THE LAST PHANTASM -OBITO- 作:大兄貴
裏の月を澄み切った楽園と呼ぶならば、地上は裏も表も穢れに満ちた牢獄でしかない。死の臭いをまといし者の堕ちる地獄こそ地上であり、そこで生きる者は総じて罪人とされる。地上世界で生きること自体が罪なのだ。
今夜。穢れなき楽園に来訪したのは招かれざる咎人達。彼らを友人として快く迎え入れるだろうか。
綿月豊姫はオビト達に目もくれず、残った玉兎、幻術に落ちて横たわる五人を映す。月光のように神秘的な雰囲気を放ち、扇子を手に微笑みつつ優雅に歩む姿は、天女を思わせる妖しさを醸し出している。オビトはそんな豊姫を観察するうち、他の月人には当て嵌まらない、言い知れぬ感覚を覚えた。
この状況に似合わず飄々と構え、にっこりと笑む豊姫。緊張した面持ちの玉兎に近寄るなり一言「戻りなさい」と命じた。先ほどまで冷静だった玉兎は、半ば怯えた表情に戻りつつも、早口に「了解しました」と言って頭を下げる。倒れている仲間を一瞥してから踵を返して、森の奥へ足早に消えた。
豊姫は五人の兎を見つめた後、右手の扇子を真横になぞるように動かした。兎達の姿が忽然と消えてしまう。
太陽のように温かく、不自然に優しい笑顔がレミリア、オビト、妖精にも向けられる。
「かたーいお話を長々と続けるのは苦手なので。早々に一つ提案があるのですが、聞いていただけますか?」
先の玉兎とは違い、凡そ侵入者を相手取るには似つかわしくない、柔らかな物腰と優しい問いかけ。胸を撫で下ろして耳を傾けたい場面でも、この眼と耳が、豊姫の発する威圧感を見逃すはずもない。
以前に相対した紫や純狐にも似た感覚が体を巡る。目の前の女性は並の月人ですらないと、マダラとして培われた心身が警告を発している。
(綿月の片割れ。姉の方が来たか……)
玉兎達を一瞬にして消し去った謎の能力。豊姫の言葉の方にも注意すべきだろう。得体の知れない輩の吐く優しげな言葉ほど信用に値しないものもそうはない。裏を返せば絶対的な自信の表れでしかない。レミリアが口を開くか開かないかのタイミングで声を出したのも、此方に選択肢を与える気がないからか。
「ええと、アレです。地上世界のご一行様? せっかく遥々お越しいただきましたが、どうかここは都の方へお戻りを……私共としても無駄な時間をかけたくなく、なるべく穏便に事を済ませたいと思っておりまして――」
「芯まで透けて見えるぞ。この状況で猫を被る奴の言葉を、オレのような侵入者がまともに聞くと思うのか」
「私たち、よ」
細まった瞳孔を煌々と燃やすレミリア。豊姫の柔らかな視線が移る。
「妹さんには散々お世話になったけど。お姉さんの方が直々に会いに来てくれるなんてねえ」
「おや。どなたでしょう?」
にこにこと笑う豊姫を前に、レミリアの紅い爪がピクリと動いた。小さな口元がにやりと歪む。
「あのね――本当はどうでもよかったのよ、あなたたち二人のことなんて。前はすぐ興味も失せたし」
「今は違うのですか?」
「血が滾ってきたの。片割れと顔を合わせたからか……ちょうどいいじゃない? あなたの干乾びた頭を、妹さんに届けてあげるってのも。この前のお礼も兼ねて」
高貴なる吸血鬼は敗北を忘れない。間接的な再会を果たした因縁深い相手を前に、見開かれた両目が真っ赤に光る。オビトの制止も聞かず、レミリアは地面を蹴るなり豊姫を目指す。この場に遊びの縛りなど存在しない。
幼くとも正真正銘の吸血鬼。鬼のごとき怪力、天狗に比肩する速度を有した最強の種族の一角。普段は館で優雅に暮らす彼女だが、ひとたび本気で殺しにかかれば、人間や並の妖怪なら抵抗の間もなく首が飛ぶ。異能を除いた純粋な戦闘力ならば、強者の集う幻想郷でも最上位に君臨すると言ってもいい。一方の月人とて寿命以外は地上の者と大きな差はなく、豊姫が玉兎に並ぶ月人だったなら、勝敗など瞬く間に決しただろう。
凶悪な一閃が豊姫の腕を掠り、衣服を僅かに切り裂くも血は流さない。豊姫は扇子を片手に身を翻し、袖の下から取り出した紐――須臾の力を持つ組紐を、レミリアの体に触れさせようとした。
「あらら?」
豊姫は初めて眉を動かすも、のんびりとした声は間が抜けて聞こえた。標的を完全に捉えていた紐の先は、豊姫の腕ごとレミリアをすり抜けてしまった。
吸血鬼は体を霧状に散らして物理的な接触を拒絶できるが、人や妖怪には認識不可能な時間の最小単位を支配する物質の接触は避けられぬが道理。しかも今のレミリアは紛れもない実体で霧化すらしていない。当然ながら幽霊の類でもない。この奇怪な現象には、豊姫も首を傾げざるを得ない。
明るい瞳がすぐにレミリアの横、その背に手を触れている人物に向けられた。相変わらずにこにこと笑い、腕を引き抜いて組紐をこれ見よがしに揺らす。
「むむー」頬を膨らませる豊姫。「ええと。地上人さん? 吸血鬼の子より速いのなら、もっと早くに教えてくださいな。あなたもしかして――『裏』の地上人ではなかったり?」
「生憎だが、裏も表もない」
「綺麗な目ね。お屋敷の玄関口に飾りたくなっちゃう模様」
「余計なコトしてくれるわね……あなた。屈辱的よ」
顔を上げて歯噛みするレミリア。オビトは豊姫を見ている。
豊姫が捉えたのは、右眼の神威により一時的に霊体と化したレミリア。実体分離は術者が触れる全てのものに作用する。咄嗟にレミリアの体に触れたことで、組紐を豊姫ごとすり抜けさせたのだ。
体に接触できる『物』として実体を持つなら、要するに触れなければ須臾の力も及ばない。水滴の粒は元より、原子以下の素粒子をも問答無用で縛る神の産物だったとしても、最小単位を持たない非物質に触れるなど物理的に不可能。縛りの強さと理不尽さは同じだろうが、実体分離を阻害する術式や、物質を超えて概念に作用する境界操作や純化などの方が、神威で相手取るにあたり厄介である。
「うーん……どうしましょ。こんな人まで入り込んじゃうか……今から賢者様のお力を借りても遅すぎるし……どうしたらいいと思う?」
組紐を外すとは思わなかったのか、豊姫は困惑した表情を見せる。笑みは絶やしていない。
「ハァ? 捕まえる側だろうが。あんたらは」
レミリアは呆れながらも正論を飛ばした。露骨に冷たくされたと思い込んだ豊姫は、両手で貌を覆うなり(十中八九演技ながら)すすり泣き始めた。オビトは咳払いして「ともかく」と続ける。
「話を聞く気があるなら、こっちとしても助かる。捕らえるのはその後でも遅くないだろう」
「賛成ねっ!」豊姫は急に顔を上げ、嘘泣きを止める。「と、言いたいんだけど……駄目なのよねえ。先にやらなきゃ」
「……『綿月』だからか? お前が」
「ええ。私ってほら、月のまとめ役とか任されてるじゃない? あなた方に主導権やら握らせるのは立場上問題あるし、まとめ役としての示しもつかないし――面倒だとは思うんだけどね。妹が口うるさくて、その辺ちゃんとしないと怒られるのよ」
「全部こんな感じなのかな。月人って」
緊張が解けたのか妖精は息を吐いた。敵意をむき出していたレミリアも、多少苛立ちつつも落ち着きを取り戻している。
綿月とはどれほど厳格な人物かと思いきや、友人との会話を楽しむような軽い口調と笑顔――蓋を開ければ物腰柔らかで愛想のいい、お喋り好きのお姉さんとの印象を抱かざるを得ない。曰く威厳を出す振舞いは性に合わないらしい。
然るに忘れない。ふざけた態度や笑顔の奥底に見え隠れする色を忘れてはならない。組紐以外にも手札を隠し持つと判り切っている以上、一瞬の油断も命取りとなろう。
「今一度問いましょう。私たちに従う気はない、ということで?」
「その必要はない」
写輪眼を露わにしつつ即答するオビト。豊姫は暫し思案した後、明るい表情でポンと手を叩いた。
「えっとですね。面倒なのは私としてもゴメンですので……アレです、あなた方の存在を『うっかり』、綺麗さっぱりここで消しちゃいます。よろしいですね?」
懐から取り出した別の扇子を手に、優しげな笑顔と恐ろしい文句の組み合わせ。豊姫は「よろしいですね?」と訊いたくせに、レミリアが喋る前に扇子を開いて軽く振った。何の変哲もない物をゆっくりと。
――扇子を振っただけだった。何故か森の景色が溶けるように消えていく。一直線上の草花や樹が煙のように霧消し、じわじわと丸裸にされていく。謎の現象を呆気にとられて眺めていたオビトだが、我に返るなり妖精を掴んで神威でやり過ごし、レミリアの方は楽々と飛んでかわした。
(何だ……)
風の正体は不明。風なのかも判らない。判るのは幻術ではない森の自然物が、幻術ではない謎の力で消滅して映らなくなったこと。
結果だけを見るなら、血継淘汰の塵遁が及ぼす効力に似ている。塵遁の前ではいかなる防御も意味を成さない。あらゆる人や物を分子に近い水準で分解するのだ。対抗策は餓鬼道の封術吸引や木龍など数えるほどしかない。やり過ごすだけなら神威で事足るが。
扇を振る動作だけを見るなら、洞察眼で問題なく先読みできる上、そもそも森を侵食する速度が非常に遅く、目視のみでも避けるのは容易かった。問題は豊姫がどんな力を使ったのか――。
「後ろっ!」
手に掴んだ妖精が鋭い声を飛ばす。今さっき避けたはずの風が、再び森を溶かしながら背後より迫っていた。僅か七寸という距離から間一髪跳んでかわし、眼下に目を落とせばにこにこ顔の豊姫――オビトを見上げつつまたしても扇子を振り、勢いをもった突風がその姿を撫でると、オビトの体は煙となり瞬く間に消えた。
二人を穢れごとまとめて浄化して消し去った後、残りの標的であるレミリアに、のんびりと視線を向けた豊姫。扇子の力が同じくして発動するも、今度は風が届く前にレミリアの姿が掻き消えてしまう。
首を傾げていた豊姫が、直後「あら」という声を聞いて、背後を振り向きかけた。
「どこ狙ってるのよ。穢れてボケが始まったの?」
電光石火。レミリアの紅い一閃が走り、手に持った黄色い扇子が切り裂かれ真っ二つになった。微かな痛みを感ずる間もなく、豊姫の視界が異様な薄暗さで閉ざされる。
森は別の意味で消え失せた。四角い石柱の群が見渡す限りに乱立している。時空間に引きずりこまれてなおも余裕を崩さない豊姫を、四角柱の上から冷静に見下ろすオビト。傍には妖精、尊大な表情のレミリアも居る。
「まるで魔法使いね」豊姫の笑みが広がる。「これはなあに?」
「オレの専有空間。さっきのはオレの幻術だ。そちらの土俵で話をするのも気が進まなかったんでな……無理やり来てもらった」
「うーん……幻術を囮に?」
「念には念を入れた。アンタが相手ではな」
困った時の瞳術は役立つものだ。紅魔館でやり合ったフランドールも当てはまるが、目に見えて危険そうなものと対峙した場合、もしくは対峙するであろう場合、用心の下に慎重に帰して手を打つのは、純狐のように何から何まで得体の知れなさ一色の輩を相手取るより幾分かやり易い。六道のチャクラで精度が底上げされた洞察眼、危険感知との組み合わせも、身に降りかかる厄災を未然に払拭するのに一役買っている。
豊姫が並の月人と一線を画すなど初めから承知だった。話し合いの場を作るために確実な手段を講ずるべきであり、手加減から始める意味がないことも。月人に幻術が通ずるか否かは半ば賭けだったが、先の感覚からして及ぶのは間違いない。もちろん自力で「解けない」理由にはならないが。
「さて、出口はどこかしら」
「そんなモノはない」
ここは全てが瞳力で満たされた特殊な空間。豊姫を包囲する石柱の一つ一つが術者の眼や手足と言ってもいい。檻や看守を要さない牢獄、術者の許可なくして逃亡は叶わない閉鎖空間。八雲紫などの例外を除けば、この時空間に出入りできるのは同じ神威の使い手のみ。
知ってか知らずか、急に慌て始めた豊姫。判りやすい演技を隠そうとすらしていない。
「穢れなき乙女を策略にはめるなんてヒドい! 男の子のやるコトじゃないわ!」
頬を膨らませて子供っぽく抗議する豊姫を、汚物でも映すかのような目つきで見下ろすレミリア。こんな乙女が居てたまるものかと内心突っ込む妖精。無関心故に無表情のオビト。
「話が終わったら干物でいいわね。紐使うし。ねえ? オビト」
「……好きにしろ」
「まったくもう」豊姫は肩を落としている。「一応はあれ、月の最終兵器って呼ばれてる大げさな物なのよ? 量産型だけど。それを壊しちゃって……帰ったら大目玉食らっちゃう。勝手に持ち出した物なのに」
「掴めない奴よねこいつ。むかつくわ」
非常に嘘くさい物言いをする豊姫だが、月の兵器という言葉は的を射ていたりする。
扇子が起こす風は、レミリアやオビトだろうと、あの黒ゼツだろうと、分子どころか素粒子に近い水準でバラバラにできる。月の最新技術の恩恵の産物として、都の施設で厳重に管理される危険物の一つである。そんな物騒な代物を無許可で持ち出せるのは、都の管理の甘さか、豊姫自身に力があるのか。本人のみぞ知る。
そしてもう一つの『謎』がある。扇子とは名ばかりの物騒な兵器を笑顔で振り回してはいても、豊姫が本気で殺しにかかっているとは、オビトには思えなかった。死の穢れを好まないからと言えば納得できるが、本当に捕らえる気があるのかと疑うほど、先ほどから雑な言動を見せている。時間が経つほど胡散臭さは増すばかり。
「お遊びはもういいでしょう。さっさと要件を話したらどう? さすがに地上の妖怪を馬鹿にしすぎなんじゃない?」
オビトと視線を合わせるレミリア。同意見だったようだ。妖精はただ一人「え?」という顔を見せている。一方で急に視線を逸らして、口笛で何かを奏で始める豊姫。隠す気がないにしても限度がある。
口元には性懲りもない不敵な笑み。突如として指先をオビトに向けるなり、豊姫はデコピンで空気を弾いて見せた。反射的に迎撃態勢をとるレミリアだが、今度は傍で口を開きかけていたオビトが――数秒後には一瞬にして消えてしまった。
突然の出来事に驚愕する妖精。レミリアはため息を漏らした。
「……なによ、まだ話す気は起きないって?」
豊姫はにこにこするばかりで答えない。遊び心満載で無駄に場を長引かせる彼女に、レミリアの怒りも沸点に近づいてきた。今にも足裏を蹴りかねない形相である。
「じゃあ質問を変えるわ。あの人間はどこ?」
「穢れの海」豊姫の笑みが薄まる。「すなわち、表の月。哀れな夢の残骸が転がる泡沫の海。今頃は深ーい底の底。陳腐な言い方をするなら――『窒息死』して終幕でしょう。あの穢れた式と同じように」
「嘘でしょ?」妖精は力なく笑う。
宇宙のような真空空間には、生命活動を維持するのに必要な空気が存在しない。人間が生身で放り込まれれば一溜まりもない。十秒も晒されれば酸欠や体液の蒸発も重なり、見るも無残な惨たらしい死体ができ上がる。どんな能力者でも生物である限り終わりは避けられない。しかし、時空間が作用し続けていることから、オビトの命は保たれていることになる。
――間もなく空間に渦が発生した。再び石柱に足を着けたオビトを見て、豊姫は嬉しそうに「わあっ」と声を上げた。玩具の遊び方を理解した童のような表情で。妖精は胸を撫で下ろしている。
「初見でかわしちゃうのね。見所あるじゃない」
「どうやって? というか何が起こったのかも判らないのだけど」
「身構えもなしか……」微かに息を切らすオビト。「さっきの玉兎から手がかりを得ていなければ……危なかったかもな」
疑念を向けるレミリアの傍を通りながら、オビトは赤い目で今一度、眼下の石柱に佇む豊姫を見下ろした。
「直に味わって確信した。紫の空間操作に似通っているが……どちらかと言えばオレの神威に近い」
「あなたの?」
「何かを転送するってとこはな」
豊姫の指先から撃ち出された塊を、チャクラを色で見分ける写輪眼ははっきりと映していた。そのチャクラに触れた瞬間、気がつくと真っ暗な空間に放り出されていた。行き先に違いこそあれ、玉兎達を消し去ったものと同じ力と見て間違いない。
何もしなければ終わっていたが、神威には単なる転移の他にも能力があった。両眼を使用した時空間移動の応用、左眼を軸に発動する空間共鳴。異なる空間同士を行き来する『共鳴転移』である。
結界の外と都を繋ぐ空間の出入り口は、煌々と輝く大きな月を背にして、離れた場所に小さく口を開いていた。それが閉じられる前に、左眼の神威を遠距離から発動し、出入り口を渦に巻き込み共鳴させた。同時に右眼を発動することで、己自身を左眼が作る歪みの中、つまり出入り口の内部へ転移させた。両眼の神威は互いに繋がるため、左右が作る二つの歪みの間を自由に行き来でき、神威と共鳴した他所の空間にも干渉できるのだ。
カグヤが行き来する六つの異界など、専有空間や現実世界以外の異空間に干渉する場合は、本来なら膨大なチャクラを要求される。しかし、出入り口が専有空間に通じていた関係で、共鳴転移の際に使ったチャクラは微々たる程度に止まった。ちなみに共鳴させずに使うと、移動先は現実世界内に限定され、時空間を介さない普通の転移となる。
ただし――神威空間へ入る直前に居た場所が月の大結界内だったこと、管轄外の空間に接触した事実や、出入り口を開いた豊姫自身が相当の力を持つことも重なったからか、体力の方はそれ相応に負担を強いた。十尾を体から抜き取られ、虫の息状態から行動を起こした当時とは異なり、少々息が切れる程度で事は済んだが。
「なら打ち破れるってことね?」レミリアは満足げに笑んだ。
「奴の力に対抗はできた。ただこの空間を――隔絶された空間を越えて、易々と外へ放り出した。空間転移はオレ以上だ」
現実空間内の移動。現実空間と神威空間の行き来。共鳴にしろ直接の転移にしろ、ここまでならリスクもなしにこなせる。問題は現実空間と管轄外の異空間、もしくは異空間同士を行き来する場合である。幻想郷から月の都へ入り込んだ時のように、チャクラと体力に相当の負担を強いる。この場合は裏(幻想郷や都)か表(外界と表の月)かは関係ない。
すなわち、神威空間と結界外の世界。豊姫はこの二つを瞬時に繋げてみせた。表情に疲労の色は微塵も見られず、体内を巡るチャクラも穏やかだ。乱れや歪みの一つもない。チャクラを視通せる写輪眼を前に誤魔化しは効かない。つまり彼女は神威以上の空間干渉を、文字通り『易々』とやってのけたわけだ。
「同じ系統よね。近さを感じたなら。あなたの様子からしても」
「見聞きも感覚も慣れはなかったがな……上位種なら簡単にはいかん」
「……あの妹にしてこの姉か。綿月ってのはぶっ飛んでるねえ。腹立たしい」
全ての術の始祖であるカグヤは例外としても、忍界における『時空間忍術』の括りでは一、二を争う術だった神威。それを覆した八雲紫の境界操作を含め、非常識な物事の数々を幻想郷で目の当たりにしていなければ、豊姫の力を身をもって味わった分、大きすぎる衝撃に押し潰されていたかもしれない。
こと転移能力ならカグヤとも張るだろう。ここまでを容易くやってのける豊姫とは何者なのか。
「結構です」豊姫は咳払いした。「そちらの方はやり手ね――兎たちより遥かに期待できそうだわ。あなた、お名前は?」
「……うちはオビトだ」
判りやすく褒め称える豊姫。彼女自身は力の底など見せていない。上から目線の物言いに不快な表情を露にするレミリア。妖精はオビトの肩に隠れて顔を覗かせている。
猫を被る必要性を自ら否定したのか、豊姫から作り物の笑みは消えている。
「要求には応じましょう。お話は向こうで聞きます。あなた方には一つ……見ていただきたいのです」
現時点で豊姫は信用に値しない人物だが、小さな衝突を経て一つの分岐点は迎えた。
前へ進むための選択肢として、向こうの意に従うのも止むなしだ。本当に信じるべきかはそれから決めても遅くはない。
――◇◇◇
深い森が消えて、電灯で照らされた明るい部屋が現れる。目的地への移動手段は豊姫が自前の能力で提供したので時間はかからなかった。
医療施設の一室のようで、清潔な白いベッドの傍には丸椅子や棚が置かれている。問題のベッドに寝かされていたのは、蝋のように白い貌を見せている、変わり果てた少女の姿だった。
閑静な病室にて少女を見下ろすオビトと豊姫。妖精は傍で黙り込み、レミリアは壁に寄りかかり腕を組んでいる。
「月人か」
「稀神サグメ」豊姫が呟いた。「都における賢者の一人です。従者と共に西の『静かの海』に倒れていたところを、玉兎たちが発見しました。体に目立った外傷はなく、緊急の処置も不要でしたが――」
「これは……」
「ええ。彼女は死んでいます」
負傷や病の類なら処置も必要となろう。そうでない場合、保護して医務室に運び入れ、ベッドに寝かせるという単純かつ簡単な作業で事足りてしまう。かといって棺に納めるのはやりすぎだ。なればこそ少女は「眠りに就いている」。
「正確には、仮死状態ですが」
あらためて少女を視る。表情には生気がなく、手に取れる体温は冷たい。呼吸もしていない。写輪眼を通して視ても、生命の源たるチャクラを毛ほども感じられない。
忍界には醒心丸と呼ばれる丸薬が存在する。大蛇丸が独自に開発した薬の一つで、未覚醒の仙術の力を強制的に目覚めさせる効果がある。それに付随する作用として、服用者を一時的に仮死状態にもする。しかし、眠っている間はチャクラこそ弱まるが、全くのゼロに消えることはない。最低限の生命維持活動にはチャクラが必須だからだ。
死んでいるようにしか見えず、そうとしか思えないサグメの状態を、豊姫は仮死と直球的に断定した。月の民たるサグメが持つ死の概念が、忍界の民や地上の人間、妖怪のそれとは異なるのなら、あり得ないとは切り捨てられない。
「先に訊いておく」オビトは厳しい表情で豊姫を見る。「……何故、オレたちをここへ導いた。侵入者風情を信用したわけでもないだろう」
豊姫達が仮死との判断に至った事情を細やかに聞き出す必要がないのは、サグメを襲ったであろう者、具体的な手段には狙い違わず、心当たりがあったが故。然るにその仲間であることも否定できない輩を、何故に無防備な月人、しかも賢者という高い位の人物の元へ通したのか。少女について語る前に白黒つける必要はあった。
「あなた方と同じです。概ねですが」豊姫はサグメを見ている。「――月と地上との間に、信頼と見なせる関係など皆無。昔からそうでした。ですがあなたのお力に鑑みて、此度そちらが『鍵』になり得ると結論づけた。都と幻想郷、共通の敵が刃を向けるなら、私たちは然るべき判断の下に力を尽くします」
「利害って便利ね」レミリアは鼻で笑う。「一時休戦だなんて、調子いい気もするけど。さっきのお馬鹿な畜生たちは、私たちを見つけ出すのに送り込まれた駒だったってわけ」
レミリアは敵である月人と手を繋ぐ気など毛頭ない。オビトの場合はいずれでもなく、今や敵味方という概念は持たない。諸悪の根源が目の前に立ち塞がり、ソレを滅ぼすために動くに過ぎない。
傲慢で穢れを持たず相容れずとも、月の民は悪人ではない。根本は地上人と変わらない。このやり取りで豊姫の想いは十分に見えた。オビトはこれ以上の深入りを無用と判断する。
「サグメと言ったか。この娘は特異な力で魂を抜かれている。人や妖怪でもまず死ぬはず……仮死に止まったのは、月人の体が特別だからか?」
影のマダラとして忍界を歩き、後々実際に輪廻眼を左眼に宿した経験を持つ身として、六道の術の詳細は隅々まで知り尽くしている。サグメを仮死に追いやった力が、輪廻眼・人間道の『吸魂の術』であると一目で判った。相手の内に干渉し魂を物質化させて掴み、外に引きずり出して殺すのだ。
他の者の助けがあるならともかく、自力で抵抗する術は非常に限られる。同じ輪廻眼の持ち主や、チャクラの綱引きができる尾獣の人柱力、術者以上のチャクラや精神力を持つ者。三つ目に関しては、輪廻眼を扱える時点で普通の忍ではないため、カグヤなど超越的な力を持つ者にしか当てはまらない。ならばと術者の方を叩こうにも、魂が少しでも外へ出るとチャクラが上手く練れず力も抜ける一方なので、一対一で術中に嵌ると防ぎようがない。消耗した状態でなら尚更だ。その意味で餓鬼道との組み合わせは脅威となる。
都に侵入した黒ゼツが手を出したと見て間違いないだろうが、魂を抜かれた者は普通なら死に至る。人や妖怪にはない部分がサグメにはあるのだろう。
「彼女は月の民であり神霊。この体は現世に顕現するための器……人々の声や知を存在意義とする神の類は、器から魂が抜けても存在は滅びない。人間には死体にしか映りませんが――ともかく、事が収まるまでは目覚めないでしょう」
「好ましくないな」少女を観察するオビト。「賢者の一人が欠けた状態では、都も満足な動きは取れないはずだ。月人の天敵もいる」
「純狐……都を脅かす負の神霊。本来なら稀神に任せて終息させる事態ですが、今回ばかりは動かざるを得ませんね」
黒ゼツに関連する有益な情報を渡す対価なのか、豊姫は都と因縁のある者達の――といっても今回は純狐一人だが――詳しい情報をオビトに提供した。純狐の詳細は阿求の幻想郷縁起、紅魔館の図書館を漁っても不明瞭だったため、都側の情報は思わぬ収穫となった。
物事の純粋な本質を露わにさせる純化の力を始めとして、都に住む月人を幾度に亘り襲撃した純狐を、月の賢者達が知恵を駆使して追い払っていた『静かなる戦争』。その手段こそが都の凍結である。夢の世界にあるもう一つの都に、月の民全員を避難させることで、純狐の脅威から都や民達を守っていた。今回も純狐の襲撃が確認できれば、例に漏れない手段で人々を守り、騒ぎは終息に向かうはずだった。
此度の事件に前例がない理由は三つ。計画の要である稀神サグメが倒れ、慣れのある従来の方法を先んじて封殺されたこと。天敵である純狐の存在を奇怪にも隠蔽する形で起こされ、月の賢者達も動くに動けない状況に陥ったこと。そして最たる理由は黒ゼツの存在。地上や月の民ですら知らず、知りようのない未知なる協力者の存在は、結果として都に先制的な大打撃を与えたのだ。
企みを白紙に戻す事態を潰すためだったと考えると、黒ゼツが逸早くサグメを潰した理由としては納得できる。
(ここまでとはな)
――もう一つの厄介ごと。黒ゼツがサグメの魂を抜き取った際、彼女が持つ全ての情報を得てしまった事実。
人間道・吸魂の術は、魂を抜き出す際に相手の知識、蓄積された情報を奪い取る。この術が一つあれば、情報収集のための聞き込みも拷問も、写輪眼による干渉も必要ない。本人の意思とは関係なしに、問答無用で機密情報を漏洩させてしまう。その相手がよりにもよって月の賢者など、流れとしては最悪だろう。おそらくは今回の一件だけで、都の内情を含むほとんどの情報を入手したと見ていい。都の奥深くにまで関与する立場の者として、この事実を知った豊姫の心境は果たして。
神々の知恵を有する月人といえど、六道なる異界の術など知る由もない。余所者風情が賢者と『同等』の知識と情報を一晩もかからずに得るなど、いったい誰に予測できようか。
ちなみに永琳が書いた――書かされた文書の件については、完全に信用していたわけではなかったようだ。師が絡むと一変して私的で頑固になりがちで、生真面目さの悪い面が出やすい妹の方は、姉の言葉を受け入れることに消極的だったようで、豊姫としても説得には苦労しているらしい。
オビトが一人黙り込んでいると、今度はレミリアが「だったら」と声を出して沈黙を破る。
「捕まえた連中は解放するんでしょう? 敵の敵が味方ってんなら……私たちに危害を加えないよう、畜生たちに念を押してもらわないとね。別の敵がいるって中で、鬱陶しいことこの上ない」
「ええ、当然です」
「……呆気ないわね。妹さんの許可はいいの?」
「必要ありません。都での動きについても、余程の悪行が見受けられない限りは制限しませんので、その辺りはご自由にどうぞ。代わりに身の安全は保証できませんし、するつもりもありませんが」
豊姫の言葉に悪意は含まれない。現状での関係に鑑みれば自然だろう。見方を変えれば表面上の休戦協定に過ぎない。
レミリアは満足げに鼻を鳴らした。利害を超えた関係など望んではいないのだ。
「ならさっさとあの薄汚い牢に戻るわよ。あんたらにしか解けないんでしょ? 食物繊維の組紐は」
「ご心配なく。人は動かしました。じきに解放されるでしょう」
霊夢と紫の問題は都に身を潜ませる黒ゼツと純狐。月人に擬態してチャクラを隠蔽されては動くに動けない。純化の力を借りればさらに巧く隠れることもできよう。
「お前らの裏をかいたなら、奴らの消息は都側にも?」
「仙霊に組する見えない協力者……此度はそれが誤算となりました。残念ながら」
黒ゼツはカグヤの意志そのもの。月や地上にとって未知の、忍界という異界の中ですら異端に類する者。純狐は都の手ですら潰し切れない規格外の神霊であり仙霊。先手を打てるほど見えやすい相手なら動きようもあるが、この先を視通せる者など存在しないだろう。
「一理ある感じね」レミリアは素直に肯定した。「無駄な動きは隙を作る。面倒な事態を呼び寄せかねない。騒ぎの中で処理するのも一つの手……霊夢や白黒なんかも、コトが起きてから動き始めたりね。私もそっちの方が合ってるわ」
「けど、待つなんて……」妖精は俯いている。
「逸れば足元を掬われる。今は依姫とやらが気がかりだ」
「お婿さん候補? それはあなたのご活躍次第ね」
「……話した通り奴は、戦闘と幻術兼用の厄介な駒を手中に収めている。お前らの師である永琳をはめた輩――そいつの元に姿を現さないとも限らん」
自らを脅かす有力者達に優先順位をつけて、高い者から手にかけるのは戦いにおける定石。地上の巫女と同じかそれ以上の『神降ろし』を扱う実力者なら、黒ゼツにとって脅威となり得る。サグメ以外の賢者、月の王である月夜見を含む上層部にも手が伸びるかもしれない。写輪眼の瞳術が豊姫や永琳にも及ぶのなら、他の月人が敵の手に落ちる可能性は十分に考えられる。
「黒ゼツと言いましたか。稀神の全てを奪い、月の民に紛れ込んだ……神出鬼没という意味では境界の妖怪にも負けず劣らない。そのうえ純狐まで居る。賢者たちの頭を悩ませるには十分ね」
「都を護れていたのは、この娘の力によるものが大きかったと」
「だからこそ、状況は好ましくない。あなたの言う通りです。稀神を欠いた今、決定的な手を打つのは難しい」
稀神サグメという人物が、都にとってどれほど重要な地位に居り、必要な人物だったのかを理解させられる。月の民とて『全知全能』ではないのだから、現状を好転させる方法を模索するのは容易ではなく、現実的に見ても不利な状況なのは否めない。
寿命の概念を植えつける瑕穢は、月の民が最も忌避すべきと考えるもの。本来なら都での争いや殺生などご法度である。穢れを知らぬ月人を脅かすおそれを、血で血を洗う争いにより生じさせるからだ。
此度は無血で平和的な解決手段など望めない。戦いに伴う穢れは避けられないだろう。レミリアが「どうする気かしら?」と興味なさげに問いかけると、豊姫は「やむを得ません」と自嘲した。
「同じやり方は通用しないのです。全面的な戦いに臨む覚悟で向かい合う他ないでしょう。都の禁忌を侵す形にはなりますが、我々の世界を護るためなら安いもの。血を流すことに臆していては前へ進めない」
豊姫はサグメのベッドに背を向けた。あのおふざけが遠い過去に思えるほど、金色の瞳はしっかりと前を見据えている。口元には笑みすら浮かべて。