「静かねー。」
「そうか?」
そう言って奴隷こと茂は水着姿で日光浴をしているあさぎと虎子に今しがた買ってきた缶酎ハイを渡した。二人はありがとう、と言ってそれを受け取ると、プルタブを開けた。夏休み中の沖縄はそれなりに賑わっており、あさぎがしみじみ言う程静かだと茂は感じていない。あさぎがこのビーチを静かに感じるのは仕方のない事だろう。隣に小岩井一家が引っ越してきてからの綾瀬家は騒がしい事この上ない。まぁ、それが楽しいのではあるが。
「シゲのうちは周り全部田んぼだから、そりゃここより静かよね。」
「梅雨時は蛙の鳴き声でひどいけどな。」
「そういえば、私、シゲの道場行った事ないな。」
「そうだっけ?」
現在の伊藤家の自宅兼道場は朝から晩まで入れ替わり立ち代わり道場生が出入りするので、あまり遊び場には向いていない。第一、茂は剣道関係で意外と忙しくしており、自然とダラダラと集まるのは綾瀬家が多くなっている。同性である虎子は言わずもがな、幼い頃から出入りしている茂も遠慮なくお邪魔している。
「行かない方がいいよ。だって剣道道場だよ。臭いよ。」
「臭くねぇよ。むしろ綺麗だよ。毎日掃除してんだから。臭いのは使い古した防具だけだ。」
幼馴染のあさぎは小学生の頃に何度か行ったことがある。訪ねる度に伊藤父に防具を着せられた記憶がトラウマになっているのかもしれない。中学に入ってからは茂が綾瀬家を訪れる事の方が多くなっていた。
「そういえば、アルは元気してる?」
「さすがにもうお婆ちゃんだから、最近は寝てばかりだな。でも白髪とかは生えてないし、見た目だけじゃ歳とって見えないと思うけど。」
「アルってシゲんちで飼ってる犬だよね。何犬?」
「ラブラドール。捨てられたのを拾っただけだから、血統書とかはついてないけど。」
アル、とはアルタイルの略である。残念ながら星座から取ったのではなく、茂の好きだったゲームのキャラクターの名前が元だ。名前をつけた頃はまだ中二病を引きずっていたのかと思うと、茂は少し恥ずかしくなる。
「じゃあ、アルに会いに行くのもいいかもな。」
「おう、いつでも来い。」
大体こんな感じで三人の夏休みの予定は決まっていく。
「…あー、沖縄ももう終わりかー。」
何の気なしにあさぎが呟いた。黄色だった太陽がだんだんと橙色に変化しようとしている。周りを見れば、帰り支度を始める家族連れが多くなっていた。
「終わるのは旅行な。」
「揚げ足取らないでよ。だからモテないのよ。」
「モテるわ。超モテてるわ。女二人と沖縄旅行に来てる俺がモテてないわけないだろう。…ごめんなさい。そんな目で見ないでください。」
あさぎだけではなく、虎子からも冷たい目で見られた茂は即座に意見を翻した。
「これから勘違いしてあんたに告白するような子がいたら、今日撮った動画をまず見せなさいよ。」
動画にはビーチボールで空振りする姿や、海で溺れる姿、諦めて砂遊びをするも、それすら上手くいかない男が写っている。
「足が速くて、力持ち。なのにそれ以外は大体ダメ。はー、神様はどうしてこんなアンバランスな人間を作ったのかしらね。」
「…前世がよっぽどダメな奴だったんだろうな。」
あさぎの言葉に、茂は暗い表情で返した。
「そろそろホテル戻ろうか。沖縄でもさすがに水着姿のままだと風邪引く。」
虎子に促され、撤収することに決めた。
「私、ちょっとお花を摘みに行ってくるわ。」
「なんで急に淑女になったんだよ。片づけとくから行って来い。虎子はいいのか?」
「ん、大丈夫。」
パーカーを羽織って悠々と歩いていくあさぎに、何かあったら呼ぶように、と声をかけた茂は虎子と二人で片づけをすることになった。このあさぎの行動は要領が良いのか素なのか、しばし悩む茂であった。
「シゲとあさぎってどうして仲良くなったんだ?」
「なんだ?突然。」
片づけは大方終了し、あさぎを待っている時に虎子が話しかけてきた。
「ほら、あんたらって全然タイプが違うからさ。」
「それを言うなら虎子もだろ。」
「まあね。」
虎子は言いながら煙草に火をつけた。
「ここは禁煙じゃないのか?」
「さあ、怒られたらやめる。」
煙草と一緒に取り出した携帯灰皿に、灰を捨てた。
「…小学生の頃は俺があいつに勉強教えてたんだよ。」
「は?あんたが?あさぎに?」
信じられない、とばかりに茂を見る虎子。
「本当だよ。実際小学校までは俺の方が勉強できたしな。今でも忘れねぇ…立場が変わったのは中学の中間テストだ。あいつは俺よりも圧倒的に少ないはずの勉強時間で上の順位取りやがったんだ。さらに期末テストであいつは学年八位。俺は百位前後。あの時の悔しさは今でも忘れないね。俺は。」
茂の悔しさ溢れる表情に虎子は若干引いていた。あさぎの順位をはっきり覚えていて、自分の順位を忘れている事はないだろう。間違いなく茂の順位は三桁だったに違いない。彼の小さなプライドに気づいた虎子だったが、追及するのはやめておいた。
「それであさぎは言ったんだ。『私が勉強教えてあげようか?』ってな。想像できるか?男のプライドが粉々に砕かれる瞬間を!」
「…あぁ、よく見てるからな。それで?シゲはどうしたんだ?」
「土下座して頼んだ。」
「カッコわる!」
「あそこで土下座できない男だったら、俺は高校にも大学にも確実に行けてないね。」
茂は夕焼けを遠い目で見つめている。
「思えば、あさぎの俺に対する態度が変わったのは中学の頃だったな…。小学校までは妹みたいで可愛かったのに。」
自分の格好悪い話を平然とする茂を虎子は哀れんだ目で見るが、それは彼女とあさぎが彼をいじりすぎたせいでそうなってしまったのかと考えると、少々申し訳なく思う。
虎子は煙草を携帯灰皿に捨てていると、あさぎの帰りがやけに遅いことに気づいた。それを茂に伝えようとした時、なんの前触れもなく彼は勢いよく立ち上がった。
「はっ!あさぎが助けを求めている!」
そう言うと、茂はその強靭な脚力で砂を跳ね上げながら、驚異的な速度で駆け出して行った。砂まみれになった虎子を放置して。茂のガサツさ、ここに極まれる。虎子はつい先ほど申し訳なく思った記憶を消去しながらも、茂の行動を疑問に思う。
彼は何を根拠にあさぎが助けを求めていると思ったのだろうか。携帯電話は持っていなかった。叫び声などは全く聞こえなかったし、周りを見渡してみてもあさぎの姿が見えないのはおろか、騒動が起こっているような様子もない。第一、茂が向かった方角はトイレがある方向ではない。今まで不思議に思っていた事ではあるが、茂はなぜあさぎや虎子の居場所がわかるのだろうか。これまでの付き合いから、彼が機械やパソコンに弱いのは判明している。まさか盗聴器は発信機の類ではないだろう。友人としてそれは信じたい。
超能力か何かだろうか。テレパシーのような。虎子は、自分が助けを求めたら彼は駆けつけてくれるだろうか。となんとなく思い、小さく呟いた。
「シゲ、助けて。」
言ってはみたが自分の吐いた台詞にぞっとする。鳥肌の浮いた腕をさすりつつ、砂を払い落していると、ザザーっと砂をかき分ける音とともに虎子の眼前に急停止した茂が現れた。
虎子は驚きのあまり口を開けて呆然としてしまった。
「虎子!大丈夫か!?」
「は?な、何?」
茂が足で作った砂の轍は、四、五メートルほどの長さだ。一体どれだけの速度で走ってきたのだろうか。
「ん?お前今、俺を呼んだだろ?」
「いや、呼んでないけど。」
「あれ?聞き間違いか?」
首を傾げている茂の両手に、パンパンに膨らんだビニール袋が下げられている。
「それ何?あさぎは?」
まさか本当に自分の声が聞こえたのだろうか、と虎子の中で茂超能力者説が色濃くなるが、仮に聞こえていたとしたら凄く恥ずかしい。彼女は話を逸らす事にした。
「あー、それがなぁ、コンビニで今夜の夜食をいろいろ買ったから荷物持ちが欲しかったんだってよ。後で清算だって。」
「そうか。」
「あさぎはあっちで待ってるから、行こう。」
そう言って茂はレンタルのパラソルを担ぎ、コンビニ袋二袋、三人分の荷物を背負って歩き出した。重そうな様子は全くない。筋肉がつくとあれだけの荷物を軽々と持てるのだろうか。本当に、常人の理解の範疇外にいる男だ。
「恵那ー、早くあの蛙外に出してよー。今私の部屋にいるんだよー。」
「今、ジュリエッタ直してるから後で!」
「あぁ、こんな時にシゲ兄がいてくれたら…。」
「はっ!風香が助けを求めている!」
「どうせ大した事じゃないでしょ。」
「ん、それもそうだな。」
「あんたら、何の話してんの?」