携帯電話のコール音が鳴ったのは、自主練習を終えてすぐの頃だった。液晶画面には「虎子」と表示されている。
「もしもし、どうした?」
「これからあさぎんちで花火やるんだけど、来る?」
「あぁ、今終わったところだから、シャワー浴びたら行くよ。」
「了解。」
電話を切った茂は道具を片づけ、出発の準備を始めた。
茂の移動手段は基本的に自転車だ。二十年は使い込まれている自転車で、父から譲り受けたものである。長年乗っているこの自転車に愛着を持っている、というわけではなく、ただ単に新しい自転車を買う意味を見いだせていないのだ。そもそも彼は自転車より早く走れるし、走行中に故障した自転車を担いで走っても全く速度は変わらないのだ。そんな彼が自転車を利用する理由は一つ。すれ違う人たちを驚かせないためである。マッチョが街中を高速で疾走していたら通報されるのではないか、という保身と彼なりの配慮の結果だ。常人の速度で、一人で走っていたらイライラしてくる茂には、それなりの速度で走れる自転車がちょうどいい。
綾瀬家についてまず目に入ったのは、車のボンネットで火花を吹き上げるドラゴン花火と、珍しく慌てている虎子だった。
「大丈夫なのか!?これ大丈夫なのか!?」
耳を澄ませて会話を聞いてみると、どうやら非常事態ではないようだ。
虎子が茂の到着に気づいたのは、よつばに別の花火を渡し、車の様子を確認している時だった。甲高いブレーキ音を響かせるのは彼の自転車に間違いない。虎子がそちらを見ると、ニヤニヤとした顔で自転車を停めている茂だった。
「慌ててる虎子なんて久しぶりに見た。」
「見んな。忘れろ。」
携帯電話の明かりでボンネットを見ていた虎子は、特に被害がないのを確認すると、ほっと息を吐いた。
「あ、シゲお兄ちゃんも来たんだ。」
花火をしていた恵那が茂に気づいて近づいてきた。同時に、よつばもビッグマッチョに気づいた。
「だれだ!?てきか!?」
「敵よ!ジャンボさんの偽物!」
「違うよ!」
以前見学に来たよつばがなぜここに、ジャンボさんって誰、あと何だかよくわからないけどかばってくれてありがとう、恵那。など様々な疑問が頭をかすめたが、その思考はよつばの一撃によって強制的に停止させられる。
「ジャンボのかたきーっ!」
よつばの大きく振りかぶった握りこぶしは、茂の下腹部にある急所に吸い込まれるように突き刺さった。
「…よ…じ…え。」
不可解な言葉を漏らして崩れ落ちる茂。
「よつばちゃん、ほら覚えてるだろ。道場に来た時会ったじゃん。」
「どうじょー?」
よつばはしばし考えると、茂の事を思い出した。
「あ!けんどーのさむらい!」
「ん、そうだ。」
「へー、シゲ兄とよつばちゃんって知り合いだったんだ。」
風香が二人に花火を渡しながら聞いた。
「あぁ、一回見学に来た事あるんだよ。」
「見学?連れ込んだんじゃなくて?」
「はっはっは、よつばちゃん、花火綺麗だな!」
あさぎの言葉を完全に無視して、彼は花火を楽しんでいる。
「どうもありがとうございまーす。」
小岩井家の二階の窓から声をかけてきたのはよつばの父だ。彼はいくつか会話をすると、唯一の男性である茂に気づいた。
「初めまして。あさぎの幼馴染の伊藤茂です。よろしくお願いします。」
と挨拶すると、体育会系らしくきっちりと頭を下げた。初対面の人との定型文的な会話は使いこなせるのだが、顔見知り程度の人との会話を苦手としている。そのため、見た目に似合わず友達になるには時間がかかる。
「あ、あぁ初めまして。小岩井です。」
茂の丁寧すぎる挨拶に面食らった彼も、丁寧に挨拶を返した。会話をつなげるスキルのない茂のせいで少々沈黙が流れたが、風香とよつばが花火で円を描いて見せた事で、窮地を脱する事が出来た。
その頃、もう一つのドラゴン花火を見つけたあさぎは、にやりとふてぶてしく笑い、家の中に入っていくのだった。
「ねぇ、シゲ。これかぶって。」
「何を?」
よつば、恵那、風香が線香花火で楽しんでいるのを、茂と虎子は並んで座って眺めていた。もともと、茂も一緒にやっていたのだが、よつば以上の速度で線香花火を消費していくので、恵那に怒られたのだ。そこへ、あさぎが声をかけてきた。
彼女は説明せず彼の頭に何か乗せると、輪っかになっている紐を顎にひっかけた。それを見ていた虎子はそろそろと茂から距離を取っている。
「何?なんなの?」
あさぎは笑いをこらえきれないようすで、ライターの火を茂の頭頂部に近づけた。
三人の線香花火が同時に落下した。背後から突然吹き上がったドラゴン花火の音と光に驚いたからだ。しかも、ドラゴン花火は茂の頭にくくりつけられている。
「あははは!あはははは!」
「おー!すげー!」
爆笑しているあさぎと喜んでいるよつば。
「シ、シゲ兄!熱いよ!熱いよね!?」
風香と恵那はおろおろと茂を心配していたが、茂は火花の熱さなど全く感じていないかのようにゆっくりと立ち上がり、あさぎを追いかけ始めた。ちなみに虎子は少し離れた場所で煙草を吸っている。
「あははは!」
あさぎは爆笑したまま逃げ出し、妹たちの方へ走り出した。
「ぎゃー!こっち来んな!」
綾瀬家の狭い庭は混沌と化した。
「…伊藤君っていつもあんな感じなのかな?」
「いとうくん?」
「あの、背の高いムキムキの。」
「あー、シゲな。」
「お前は優しくしてやれな、よつば。」
「わかった!」