奇怪!ターフを駆けるサメ 作:ジョーズ・ブルーネード
シロップはやんちゃ者だが、いっとう賢い馬だった。
血統も母方こそ無名とはいえ、母父は気性難がなければ中央でも走れていたような馬だ。
父親に至っては『あの』ノーザンテーストだから、文句なしの血筋だろう。
懸念があるとするなら、母父の性格を引き継がないかって心配だったけど、今のところはやたら……そう、やたら活発なぐらいで、気性は荒いって感じでもない。
他の仔馬によく絡みたがるが、嫌がる馬にはちょっかいを掛けない辺り協調性もありそうだ。
仮に運動量が必要なタイプだとしても、競走馬にするならむしろトレーニングさせやすくて好都合なんじゃないかな。
育成牧場には大した設備もないし、サラブレッドじゃなかったらボールの一つでも与えてやるんだけどね。
暇を持て余してるのか、背中がかゆいのか、シロップは放牧地でぐねぐねのたうち回っているようだ。
……いや、すごいねこれ。
タコかな?どうなってるんだろう。
散々荒ぶったシロップは、器用に後脚で鼻を掻くと何事もなかったかのように立ち上がって、向こうに歩いて行ってしまった。
今のところは馬並み外れた体の柔らかさを披露しているシロップだったが、これが大人になっても変わらないなら……芝を走る上で大きなアドバンテージになりうる。
逆に、これだけ体が柔らかいとダートコースは走りづらいだろうね。
わかりやすいぐらいに芝向きの仔だ。
そう、話が逸れたけど、シロップはすごく賢いんだ。
僕たちが話してるのをじっと見つめて、耳を傾けているような仕草をすることだってある。
これは随分前のことだけど、昔使ってた出入り口があってね。
それがいつかの嵐で壊れてて、そこからシロップが脱走したことがあったんだ。
職員のみんなと必死に手分けして探して、夕暮れ時になって、やっと川で泳いでるのを見つけた。
夏前なのに毛皮は結構冷えてたから、かなり長い時間泳いでいたんだろうね。
それだけ脱走生活を満喫していたくせに、名前を呼んだらすんなり戻ってきたから……もしかしたら、当人はそこも放牧地の中だと思ってたのかな。
聞き分けはいいんだよ、すごく。
しかもあくる日になって、何処から逃げた、なんて冗談めかして言ってやったら、何とわざわざそこに案内までしてくれたんだ。
一緒に遊びに行こうよ、なんてノリだったらちょっと可哀想だけど……勝手に放牧地の外に出たらどんな危険があるかわかったもんじゃない。
もちろん、壊れた扉はすぐに直させて貰ったよ。
川遊びだって、本人はずいぶん楽しそうにしていたけど……一歩間違えば事故になりかねない事態だったからね。
他に気になることといえば、脱走して川遊びをしている時、やけに泳ぐのが速かったことぐらいかな。
見た目は普通の栗毛なのに、マキバオーよろしく本当は河馬の生まれ変わりなのかもしれないなんて、牧場の皆には冗談めかして言ったもんさーー
吾輩は馬である。
なんて、今更言うもんでもないが。
そんな俺にも、そろそろ親離れの時期ってやつが来たらしい。
前世の俺は親父の船に乗ってたもんで、親離れなんてものはとんと知らなかったが、お袋と過ごす時間は、学校に行き始めてから、船に乗り始めてから段々と減っていった。
まあ、実家暮らしだもんで、陸に帰ればお袋が待ってるのが当たり前だった。
家族揃って雑魚寝して、一人で夜を明かしたことなんてついぞ無かったなあ。
そんなもんで、今ひとつ感覚はわからなかったが。
生後半年が経って、離乳期に入った俺。
今世のお袋の顔がもう見れねえってのは、存外寂しいもんだった。
どうも俺は活発すぎるらしく、他の仔馬連中ともそこまで親しくない。
暇を持て余してごそごそ動き回っていると、特に夜中は他の連中がびくびくするもんで、俺は一晩中大人しくするしかないらしい。
もう赤ん坊じゃねえからか、そもそも馬はあんまり寝ねえのか。
最近は5時間も寝れりゃいい方って感じだったし、今夜もそうなんだろう。
そんなわけで夜通し寝倒すわけにもいかねえし、慣れるしかねえかな、これ。
お袋と離れて最初に過ごす夜は、なんというかやたら……長く感じた。
人間だったらクソ映画の二本や三本、流し見して時間潰せるってのに。
馬の身は辛いねえ。
それで、あれはお袋と離れてふた月ぐらいの頃だっけか?
そろそろ冬らしくなってきたなって時期だ。
追い運動とやらが始まった。
思ってたよりペースは遅く、俺たちがガキなのもあって距離もそんなにない……と思っていたんだけど。
「ほら、シロップ!頑張れ!頑張れ!」
退屈だと思っていたのを見透かされたのか、これでは運動量が足りねえと思われたのか。
そっから更にふた月もして、俺たちがとうとう一歳馬になると、俺だけ歳上連中の追い運動に参加させられることになった。なんでだ。
年上といってもニ歳馬だが、迫力がてんで違う。
俺も体格はそこまで小さい方じゃない……と思いたいが、一歳馬とニ歳馬じゃえらい違いなんだよ。怖えぇよ。
こいつらは温厚だから大丈夫だ、なんて一文字のおっちゃんは言ってるが、そうじゃなかったらそもそも走ってねえ。
横をどしどし走る先輩馬に内心ビビりながら、トレーニングに精を出す日々だ。
一文字のおっちゃんはオーナーもやってるらしく、先輩馬の何頭かはおっちゃんの馬だそうな。
だが、俺はもうおっちゃん以外の貰い手が決まってるらしい。
おっちゃん曰く、
「お前は特に才能があるから、僕よりもっとちゃんと見てやれる人に任せたいんだよ」
とのことだが、まあ……期待されるのも悪くねえなって。
GI出た暁には、俺の単勝馬券買ってくれよな。
あっと言う間に秋が来て、俺は生まれ育った牧場を離れることになった。
ハミをつけたり鞍をつけたり、ついでに手綱をつけて人を乗せたりと、基本的な訓練もバッチリだ。
この辺りは元人間だから当たり前だな。
おっちゃんが信頼のおける相手、なんて言っていた馬主だったが、蓋を開ければなんて事はない。
独立した息子さんだったらしく、名前はハヤテというらしい。
イカす名前してるねえ。
ハヤテさんは俺が賢い馬だって話を散々おっちゃんから聞かされてたのか、やたらと俺に話しかけたがる人だった。
久しぶりの会話らしい会話が嬉しくて、思わずはっきり受け答えしたくなるがーーこの体でもイエスとノーは出来るしなんなら土に文字も書けるからなーーあんまり賢すぎる所を見せてしまえば、もれなく競走馬からタレント馬ルートになっちまう。
競走馬としてビッグになる、なんて誓いを立てたばかりだ。
その辺りは自制しないとなあ。
「着いたよ、シロップ。ここが、今日から君の家になる」
ハヤテさんに連れられて、新しい牧場へ。
おっちゃんの所と比べると随分こじんまりとしていたが、それでも十分広い。
厩舎は俺を含めて三頭分しかないが、しっかり手入れされていて清潔感があった。
「おっ、ハヤテくん!そいつが件の栗毛かい?」
そう言って近寄ってきたのは、厩務員の原西さんって人だった。
ハヤテさんが挨拶しな、って小突いてくるもんで軽く鼻をこすりつけておく。
仔馬がすりすりしてんだ、これでも十分人懐っこさはアピールできるんじゃねえかな。
このおっちゃんはハヤテさん曰く、元は一文字のおっちゃんの所で働いていた人らしい。
ハヤテさんは仮にも上司のはずだが、ガキの頃からの付き合いなら、こんな感じにもなるわなあ。
奥にいる気難しそうな爺さんが詞嶋さんか。
あれでもハヤテさん曰く馬のことを第一に考えてくれる人格者らしいんで、ぜひ仲良くやりたいねえ。
顔を乗り出して出迎えてくれた二頭の先輩たちも、気性難って感じには見えない。
ああ、これなら誰とも仲良くやれそうだなあ。
パカラッ、パカラッ。
パカラッ……パカラッ……。
いい、実にいい音だ。
蹄鉄なんて嵌めたら、感覚が随分変わりそうだなあと思っていたが。
実際に付けてみると、これが非常にいい具合だった。
ご機嫌に走り回る俺を見て、ハヤテさんもご満悦そうだな。
せっかくなので詞嶋さんを乗せて少し牧場を歩き回らせて貰ったが、この感覚は癖になりそうだ。
思っていたよりずっと軽く、それでいて適度な硬さがある。
これを作った職人さんには花丸をあげたい気分だね、俺は。
とまあ、調子に乗っていたわけだけども。
「ハヤテさんも乗ってみますか?」
なんて詞嶋さんが言うもんだから、ハヤテさんも乗せて牧場をぐるっと一周することになった。
人を乗せるってのはまだ不慣れなもんで、特に詞嶋さんならまだしも、ハヤテさんを乗せるとなるとちょっとばかし気を遣うんだよなあ。
まあ、馬主が喜んでくれるなら一肌でも二肌でも脱ぐのがいい馬ってもんよ。
ひひん。
「こいつ、すごく乗り心地がいいですね。背中も柔らかいですし……」
シロップの手綱を引いていると、その背からハヤテさんが話しかけてきた。
確かに、こいつは乗りやすい馬だ。
馬具の取り付けやらの基礎訓練があっという間に終わったせいで、早めに乗馬訓練に移れたのもあるだろう。
従順な気質もあって、同じ齢の馬と比べても非常に人を乗せるのが上手い。馬だけに。
「初めての蹄鉄にも、すぐ慣れましたしね。生産の方でも、人を乗せるのに三日とかからなかったと聞きます」
「こいつは賢い馬ですが、競走馬のこいつは……詞嶋さんから見ても、やっぱり優秀なんでしょうか」
競走馬のこいつ、つまり競走馬としての才能か。
シロップの体格は、平凡か少し小さいぐらいに収まっている。
そのくせ、同年代の馬と比べても非常に活動的だ。
手綱をつけられると途端に大人しくなるが、放牧中は元気に駆け回っているのをよく見かけている。
聞き分けがよく、運動好きだから……この時点で、既に競走馬の才能があるといえるだろう。
くわえて、背や脚の関節が柔らかく、それでいて強靭だ。
二歳馬と一緒に追い運動をさせていた、というだけあって体つきもがっしりしている。
一文字の大馬主曰く、泳ぎも大得意とのことだが……それは実際に見ないとわからないな。
その頃とは体格も変わっているだろうし。
そのうちトレセンにでも連れて行って、プールを貸して貰うのもいいかもしれない。
……なんて、そんな感じの内容をハヤテさんに話したのだが。
随分嬉しそうな顔で、「そうですか……よかった」とこぼすと、ハヤテさんはそれっきり黙ってしまった。
ぼくもそれ以上、言葉を続けることはなかった。
ポク、ポクというシロップの歩く音だけが周りに響いている。
シロップはぼくの後ろで、ぶるるっとご機嫌そうに鼻息を鳴らしている。
初めて見た時の、シロップの姿。
艶やかな栗毛に、まるで眼帯のような白いライン。
そしてその目は、深い、深い知性を讃えている。
ぼくが、見たことのない馬だった。
苦節40年、調教師としてぼくは生きてきた。
何頭もの調教を担当してきたけれど、こいつは。
今までで一番の才能を持っていると、ぼくは一目でそう確信出来てしまった。
そんな言葉に出来ない凄みがある馬だった。
ぼくだろうと、他の調教師だろうと、こいつはきっと、こいつ自身の才能だけでGIまで行ける。
なら、ぼくの仕事は?
この馬を任された、ぼくのやるべきことは何だ。
ぼくがこいつに与えてやれるのは?
そう、優勝だ。
それしかない。
ああ、こいつは……中央でどんな走りをするだろうか。
コースは……ダートより芝だろう。
距離は?
中距離?長距離だろうか。
今はやや小さいが、ここからもし体格が大きくなればマイラーやスプリンターとしての適正も上がってくる。
脚質はどうだろう。
逃げ?それとも先行、いや差しだろうか。
もしかしたら、追い込みが向いている可能性だってある。
どうしようもなく、年甲斐もない。
止めどなく笑みが浮かんでくる。
ぼくは、なんと青い老人なんだろうか。
昂っている自分を自覚して、気がつくと、自分でも不思議なくらい衝動的な言葉が衝き出た。
「ハヤテさん、ぼくはこいつをGIで優勝させてみせます。絶対に」
ハヤテさんの気色を含んだ「お願いします」と言う声は、不思議なほどぼくの耳に残った。
そして、ぼくの声に応えるように、シロップがぶるると鼻を鳴らした。
ああ、相棒よ。
お前はぼくらをGIまで連れて行ってくれるだろう。
だから、ぼくらはお前をGIで勝たせてやる。
優勝させてやる。
だからどうか、お前と一緒に戦わせてくれないか。
お前の栄光を……
ぼくらに見せてほしい。