茂はその日、うろうろと街を歩き回っていた。
綾瀬家での鼻血噴出事件から四日目の朝である。あれから道場に帰って冷静になるため、無心で竹刀を振ろうとしたものの、今一集中できなかった。彼は剣道着姿のまま
目を開けてはいるものの、彼の視界に映っているのはリボンをつけた虎子だけだった。そんな彼のぼんやりとした意識を刺激したのは鮮やかな花の香りだった。
香りの出元に目をやると、「フラワージャンボ」という店名が書かれた花屋があった。多様な種類があり、色とりどりの花が陳列されている。茂はその香りに吸い寄せられるように近寄り、屈みこんで一輪の花の香りを嗅いだ。もやもやして落ち着かなかった茂の気持ちが癒されていく。今まで興味がなかったが、こうしてみるとガーデニングが趣味という人たちの気持ちが少しわかったような気がした。
少し気分が上向きになり、一度道場にでも帰るか、と傍に会った緑色の机に手をかけて立ち上がった。その時、机と接した掌に違和感があった。手を離して机を見てみると、くっきりと掌型にペンキが剥げている。掌は緑色に染まってしまった。
「あ。」
声が聞こえた方を向くと、茂よりも背の高い男、ジャンボがエプロンをつけて立っていた。
「あ、ジャンボさん。お久しぶりです。あ、いや、これ…すいません。ペンキ塗りたてだって知らなくて。」
久しぶりに会うジャンボへ挨拶している途中に、彼がここの店員である事に気づき、机の事を謝った。
「いや、注意紙貼ってなかったこっちのミスだ。エタノール取って来るからちょっと待っててくれ。」
怒られなかった事にほっとして頷いた茂だが、エタノールの使用方法については首を傾げた。昔、理系授業の実験で使用した記憶はあるのだが、文系の学部に進学した彼にとってエタノールの利用目的など忘却の彼方である。
店内に戻っていくジャンボの姿を見て、なんだか頼もしそうな印象を受けた。前によつばや恵那に聞いた話だと、小岩井家の本棚を作ったり、魚釣りを教えてもらったりしたそうだ。という事は、この机もジャンボが塗ったものであろう。どれも不器用な茂には無理な事だ。同じ巨人族なのに、なぜ自分とこんなにも違いがでるのだろうか。
茂はここで初めて、相談、という選択肢を思いついた。
あれだけ器用で、花屋の店員なのだ。しかも、体が大きいという自分との共通点もある。相談するならば、彼しかいないだろう。
そう考えている時に、「無水エタノール」と書かれたボトルとタオルをジャンボが持ってきた。
「ジャンボさん、女性って花を贈られると喜ぶものですか?」
「は?」
「あの、好きな人に贈ろうと思うんですけど、嫌がられたり気持ち悪がられたりしないでしょうか?」
茂の唐突な質問に一瞬呆けたが、ジャンボはとりあえず質問に答える事にした。
「もちろん、その子との関係によるんじゃないかな。最低でも友人以上ならそんな事はないと思うよ。」
「それなら…大丈夫ですかね。一緒に旅行にも行くし。」
「ん?ちょっと待ってくれ。それって、花火とか山とか?」
呟かれた不穏な台詞を聞いて、ジャンボは小岩井から聞いた茂の交友関係を思い浮かべた。確か彼は、あさぎと仲が良かったはずだと。
「あれ?知ってたんですか?あと、今年は沖縄にも行きましたね。」
「二人っきりで?」
「いえ、友人と一緒でした。」
友人とは以前、よつばが言っていた「とら」と言う、いけ好かない写真を撮る奴の事だろう、とジャンボは予想した。そして、茂が花を贈ろうとしている好きな女性とは、あさぎの事だろうと。
「…その人は花とか好きなタイプなのか?」
ジャンボの質問に、茂は腕を組んで唸った。
「あまりそういうイメージはないですね。興味のある事はとことん追求する人だと思うんですけど。」
「なるほど…。」
よつばは壊れてしまったぬいぐるみをあさぎに直してもらったらしい。これはもう彼女で間違いないだろう。
「…なら花はやめた方がいいんじゃないか?なんか…こう、アクセサリー的な。」
若者の恋愛の妨害をするのは
対して茂は、自分の店の商品を売るチャンスであるにも関わらず、別のアイテムのアドバイスをしてくれるジャンボを心から信用してしまった。
「アクセサリーですか?」
「ああ。指輪とかが良いと思うよ。」
付き合ってもいない段階で指輪など論外だ。間違いなくドン引きされる事だろう。
「指輪ですか。あいつだとシルバーアクセサリーとかかな。」
それを聞いてジャンボは少し疑問に思った。あさぎは落ち着いたファッションを好んでおり、シルバーアクセサリーが似合うように見えない。とは言え、これまで聞いた話からこのままだと茂とあさぎは付き合ってしまう可能性が高い、と勘違いしているジャンボはさらに追撃を仕掛けた。
「あと、告白は早い方が良いな。スーツとか着て。」
なるほど、と茂は何度も頷いた。
「ありがとうございます。早速、虎子に連絡してみます。」
「ちょっと待て。」
携帯電話を取り出そうとポケットを探るが、剣道着を着ている事に気づいて急いで帰ろうとした茂を、ジャンボが制した。
「何ですか?あ、向こうの予定も考えないといけないですよね。」
「いや、そうじゃなくて。虎子って誰?」
ストレートに聞かれ、茂は照れたように頭を掻いた。
「あ、まだ言ってませんでしたね。俺が好きになったの、虎子ってやつなんです。大学で知り合ったんですけど、あさぎと三人でよく遊んでて。」
「え?じゃあ、よつばが言ってた『とら』って…女の子?」
「ん?確かに男っぽい格好してますけど、どうしたんですか?」
ジャンボは深々と茂に頭を下げた。
「すまん。さっきまでのアドバイスは全部忘れてくれ。」
茂はただただ困惑し、ジャンボはひたすら己の卑小さを悔やむのであった。
家に帰ってから茂は風呂に入り、私服に着替え、フラワージャンボで買った一輪のバラの花を手に取った。あの後、虎子の事、自分が好意を寄せている事に相手が気づいている事などをジャンボに説明し、適切なアドバイスを頂いた。三日三晩、放浪していたから風呂に入るのは当然だ。間違いなく行為に気づかれているのなら、付き合うにせよフラれるにせよ、早めに答えが出た方が後々友人関係を続けやすいのではないか。という理由で、虎子と待ち合わせの連絡を取り、早速告白する事にしたのだ。バラを買ったのは普段と違う茂の本気を演出するためだ。バラが一輪ならば経済的にも優しいし、飾る時も水を張った花瓶やコップに差すだけ、と簡単なのだ。
茂から連絡を受けた虎子はやはり、感づいていたようだ。待ち合わせ場所の河原に設置されたベンチに座っている彼女は、落ち着きなく煙草を吸っており、携帯灰皿はいっぱいになっている。そこへやってきた茂は、彼女が先に来ているとは思っていなかったのか、虎子の姿を見て足を止めてしまった。もう鼻血を出す事はないが、彼の心臓はバクバクと大きく
バラを持って立ち尽くしている茂に気づいた虎子は、固い表情で煙草を携帯灰皿に捨てて立ち上がった。それを見て、茂もようやく一歩を踏み出す。時間をかけて虎子の元へ辿りついた彼は考えていた言葉が出ず、口をパクパクと動かしている。虎子はそんな茂から目を逸らし、川を見つめて、口を開いた。
「…先に言うのも、失礼だと思うんだけど…。」
彼は彼女の様子を見て、何か声をかけようとしていたが、言葉は出なかった。虎子は茂を見ようとしない。
「ごめん。私、シゲの事、友達としてしか見れない。」
告げられた言葉に、茂は一度ぎゅっと目をつぶると、固い笑顔を見せた。
「…いや、いいんだ。その、なんかごめんな。」
虎子は首を横に振り、彼女もまた彼に似た笑顔になる。
「だからさ、また三人で遊ぼう。ほら、今回の事はお互い忘れてさ。」
茂はただ、頷くしかなかった。
「あ、シゲ!はななんかもってどうした?はなキューピッドか?」
「…あぁ、よつばちゃん。これいる?」
「あ!みどりいろだ!よつばはあおいぞ!」
「そっか、今の俺の気持ちは青かな。」
「どうゆーこと?」
「ん、まぁ、気にしなくていい。…っていうかこれ、どうしたら取れるんだ。」
「…それな、ずっととれないんだ。ずっと。」
「マジでか。」