THE LAST PHANTASM -OBITO- 作:大兄貴
茜色に染まる地平線。日が落ち始めている。
吸血鬼による気紛れな襲撃を神奈子様が寛大にも水に流した後、オビトはレミリアに伴い境内を後にして霧の湖のど真ん中、小島に佇む紅魔館を再び訪れていた。風が澄み切った湖面を撫でて通り、館の周辺を包む冷やっこさは以前と変わらない。
相変わらず無表情のオビトを従えて、夕暮れ時なのに日傘を手に数歩前を歩くレミリア。元来のお嬢様気質を感じさせる優雅さ。その態度はオビトを従者も同然に扱っているかのよう。
レミリアの心は読めまいが、介抱の借りという理由だけで同伴したわけではない。借りを返すだけなら後日また彼女を訪ねればいい。霊夢の預け物のように期限はない。従う気がなければ神威で逃げられる。最たる動機は道中で彼女が自慢げに語った話である。
「嘘はないだろうな。突出してデタラメなお前だ……新たな悶着に向けた既成事実って可能性もある」
「拳を交えて解り合った仲でしょう? もう少し信用なさいな」
「何も解らんぞ。疑り深くもなる」
「安心なさい。しょうもない嘘一つで遠出なんてしないから。私はね」
館でのやり取りなど所詮は一時のものに過ぎない。レミリアとしてもあの場は潔く負けを認めたに過ぎず、再戦を望まないなどと誰に断言できようか。戦いの最中に見せていた楽しげな様子と、飽くなき好奇心に満ちた紅い目が物語る。彼女はいまだに『うちはオビト』と、今度こそ本気で戦いたがっているのだと。
「それにね。私個人としても、此度の計画には本心から前向きな姿勢。なのに嘘を吐くってのは、私を偽るってことに他ならない。これでも自分には正直なのよ」
「染みついた性分か……存外まともなことを言う」
「生意気ねえ。まあそういうとこが、面白いんだけど」
幻想郷縁起を編纂する阿求曰く、人間との友好度は実妹と共に極低、危険度は極高。可愛らしい容姿に騙されるなかれ、見た目は十にも満たない幼子だが、実年齢は五百歳を超える本物の吸血鬼。個人の付き合いは館の住人や博麗の巫女など数少ない例外のみという、文字通りの人外である。宴などのどんちゃん騒ぎの場を除けば、総評してその辺の輩とは会話が噛み合わない、という以前に普通の人間は恐怖のあまり近づきたがらない。
オビトは人間でありながら並の忍とは一線を画す。普段の思考や行動はもちろん、月の眼を渇望せしマダラとして神を己が身に取り込み、異形の人外と化した過去を持つ忍。そういった意味ではレミリアとの付き合いすら可能な外来人と言えよう。
「まあいい。お前の狙いなどすぐに判る」
――そのレミリアが打ち出した計画とはすばり『月旅行』。曰く従者の咲夜より聞いた、彼女とオビトとの会話に触発され立案されたもの。
名づけて――『巡り廻りし月面都市完全侵略計画』。
「ありがとう」レミリアは愛想よく笑む。
「以前も同じ計画の下で動いていたのは知っている。今さら蒸し返したとして……お前は何を望む?」
月とは空に浮かぶあの月である。旅行の意味も同様。未曾有の危険が幻想郷から払拭されていないタイミングでの発案だ。どこぞの観光地へ向かう感覚とは違うのに、レミリアはぶっ飛んだ企みを平然と語ってみせた。意味を詰め込みすぎて逆に簡素に思える名も含めて。
咲夜から話を聞いた後、彼女や館の者達に必要な諸々を命じたらしいレミリア。この世界に来て二日も経ていないのに迅速な手回しである。急展開すぎてせっかちな性格が災いしたとしか思えぬ流れだ。
ちなみにオビトが大人しく聴いているのは、黒ゼツと月の都との関連性を見出したからで、話だけなら聞く価値はあると判断したからだ。無関係な内容の計画ならとっくに立ち去っていただろう。
「河童や外をも超える高度な科学技術とその恩恵は、地上を生きる者なら誰しも欲するもの。当然でしょう? 幻想郷に革新をもたらす技術があれば、今よりもっと便利な、優雅な暮らしを愉しめるのだから」
壮大な門の前で歩みを止めたレミリアに、オビトは少し離れた場所から視線を投げる。
「お前が侵略と立てるくらいだ。穏やかな手段とは遠いように思える。だがそれも奪えなければ意味がない……違うか?」
「言うわね」レミリアは自慢げな口調で喋る。「けれど残念、あなたが目を通した資料は古臭い。時間は流れるもの、生き物は変わるものよ。吸血鬼は夜を数える度に美しくなる……今や以前の比ではない。月の連中なんて恐るるに足らないわ」
本人の言う通りレミリアは強者の部類。咲夜が持つような固有の能力は不明だが、吸血鬼の怪力や速度の他、妖力や魔力、気力などの、言うなら『チャクラ性質』を三つも併せ持つ彼女の力は恐ろしいものだ。それも各々が強く大きい。
月の民を超えている、というレミリアの言葉も強ちデタラメとは切り捨てられない。先の戦いも写輪眼がなければ結末は変わっていただろう。
「お前は月の現状を把握しているのか。つまり……お前を負かせた輩について、詳しく知っているか?」
「いいえ」素っ気ないレミリア。「あれ以来は音沙汰もないし、興味も失せていたからね」
「なら……侵略目的で踏み入るのは止めておけ。その連中とて当時と変わらんわけではない。向こうの独擅場で底知れん奴らを相手取るなど無謀だ。今のままでも不自由はないだろう」
幻想郷縁起の記述や当事者の証言によると、第二次月面戦争当時に綿月依姫と(弾幕ごっこという遊戯ではあるが)一戦を交えたのは霊夢と魔理沙、レミリアと咲夜の計四人。いずれも圧倒的な差で敗北に帰した。遊びの定義は不明ながら、本当に侵略するつもりで挑んだのなら、望まぬ敗北に変わりはない。情報もなく底が知れぬ相手では比較材料がない以上、レミリアの言葉は頼りないものに思えてしまう。ナルト辺りなら彼女の言葉を信じるかもしれないが、マダラの性質を色濃く残すオビトは優しい考えなど持ち合わせていない。同じものは疾うに枯れ果て失われている。
一時でも敵対していた者の言葉を聞いて、レミリアは僅かに驚いた貌を見せた。
「忠告してくれるのは嬉しいけど、あなただけが例外だって言えるのは、どうしてかしら。あなたが私や依姫より強いから、なんて戯言を吐くんじゃないでしょうね?」
「お前らとは違う」目を瞑るオビト。「正しい道を照らすために動いている。オレは」
「あら、そうなの」レミリアは探るように眼を光らせる。「それじゃ、あなたとは意見が合わないわね。余計なお世話。行き当たりばったりで動くのも一興、私はそう考えているからね。どんな結果に落ち着いても、過程が面白ければいいのよ」
日傘の下から館を見上げながら、レミリアは静かに呟いた。
――◇◇
紅魔館の地下にはレミリアの友人である魔女が管理する巨大規模の図書館がある。忍界や外の世界に現存する最も大きな図書館でさえ敵わない、超がつくほどの広大さを誇る。これは世辞でも何でもない。
初見では信じられずとも無理はない。館内に収まる規模ではないのだ。その秘密はもちろん、外観に不釣合いなほどに広い館内と同じ理屈である。聡明な学者や探求者が目にすれば思うだろう――幻想郷では超常現象に飽き足らず、資料を保管する場所まで常識破りなのかと。そしてオビトならば思うだろう。大蛇丸なら歓喜に舌をチラつかせて貴重な資料を漁りまくりそうだと。
あれからオビトは門番との会話を済ませてから(正攻法での再戦を断ってから)入館し、地下への階段を通って廊下を進み、大きな銀製の観音扉を潜りレミリアと共に大図書館にいた。広い館内を独りでに飛行し行き来する本、埃っぽい床を掃いて回る自律式竹箒、腐った牛乳を拭いたような悪臭をまとい宙を舞う雑巾など、どこぞのファンタジー世界を彷彿とさせる奇々怪々な光景が広がっている。
「あなたがスキマ妖怪と喧嘩したり、レミィの遊びに付き合ったっていう人間?」
見上げるような無数の本棚の間を闊歩し、最後に金色のアーチを潜って足を止めたレミリア。管理者が常駐する部屋らしき奥の空間でオビトが出会った人物こそ、動かない大図書館ことパチュリー・ノーレッジ。そのモヤシのような体型から、『動かない』のではなく『動けない』のではないかと思われることもある。
「ああ、私も手を貸したっけ……そういえば。主に転移方面で」
「正誤半々だがな」オビトは少女に視線を戻す。「オレの瞳術を阻害した術式の――咲夜が話していた、パチュリーとやらか」
「そんな感じ。以後よろしく」
紫色の長い髪に白い肌、寝間着のような緩い服装と、寝起きにしか見えない格好が机上のランプに照らされている。
「ところでお前――…呼吸器系の病を患っているのだろう。こんな湿気臭く埃っぽい閉所では身がもたんぞ」
「心配無用。その辺は適当にやってるから。本を読んだり、薬を作ったり、魔法に頼ったり、色々とね」
会話の所々で咳き込み、声も掠れているが、感動超大作を読んで嗚咽を漏らしたわけではない。持病の喘息が祟ったのだ。
病弱に見えて魔法の腕前、魔力の質も森の人形遣いや魔砲少女の上をいき、友人のレミリアをも凌ぐパチュリーだが、体力や魔力量は三人に劣る。日常生活では滅多に外出をせず、稀に見る勝負事では遊びにしろ戦いにしろ、七曜の豊富で高度な魔法を用いた短期決戦を得意とし持久戦は避ける。
いずれも体が病弱なのも関係するが、体を動かすより魔法の研究や読書を好むからでもある。特に後者は本の虫と言えるほど。
(異色だな……こんな場所が隠されていたなど)
大図書館は規模の割に窓が一つもなく、出入り口は先ほど通った観音扉のみ。おかげで昼も夜も薄暗い。
窓を作らず日光を拒むために地下に構えた理由が二つある。髪が傷むという女の子らしい理由、本が傷むという管理者らしい理由である。パチュリー曰く引きこもりたいわけではないらしいが、湿気と埃っぽさは喘息持ちには最悪の環境に違いない。良く言えばインドア派の理知的な少女、悪く言えば出不精だろうか。
パチュリーは何度か咳き込むと、魔導書のページを音も立てずに捲る。周囲の本棚を眺めていたオビトが口を開く前に、レミリアが手頃な机に腰掛けて「本題よ」と切り出す。
「今回の協力者、計画の要となり得るもう一人の子。それがこのオビトになるわけだけど――」
「待て」
冒頭から衝撃的な発言が飛び出したのだ。本を読みながらのんびりと話を聞くパチュリーはともかく、オビトが反射的に注目しないはずもない。
理由など訊くまでもない。五百年以上も生きている彼女がオビトを子ども扱いしたからではない、道中で聞かされていない内容が耳に入ったからに他ならず。
「どうかした?」
「オレがお前らに協力? 初耳だぞ……」
「そりゃそうでしょう。話していないもの」レミリアは当たり前に喋る。「それでパチェ、本当にオビトで大丈夫なのよね。確実なのは巫女の住吉なんたらだろうけど」
「経験上、理論上はね」パチュリーがオビトを観察する。「それにこの人のは次なる手。大筒がメインには変わりない。そっちを白紙に戻す場合よ」
「最後の手段ってやつ? まあ多いに越したことはないわね、手は」
「この人が持つ力は、地上と月との空間を繋ぐのには異様に都合がいい。専門外だけど個人的な興味もあってね。術の名前は確か……神威、と言ったかしら」
館内に仕掛けられた転移結界に遭遇し、フランドールと一戦を交えた出来事を思い返すオビト。少なくとも妖精奪還のために突入した時点では、レミリア達の監視網が館中に張り巡らされていた。パチュリーの言葉にしても筒抜けと考えた方がいいだろう。
結界は無数の文字とチャクラが絡み合い成り立つ物質的、または霊的な防護壁。術式を構成する文字や数字の組み合わせ、練り込んだチャクラの量や質の変動により、異なる効力を有した代物となる。やり方次第では千差万別で、単純な防御目的の他にも、感知水球や時空間系統の転移陣、結界自体が報復的な攻撃性能を有する迎撃陣など、様々な物を作り出せる。
未知の結界術は忍界にも無数に存在する。全てを解明し尽くすには途方もない時間を要するだろう。不老不死でもない限り、全ての術を網羅するのに人の一生は短すぎる。術の会得や開発に関する果てなき欲と執念を持ち、他人の体を乗っ取り永遠に生き続ける転生術まで開発した、大蛇丸ならやりかねないが。
「あの術式に練り込まれたチャクラ。捕らえた者の情報を術者に……お前に送る役割もあったようだな。厄介な力を使う」
「バレてたんだ。鋭いわね、その通りよ」
「それだけではない。チャクラは体を縛って、送信機として延々と機能し続ける。術者が解除するまで……今は解術されているようだが、瞳力の解析は終えているのか?」
「いいえ」パチュリーの目がオビトを映す。「チャクラ――こっちでは魔力、かな――まあ呼び名が違うだけね。解析に関しては可能なところまで。材料はまだまだ足りない現状よ。把握したのは基本的な部分だけ」
基本性能のみとはいえ、万華鏡の固有瞳術である神威をパチュリーに、紅魔館の住人に解析され知られたのは本当のようだ。写輪眼に宿る三つの基本瞳術の他、右眼が自身を含む近距離での転送に、左眼が遠距離での転送に特化すること、ひいては転送先である神威空間の存在までもを、パチュリーは淡々と解説する始末だった。神威空間に残留する印づけ用の物質、距離の概念に関する現実空間との差異、眼と時空間の繋がりに関連する特性や生ずる現象、両眼神威の応用技などが解明されるのも時間の問題かもしれない。
紅魔館の住人達にバレて困る情報ではないが、この短時間でここまで見抜いた彼女は、敵に回すと恐ろしい人物には違いない。
「パチュリーと言ったな。お前のその魔法とやらで、黒ゼツの居場所を探り当てることはできるか?」
魔法とは魔法であり魔法である。原理や法則を徹底的に無視した発火や発電、自然現象をも自在に操り天候を操作するなど、魔術の概念を持たぬ者には何でもありと思わせる力。異界人故に知らないオビトは疑問を抱く。地中に干渉して特定の人物を探し当てる程度はできるのではと。
黒ゼツの『自然物に同化できる』能力の詳細を踏まえつつ、オビトが駄目もとで尋ねたところ、専門家であるパチュリーは首を横に振った。
「捜すなら予めマークしないと駄目。葉や樹を隠すなら森の中、砂利を隠すなら地中や砂漠……包み隠さずはっきり言うけど、全くのゼロから探すのは無理でしょうね。あなたの言う通りの奴なら」
忍界を生きる者にとって、幻想郷に存在する事象は悉くが常識破りだが、カグヤの意志である黒ゼツが使う術、その存在とて忍界の常識を逸脱している。元々黒ゼツは幻想郷側が認識せず、しようのなかった異界人である。故にパチュリーが否定的な言葉を直球で投げても、オビトは落胆も憤りも見せず「そうか」と事実を冷静に受け止めた。
「――お前の感知能力は、館から見てどの辺りまで広げられる?」
「感知系統の術なら、湖の周辺が限界ってとこね。網を張るだけなら幻想郷の全域も不可能じゃないけど、正確性を失わず滞りもなしに……十二分に扱うなら話は別。咲夜に頼まれてやってみたけど駄目だったしね」
「一筋縄ではいかんか。考えれば元暁メンバーだ……奴も」
判りやすい目印を刻んだ特定の樹を探し出すのは、深い森の中でも簡単である。だが目印のない樹や石を探せと言われても捜しようがない。しかも黒ゼツの狡猾で慎重な性格が拍車をかける。幻想郷巡りとして当てもなく嗅ぎ回ったところで、体力とチャクラの無駄な浪費に繋がるだけだろう。
「ふわぁ~あ……お茶でも飲みたい気分ね~?」
先ほどから会話を交えていたのはオビトとパチュリー。この場にいるもう一人は蚊帳の外状態である。結果としてレミリアはふて腐れた貌で退屈そうに足をぶらぶらとさせている。幼い外見と我侭な性格の割に友人の会話には割り込まない律儀で優しい意外な一面も露呈したようだ。
話が逸れたせいか、パチュリーは慌てた様子で「それで」と切り出した。
「月旅行の件だけど。レミィも言ったでしょう? あなたにも手を貸して欲しいのよ。要としてね」
「ソレだ」腕組みするオビト。「お前らの言う『要』とやら……その言葉が気になっている」
「と、言うと?」
「何故オレがそうだと言える? 巫女の力で大筒を月まで飛ばすのが目論見なら、オレは要どころか動力源にもなり得ん。なるのは霊夢だろう」
「なり得るのよ」レミリアは調子が戻った様子。「――空間操作を使えば、異なる空間同士を繋げて別の場所に移動できる。先のあなたの力、肌で直に味わった私には分かる――使い方や解釈次第で月にも渡れるってね。ロケットより遥かに早いわ」
頭に入った知識だけでは理解し切れない術や技は世に溢れている。万華鏡の瞳力が一例である。通常の忍術に比べて一線を画した異質さを内包し、視認はもちろん、肌で一度や二度味わった程度で理解できる力ではない。「揺らめく黒い火」という目に見える術・天照でさえ普通は理解の外なのに、術自体が物質ですらない、何の形も持たない神威ならさらに遠くなる。そもそも忍界の者ですら容易には手に取れない力を、忍界の『に』の字も知らない者に理解できようか。
紫やレミリア、パチュリーにしても、非常識の代名詞である幻想郷の者達は、目や肌で数度感じただけで異界の術・神威を理解するどころか、術を応用して月にまで到達可能と確信を持てるほどに中身を解明し尽くした――そんな言い方が飛び出すのも時間の問題である。しかし当然と言えば当然ながら、神威による時空間転移の重要な決まり事を、今のレミリア達は遍く把握するわけではない。
「一つだけ言っておく。右眼だろうが左眼だろうが、両方だろうが――移動にはマーキングが必須だ。地下と館内を行き来するのとは違う……地上と月では瞳力やチャクラにも限界が出るものだ」
「ふむ……」パチュリーは眼鏡越しにオビトを眺める。「あなたのその力……聞けば聞くほど興味深いわね。幻想郷とは異なる環境や法則下に存在する術ってのもだけど、分かる範囲では私の魔術と符合する部分もいくらかある。別室で時間をかけてゆっくりと――」
「――調べさせる気はないぞ。そして何かを奪うのに使ってやるほど、オレの『神威』は安っぽいモノではない」
「……むきゅ」
期待を込めた提案は即答で拒否される。机に突っ伏したパチュリーを眺めるオビトの眼が光った。
「紫にでも頼むといい。空間操作なら奴の方が何段も上手だ。月でもどこでも襖を開けるより容易い」
幻想郷縁起から仕入れた知識だが、八雲紫が持つ境界操作の真髄は破壊と創造である。
物と物との間を隔てる境界線を取り除き『一つの物』を作り出す。一方に在りながら他方に手を触れることができるため、その応用により瞬間的な転移を可能とする。同じ理屈なら空に浮かぶ月、鏡や水面などに映る月――実像と虚像の境界線を除くことで虚像は実像となる。かつて紫は似たような手段で月へ渡り、当時の月人達との間に争いを起こしたのだろう。
「癪なのよ」口を開いたのはレミリア。「あいつの力を借りるのは。胡散臭いし、探すにしても居場所さえ掴めない。能力の面白さではオビト、人間のあなたの方が上手だもの――どうしても協力は望めない?」
「悪いが気は進まんな。他にやることもある」
「――咲夜から聞いたわ。どんな運命に導かれてか……あなたを幻想の地へ誘(いざな)った、謀の可能性を」
踵を返しかけたオビトが、レミリアの鋭い視線を捉える。
「黒ゼツとやらの話を聞いて解った。あなたを送り込んだのは月人じゃない。それは確か。むしろその逆……生き物よりも穢れに満ちているのでしょう」
月人と呼ばれる種族が地上の『穢れ』を嫌い、永遠に近しい命をもって今もなお遥か遠い場所で時を過ごしている。忍界を見下ろす『月』から地上に下りた『外道魔像』より生まれながら、他の誰もが及ばぬほどの黒き穢れに染まりしあの者は、月界とは切っても切り離せないと同時に対極にも座している。
「けれど……だからといって、完全に否定できるわけじゃない。忌々しい月の眼とあなたの関連性を。疑り深い誰かさんならきっと、そう言うはずよ」
魑魅魍魎の跋扈する幻想世界でも、とりわけレミリアは『子供っぽさ』を突き進む吸血鬼で、好奇心と探究心の塊。楽しくて便利な玩具を手中に収めるためなら、己より遥かに強大な相手にも躊躇なく立ち向かう。欲しい物があれば月の都だろうと臆せず飛び込む。瀟洒な従者とは異色の性質の持ち主である。傍から見れば幼さ故の無謀な略奪とも言えるが、彼女の吐露すべき真意は他にある。
館外の住民達が赤の他人も同然である一方、咲夜を始めとする部下や友人がレミリアには居る。大切なものを失う苦しみや痛みを理解できる。見えざる者が自らの守りたいものを脅かしたとして、腰も上げず黙って眺めているほど冷酷ではいられない。
嬉々として行動を起こすだろう。余所者に真意を曝け出してでも。
「レミリア――…」
どれほど真剣な眼差しを向けられても、少女の言葉では納得するには至らない。ましてや信頼とは縁遠い感情がオビトにはある。普通の外来人なら手を握る場面でも、オビトは忍であり忍界の闇を映してきた逸れ者の一人だ。
簡単に己を偽り嘘を吐けるのだと、本心から彼女に背を向けていただろう。友の存在を己の内より捨て去り、忘れていたかつてなら。
オビトが目を瞑り、レミリアは美しく微笑む。
「存外、まともな奴ってこと『だけ』は理解した」
「――おいコラァ! ンな台詞吐くトコじゃないだろそこはァ!」
目を丸くしたレミリアが盛大に感情を爆発させると、パチュリーは突っ伏した状態で吹き出してしまう。
重々しい空気は一変して、図書館内は甲高い怒号で満たされる――。
――◇◇◇
同日未明。机に向かい黙々と作業に徹していた銀髪の女性が筆を止める。
本来なら休憩を挟むまでもなく、残りは僅か数回、筆を動かすだけで本日の仕事は片づいていた。加えて几帳面な彼女自身、こなすべき大切な仕事を途中で放り出すなどしない。それなのに無言で作業を中断し、口元をらしくのない一文字に結ぶと、穏やかな表情で背後を振り向いた。
「嗚呼。意図して危ない橋を渡ったが……兎も角して思い通りに発現できたようだ」
異変の原因など一目瞭然。声を発したのは金髪に色白の顔で、性別の見分けがつかない人物。もう一人は黒づくめにフードを被り顔すら確認できない。
薄暗い部屋と蝋燭の明かりも相まり、顔の部分に影を落としている。
「あのような末期の塊の侵入を許すのか。滑稽極まった話だ」
意味不明なノイズのごとき声が走る。女性が目を瞬いた瞬間、フードの人物が姿を消した。
「お前は逸れ者なのだよ。悪いけどもではでは、一足先に逃げ込んでいてくれるかね?」
口調に不相応なほど柔らかな呟きを合図に、フードの人物が女性の至近距離に現れた。