奇怪!ターフを駆けるサメ 作:ジョーズ・ブルーネード
ゲート訓練も首尾よくマスターして、迎えた最初の模擬レース。
追い運動で慣れているだろう、ということで詩嶋さんから指示された戦術は『逃げ』だった。
「よろしくね、シロップ号」
俺の首を軽く叩くジョッキーくん。
一週間前からちょくちょく顔合わせして、鞍にも何度か乗せたもんだから、もうマブってやつよ。
ムチは痛いから軽めに叩いてくれよ。
季節は未だギリギリ秋、この時期にゲート訓練を終えた一歳馬はほとんどいない。
だから、対戦相手はみんな二歳馬ってやつになる。
一年の差ってやつは随分大きいらしく、俺の体重を50キロは軽く超えているように見える。
380キロの俺が軽い方なのかもしれんが、どちらにせよ真面目に走りゃあ俺より速いのは間違いないだろうね。
ジョッキーくんを乗せて練習通りにゲートイン。
もたつく馬も居たが、数分もしないうちに全員収まったようだな。
さて、作戦をもう一度確認するか。
詩嶋さんからの指示は『逃げ』だ。
一気に逃げ切って脚を余らせて勝つ。以上。
この体格差、くわえて練度の差も大きいと来た。
実際問題、それ以外で勝つビジョンは俺だって思い浮かばねえ。
『位置についてーー』
だがーー
逆境も悪くねえ。
ーーガシャッ!
ゲートが開いた!
一斉に駆け出す。
滑り出しは悪くねえ、対戦相手は先行2に差しが1、追い込みが1。
逃げは俺一人だ。
つまり、このレースのペースメーカーは俺の走りにかかっている。
可能な限り、大きくストライドを取って加速する。
下手にピッチを上げても今の俺の歩幅じゃあ大した速度にはならねえし、歩幅と回転を両立させようってのは結局、最後まで体力が保たねえ。
三馬身ほど離したまま、最初のコーナーに入る。
なるべく外めを回ったにも関わらず、体にかかる強烈なG。
ジョッキーくんは平気そうだから、これは単純に俺が慣れていないせいだろう。
直線で距離を稼ぎ切れてなかったから、先行集団がすぐ近くまで迫ってきていた。
二馬身
一馬身ッ……。
音が迫ってくる。
先行ふたりの首が、少しずつ、俺の後ろから、横に、そして……。
ああ、くそっ!
「詩嶋さん、やっぱり無茶だったんじゃ……」
「あいつのポテンシャルなら、もう少しいい線は行くかと思ったんですが……これまで調教が上手く行きすぎて、あいつの温厚な性格を考慮出来ていなかったのかもしれません。勝負弱いというか、なんというか……
ーー今だって、随分と脚を余しているようですし。
先行馬が目の前を駆けている。
差しと追い込みも、後ろから上がって来ているのが視界の端に見えた。
まだ追いつかれちゃいないが、またコーナーに入ったらすぐにでも抜かれちまうだろうな。
ああ、くそっ!
前にだけ集中しろ!
俺はまだ諦めちゃいねえ。
中央で、GIで走ると決めたんだ。
優勝を勝ち取って、詩嶋さんたちにトロフィーを持ち帰ってやりてえ。
体が出来上がってない?
体格が足りねえだと?
血統どころか知識やら精神力っつうアドバンテージまで貰っておいて、泣き言言ってんじゃねえぞ。
俺は知っている。
目指すべき走りを。
片手で数えるほどだろうが、GI馬の走りを、俺は見たことがあるはずだ。
それは、間違いなく俺のアドバンテージだ。
再現しろ。
今持てる全てで追い縋れ!
先行馬との差は三馬身。
必死に芝を蹴りつけても、未だその差は縮まらねえ。
なら大きく、ストライドをもっと大きく!
じきに最終コーナーだ、もう遠慮はいらねえ、ピッチを上げろ!
脚を回せ!
もっと、もっと速く!
必死の加速。
僅かに先行との距離が縮まる。
だが、すぐにコーナーに入ってまた距離が……させるか。
内を回れねえなら外を使って加速してやる!
追い上げてきた差しと追い込みが、内を回って俺の横を通り過ぎていく。
抵抗の甲斐があったのか、コーナーを終えても先行馬との距離は四馬身ほど。
だが俺と連中の間には新たに二頭の馬が挟まり、先行を差そうと末脚を使い始めている。
悔しい。
だが、それ以上に昂っている本能。
ああ……これはきっと、草食動物のソレじゃねえ。
もっとこう、捕食者ってやつのーー
俺の意図を察したのか、鞍上からムチが飛んだ。
体に走る鋭い痛み、焼きつくような闘争本能が立ち上る。
それのもたらす歓喜に、俺は歯を剥き出した。
ああ、上等だ。
この最終直線で決めろってか?
いいぜ。
食らい尽くしてやるよ。
それまでのシロップは、期待に応えようとする健気で賢い馬だった。
直線の走りは中々に上手いが、体格と経験の差で脚を余してあっさり逃げ損ね、5着に終わる……そんな未来を想像していた。
ぼくたちは勘違いしていた。
シロップの才能を、その内に秘めた怪物を目にするまでは。
最終直線の半ば……ぼくの目の前を通り過ぎるその瞬間、僅かに見えたその表情。
あれは馬なんかじゃない、あれは、あの眼光はーー
捕食者のまなざしだ。
走る、というよりは跳躍に近いほどのストライドで、シロップは爆発的な末脚を見せる。
小柄な体に似つかわしくない、まるで大型馬のような歩幅で、しかもそれをそれなりのピッチで回している。
柔軟な体と芝の硬さを上手く使って、効率よく速度を生み出しているようだ。
一切ぶれない体幹はまるで魚雷みたいで、その獰猛さも相まって……そうだな、サメか。
あれは、ターフを駆けるサメってやつだ。
あまりの殺気に、先行馬の速度がかえって上がっているようにも見える。
それでも差し切りかねないペースで迫っているのはシロップの才能か、それとも底力か。
まあ、その両方だろう。
おっと、勝負が決まったようだな。
ここからは見えにくいが……どれ。
シロップは……ハナ差で二着か。
僅かに差し切れなかったが、逃げから崩れてこれなら最初から差しにしておけば勝てていたか?
これは……ぼくらの判断ミスだな。
騎手をしていた彼も上手くやってくれていただけに、シロップには申し訳ないことをしてしまった。
何にせよ、他の馬たちがあれに当てられて、パニックを起こしたりしなくて良かったよ。
レースが終わった途端、シロップのやつはいつもの空気に戻ったみたいだけど……一緒に走った馬たちは萎縮しきって近寄ろうともしない。
一回りも二回りも小さい馬にえらい怯えようだけど、あの気迫を見てこの程度の動揺で済むのなら、他の仔たちも案外大成しそうだ。
……なんて、呑気すぎるか。
活発で穏やかな馬、なんて触れ込みで模擬レースを組んでもらっていたわけだし、念のため後で謝っておこう。
彼らからすれば、一緒に走っていた馬がいつの間にか虎と入れ替わっていたようなものだろう。
シロップが普段穏やかなのは嘘じゃないし、これだって気性難って程じゃないが、対戦相手にパニックを起こされても困る。
サラブレッドは闘争本能が高くなるようにも品種改良されている、という話は昔からよく聞いているし、紛れもない事実だろう。
だがしかし、何事にも限度はある。
普段は大人しい馬なだけに、かえって頭を抱えることになりそうだな。
とりあえず、帰ったら原西さんと相談だ。
苦杯の模擬レースから三日ほどして、俺はとうとう馬名を授かった。
『アイルシャーク』
直訳すれば、島ザメといったところか。
前世の俺は鮫島なんて苗字だったもんで、奇妙な縁を感じちまったよ。
まったく、神様ってやつも粋なことをしやがる。
こんな親不孝者に、もう一度『鮫島』を名乗らせてくれるってか?
戦う理由がまた増えちまったな。
『アイルシャーク』の名を、前世の親父と今世の仲間から受け継いだ名前を。
競馬の歴史に刻む、それが俺の新たな使命だ。
「アイルシャーク、調教の時間だ」
原西さんの声が聞こえた。
詩嶋さんは外で待っているんだろう。
模擬レースの後の、興奮と困惑とーー少しの落胆が入り混じった表情を思い出して、俺は気を引き締める。
もう、俺は負けねえ。
「久しぶりに、あの子以外の騎乗依頼を受けましてね」
トレセンからほど近い、とあるカフェの一幕。
コーヒーを啜りながら、ぽつりと溢す。
会話の主は、年若い女性ジョッキーだった。
短いポニーテールを後ろに束ね、凛とした雰囲気を纏っている。
向かいに座る青年は、ーーいや、見た目こそ若いが、歳の頃は三十を超えているだろう。
甘ったるそうなパンケーキをつつきながら、頬杖をついてそれを聞いていた。
「珍しいね、君はもうあの子にしか乗らないのかと思ったよ」
「デビュー前の子に専属契約も何もありませんよ。ただあの子、私以外が乗ると真面目に走らないみたいで……」
「お待たせしました、パンケーキです」
店員が言葉を遮る。
運ばれてくるパンケーキは、男性の方へ。
いつの間にか空になっていた皿を横にどけると、男性は慣れた手つきでパンケーキを切り分けていく。
「一切れいる?」
「いえ。……鮫島さん、まだ食べるんですか?」
「コーヒーだけで粘ってる君よりは、僕の方が上客だと思うけどね」
軽口を飛ばしながら、パンケーキの解体に勤しむ男性。
今度は女性の方が頬杖をつきながら、すっかり冷えたコーヒーを啜っていた。
「んで、どうだった。久しぶりに、他の馬に乗った感想は?」
「デビュー前なのもあって荒削りでしたが、光るものもある子でしたよ。末脚がとても強い子なんですが、脚を余しがちで」
「追い込み自体珍しいからねえ。話聞く感じ、ついて行けなくて追い込み扱いされてるタイプじゃなくて、ガチの追い込み馬でしょ?」
「ですね、珍しい……といえばですけど。
ああ、何を言おうとしていたか、今思い出しました」
「ほえ?」
「何ですかその間の抜けた声は。……昔、うちの子と同じ牧場にシロップって子がいるって話してたじゃないですか」
「うん、覚えてるよ。将来有望な馬って話だっけか」
「その子、ちょうど私がこの前騎乗依頼を頂いたレースで、一緒に走ったんですよ」
「でも一歳馬でしょ?流石に二歳馬と走るのは辛いと思うんだけど」
「五頭中の二着でした」
「へえ」
男性がパンケーキから顔を上げて、にやりと笑う。
「やるじゃん。その子って、やっぱデカい馬なの?」
「むしろ小柄なぐらいですね。……はい、これが写真です」
差し出された写真を、男性が覗き込む。
写っていたのは、立ったまま後脚で耳の後ろをかく栗毛のシロップ……もとい、アイルシャークだった。
若干ピンボケしてるし、なんでその写真なんだ……と内心思いながらも、男性は興味をそそられた様子だった。
「……へえ、俄然興味が湧いてきたね。一歳馬で小柄っていうと、400キロ行かない感じでしょ。それで三頭抜いたのか」
「それでですね。その子の馬名が決まったらしくてですね。『アイルシャーク』って名前だそうですよ。直訳で島ザメって」
ぴたりと男性の動きが止まる。
得意げに話す女性は、その様子には気がついていないようだった。
「なんか、すごい偶然じゃないですか?鮫島と島ザメ、なんて。競走馬とジョッキーで、こんなニアミスが……あれ?鮫島さん?」
「……あのさ、その『アイルシャーク』って馬はどこにいるか知ってる?」
「ああ、それは勿論。私の担当してる子と、同じ厩舎で暮らしてるので……鮫島さん?あの、顔近いですよ……?」
すぐ目の前で赤らめる女性の顔に気づき、慌てて離れる男性。
「ああ、ごめん。ちょっと、奇妙な縁を感じちゃってさ。自分の目で見てからになるけど……
多分、僕はその馬に乗ることになると思う」
自宅。
こじんまりとしたアパートの一室で、酒をかっくらう。
鮫島さんって、意外と天然なんですね……なんて言葉を放った女性を意識の隅に押しやって、ひとり男性は想いに耽る。
(なんだろう、この胸のざわめきは。
何とも言えない懐かしさは?
この馬と会えば、何かわかるんだろうか)
テーブルには、女性から譲ってもらったアイルシャークの写真が無造作に置かれている。
空になったワインの瓶と、小さなグラス。
手元の酒は、既に空になっていた。
男性ジョッキー……鮫島蒼太の脳裏には、既に先程のアイルシャークの姿が焼き付いている。
(それなら、早く会いたい、君に。
それで、この気持ちの正体を確かめたいんだ。
アイルシャーク……
君はいったい、何者なんだ?