あさぎと虎子は、綾瀬家のあさぎの部屋でダラダラと雑誌を読んでいた。昼食をともに食べ、雑貨屋をした後、特にやることもないから、と本屋で買った雑誌をあさぎの部屋で読む事にしたのだ。仲の良い二人でただ一緒にいるだけの時間を共有する事はよくある事だ。
「そういえば、こないだシゲから聞いたんだけど、小学校の頃はあいつの方が成績良かったって本当?」
ふと、顔を上げて虎子があさぎに質問した。あさぎは唐突な質問にきょとんとしていたが、少し考えて答えた。
「そうだね。確かに小学校の頃のシゲは私より勉強できたよ。」
「へー、そうなんだ。嘘だと思ってた。」
「って言っても、主要科目だけだけどね。体育とか家庭科の技術系科目は全然ダメだったから、総合の成績で言えば、私の方が上だったかな。」
茂はこの頃、徹底的に体育の授業を避けていた。自転車や車の運転など過去に習得した事は問題なくできるのだが、少し遊んだことがある、程度のスポーツは全くもってできなかった。まだ格好つけていたかった小学生の茂はスポーツを避けるとともに、陸上競技もサボる事によって超人的な身体能力が極力露わにならぬよう生活していたのだった。
「ふ~ん、それで茂に勉強教えてもらってたんだ。」
「茂がそう言ってたの?」
「違うのか?」
あさぎは楽しそうに笑った。
「間違ってはいないけど、私は勉強教えてもらってるって感覚なかったな。」
「どういう事?」
「私がシゲの事好きだったから理由をつけて会いに行ってたの」
「あさぎが!?シゲを!?」
あまりにもさらりと発せられた衝撃的な言葉に、虎子は動揺を隠せない。
「小学校の頃の話だよ。あんな奴でも、昔はカッコ良いと思ってたんだよね。」
「想像もつかないな…。シゲは仲良くなったきっかけを、勉強教えてたからって言ってたけど、それよりも前にあさぎが惚れてたって事か。」
あさぎは遠い目をして窓の外を見た。過去を幻視しているかのようだ。
「そうね。私が昔いじめられてたって話は聞いた?」
「いや、聞いてないな。」
虎子は煙草を取り出すと、窓を開けて火をつけた。
「まぁ、長くは続かなかったけどね。今考えれば、男子がクラスの可愛い女子にちょっかいかけるぐらいのものだったと思うけど。」
「…すごい自信だな。」
過去の辛かった記憶なのだろうが、あさぎは楽しい思い出話をしているように笑った。
「それでね。私の髪を男子が引っ張った時に、あいつが割って入ってくれたの。」
当時から長かった髪を指先でいじくった。いじめられていた時は髪を切ろうかと悩んだものだが、彼に守られてからは髪を引っ張られる怖さや、ケアする面倒くささを感じる事はなくなった。
「で、お決まりの『そいつの事好きなのかよー。』とか『カッコつけてんなよー。』って今度はあいつまでいじめられるようになってね。」
彼女は楽しそうに話を続けた。
「その時は私も恥ずかしくて何も言えなかったんだけど、放課後にあいつの道場に謝りに言ったんだ。」
「あさぎは何も悪くないのに?」
「あはは、あいつにも同じこと言われた。稽古始まる前だったからだと思うんだけど、あいつ剣道着姿で出てきてさ。私が謝ったら『綾瀬さんは何も悪くないよ。それに、俺はあんな子供に何言われても大丈夫。』って。」
その後、彼の父によってトラウマを植えつけられるのだが、その話はしなかった。
「確かにカッコ良いな。」
「でしょ?それで私も好きになっちゃって。それからあいつに勉強を教えてもらうって名目で会いに行ってたんだよね。」
茂の勉強の教え方は非常に下手であった。直接的にあさぎの学力の向上につながる事はなかったが、それまで勉強する事のなかった彼女が、勉強する習慣を身に着けたのは彼のおかげだろう。
虎子は煙草を携帯灰皿に捨てると、ベッドを背もたれにして座った。
「なるほど…。シゲから聞いた話とは全然違う話になったな。」
「ふふ、あいつは、自分のカッコ良い話は恥ずかしがってしないからね。」
二人はなんとなく笑い合うと、再び雑誌を広げた。
「ふーかがしつれんした!」
突然、焦った様子で入室してきたよつばが発した言葉だ。アドバイスを求めてきたよつばにあさぎが適当な助言をすると、彼女は勢い込んでまた駆け出して行った。
「…あさぎはシゲに告白しなかったのか?」
「してたら今みたいな関係にはなってなかったかもね。私はともかく、シゲはそういう事気にせずに友達付き合いできるタイプじゃないし。」
「まぁ、そうだな。」
虎子は取り出した煙草に火をつけると、また窓際へ移動した。
「シゲは中学入る前と後であさぎの印象が変わったって言ってたけど、何かあったのか?」
「んー、そうね。中学になってから、だんだんあいつの面白さに気づいてきたの。一学期の間はまだお兄さんぶってたんだけど、私に土下座してからかなぁ、あいつの中で何か吹っ切れたみたいで、それまでサボってた体育の授業にも出るようになって。」
「そういえば、シゲも妹みたいで可愛かったって言ってたぞ。」
「やっぱり。薄々は気づいてたんだよね。あいつは私の事女として見る事はないんだろうなぁって。」
あさぎは過去の気持ちを思い出して、照れたように髪をいじった。
「今でこそ、シゲのダサさは周知の事実だけどさ、小学校の頃はそうじゃなかったの。あいつも頑張って隠してたんだろうね。だから女子からは結構人気があったんだよ。その評価がひっくり返ったのが、中一の体育の授業で男子がソフトボールをやった時。」
虎子は話の続きを促すようにあさぎを見た。
「あいつ、女投げだったの。」
「…ん?」
「だから、女投げだったのよ。」
「…それだけ?」
あさぎはケラケラと笑いながら言った。
「恋が冷めるには十分よ。あの時のあいつ見て思ったのよね。『自分の彼氏が女投げだったら恥ずかしいなぁ』って。」
「つまり、あさぎの態度が変わったのは土下座してからじゃなかったって事か。」
「そう。それ以来、私もあいつを男として見れなくなったの。
んじゃ、私は風香の様子を見て来ようかね。」
あさぎはニヤリと笑うと、雑誌を置いて立ち上がった。それを見て虎子は、仕様がない、とでも言いたげに首を横に振った。
「あんまりからかいすぎるなよ。風香ちゃんはあんたとは違うんだから。」
「大丈夫。ちょっと見てくるだけよ。」
楽しげに部屋を出ていくあさぎを見送って、虎子は煙草の煙を吐き出した。
「へっくしょい!」
「茂、珍しいな。お前がくしゃみするなんて。」
「俺も今驚きで胸いっぱいだ。生まれて初めてじゃないか?」
「うちに来る前は知らんが、俺の息子になってからは初めてだな。」
「よし!これであさぎに『馬鹿は風邪ひかない』って馬鹿にされる事もなくなる!」
「その発言が頭悪そうだな。」