THE LAST PHANTASM -OBITO-   作:大兄貴

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三十六話 舌足らず

 月の都は国家である。上層部の判断が下り処遇が決まるまでの間、非友好的な有象無象を収監して隔離するための施設も存在する。罪の重さには差異があるが、都という一世界を脅かす破壊工作、転覆を謀った者は総じて最上位の罪人として扱われる。月人は平和な暮らしを年中満喫しているため、形式上の規律に過ぎない、その事実は否めないが。

 牢の中で納得いかない表情を見せる霊夢、余裕を崩さない紫を前に勝ち誇った態度で対応するのは、施設の管理を任されている兎の一人。月人の愛玩動物や奴隷も同然の扱いが多い仲間内では割と地位の高い玉兎である。組紐で自由を拘束された二人を前ににやつきながら、何とも偉そうな態度をとっていた。

 

「いつかはやると思ってたのよねえ。そっちの巫女はともかく、あんたの方は犯罪歴があるしね」

「そうだったかしら?」

「なーにしらばっくれてんのよ。千年も前に増長した妖怪たちをぞろぞろ引き連れて、都に戦争を仕掛けた身の程知らずの間抜けさんが、どこの誰だったか忘れたの? かつての過ちを繰り返そうとしたのよ? 不利な前歴があるんじゃどーなるか……下手したら死刑とかねえ。そのザマで賢者だなんて笑わせるわ」

「そうだったかしら?」

 

 欠伸混じりに復唱する紫。頭に血が上った玉兎は頬を膨らませる。

 感情を込めてボロクソに言っても態度を変えず、普段の胡散臭い表情を浮かべる姿に、ふつふつと怒りが込み上げてくる玉兎。本人としては土下座させて屈服した姿を拝みたいが、所詮は一羽の兎に大妖怪が屈するはずもなく。

 

「憐れね」紫は息を吐く。「月の民は地上の穢れを嫌い、生物の生存競争を好意的に受け取れない。殺生にしても同じ。餅をつくばかりで兎鍋の味を知らないだなんて、人生損してるわよアナタ。出直してきなさい」

「ンなんですってェ!?」

 

 怒って腕をブンブンと振り回す少女を見かねて、今度は別の玉兎がやってきた。いまだに反抗的な顔の霊夢、呑気に鼻歌を歌う紫を視線に捉えた後、冷静な面持ちで「巻かれるな」と呆れたように言う。一人目の兎とは対照的な性格のようだ。

 

「だって生意気なんですよ、こいつ! 罪人のくせにさっきから!」

「落ち着きなさい。それでは向こうの言う通りだ。争いによって生ずる『穢れ』は、月の生物に限りをもたらす……あの方々も慎重な判断を望むだろう」

「まあそうでしょうけど……でも一度くらいお灸を据えなきゃ立場が――」

 

 上司と思われる玉兎は黒いサンドイッチ状のビスケットをかじりながら、興奮する少女の前で首を横に振る。霊夢が檻の中で唾を呑み込むと、玉兎は懐から小さな青い袋を取り出して牢の中に投げ込んだ。すかさず飛びついた霊夢。玉兎は食べかすを一粒たりとも床に落とさない。

 霊夢から袋を取り上げて一つ摘まむと、紫は玉兎を神妙な面持ちで観察した。

 

「あの方々とやらの判断が軽率とは思わないの? 地上人を捕縛して身体的拘束を与える根拠が、『本当』は誰が送ったのかすら判らない文書一つだなんて。固い師弟関係? そんな理由で真偽を疑いもせず――法的な問題に私情を挟み込むだなんて、都の規律は随分と緩いのね」

「私情ではない」玉兎は腕を組んだ。「これは用心の下に事を未然に防ぎ、都側が不利益を被らないよう厳しく追求した結果だ。きちんと条文になぞっている。あなたも重々承知しているはず……『監獄』でしかない地上に対して、我々は然るべき権限を有している。個人的にも私は、相手が危険であればあるほど、厳しく対処する必要があると考えている」

「ご立派なお言葉ですこと。都の奴隷たちとは段違いに忠実ね」

 

 皮肉めいた物言いをする紫だが、若々しくも荘厳な姿勢を崩さない玉兎。その隣でプンプンと怒る部下の兎が場違いに映る。

 

「何より……ここでどんな主張をしようと無駄だ。私とて依姫様のお考えに基づき行動している。あなた方二人を無実と結論づけたとしても、私の一存で処遇を決めることはできない」

「文句があるなら依姫様に直接言えってのよ、ばーか! できたらの話だけどっ!」

 

 騒がしい方の玉兎は舌を出すと、脱兎のごとく廊下を駆けて曲がり角に消えていった、もとい(言葉で)コテンパンにされ逃げていった。捨て台詞を吐いて敗走する小悪党よろしい姿ながら、素直に悪と思えないのは相手が子供染みているからだろう。

 黙って聞いていた霊夢が、菓子の袋を丸めて懐に仕舞い込み、黒い欠片を付着させたままの口を開いた。

 

「だったら連れて来なさいよ。あいつに話をつけるくらいの権限はあるでしょ。私らじゃないってこと……あんたらが騙されてるってのも、さっさとあの堅物石頭に気づかせてやりたいんだから」

「口を慎め。あの方は今お忙しいんだ。なにせお前たちの他にも、都の細部に亘る様々な仕事をこなしておられるのだからな」

「あー、わかるわ」霊夢の注意が逸れた。「姉さんが遊び人じゃね。あいつやる時はやるらしいけど、メンドーなことは全部妹に任せっきりなんでしょ? 前にレイセンか誰かがぼやいてたけど――」

「――私がどうかしたの?」

 

 玉兎を含む三人の視線が一点に集中した。ゆったりとした足取りで廊下の向こうから歩いてきたのは、長い金髪に金色の瞳を輝かせる、優しげな風貌の女性。真っ赤に熟した瑞々しい林檎を生でかじっている。霊夢達が囚われた檻の前まで来ると、しゃがみ込んで太陽のように明るく、天真爛漫な笑顔で手を振った。

 思わぬ人物の登場により呆れた表情の霊夢、紫は忽ち機嫌を損ねてそっぽを向いた。

 

「ご機嫌よう」

 

 紫の冷たい挨拶である。そう簡単に切れるほど浅い因縁ではない。今はあの時と同じようにフェムトの組紐で縛られてもいる。綿月姉妹の片割れが直々に姿を見せると想定していた様子。

 

「果物でもご馳走してくれるの? それとも干乾びた桃?」

「では皆で頂きましょう。大勢の方がきっと美味しいわ!」

 

 豊姫が掌を上に向けた途端に清潔な白い皿、小ぶりの果物ナイフ、瑞々しい白桃がどこからともなく現れた。

 それを鼻歌交じりに「お願いね!」と玉兎に渡すと、当の本人は困惑しつつ受け取り、ため息を吐いた後で仕方なく剥き始めた。文句の一つでも言いそうな真面目な性格ながら、豊姫のお願いには立場上逆らえないのか、あるいは注意するだけ無駄と判断したのかは本人のみぞ知る。

 被疑者や罪人を押し込める牢で、敵味方関係なく桃を頬張っている。奇妙な光景である。霊夢は豊姫や場の空気に呑まれるではなく、「食える時に食っておこう」という素直な食欲に従い自分から口にしていたが、桃を切り分けた玉兎は豊姫に半ば無理やり、紫に至っては終始不機嫌で手をつけなかった。

 

 豊姫は床にお尻を着けて脚を投げ出すと、至福の時間と言いたげな表情でお腹をさする。上司をジトッとした目で見下ろす玉兎と紫の間には、奇しくも結束の色が見られた。

 

「おいコラ、あんた」

 

 霊夢は食べ終えるやいなや、当初の不満を露わにして豊姫に突っかかる。先ほどまで夢中で頬張っていたくせに、この切り替えの早さである。

 

「一応・訊くけど、あんたまで疑ってんじゃないわよね。そのみょんな手紙とやらで」

「私は八意様を信じているわ。当然でしょう」

 

 どこからいつの間に取り寄せたのか、今度は座布団に腰を下ろすと、茶を淹れて湯のみに口をつける豊姫。深く柔らかな視線が霊夢から紫へ移る。

 

「うふふ。だってだって、あの方は敬愛する恩師なのだから。弟子は師を信ずるものでしょう? お手紙の中で『大胆』にお二人の名前を挙げたって、いかなる時でも尊敬して、心から信頼していたいの。あなた方を出すわけにはいかないわねえ」

「どいつもこいつも……」霊夢は舌打ちした。

「あら駄目よ、女の子がはしたない」にっこりとする豊姫。「そんなことよりねえ、久しぶりの都はどう? 相変わらず地上より澄んでいて美しいでしょう? いっそ『浄の儀』を受けて月の民になってみる? 永い時の中でもっと沢山のことを知れば――」

 

 空になった豊姫の湯のみが突如として爆発し、細やかな破片が床に飛び散った。

 思わず身構える玉兎。豊姫は正座したまま笑みを広げる。柔らかな視線の先で紫が貌を上げていた。

 

「あらあら、簡単に壊れちゃったわ。思ったほどの価値はないのかしら」

 

 組紐は体の自由を封じるだけで、力を抑制したり奪い去る物ではない。

 月の物も人と同様、穢れを持たぬがために終わりの概念がなく、永い年月を経ても不変であり朽ち果てることはない。それが『穢れ』の中にある境界線の排除一つで呆気なく壊れてしまった事実が、地上の妖怪である紫には滑稽に映ったのだ。紫の口元には上品で優雅な微笑が戻っている。

 

「どうかしら」豊姫は笑顔のまま腰を上げる。「あなたにはあなたの、私には私の、侵されない世界がある。そうは思わない?」

「同感ね」

 

 豊姫は指の一振りで座布団や急須を消し去った。霊夢が黙って見つめる中、玉兎に「行きましょうか」と声をかけて二人に背を向ける。

 そしてゆっくりと、貌だけを振り向かせた彼女の瞳は、美しい月明かりに染まっている。

 

「ここは私たちの世界。あなた方の先を決めるのは、私たちなのよ」

 

 地上と月は同一の現実に存在すれど、時間も秩序も思想も理想も性質も、何もかもを異にする別世界同士。断固たる意志に従い自らの世界を守るのが生き物である。

 

 

――◇◇◇

 

 

 月の海。表の月では玄武岩に覆われるだけのただっ広い平原であり、地上人の月面着陸で打ち上げられた旗や機械の残骸など、穢れた者達の抱いた愚かしき夢の跡が眠っている。他方で月の都を囲む海はとても美しく、地球の海洋と同じように水が存在する。地上と違うのは、生死の概念がない海には生き物が生息せず、穢れが存在していないところだ。

 果てしなく広がる穢れなき大海には、青くて奇麗な星々が映っている。それは一種の境界でもあり、月の結界を越えて進むための道が隠されている。

 

 静かの海より星々を見つめるのは、澄んだ赤い瞳を輝かせる銀髪の少女。白い片翼を背に生やしている。

 高尚な月の神霊であり、都に住む賢者の一人であり、一つ処に腰を落ち着けない変わり者でもある。波の立たない穏やかな水面にぼんやりと視線が落ちた。

 

「ここにいらっしゃいましたか! サグメ様!」

 

 笠を被った法衣の人物が二人、慌ただしい様子で少女の元に馳せ参じた。少し前に綿月依姫と共に地上へ赴いた『月の使者』である。興奮気味に声を出したのは若い面持ちの女性、もう一人は厳しい顔つきの壮年の男。二人は錫杖を揃って置くなり片膝を着いた。

 サグメと呼ばれた少女は無感情な目を二人に向けると、唇に指を当てて二人をじっと見つめた。女性は不可解な貌で男を見たが、男の方は表情を変えず、深みのある落ち着いた声で「言伝が」と切り出す。

 

「綿月依姫様より、都の方に至急お戻りをとのことです」

「お城」

「都です」

「都」サグメは首を傾げる。「どうして、あなたが私に?」

「は、はい。依姫様から直々に伝言役を仰せつかりまして……えっと、例の二人についてですが、サグメ様のお知恵をお借りしたいとのことでして、あの方が――」

 

 ルビーのような淡い瞳がじっと眺めている。女性が緊張のあまり言葉に詰まると、息を吐いたもう一人が仕方なく続ける。

 

「……稀神サグメ様、綿月依姫様がお呼びです。速やかにお屋敷へ。城へお戻りになるのはその後で構いません」

「わかったわ。ありがとう」

 

 ぽつぽつと静かに喋るサグメだが、了承は驚くほど早かった。女性を興味深げに見つめた後、壮年の男に視線を向ける。

 サグメが手招きした。女性は目を瞬いて自分を指差し、困惑した表情で立ち上がると、恐る恐るサグメに近寄る。そのまま女性を背に踏み出すと、膝を着いている男を見下ろして一言。

 

「あなたは、誰?」

 

 言伝を届け終えた後では、この上なく場違いで意味の分からない言葉。使者の女性も内心そう思ったに違いない。

 普通なら顔でも上げて、きょとんとした表情を浮かべる場面だが、男は笠の陰に表情を隠したまま、何も言わず頭を下げている。サグメはなおも無表情で見下ろし、再び口を開いた。

 

「不思議。てっきり都で何かあったら、月の使者たちが伝えに来ると思っていたの。それ以外の者が住むなんて初耳だったから」

「申し訳ございません。私めには解りかねます」

 

 なおも首を傾げるサグメを前に、男は地面に向かって言葉を吐いた。僅かに声が震えを帯びている。

 

「あなた。あの二人よりも濃くて邪な色が、体の芯から透けて見えるわ」

 

――言葉を紡ぎ終えた瞬間。サグメの後ろで女性が見守る中、男ははっきりと笑い声を漏らした。

 低音の笑い声が段々と甲高いものに変わり、嘲笑の混じった高笑いが漏れた。酷く狂気的な笑いが静かな大海に響き渡り、使者の男は笠を脱ぎ捨てる。顔をサグメに向けたまま、その口元が歪み、焦点の合わない眼が見開かれた。

 時折痙攣し、不気味に揺れながら錫杖を手に取ると、腰を上げて向き合う。サグメは反応を示さない。

 

「イヤですねェやはり。内心従いたくもない誰かに頭を下げたり、弱者よろしく忠誠を誓ったり……私には馬鹿馬鹿しくて、心底どうでもよくて、無意味な愚行にしか思えませんよ。ねェ、サグメ様?」

「な、なにを……?」

 

 思わず後退する女性。不敬にも月の賢者の一人を前にして、月の民にあるまじき暴言を嬉々として吐き出す月の使者。狂っているとしか思えない。絶えず痙攣し身体を震わせている。

 

「豊かで満ち足りていて平和ボケした、穢れのない生活とやらを呑気に送りながら……地上を穢れた牢獄と蔑如し、自分らの一存で監視し制御する。実に傲岸不遜な連中だ。都の禁忌に手を出した大罪人の言霊に翻弄されるだけはある」

 

 特に憤ることなく不思議な貌で、サグメは無心に指先を向ける。

 眩い光の弾が男目掛けて放たれた。男は回転させた錫杖で一蹴し、バラバラになった光の粒が大海に散った。続いて二発目の玉が錫杖をへし折り、無防備の腹部を捉える。男がにやりと笑うと、光の玉が段々と収縮していき、最後には跡形もなく消え失せた。見開かれた眼球が薄紫色に染まっている。

 

「叡智を持つ月の賢者……さすがは神霊。素晴らしい質のチャクラだ。ますます期待できる」

「もういいわ」瞼を瞑るサグメ。「退屈な猿芝居は止めて、姿を見せなさい。命令よ」

「……くく。穢れなき月人に紛れたら……生死の概念のない結界の中でもバレないと踏んでいたが。高尚な神霊相手ではどーも――…一筋縄でハいカなイよウダ」

 

 サグメの後ろで悲鳴を上げ、女性は尻もちを着いた。月人だった者の眼孔には特異な眼が収まり、和紙に広がる墨のように右半身が黒く変貌していく。使者の声帯を乗っ取り、体に寄生して身を隠していたのは、地上にすら類を見ない真っ黒な穢れの塊だった。

 くぐもった声で笑い、薄紫色の眼を二人に向けている。

 

「……っ!」

 

 使者の女性が怯えたのは、顔見知りの仲間が異様な姿に変わったから、だけではなかった。

 此方を映すあの目だ。心を凍らせるような視線。直視しただけで背筋に冷たいものが走った。

 

「これまで一緒にいたのは――…まさか」

「都ノ見学……間抜ケナ奴ラノオカゲデ楽シメタ……感謝スル」

 

 黒いモノは男に成り代わっていた。否、体を乗っ取っていた。いつからかは容易に想像がついた。巫女と境界の妖怪を連行せよとの命に従い、本人と共に地上へ降りた時だ。ならば二人を組紐で縛り上げた時にはすでに。

 実力者揃いの使者達のみならず、綿月依姫をも欺いたと言うのか。

 

「そんな。あの方を……?」

「奴ラノ皮ヲ被リニオイヲ消シテイタ……綿月依姫ハ厄介ナ月人ノ一人ダガ……所詮ハタダ寿命ガ永ク強イダケノ人間……器ト魂ノ強サハ本物ノ神霊デアルオ前ニ劣ル。地上ニ現レタノガオ前ナラ……今ココニオレハ居ナカッタ」

 

 女性は悲痛な表情を見せた。稀神サグメは天降った国津神の色彩を持ち、地上の瑕穢を受けない神霊の一人ではあるが、月の賢者として都に身を置くため、好きに地上へ下りたりと自由に動ける立場にはない。精々がたまの休みに個人で訪れる程度で、都や城を離れることは仕事上滅多にない。

 此度の件にしても、本来なら月の使者ですらまず下りない。相手がかの有名な八雲紫故に依姫自らが招集をかけたに止まる。問題はその依姫の目を欺いたことだ。

 

「その力を弾いた、先の現象については?」

「ソレモマタ神ノ力……綿津見ヲ超エルオ前ヨリ高尚ナ力ダ」

「超える」サグメがぽつりと復唱する。「違うわ。私の立場は、彼らよりも下よ」

 

 冷たい薄紫色の眼光が走り、双方の衝突は当然に火ぶたを切った。閑静な空を浮かび上がったサグメが両手をかざすと、七色に煌く弾幕の雨が地上を打った。虫や鳥、風の音もない海辺が静まり返る分、耳を壊すほどの轟音と共に光弾は地面に穴を開けていく。

 黒ゼツは法衣をなびかせながら雨の間を疾走し、その体を何十発もの光弾が捉えるも、神の瞳力たる輪廻眼が被弾を許さない。餓鬼道・封術吸引で見境なく弾幕を吸収し、宙で静止するサグメ目掛けて足裏を蹴った。修羅の攻で変形させた鋼鉄の腕を構え、鋸状の鋭利な刃で斬りかかり、サグメの体を切り裂かんと迫る。

 紙一重で身を翻すサグメ――その赤い瞳が黒ゼツの笑みを映す。サグメの体は謎の力で強制的に引き寄せられた。忽ち一閃が迸ると右肩に刃が食い込み、鋸状の刃に鮮血が付着する。やむなく振り払うなり地面に着地し、サグメは黒ゼツを観察しつつ傷口に手を当てた。

 

「鉄塊やら引力やら手札が多いみたいだけど。地上で流行ってる遊びではないのね」

 

 都と同じ『裏側』にある幻想郷では、人や妖怪同士で争いごとが発生した時、一定の規律に従った平和的な遊戯で勝敗を決する。結界の外から入り込んだ異邦人や、妖怪賢者の意向に賛同しない者達を除けば、ルール無用の殴り合いは基本的に行わない。

 ここは月の都であり、向こうに見る縛りは確かに存在しないが、郷に入っても郷に従わない黒いモノには月も地上も関係ないのだ。

 

「遊ビ感覚デコノ場ニ立ツホド……コノオレガ愚カダトデモ思ウノカ」

「そうではない」口元を手で隠すサグメ。「ただこれでは語る暇も惜しい。つまりはそういうこと?」

「オ前ノ力ハ把握済ミダ……六道ノ力ヲ知リモシナイ輩ノ脆イ言霊ナド恐ルルニ足ラナイ。知ラヌ真実ナド語レルモノカ……計画ニシテモ同ジダガナ」

「して、その計画とは。どれほどのものかしら?」

「コノ状況デノ問答ナドオレガ不利ニナルダケダ。オ前ニハ言霊ダケデ運命ヲ逆転サセル力ガアル……コノ都ニオイテオレノ妨ゲニナル輩ダ。オ前ダケハ始末スルノガ早イニ越シタコトハナイ……ココデ確実ニ消シテオイテヤル」

 

 黒ゼツが再び鋼鉄の腕を曝け出した時、サグメの貌に明らかな苛立ちが走った。

 月の使者に潜伏して密かに月の結界を越えた後、黒ゼツが真っ先に始末を決めた人物がサグメである理由は、彼女の神のごとき異能が計画の不確定要素であるからに他ならず。黒ゼツとてサグメの力を真正面から浴びれば一溜まりもない。古の仙霊たる純狐の存在すら脅かすだろう。口は災いの元と言うが、彼女の舌は思わぬ災禍を呼び込む舌禍である。

 

「やれやれ……口下手に磨きが掛かっているね。こうも上手く喋れない要因を引き当てるなんて、いつ以来だろうか」

「ソレコソオ前ノ欠点ダ」

 

――事態の逆転。天邪鬼に見る単なる結果の逆転や、吸血鬼に見る運命誘致より遥かに強大な、運命を手に取り捻じ曲げる神の力。今まさに発生している事態と最も係わりのある人物に、当該事態について語りかけ、言及を行うことが発動の引き金となる。天地を司りし神霊の魂に相応しい高尚な異能と言えよう。

 

「オ前ノ力ハソノ性質上……事前ニ膨大な情報ヲ集メタ上デ十分ナ精査ヲ行ウ必要ガアル。ナラ事前情報ヲ与エズ悟ラセヌ形デ戦イニ臨メバ事ハ簡単……オ前ハ何モ知ルコトナク惨メニ朽チ果テルノサ」

 

 文句通りなら無敵に等しいサグメの能力。しかし強力故の脆い部分を、黒ゼツは事前に頭に入れていた。彼女はその強大な能力のオンオフこそできても、ひとたび発動してしまえば自らの意思では止められず、不可逆的に広がり往く力を制御できないのだと。神霊との格の違い云々を抜いても、八雲紫の力が及ばない不変なる境界の一つである。

 

「語リデハナク言及デ発動スル力……ダガ知リモシナイ事態ヲ話シ尽クスナドデキマイ? シカモ思イ通リノ方向ニ事態ヲ動カスニハ……言葉一ツ一ツ細部ニ至ルマデ注意ヲ払イ話ス必要ガアルハズダ。言葉足ラズヤ解釈ガ多様ナ言葉ヲ迂闊ニ口ニスレバ……思ワヌ方向ニ動イテ自分ヤ周リガ窮地ニ陥ルオソレヲ生ムカラナ」

 

 サグメは地上と月の生物、神々についても事細かに知り尽くしており、果ては天界や魔界などいくつかの異界に関しても例外ではない。だが『忍界』という、幻想郷の神々でも知り得なかった別次元に在る世界である上、その忍界の民すら普通は知らないような、六道の力を持つ稀有な者となれば話は別であろう。黒ゼツの起こす未知の事態に関連して言葉を発するまではできても、それ以上に踏み込んだ言及などできはしない。自分が知らぬものを詳細に語るなど何者にもできまい。

 相手の心を覚る能力があれば条件は変わるが、神霊といえどサグメに読心の力はない。もしも地底の覚妖怪である『古明地さとり』と共に戦っていたら、状況を分析しつつ六道の術への対処は十分に可能となり、黒ゼツは余裕を笑みを崩していただろう。神霊たる者の頭脳と観察眼は計り知れない。月人の中に潜伏することで地上の穢れを隠蔽し、澄み切った月の環境に『擬態』していた輩を――元より寿命の概念がないに等しい黒ゼツを、容易に白日の下に晒したのだ。

 

「マア細部マデ言及シ尽クシタトコロデ……細ヤカナ事ノ流レマデ手ニ取レナイノデハナ。安易ニ『全体』ヲ動カセバ周リヲモ巻キ込ム。オ前ガ口下手ニナラザルヲ得ナイ理由ダ」

 

 全ての能力に存在する欠点となる穴。強かなものほど欠点は存外多くなるが、これが複雑ともなるとさらに数を増やす。神霊としての器と魂をもってしても埋まらないのは、その能力があまりにも強力で理不尽極まり、一世界の存亡をも左右する超越的な代物だからに他ならない。

 サグメが手に取れる事態の流れは、自らや周りの人や物に影響を及ぼす『全体の流れ』であり、特定の人や物にかかわる具体的で部分的な流れを操る力ではない。故に六道や忍界の常識すら何も知らず、ろくな言及一つ行えないサグメは、今現在に対峙して具体的な言動を見せ続ける黒ゼツを前に、思い通りの動きを起こせないでいた。手に取れない事態を悉く無視して、突破口欲しさに全体の流れを無理に変えようとすれば、己のみならず護るべき都すら危険に晒すことになりかねない。

 

「何ヨリコノ流レハ……思イ通リニシカ進マナイ」

 

 元より逆転に足る要因が揃わず、その可能性が全くのゼロなら逆転など起こり得ないが、言及という前提を先に崩されてしまえば、百すらゼロに成り果てるだろう。

 そんな黒ゼツを不可解な表情で眺めるサグメ。複雑怪奇で面倒臭いと自覚のある能力をこうも詳細に見抜けるなどあり得ないからだ。どう見て感じても神の類とは縁遠い輩、そもそも能力の片鱗すら披露していない。事前に第三者から情報を受けていたと考える方が自然だろう。

 能力を知るのは同じ月の賢者や一部の月人のみ。しかし此度の襲撃に絡めると違和感が拭えない。不明瞭な正体まで見破るには時間が足りなさすぎる。

 

「恨み辛みに塗れて凝り固まった、あの盲目的な神霊もどきとも――」

「――沈黙は金なり、口は禍の元とも言う。舌禍の女神は全てが沈み往くまで黙っていたまえ」

 

 感情を滅多に露呈させないサグメが目を見開いたのは他でもない、現在の都にとって最も危険な輩が背後に現れたからだった。それは境界の妖怪により幻想郷が創造される遥か以前、千年前の第一次月面戦争よりさらに昔、古の時代から現代に亘り幾度となく力や知恵比べをし、争いを繰り返してきた因縁めいた人物――。

 それ故かサグメが視線を逸らしかけた、ほんの一瞬の隙を狙って黒ゼツは貪欲に動く。修羅の攻で召喚された鋼鉄製の腕は、無防備な首を瞬く間に掴み、華奢な体ごと持ち上げた。地上でリグルを相手取った転生体と同様に、ギリギリと力を込めて締め上げていく。苦しげなサグメの抵抗も空しく、餓鬼の力が容赦なく生命力を吸収していく。紛れもない神の境地にある瞳力が捕らえたのだ。

 

「今そうして惨めな姿を晒すのは、お前が奴を担ぐ愚者に変わりないからよ。都は奴の汚らわしい指導の恩恵を享受している――今やお前たちの悉くが敵でしかない」

 

 背後に立っていたのは純狐。黒ゼツに入れ知恵をした張本人だった。薄れゆく意識の中でも懸命に口を動かそうとするサグメに、純狐は地上の者には決して見せることのない、氷のように冷たい眼を向けている。

 黒ゼツは輪廻眼の瞳力をさらに強めた。器の目は歓喜に見開かれ、口元はこれまで以上の狂気に歪んでいる。神霊に宿るチャクラは地上の人間や妖怪、忍界の者達の比ではない。サグメのチャクラは筆舌に尽くしがたく、黒ゼツ自身を高めるには十分すぎるほどの質を内包していた。

 無力故に見守ることしかできなかった部下の女性。その表情が恐怖に歪む中、黒ゼツは高笑いをいつまでも、いつまでも静かの海に響かせていた。

 

「派手だね。命の灯火まで吹き消すなんて、見た目に似合って容赦ないわ。私はアレで満足だったのに」

 

 興味深げに眺めていた純狐が、器の体を点検する黒ゼツに近寄る。

 十分な量のチャクラを吸収し終え、最後に人間道の『吸魂の術』で稀神サグメの魂を抜き終えると、黒ゼツは用済みとばかりに体を足元に放り捨てた。サグメの肌は蝋のように白くなり、仰向けに横たわったまま身動き一つしない。

 使者の女性は凄惨な光景に気を失ったようで、少し離れた場所に倒れている。

 

「思イ違イモ甚ダシイ」黒ゼツは脅すように言う。「オレハオレノタメニシカ動カナイ……ムシロオ前ニ代ワッテ手間ヲ省イテヤッタコトニ感謝シロ」

「うん? ああまあ、この手の新鮮なやり方で協力してくれたのは感謝するよ。今度こそ悲願が達成できそうだ」

 

 黒ゼツの勝因はサグメの情報不足と、彼女が逸早く純狐の存在を認識できなかったこと。

 昔から純狐と度々悶着を起こしてきた都は、その情報を事細かに握っている。初めに純狐がサグメと対峙していた場合は事態の逆転、言うなら『運命操作』で企みの全てが水の泡に帰った可能性も否定できない。理不尽で呆気ない終焉を防ぐために、黒ゼツは最たる不確定要素を真っ先に潰すことを選んだのだ。

 

「賢者共トノ争イガ尾ヲ引イテイルト」

「いつもの知恵比べじゃあ、向こうが無駄に悪あがきして、結局こっちが仕方なく折れて終わっていた。前々から変わり映えのない結末の繰り返しだったんでねえ」

「無限ニ巡ル輪廻ト運命ノ導キ……思イ通リノ結果ヲ否定サレ続ケルナド……コノオレガ同ジ轍ナド踏ンデナルモノカ」

「――あ、さっきの続きだけども。お前こそ私がもたらした情報の恩恵を受けたのではないか? 駒を強くしてやったのも他ならぬ私だろう? お前は泣いて感謝すべきだね」

 

 手駒に関しては否定できない黒ゼツ。塵芥の体で輪廻眼を十二分に使いこなすなど通常は不可能だ。

 答えは純化。転生体を構成する『死者』の要素を幾分か取り除き、瞳力の要素を広げて不足分を満たすことで、固有瞳術を含む制限を取り払った。削った分だけ転生体のチャクラや再生力を下げざるを得なかった上、輪廻眼が純化に劣らない同じ枠に分類される力だからか、完璧な再現には至らなかったが、生前の能力を戻す呪印札の効力は及びもつかない。

 

「ナラコレデ貸シ借リハナシダ」

「待った待った。ソレはどうするの?」

 

 純狐が指差したのは気を失った使者の女性。黒ゼツは笠を被ると踵を返し、見もせずに「要ラナイ」と吐き捨てた。

 

「月ノ賢者ホド有用デハナイ……下ッ端デハナ」

「大は小を兼ねる、という感じかな」

「後々ノ方ガ手間ハ省ケルトハイエ……今騒ガレテオレヤオ前ノ存在ガ表沙汰ニナッテモ面倒ダ……オ前ノ能力デ記憶デモ消シテオケ」

 

 使者の力も地位も玉兎よりは上だが、都を護る月の賢者とは智慧も技量も力も何もかも天地の差。踏み入り早々にサグメの全てを掌握した以上、玉兎や他の使者を含め、その辺の月人が内包する価値は悉く失われたも同然だ。ただ一つを除いては。

 

「最善の選択をするなら――ここで摘むのは勿体ない。すぐに楽にするよりは当然、来たる時まで生かして苦しませた方が気分が晴れる。腐り果てた安寧を享受して平和ボケした奴らなんて、この上なく惨めに滅んでいく方がお似合いだからね」

 

 再び月の使者を装った黒ゼツ。抜け殻となったサグメから視線を外した純狐は、遠い目で静かの海を眺めていた。

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