THE LAST PHANTASM -OBITO- 作:大兄貴
部屋の襖が開いて、桃を腕一杯に抱えた女性が鼻歌交じりに入室した。そそくさと座布団に腰を下ろすなり、先に湯のみを傾けていたもう一人の女性に「大豊作よ」と、収穫したての瑞々しい桃を自慢げに見せる。
呆れた表情のまま湯のみを置き、苦労人よろしく深いため息を漏らした女性。薄紫色の長い髪を後ろで結わえている。燃えるような真紅の瞳が生粋の桃マニアへ向けられた。
「……またですかお姉様。お庭の物は宴会用にとっておきたいのですが」
「硬いこと言わないの。ねえ? 減るものじゃあるまいし」
「減るものだから言ってるんです。口を酸っぱくしなければわかりませんか?」
「遠慮しておくわ。甘い方が好きだし」
月の世界でも二人が住む屋敷は独自の時間を刻んでいる。桃など果物の樹が生えている中庭がその一例。収穫までの期間は地上と変わらないが、四季に縛られず一年中同じ作物が育つ環境にある。そんな中でせっかく実った果実、とりわけ桃は気紛れかつ好き勝手に収穫されるため、桃の樹にだけは長く実り続けた試しがない。綿月の実姉――綿月豊姫の飄々としたマイペースっぷりに、生真面目な妹である依姫はいつも振り回されていた。
良くも悪くも正反対な性格ながら、こう見えても豊姫は妹以上の思慮深さを隠していたりする。彼女の力が少しでも都の方に働けば、軍隊の実質的な統率者である依姫の重荷も軽くなるものの、当の本人は遊んでばかりで持ち前の才や能力を活かそうとはしない。早い話が宝の持ち腐れと言えよう。
月の防衛軍。月の兎である『玉兎』で構成された、都のいわゆる軍隊。理由のいかんを問わず月の大結界を越えた侵入者、都の害となる存在に対処するための実動部隊だ。依姫は彼女ら玉兎を訓練する教育係と併せて、隊全体の管理を上層部より一任されている。しかし万一出番があったとして、玉兎は戦力として全く使えず、期待もできないのが依姫の悩みだった。
無血で平和な穢れなき暮らしは上の意向であり民意。月は地上を牢獄と称して監視し、穢れとそれを生む争いの一切を忌避する。それ故に隊の玉兎達は戦闘経験がほとんどない、名ばかりのお飾り軍隊であり、慢性的で深刻な実戦経験不足に苛まれている。言うなら烏合の衆そのもので、地上で軍隊を名乗れば鼻で笑われるくらい酷い有様だった。
万一の出動があっても、事に当たるのはリーダーである依姫『ただ一人』。玉兎達の実質的な役割はせいぜい、草や樹の陰からエールを送る程度に止まる。都を護る部隊がここまでお粗末なのは、都を侵略せんと攻め込む輩が皆無に近しいという事実もあるが、結局のところ『玉兎以外』が遍く優秀なのだ。昔とは違い平和な現代において、軍の存在は明らかに形骸化しつつあった。
以前はまるで大違いだった。隊の中でも突出してエリート軍人だった、『レイセン』が地上へ逃れた日を境に変わったと言ってもいい。彼女を慕い尊敬する者は現在でも多い。
(このままでやっていけるのか……いつもながら)
苦労人の依姫を余所に、豊姫は依姫曰く「役立たず」の玉兎達と談笑したり、派手な宴会を月に何度も開催したり、庭の桃を収穫して食べたりと呑気に過ごす毎日。穢れのない月人は不老不死に限りなく近い体を持つから良いものの、地上人と同じ穢れに塗れていたら――などと思うと、月の未来を案じる依姫の表情は暗かった。
「だけど……」
せめてもの労いか、テーブルの上には一通の手紙。綿月姉妹の元教育係であり、恩師でもある敬愛すべき人物からの贈り物。今朝地上より部下の玉兎を通して届いたものだ。
――名を八意永琳。遥か昔に『蓬莱の薬』を口にして、月の罪人となった蓬莱山輝夜と共に、都を永遠に去った重罪人だ。都のお偉方に追跡と捕縛を命じられているが、依姫と豊姫は嬉々として野放しにしている。彼女を心より慕う気持ちは今も変わらない。
豊姫に「早く」と急かされる中、依姫は込み上げる喜びの情を抑え、冷静さを保ちつつ手紙に触れる。こうして手紙が届くのは例の月面戦争以来である。ちなみに都の現行法では、地上から届く物には厳しい検査を通す決まりがある。恩師の手紙とて例外ではない。
差出人の名前がない代わりに、送り主が『八意××』だと判別するための印がある。量子印と呼ばれるもので、中身を読んだ者の数が表れる特別な押印である。これを発明したのは永琳であり、扱えるのも彼女だけなので、本人からの手紙か否かがたちどころに判るのだ。結果はもちろんゼロ。
さらに特別な薬草の判で厳重に封がしてあることを確認し、さっそく中身を取り出した依姫。
「八意様のものね。さあさあ、読んで読んで!」
「少し落ち着いてください、お姉様」
「貴方は一々うるさいの。あなただって内心喜びまくってるくせに」
「……まあ、反論はしませんけど」
「素直じゃないんだから、もう」
肝心の内容に入る前に、冒頭の文章に目を通すのが先である。やはり都に健在だった頃の彼女と過ごした、何気ない話から始まっている。前回の月面戦争前にも、送り主を判別するための封や、こうして初めに思い出話から入る永琳なりの書き方をしていた。相変わらずの生活を送っているようだ。
ところが不思議にも、本文を読み進めるほど二人の貌からは――楽しげな笑いが段々と薄れていき、最後の一文を読み終える頃には、どちらも口元を真一文字に結んでいた。
うって変わって室内を包んだ重苦しい空気は、侵入者の報を受けた月面戦争時を思わせる。依姫は額に汗して表情を曇らせると、今一度手紙の内容を吟味する。
豊姫はお手玉していた桃を置き、視線を落とす妹を冷静な面持ちで見つめた。
――◇◇◇
真夜中の博麗神社。レミリアの一行と別れた後、永遠亭から帰還した霊夢は一室で茶を啜りながら、鈴仙と今後の動きについて話し合っていた。
霊夢は魔理沙ほど他者との交流に積極的ではない。此度の騒ぎでは月の都が絡むために、元月の兎である彼女とのかかわりを持ったにすぎない。普段は付き合いがない上、口数が少なく無愛想な妖怪と一対一で会話するのは初めてで、霊夢としても多少の戸惑いはあった。
「――てなわけで、私は黒幕をぶっ潰す」
裏表がなく包み隠さない直球的な物言い。鈴仙を前に堂々と贈った言葉というより、自分に言い聞かせる形での意気込み。目の前に誰が居ても同じ言い方をしたのだろう。
「で、あんたはお師匠さんを取り返す。目的は違うけど、私らの日常を守ることに繋がるわけで、あんたへの協力は惜しまないって感じ。困ったことがありゃ遠慮なく話すこと。じゃないと迷惑だから。わかった?」
「ええ。よろしくお願いするわ」くすっと笑う鈴仙。
「……なに?」
「いえ……なんだか意外で。乱暴なだけではないんですね、巫女って」
「ふうん。ま、そんなもんか。妖怪からの印象なんて」
身内以外との人付き合いには消極的である鈴仙。霊夢が手を貸す理由に親切心や仲間意識の類はなく、鈴仙自身も博麗の巫女の性格をよく知るはずが、それでも笑顔を見せた。霊夢には彼女が変わり者にしか映らない。
霊夢は湯のみを置くと、卓袱台の上で手を組んだ。長年の経験で培った巫女の目つきが、不安げな表情の鈴仙に向けられている。和やかだった室内の空気が変わった。
「まだ向こうとの連絡は取れないの? そのみょんな妨害電波とやらのせいで」
「そうみたい」鈴仙は兎耳を動かす。「……地上に下りてからもたまに向こうと交信してたけど、急に声が届かなくなるなんて。こんなこと今まで……なにかあったんだ、やっぱり」
鈴仙を始めとする玉兎の耳は特別な部位だ。本人が妖怪兎ということもあり、見た目はただの兎耳だが、月の都との遠距離送受信を可能にするハイテクノロジーな機能を備えている。耳だけで電波のやり取りができるなど、当事者以外はまず見抜けないので、外敵を前にしても堂々と、しかし秘密裏に通信できる、周りの目をくらます迷彩としても役立っている。これは波長を操る鈴仙自身の能力でもあった。
送受信を妨害して悪意ある干渉を働かせているのは、これまでの流れを考慮するに十中八九黒ゼツ一味だろう。通信を弾いて月面の危機に対する此方側の先手を確実に防ぎ、余計な干渉を排して思い通りの動きを確立させる助けになっている。
今回の襲撃で早々たる対応を尚更に意識せざるを得ない現状となったが、地上から現地へ赴くには大筒が必要不可欠で時間がかかり、満月ではないので境界を越えることもできない。『神降ろし』により神霊の力を借りて、博麗の空間干渉術『夢想亜空穴』の有効範囲を広げようにも、力の一部を扱うに止まる術の精度と人の身では限界がある。
こればかりは巫女の力だけではどうにもならない。博麗の巫女の力とその存在は本来、幻想郷における人と妖怪の均衡を守ることに重きを置くものだ。
「他に方法は……」霊夢は顔を上げる。「――そうだ。あの羽衣、あんたのトコにないの? アレなら生身でも宇宙空間をやり過ごせるし、月の結界を越えて都に入れるでしょ?」
月の羽衣は月人の宝具で、大筒を使わずとも単身で月に侵入できる移動用の道具。神降ろしで呼び出す神霊との親和性も高い。
随分と前に別のレイセンが地上へ落ちてきた出来事があった。羽衣はそのレイセンが身に着けていた物で、霊夢は彼女を介抱した際に実物を目にしている。月人の移動手段として確立されている以上、永遠亭にも同じか類する物が保管してあっても不思議ではない。
「あるにはあるわ」鈴仙は微妙な反応を見せる。「でもアレは、師匠が厳重に管理する物品の一つ。師匠にしか解けない封印が施してある……万一流出して他所に渡ったら大変だからね」
鈴仙の住処が患者の診察をしたり、新薬を開発したりする医療施設とは霊夢も知っていたが、永遠亭の内情や住人の詳しい情報は専門外で、個人的な興味も持っていない。
巫女でも対処可能な封印や結界系統の術なら手の出しようもあったが、月の先端技術か何かを用いてがちがちに施した護りなら厄介だ。永琳とて元は月の民、月旅行の際に冥界の通り魔以上の堅物と一戦を交えて、そのデタラメっぷりは霊夢も理解している。
「あいつらの大筒以外にも何個か確保しときたかったけど……まあしゃーないか。完成を待つしかないわねやっぱ。こっちは製作に携われないし、そうする気もないし」
「大筒……進み具合はどうなの?」鈴仙は湯のみに手を触れた。
「ん。あそこのメイドは仕事が早いからねえ。外側は三段とも形ができてて、あとは細かいとこを色々調節して終いとか。その調整ってのが外と中身作るより面倒らしいから、もうちょいかかるんじゃない?」
「そうなんだ……」
「こっちはこっちで調査に専念しつつ、気楽に待ってりゃ明日にでもできるでしょ。できなきゃあいつにでも――」
話の途中で口を閉ざす霊夢。目つきが一変して鋭くなる。鈴仙の微笑も消え失せ、部屋と縁側を仕切る障子の方へ二人の視線が向けられる。互いに目配せした後、霊夢が腰を上げて縁側へ歩を進めた。
一呼吸置いて障子に手をかけると、勢いよく開いて外へ出た。
「……なんなの?」
本殿の外は静まり返り、境内には誰も見当たらない。霊夢は一人思考を巡らせた。
――人か妖怪か。この時間帯に活発化するのは後者。近辺に出没する知り合いの妖怪は何人かいるが、半居候である鬼は地底の旧都の方へ遊びに下りており、小さいのは旧友の所にお泊り、説教くさい食いしん坊はたまに姿を見せるだけ。そもそも妖怪なら、境内の周りに張られた結界が妖気を感知してたちどころに判る。自分で探ってみても何も感じない。妖怪の線はない。
ならば人間か。否、朝昼ですらこんな辺境に人は来ない。白黒魔法使いなどの馴染みならすぐに判る。昼夜を問わず神社に近づく人間なら外来人の可能性もあるが、この場所まで辿り着いた者など、オビト一人だけでも久方ぶりである。ここ数日で何人入り込んだのかは不明ながら、少なくとも付近で見かけたことはない。人間の線もないだろう。
何者かの気配を感じ取ったのは間違いない。そう思いながら霊夢が踵を返した瞬間。
「あのさ」祓い棒を握る手に力がこもる。「断りもなく土足で人ン家入るよーなのに、ろくな奴は居ないってわけよ。招かれざる客って言葉、知ってる?」
博麗の巫女の感知を掻い潜り、二人の背後を音もなく取った人物。鈴仙は凍りついたように動けずにいた。
不意を突いて室内に入り込んだのは、黄金色の法衣をまとう背の高い姿。笠を深々と被って表情を隠しており、手には金色に耀く錫杖を握っている。柄の先で畳が突かれると、鈴を転がすような不思議な音が響く。
顔を上げた法衣の人物に、霊夢は睨みを利かせながら祓い棒を向ける。
「手間が省けたわ。そっちから出向いた……今度こそコイツの口封じでもしに来たの?」
「違う……」
小さな声でそう呟いたのは鈴仙。恐々と見開いた赤い瞳に法衣を映している。息を呑むとゆっくりと口を開いた。
「見間違えるものか――その人、月の使者。地上に下りてきた『月人』だ……!」
「月?」呆気に取られる霊夢。「なら、あんたの元仲間?」
真夜中なので室内は暗いが、法衣の人物は微かに光を放ち、その周りだけ薄明るい。透き通った薄手の細長い布を体に巻いている。見覚えがある上、先ほどまで話に出していた代物だ。
ひとまず敵意を収めて深呼吸する。相手の正体が判った以上、徒に攻撃を仕掛けるほど好戦的でも馬鹿でもない。鈴仙の読み通りなら現状、前の月旅行の時とは異なり、月の民は敵と見なせない第三の勢力である。
「博麗霊夢殿とお見受けする」
声質からして女性。元月の兎である鈴仙には目もくれない。
「なに?」
「履き物は脱いでいる。きちんと見てから物を言いなさい」
よく見ると足が畳に触れていない。地面ギリギリで浮遊している。霊夢は目を丸くして咳払い。
「あ、うん……みたいね。ごめん」
「本題を。綿月様のご命令により、あなたには疾く我々と共に『月の都』へ赴いていただく」
感情を込めず機械のように紡がれた。霊夢には毛の先ほどの意味も分からない。呆れ果てた声で「はあ?」と返答するのも当然だった。
「なに言い出すかと思ったら……断らない奴なんて居るの? みたいな感じに訊き返したい戯言ね」
「あなたに拒否権はありません。そちらには従う義務があり、我々には権利がある。それだけです」
上下関係を意識させる言葉が出ても弾幕一つ飛ばなかったが、代わりに霊夢は心底興味なさげな表情で「くだらない」と一蹴した。月の都云々のくだりより、いきなり上がり込んで命令口調を飛ばしたこと。鈴仙はともかく、霊夢にとって重要なのはその一点に尽きる。
「あんたさ、ぽっと出て何様のつもり? 邪魔しに来たんなら帰りなさい。ここは高慢ちきが来るとこじゃ――」
無言で錫杖を一振りする月人。言い終わらないうちに霊夢の姿が忽然と消えた。鈴仙は怖れの色を浮かべて後ずさるも、同じ動作をすると続いて消える。月人は誰もいない室内で静かに笠を上げた。
霊夢の黒髪が夜風になびく。気がつくと境内のど真ん中に足を着けていて、隣には鈴仙が尻餅をついたまま目を瞬いていた。
――境内は無人などではなかった。法衣を着用した人物が四人、いずれも同じ錫杖を手に、霊夢と鈴仙を四方から囲み佇んでいる。祓い棒を抜かんと動いた霊夢に、先の女性と思われる声が「抵抗は無意味です」と言い放った。
今度はうち一人が進み出て、僅かに笠を上げた。目つきの悪い人物が睨みつける。
「こいつらか。聞き分けのねえお子さんってのは」
「勝手にズカズカと……綿月サマって依姫辺りでしょどうせ。あいつらになに吹き込まれたのかは知りたくもないけど、神降ろしの容疑ならとっくに晴らしたはずよ」
「口が過ぎてやがる」乱暴な声がせせら笑う。「年齢も性別も容姿も関係ねえな。地上の奴らが野蛮なのはどの時代でも変わらねえ。どいつもこいつも」
「お前もだ」荘厳な声がたしなめる。「我々の任務は博麗霊夢、および結界の管理者である八雲紫の身柄。抵抗の有無により捕縛も考慮する。終わり次第都へ帰還。命令以外は不要だ」
「紫――?」
「あなたに聞くわ」凛とした声が響いた。「八雲紫はどこにいるの?」
霊夢にとっては馬鹿馬鹿しい問いかけでしかない。神出鬼没を極めた輩の居場所を簡単に特定できるなら、黒幕連中の根城もとっくに見つけ出して叩いていただろう。
月の使者は皆一様に目を光らせ、霊夢は形容しがたい重圧を感じた。乱暴な口調の使者が痺れを切らして踏み出しかけた時、今度は本殿の方から「下がりなさい」との別の声が聞こえた。霊夢と鈴仙は揃って目を向ける。
長い髪を後ろで結った赤い目の女性が見下ろしている。毅然とした表情で境内に降りると二人に近づいた。
「久しぶりね、地上の巫女。それと――」女性の鋭い視線が移る。「――元気そうね、レイセン」
隣で鈴仙が声を上げる。無理もないだろう。使者を四人伴って地上に現れた、覚えのある人物を目の当たりにすれば。綿月姉妹の片割れで、名を綿月依姫――鈴仙の元上司だった人物が、厳しい顔つきで二人を見ていた。一振りの太刀を腰に帯びている。
かつて都を裏切り、地上へ脱走した鈴仙だが、綿月姉妹との関係が良好なのは、師である永琳と同じであるはずだった。そんな依姫は視線を霊夢へ移すなり、「周辺を警戒しなさい」と早口に命じた。使者達は瞬く間に境内より姿を消す。
一人残った依姫は懐から一通の封書を取り出し、霊夢の前で振ってみせる。
「何か判りますか?」
「手紙……とか、まんま言えばいいわけ? 他にどう見えるってのよ」
「確かに」依姫が頷いた。「然るに博麗の巫女よ、ただの文書ではない。これが意味するものは――あなたと境界の妖怪・八雲紫による、我々に対する非友好的な企みの全てが事細かに記されている、ということです」
依姫が冷静沈着に言い切ると、驚愕した鈴仙が視線を向けた。霊夢は全く動じていない。
「問答無用って感じね。企みだかたくあんだか知らないけど、言いがかりはやめてくれない? 何がどうだっての?」
「差出人は永遠亭の八意永琳。この意味が解らずとも結構ですが、内容の方は理解できるでしょう」
懐から取り出されたのは、掌に収まるサイズの小さな球体。それを紙に触れさせた後、霊夢の前に軽くほうる。何もない空中に達筆の文章が映し出された。中身を映像として見せる術のようだ。
肝心の内容は酷く物騒なものだった。八雲紫が千年来の目的を果たすために、月の都に対する本格的な侵攻作戦を画策していること。あらゆる分野の先端的な技術を狙い、妖怪による全面的な支配のための準備を水面下で進めていたこと。その先兵として人間の博麗霊夢と手を組み、神降ろしを利用して都を混沌に陥れようと謀っていること――依姫が喋り終わるまで二人は黙って聞き入った。
(……なるほどねえ)
急に現れた依姫の頑とした姿勢にも合点がいく。差出人も筆跡も『八意永琳』本人の物であることは、話を聞いた霊夢も認めざるを得なかった。堅物で融通の利かない依姫でも、偽の文書ごときを見破れぬほど間抜けではない。慣れ親しみ敬愛する者からの手紙なら尚更だろう。
嘘で塗り固められた内容の方は論外として、偽物かどうか以前の盲目的なカラクリを理解するのは、此度の騒ぎを知った今となっては難しいことではない。幻想郷や他の世界から遠く離れた場所に身を置く綿月姉妹、永琳との関係を知る者となれば候補は絞られる。月に届いた正確な日時は不明だが、幻術により操られた永琳が連中の指示通りに書かせたのだ。無実の罪をでっち上げ、双方の間に亀裂を入れるために――陰湿なやり方に嫌悪感が湧き起こり、霊夢の体から強烈な霊気が発散する。
「聞きなさい。いい? あんたの恩師を操って書かせた悪党がいて――」
「博麗の巫女」依姫は言葉に耳を傾けない。「今一度問います。八雲紫はどこですか?」
「だから――…ああもう、堅物め――」
この状況で依姫を動かすのは一つ。永琳が書き記した絶対的な、紛れもない本物の証拠のみ。圧倒的に不利な場で弁解の余地は潰されている。職務と恩義に忠実で真面目すぎる依姫を前に、霊夢の言い分は苦し紛れの戯言にしか聞こえないだろう。両者の個人的な関係にしても、赤の他人とまでは言わないが、神降ろしの件でかかわった顔見知りに止まり、親しい間柄にあるわけでは決してない。
行き詰った霊夢が思案する間に、依姫は左手を鞘にかけ、翡翠色に発光する紐を懐より取り出す。鋭敏な眼が走り、石段と鳥居、本殿まで視線が動いた。
「ここよ」
依姫の視線が止まった瞬間だった。突如として宙に黒い裂け目が入り、被疑者である張本人――八雲紫が境内に姿を現したのは。
前回の月面戦争では、霊夢を通じて間接的に顔を合わせていた二人。霊夢は咄嗟に口をこじ開ける。
「あんたが出てきてどーすんのよ! こいつらの思い通りに運ばせたら、それこそ――」
「そうならないため」紫が霊夢の傍を横切り、依姫の眉が動いた。「都との絶対的な力の差の前では、我々のいかなる抵抗も無に帰する。あなたもよく解っているはず」
一世界の管理者として発した言葉は的を射ていると、霊夢も悔しさを滲ませつつ理解せざるを得なかった。幻想郷と外界の全戦力を束ねて百をかけたとしても、月の都が保有する軍事力には遠く及ばないことを。蟻一匹と最新鋭の戦車ほどの差が、言うなら双方にはある。
この場で依姫一人と使者を相手取るのみなら、幻想郷の全勢力を結集させれば太刀打ちできるかもしれない。事の問題はそんな単純な話ではない。今ここで依姫達に手を出せば、文書の件とは無関係に幻想郷と都は敵対し、生じた亀裂は今度こそ修復不可能なものとなる。それこそ吸血鬼異変や千年前の月面戦争すら可愛いと思えるほどの、幻想郷の歴史上では類を見ない、世界の存亡をかけた大規模な戦争は避けられないだろう。
「だからって、こんな。あんただけでも家にこもってりゃ、こんな時にあんたまで居なくなったら……」
「二度は言わないわ」紫は瞼を瞑る。「逃げ隠れしても、都は私を見つけ出すでしょう。最善の手しかなくともね。どんな手を使うのかも、お互いさまよ」
紫の言葉を否定しなかった霊夢。力が抜け膝を着けてしまう。依姫が鞘の先端で足元を小突くと、博麗神社の四方位に散っていた四人の使者が空より現れ、音もなく集結する。
依姫は鞘から手を離すと、発光する紐を使い二人の両手を拘束した。それは蓬莱山輝夜が持つ永遠と須臾を物質として編み込まれた物で、かつて無血の月面戦争を起こした八雲紫、その式神である八雲藍を捕縛した組紐だった。
霊夢が身動きせず頭を垂れる一方、紫は胡散臭い面持ちを崩さない。
「懐かしくも映るわね。痕がついたら怒るわよ。月の使者さん」
――名をフェムトファイバー。月の都が所有する特別な組紐である。
物体や物質より、具象化した概念と言った方が正しい。時間という理の概念が繊維状に編み込まれ、言うなら『抵抗』という行為に要する時間を行使者の思い通りに固定化させる。故にどんなに足掻こうと、組紐はその形状を変えることがない。天井から吊るしたこの紐に硬質の鞠をぶつけても、壁に当たったように跳ね返してしまう。
個々の能力を含む強弱、相性といった性質そのものを無視するため、幻想郷の神々を含むあらゆる魂の持ち主を無条件で捕縛できる物品とされる。紫の境界操作すら及ばない代物である。効力だけなら八坂の注連縄にも酷似しているが、全く同等の物は現存していない。
「特別な物ですので。ご安心を」
霊夢は無駄な抵抗をせず、最後まで依姫を睨みつけていた。他方で鈴仙は力の差の有無に関係なく、綿月依姫の手前、そんな二人を眺めることしかできず、霊夢と紫を伴った五人が自分を残して夜空へ消えていく様子を、境内に座り込んだまま為すすべなく見送っていた。
月の都と呼ばれる第三の勢力。幻想世界の意にそぐわぬ形に落ち着き、巫女と管理者を容易く地上より奪い去った。