「シゲが自転車で本当に良かったよ。」
「お母さんの車でも六人は乗れないからね。」
早朝、まだ日も昇っていない時間である。あさぎと虎子の他に、恵那とよつば、未だに起きようとしない娘を背負った小岩井の五人がいる。彼らはこれから、隣県で行われるバルーンフェスティバルに行くところなのだ。
「え?茂くん、自転車なの?流石に遠くない?」
「あいつ、新しい自転車買ったんですよ。ロードバイク。それから趣味になったみたいで、少しでも時間ができるとサイクリングしに行くんですよ。だから、早めに出てるんじゃないかな。」
それを聞いて、小岩井は茂と海に行った時の事を思い出した。ママチャリであの速度なら、ロードバイクだとどれだけのスピードになるのだろう。
「シゲなら私たちより遅れて出ても間に合いそうだけどな。渋滞関係ないし。」
「走っても間に合いそうだよね。シゲお兄ちゃん、ちっちゃい時の私と遊んでる時も、私より体力あったから。」
「君は今でも小さいだろ。」
小岩井のツッコミを受け、恵那は照れたように笑った。
その頃、サイクルウェアを着た茂は呆けていた。場所はとある山中である。夢中になってロードバイクを漕いでいた彼は、進む先の道路が途切れている事に気づいたのだ。そう、道に迷ったのである。
見に行くのは気球だ。気球を飛ばすのは山の中だろうか。違う気がする。茂は斜め掛けのボディバッグから地図を取り出して広げた。地方が丸々載っている地図帳だ。現在は日が昇っておらず、街灯もない山の中であるため、ロードバイクについているライトで確認する。
そもそもここがどこだか分からない。そして、茂に現在地を知るための知識は無い。
「駄目だな。一回降りるか。」
彼はそう呟いて下山した。
バルーンフェスティバルの会場に到着したよつば一行。ようやく目を覚ましたよつばは虎子の存在に喜んでいた。
「シゲお兄ちゃん、まだ来てないみたいだね。」
「あんだけ目立つ奴いたらすぐ気づくし…迷ってるのかな?虎子、電話してみてよ。」
「ん。」
虎子が携帯電話で茂にかけると、彼はすぐに出たようだ。
「私たちはもうついたけど、今どのへん?」
「…もう近くだよ。」
茂の声は何らかの轟音に邪魔をされ、とても聞き取りづらかった。その上、
「…何だ、この音。滝?ダムの放水?」
「何でもないぞ!とにかく、もうすぐ着くからな!」
そう言うと、茂は電話を切った。
「やっぱり迷子?」
「完全に迷子だな。あいつ、たどり着けないんじゃないか?」
「そうねぇ…。よつばちゃん、大きい声でシゲを呼んでみて。」
あさぎのお願いを聞いて、よつばは首を傾げた。
「なんでシゲ?」
「迷子になっちゃったみたいなのよ。可哀想だから、大きい声で場所教えてあげて。」
「そうなのか…。まいごはしぬほどつらいからな。」
よつばは過去の経験から、しみじみと頷いた。それから息を大きく吸い込む。
「シゲー!よつばはここだー!」
「迷子のシゲー。」
「まいごのシゲー!」
あさぎが耳元で
「筋肉ダルマー。」
「きんにくだるまー!」
言っている意味は分からないのだろうが、彼女は楽しそうである。
「いじわるなお姉ちゃんだ。」
「本当にこいつはヒドイ奴ですよ。」
恵那は周囲に注目されているのが恥ずかしかったのか、あさぎの服の
「ハゲー。」
「はげー!」
呼びかけ始めてから一分ほど、彼らのもとへロードバイクで疾走する茂の姿があった。
「禿げてねぇし!」
迷っていた、という事だが、順調に近づいていたのだろう。そう小岩井は考えた。まさかよつばの声が聞こえて目的地を発見したわけではないはず。
「あはは!シゲ!あはは!」
何が楽しいのか、体にぴったりとフィットした茂のサイクルウェアを引っ張っては離し、パチパチと音を立ててよつばは遊んでいる。
その後、茂は参加している事を知らなかった面々と言葉を交わし、駐輪場にロードバイクを置いてくるため、一時離れた。集合場所は無料で豚汁を提供している屋台である。
豚汁を頂いた後、よつばは小岩井にせがんで「ヘリポクター」なる遊びをしていた。小岩井がよつばの両手を持ち、ぐるぐると回して遠心力で体を浮かせる、というものだ。それを見たあさぎは何を思ったのか、小岩井に向かって両手を突き出した。彼は挑戦してみたが、もちろん回せるわけがない。そこに登場したのがゴリゴリのマッチョマン、茂だ。
「よし、俺に任せろ。」
「お断りします。」
あさぎは深々と頭を下げて断った。
「何でだ!?」
「私まだ死にたくないし。」
ごもっともである。馬鹿力である上に不器用な茂に体が浮くほど高速で回されるなど、冗談では済まない。
「くっ、じゃあ虎子は?」
「ふざけんな。」
一刀両断。そもそもなぜ彼はこんなにも人を回したがるのか。後に引けない様子の茂は、ターゲットを探してキョロキョロと視線を彷徨わせる。すると、苦笑いしている恵那と目が合った。
「…私はスカートだから。」
「大丈夫。中が見えない速度で回してやる。」
「あんた馬鹿でしょ。恵那の腕モゲちゃうじゃない。」
あさぎに頭をはたかれた茂はすっかり気を落としてしまった。可哀想に思ったのは付き合いの浅い小岩井だ。彼は黙って茂に向かって両手を突き出した。
「いいんですか…?」
「あぁ。思う存分回してくれや。」
茂は感動した様子で小岩井の両手を握り、ゆっくりと回転を始めた。速度は徐々に速くなっていき、ついに小岩井の足が浮き上がる。
「ちょ、ちょっとストップ。」
恐怖心を抱き始めたのか、小岩井が声をかけた。しかし、回転は止まらない。全身が地面と平行になる。
「あれ、止めた方が良くないか?」
「誰が止められるのよ。」
「よつばちゃんのお父さん、大丈夫かな。」
「はやい!とーちゃんがへりぽくたーやってるのはじめてみた!」
速度は更に増し、小岩井の足は茂の頭よりも高いところにある。
「ぎゃー!無理無理無理!」
小岩井の必死の叫びが通じたのか、茂は徐々に速度を落とした。拷問のような時間が終わり、地に足がつくと、小岩井はそのままへなへなとへたり込んでしまった。
「だ、大丈夫ですか!?すいません、調子に乗って。」
「ふふ、俺、もう大抵の事じゃビビらない自信がついたよ。ふふふ。」
あまりの恐怖にどこかおかしくなってしまったのか、小岩井は暗い笑いが止まらない。
「よつばも!よつばも!」
茂の方へ駆け出そうとしたよつばは、あさぎに止められた。
熱気球大会の参加者たちが飛び立つのを見送り、朝食を食べ終えた一同は体験搭乗の列に並んでいた。体験するのはよつば、小岩井、あさぎ、恵那の四人であり、茂と虎子は居残りである。虎子は写真を撮るために残ったのだが、茂はもちろん違う。
「シゲも参加すればいいじゃん。」
「ちゃうねん。俺だって少しは考えてるねんで。」
「何で関西弁なんだよ。下手くそだし。」
茂は理由を言うのが恥ずかしかったのか、おどけて言った。
「…あの
「あぁ、二つに分けるか、でかいあんたが別で乗るかだな。」
「だろ?俺は知らない人となんか絶対に乗りたくない。」
人見知りの本領発揮である。
「まぁ、わからなくもない。」
そしていよいよ、よつば達の順番が回ってきた。気球が浮き上がり、手を振る搭乗者一行。茂も手を振り返し、虎子は彼らの写真を撮っていた。
「やっほー!」
ある程度上がると、よつばが声をかけた。
「やっほー!」
茂もそれに返す。
「あんたはやまびこか。」
虎子に突っ込まれ、彼は何かに気づいたように、あっと声を上げた。
「あぁ、そういう事か。」
「何が?」
「最近、よつばちゃんが俺にやっほーって声かけてくるんだよ。で、俺もそれに返してたんだ。今みたいに。こないだ会った時に、あの子が俺の筋肉見て『よつばもやまびこになりたい!』って言っててさ。」
文化祭の時の話だ。
「もしかしたらよつばちゃん、俺の事をやまびこの正体だと思ってるんじゃないかな。」
「つまり、やまびこの正体は筋肉マンだと。…そういえば、やまびこって昔は妖怪だったらしいよ。」
「へー。音の反響の仕組みがわからなければ、怪奇現象と変わらないもんな。」
実際に江戸時代の画家、鳥山石燕が絵に描いている。
「それか、昔はあんたみたいのがたくさんいたのかもな。」
「生まれる時代を間違えたか。」
もしも彼が戦国の世に生まれていたのならば、歴史の教科書に名を残す大人物になっていたのかもしれない。
「もしそうなら、私たちに会えてないけどな。」
「それは嫌だな。今の人生が充実してるのは、本当にお前たちのおかげだと思うし。」
照れもなく言えるのは、彼の本心だからだ。茂は過去の経験から、感謝の気持ちは伝えられる時に伝えておきたい、という気持ちがある。言葉にしなければ気持ちは伝わらないのだ。
虎子はカメラを構え、上空のよつばたちが乗っている気球に向けた。ファインダー越しに移る空には、気球と落下してくる茶色い物体。
「あー!!ジュラルミーン!!」
よつばの声が聞こえ、茂は空を見上げた。
そして茂の両目にジュラルミンと名付けられたぬいぐるみの足が突き刺さった。
「ぐああー!」
彼の数少ない弱点である眼球にピンポイントで直撃した痛みで、雄叫びを上げる。だが、よつばが大事にしているジュラルミンを乱暴に振り払うわけにもいかず、どけようとしても今のパニック状態では握り潰してしまうかもしれない。結局、虎子が取ってくれるまでそのまま硬直するしかなかった。
気球から降りてきた一行は竹とんぼで遊ぶ事になった。虎子が上手く飛ばすのを見て意地になった小岩井が必死に練習していた。茂も一つ買ってやってみたが、持ち手を折ってしまい、まともに飛ばすこともできない。次々と買っては折り、買っては折り、と繰り返しているのを恵那に、無駄遣いはするな、と怒られてやめた。
熱気球大会で出発した気球が帰ってくるまで六時間、彼らは遊び倒した。
「六時間…遊べるもんだなぁ。」
よつばと恵那が段ボールを使って斜面を滑る遊びをしている。茂はごろごろと転がるよつばを受け止め、ハラハラしながら怪我のないよう見守っていた。
周囲の人々をほっこりさせるよつばの笑い声は、いつまでも響いていた。
「何これ?」
「おみやげ。」
「何で折れた竹とんぼ?」
「いや、風香ならこれを上手くアレンジして再利用できるんじゃないかなぁ、と。」
「そう言われると創作意欲が刺激されるけど、いらないよ。ゴミ押し付けてるだけじゃん。」
「こんだけあるんだけど。」
「だからいらないって。諦めなよ。」
「諦めたら、人生終わりだと思ってる。」
「終わらせても良い