あっという間に文化祭当日が訪れた。茂はここ数日、思い悩んだ様子で日々を過ごしていた。悩みの原因は言わずもがな、しまうーの事である。悩みは多々あれど、ほとんどの事は日々の忙しさで忘れられた。しかし今回は別である。彼は滅多に見せない男気をここで晒さなければならないのだ。
一方、この後に控えている人生初のデートというイベントに、「cafeフランス人」と書かれたクラスTシャツを着たしまうーは、生まれてこの方経験した事のない緊張をしていた。茂とのデートの時間を確保するため、一所懸命に働いていたが、全く緊張は
それに変化があったのは、よつばの頭突きを脇腹に受けてからだ。彼女の登場で教室内は一気に騒がしくなった。よつばの目まぐるしく変わる表情や突拍子の無い言動は、周囲の大人を否応なく巻き込んでいく。苺の乗った大きなショートケーキを想像していたのであろう。彼女はパウンドケーキを見ると、がっかりした様子で涙目になった。落ち込んでしまったよつばを励ますため、しまうーは他クラスが出しているクレープを買いに走った。この時ばかりは茂との約束の緊張感を忘れる事ができた。
雨の中、茂は文化祭を開催している母校に到着した。来校者受付に署名し、パンフレットを受け取ると、校内に入る。三階まで上がるとしまうーの姿を探し始めた。彼がここまで一直線に目標に向かうのは理由がある。目の前にある困難から逃げたい気持ちは確かにあるが、そんな事をすれば過去の自分に逆戻りしてしまう、と思ったのだ。格好悪い、ダサいの代名詞である彼は、心だけでも二枚目でありたいと考えている。難しい事をうだうだと引き伸ばしにするよりも、早く解決してしまおう、と行動を開始した。
二年生の教室が並んでいる三階に到着して割と早く、しまうーの姿を見つける事が出来た。彼女は六組の教室から両手にクレープを持ち、一心不乱に片方のそれを食べていた。
「あ、日渡…さん。」
気が
茂に気づいたしまうーはぴたりと咀嚼するのをやめると、ぎこちない動きで彼を振り返った。よつばに届けるクレープを買いに来たのだが、そこで小腹が空いているのに気付いた彼女は自分の分のクレープもついでに買ったのだ。女子としては好きな人とのデート中にあまりがっついている場面は見せたくない。今は文化祭の仕事中である事はもちろん自覚しているが、食欲と女子の見栄には勝てなかった。だが、その選択は最悪の形で裏目に出る。早くよつばの所へ戻らなければ、と歩きながら、しかも物凄い勢いでがっついている瞬間を茂に見られてしまったのだ。
二人は目を合わせたまま、しばし動きを止めた。茂はこれからどう声をかけようか迷って動けなかったが、しまうーは違った。とりあえず、この出会いをなかった事にするのだ。彼女の想像していた初デートの待ち合わせは全く違ったのだから、これは怒っていないのだ。とりあえず残ったクレープを口に押し込み、とりあえずこれをよつばに届け、とりあえず何事もなかったかのように出会いをやり直すのだ。
無表情のまま走り去った彼女を、茂はただ呆然と見送るしかなかった。
数分ほど経ってから戻ってきたしまうーは「フランス人」Tシャツを着たまま、何事もなかったかのように茂の元へ戻ってきた。
「伊藤さん、お待たせしました。」
「お、おう。」
先ほどの事についてツッコミを入れなかったのは、彼の気遣い
「と、とりあえず、伊藤さんは何か見たいものありますか?」
「ん、あ、あぁ。えっと、パンフレットは貰ったんだけど、まだ見てないんだよね。」
彼は右手に持っているパンフレットを掲げて見せた。
「それじゃあ、私のクラスで…はちょっと恥ずかしいから、二階で三年生がいくつか食べ物屋さんを出してたので、そこでゆっくり相談しませんか?」
茂はその提案に乗り、二人で会談に向かって歩き始めた。その時だ。
「シゲー!」
少女の大声とともに茂の尻に衝撃が走った。ぐしゃりと崩れる音と、うめき声が聞こえる。よつばだ。彼女の身長で茂の尻に頭突きをするためにはある程度の高さまで跳ねるしかない。急所ではない彼の尻の固さはコンクリートか鉄板か。そこへ相当な勢いで頭突きをかましたよつばは余程痛かったのだろう、頭を押さえて転げまわっていた。
「よつばちゃん!?大丈夫?」
被害者が加害者の心配をしている、珍しい図だ。遅れて駆けつけて来た小岩井が一瞬で現状を把握した。
「茂くん、ごめんね。またこいつが迷惑かけたみたいで。」
ほら立て。と小岩井はよつばの脇の下に手を入れ、無理やり立たせた。彼女はまだ「うあー。」と頭を抑えて
「え、いや、俺は全然大丈夫ですけど…。」
「シゲのおしりはちょーかたいな!なにがはいってるんだ?」
「筋肉だ。」
復活したよつばの質問に茂はシンプルに答えると、腕を曲げてぐっと力こぶを作った。半袖のTシャツから覗かせるその二の腕は、屈強を通り越して最早化け物の領域である。絶対にない事ではあるが、もしも彼が本気でその暴力を敵対する者に振るおうと思えば、例え相手が
それを見てよつばも力こぶを作ってみるが、全く盛り上がらない上に固くもならない。
「うらやましい!よつばもシゲみたいになりたい!やまびこになりたい!」
「やまびこ?」
「いや、茂くんほどムキムキにならなくてもいいんじゃないか?っていうか無理だろ。」
そこで小岩井は茂の後ろに立つしまうーに気づいた。彼女は
「…茂くん。君はいつも女の子と一緒にいるな。」
何とも冷たい表情で言われてしまった。
「え!?いや、まぁ確かに友人と呼べる人はあさぎと虎子ぐらいですけど…道場とか大学では…。ん?俺、友達いないな。あれ?いや、何でもないです。ごめんなさい。」
呟いている内に自身の生活の虚しい部分に気づいてしまったのか、茂は最終的に誰かに向かって謝罪した。小岩井はそんな状態の茂を放置する事にした。
「えっと、君は風香ちゃんの友達の…。」
「日渡です。風香からはしまうーって呼ばれてます。」
「デート中にごめんね。よつばは連れてくから。」
しまうーの治まっていた頬の赤みが増し、再び紅潮した。
「ででで、でで。」
「デート!?しまうーチューするのか?」
さらによつばからの追撃が決まる。
「チュチュチュ、チュンチュン。」
「しまうーどうした!?とり?とりか?」
「もう放っといてあげなさい。」
小岩井はよつばの手を掴み、引きずるようにしてその場を離れて行く。
「チュー!しまうー!チュー!」
間違いなく校内で噂になるのであろう台詞を廊下中に反響させて、よつばは去って行った。
居た堪れないのは残された二人である。もちろん、風香は教室を出てすぐの廊下で騒いでいた彼らの様子に気づいていたが、二人のためにもクラスメート達をまとめ、仕事に集中させた。
茂としまうーは座って話ができる出し物、ということで、三年生の豚汁をやっているクラスへ行く事にした。
「美味い。」
豚汁を頂いてまず茂は言った。しまうーはクラスの出し物としては満足、という程度で、特別美味しいという感想は抱かなかった。
「伊藤さんは何か苦手な食べ物とかあるんですか?」
「いや、ないな。っていうか生まれてこの方まずいものを食べた事がない。運が良かったんだと思う。」
そんな事はない。彼はただの味覚音痴なのだ。元々腹が満たされればそれでいい、というタイプで、味の感想も特になかった。しかし、あさぎや風香が料理の練習をし始めた頃に感想を求められ、「美味い。」しか言えなかった事が勘違いの原因だ。それ以来、食べるものは全て美味しいのだと錯覚するようになった。最初の一口で美味いというのも癖である。綾瀬家は彼の味音痴をよく知っているため、恵那が料理の練習をする時は、特に茂に感想を求める事もなかった。
茂はテーブルに置いた文化祭のパンフレットを捲った。
「日渡さんはどこか行きたいところはある?」
「私ですか…。私は、い、伊藤さんの行きたい所に行きたいです。」
先日の綾瀬姉妹の助言に従い、そこに乙女チックな要素を足して言った。しまうーは素直である上に応用力もあるのだ。彼と二人きりで話すのに慣れてきたのもあるのだろう。
「そっか。それじゃあ…。」
しかし、しまうーの渾身の一撃は茂に伝わらなかったようだ。
「写真部の展示なんてどうかな?」
「写真、興味あるんですか?」
「最近虎子が…あー、虎子ってのはあさぎと一緒によく遊んでる友達なんだけど、そいつがカメラの勉強してるみたいでさ。部活でちゃんと勉強してる人とどう違うんだろうなぁって。」
気遣いの足りない男だ。初デートの最中にに他の女性の話をするだけでは飽き足らず、その人の興味のある所へまず真っ先に行くなど論外である。チクリとしまうーの胸が痛む。茂は、自分を恋愛対象から外そうと意図してやっているわけではない。これが自然体だからこそモテないのだ。
「じゃあ、早速行きましょう!」
胸の痛みを振り払うように、彼女は元気に移動を提案した。
その後、写真部で写真を見て回ったが、芸術的なセンスが皆無である茂に、虎子の写真との違いなどわかるはずもなく、適当に見て終わってしまった。次に回った一年のクラスがやっている宝探しでは、小麦粉の中に入っている飴玉を手を使わずに探すイベントで、くしゃみをした茂が小麦粉を教室中にまき散らした。吹奏楽部の演奏では寝てしまった。バスケットボール部のフリースロー企画では、持ち球の三球全てを体育館の天井に引っかけてしまい、焦った茂は壁を伝って天井によじ登り、ボールの回収をした。見ている側としては非常にハラハラする光景であったが、彼は天井に引っかかっている他のボールを全て回収する、という余裕を見せた。これはどのクラスの企画よりも目立ち、彼はまた一つ伝説を作った。それから、汚れた手を洗うために武道場の脇にある水道に行きついた。ここは屋根があり、雨で濡れる事はない。
ここまでの付き合いで、しまうーには茂がモテない理由がよくわかった。彼女にとって生まれて初めてのデートであり、始まる前は尋常じゃなく緊張していたのにも関わらず、今や全く緊張感がないのだ。人見知りである彼とここまで仲良くなったのは、元々相性が良かったのもあったのだろう。彼らはすでに「しまうー」「シゲさん」と呼び合う仲になっている。
「シゲさんとあさぎさんはここの卒業生なんですよね。」
「うん。まさによくここにいたよ。」
「へー、本当に仲良かったんですね。」
「まぁ、あさぎはともかく、俺はあいつぐらいしか友達がいなかったからな。」
茂が水道の横に置いてあるベンチに座ると、しまうーもその隣に座った。
「ここで勉強教えてもらってたんだ。あいつの授業はわかりやすいけど、すごく厳しいんだよ。集中してなかったらすぐバレるし。」
特に理系科目が苦手な彼は、内容を理解できていないのに先に進みそうになると、すぐに脳の容量がオーバーしそうになる。そうなると、口が半開きになって軽く白目を
「ふふ、何だかその光景が目に浮かびますね。やっぱり、懐かしいですか?」
「そうだね。まぁ、思い出すのは、あさぎに振り回されてる場面ばかりだけど。」
「…何だか
しまうーは微笑を浮かべたまま、水たまりに跳ねる雨粒を見ている。
「そうだったら、こうして話してる事もないかもね。今でこそ普通に会話できてるけど、高校時代の俺なんて、父親譲りの人見知りがすごかったんだから。」
「…やっぱり、私じゃ駄目そうですね。」
しまうーは目線を横に移し、茂の横顔を見た。この数時間で変化があったのか、彼女にはもう、一目惚れをして緊張していた頃の姿はない。
「ごめん。」
彼は躊躇せずに答えた。茂の考えはやはり変わらなかった。変わったのは、風香の友人ではなく、自身の友人になった事だろうか。
茂の答えを聞いて、しまうーはくすくすと笑った。
「シゲさん、知ってましたか?あさぎさんに相談にのってもらった時、『もしフラれたら、シゲは間違いなくホモ。』って言ってました。」
「はぁ!?いや、俺すげぇ女の子好きだし!」
「それはそれで誤解される発言ですよ。でもわかります。シゲさんは不器用だし、気遣いも下手だし、カッコ悪いです。」
突然の罵倒に茂はがっくりと
「…でも、誠実な人です。」
しまうーは変わらず、微笑を浮かべたままだ。
「一緒にいて思い知らされちゃうんですよね。私の事、好きになる事はないんだなって。」
彼女が一目ぼれした男は確かに良い男だった。しかし、彼の目が自分に向く事はない。
「シゲさん。もしかして、好きな人がいるんじゃないですか?」
「え?いないよ。」
「そっか、じゃあ気づいてないのかもしれませんね。」
茂はしまうーの言っている事が理解できないのか、首を傾げて彼女を見た。
「どうしてそう思うの?」
「わかりますよ。だって私、あなたの事好きだったんですから。」
照れもなく、真っ直ぐ放たれた発言に、茂は照れてしまった。
「はぁ。風香に続いて、私も失恋か。」
ため息とともに思わず
「え?風香失恋したの?」
茂の下手くそな優しさの表れであろう、送って行こうか、という問いにしまうーは首を振って答えた。傘を差して帰宅する彼の背中を見送り、彼女は雨の降り続く黒い雨雲を見上げた。天気予報では明日には止むそうだが、その後は台風が来るらしい。
しまうーには、この雨はしばらく晴れないような気がしていた。
「風香ぁ…。」
「しまうー、ダメだったか。」
「シゲさんにあんたが失恋した事話しちゃった。」
「は!?何で!?」
「なんか…流れで。」
「やばい。せめて学校ではバレないようにしないと…。確かシゲ兄の道場にうちの学校の人いたし…。後で絶対話さないよう、シメとかないと。」
「まぁ、程々にね。」