しめたのであれば、それに勝る喜びはございません(タグは大丈夫ですよね?)
とはいえ、正直に打ち明けると今話は難産でした。
いつもは二時間ほどで一話を書いているのですが、今回は四時間もかかるという。
まだまだ精進が足りない証拠ですね。頑張ります。
これでGW中の更新は打ちどめかな。時間が作れれば、もう一話くらい投稿したいところですが、次の展開もまた難産になりそうな予感なので、気長にお待ちいただければと思います。
ちょっと長くなってしまいましたが、今回はこれまでです。
いつも感想やお気に入り登録、ありがとうございます。それでは次回の更新で、またお会いしましょう。