THE LAST PHANTASM -OBITO- 作:大兄貴
気味の悪い波紋状の眼から流れた涙が、両頬に漆黒の線を作っている。
嫌悪感が主な理由だが、魔理沙には人の皮をかぶった化け物にしか視えなかった。善からぬ企みから人間のふりをする妖怪や、愚かにも妖怪と化した里人ですらマシと思えるほどの。地上人より遥かに穢れて見える塊などを使者として使うほど、都が堕ちたわけでもないだろう。内情を知らず興味関心を持たない余所者の身でも判ることはある。
急に出てきて『私は黒幕です』と言われても、困惑やら何やらが重なり反応に困る。判るのは相手が月人に擬態した何かで、地上と月の都との間を引っ掻き回した張本人であり、幻想郷から霊夢と紫を奪い去る原因を作った人物であること。
「ほんッと……マジで気持ち悪いな。本気で戦いもしないで試すだの何だの、どいつもこいつも私を踊らせようとしやがって。そんなにダンスが好きなら一人でやってろ」
「ガキ相手ニ本気ヲ出ス奴ガイルカ」男は嘲る。「異変ノ黒幕トヤラニ辿リ着イタンダ……呆ケテイナイデ殺シニカカッタラドウダ。ト言ッテモ全力ヲ出シタ後デハ酷カ」
「生意気な馬鹿だ」魔理沙は目を開いた。「……よくわからんが、待ちに待った黒幕ってんだろ? 願ってもないチャンスだ。死にたきゃ原形も残さず粉砕してやる――」
自分らしい姿勢と言葉を捨てようとはしない魔理沙。魔力の大半を失った状態での精一杯の言葉でもあった。探していた黒幕を前にどれだけ強がろうと、己の全てを乗せて解き放った事実は取り消せない。
「こいつは、私の役目だ」
地上と月は対立関係にある。今ここで一思いに屠るより、月人に成りすました状態で捕縛して都に突き出し、容疑のかかった霊夢達を解放させる方が、今後の動きを考えれば最善だ。都側に借りを作り色々と得もできよう。魔理沙も頭では解っていた。思い通りに事を運ばせる力など、今の自分には皆無ということも。
この場で為すべきは、近いうちに幻想郷に災禍をもたらすであろう輩を仕留めること。命惜しさに逃げるという選択肢など初めから存在しない。自分が最初に辿り着いたのだ、くだらない悶着を終わらせるのも、今の自分しかいないのだと。
足元に魔法陣を展開させる魔理沙を眺めながら、黒ゼツは月人の声帯を使い「意外ダ」と呟いた。
「サッキノハオ前ノ全力……今ヤソレ以下ノ力シカ振ルエナイ身デナオモ絶望シナイ……士気ヲ削イデ心ヲ折ッタツモリダッタガ」
「バカかお前」八卦炉を握り締める魔理沙。「んなコトしたって、状況が悪化するだけだろ。生憎と私は諦めが悪くてね。死なない限りは倒れないんだよ」
「ヤハリガキダナ。ダガソノ強ガリガドコマデ続クカ……先ニ遊ンデミルノモ悪クナイ。戦イノ中デ死ノ恐怖ニ怯エ惑エ」
天地創造と破壊の力を宿す神の眼が、たった一人の少女を前に見開かれた。
「『オーレリーズソーラーシステム』」
魔力を凝縮させて作った拳大の小惑星達が、竹箒に跨る魔理沙の周囲で公転し始める。内部で魔力体の自己分裂を繰り返して、不足分を微量だが外部より行使者に供給するエネルギー体だ。魔力の恩恵もあり揺らいでいた視界が安定し、呼吸も落ち着きを取り戻していく。
動かない黒ゼツを力強く睨みながら、休む間もなく次なる魔法陣を展開する。
「――魔星『イリュージョンスター』!」
そう叫んだ魔理沙だが、黒ゼツの目には何も映らない。八卦炉を向ける少女が居るだけで変わりはない。
ところが次の瞬間、上を向きかけた黒ゼツの体が炎に包まれ燃え上がった。笑みを浮かべたまま硬直する器の体を、紅蓮の焔が容赦なく燃やしていく。
「あの堅物が言うには」頭を垂れる魔理沙。「……大気の薄い月じゃあ星は瞬かないんだと。見えないものを避けるのも弾くのも、誰だってできやしないだろ。調子こいてるから盲目になるんだ、覚えとけ外道」
再び心身を襲った消耗を押し殺し、魔理沙は焦げついた錫杖を思い出していた。
能力の行使者に隙を作れば、何かしらの突破口は見つかる。振るう力が厄介なら振るわせなければいい。迎え撃つのに必要な意思決定をさせる間もなく一気に畳みかけて勝負を着ける。洞察や分析に余裕がない魔理沙には、この危険な賭けに出るしか手はなかった。全身全霊の魔法を防がれた後となっては――。
「違ウノサ」燃えながら喋る黒ゼツ。「今ノ奇策ニハ正直驚イタガ……何モカモ違ッテイル。オ前ゴトキニ打チ破レル程度ノ安イモノジャナイ……コノ眼ハ今モオ前ノ……恐怖ニ歪ンダ顔ヲ映シテイルゾ」
舌打ちして咄嗟に八卦炉へ魔力を込めようとした時、魔理沙は空中でバランスを崩しかけた。飛行に割くので精一杯になるほど魔力を使いすぎたのだ。魔力供給は限りがない代わりに、時間単位での供給量は絶対的に少ない。元々この魔法は、絶体絶命の劣勢下でも無理やり戦い続けるための、悪あがきにも近いものだった。
魔理沙は放心状態ながらも、先ほどの攻撃を無力化したモノの正体を、この時に初めて目の当たりにした。器の体を包んでいた灼熱は大きく歪み、渦を巻いて吸い込まれ跡形もなく消えた。飢えた餓鬼が一欠けらも残さず食い尽くしたのだ。あまりの光景に理解が追いつかなかった。
「『輪廻眼』ハチャクラニヨル攻撃ヲ吸収スル……物質ヲ起コス術ナド一切通用シナイ。ツマリオレハ取リ分ケチャクラ頼リノ……オ前ラ魔法使イノ天敵トイウコトダ」
「ありかよ、そんな。馬鹿げてる――」
ふざけた能力を語ることに加え、『魔法使い』という種族そのものを否定したに等しい黒ゼツ。意識の外を突いた星々による攻撃も、殺意を込めた光線も防いだのではない、それらを基にする魔力を吸収して無力化した。
「なにがしたいんだ、お前? なんで無意味に長々と遊んでる?」
チャクラを吸収するという芸当を平然とやってのけた輩だ。他にも一つや二つ力を隠し持つのだろう。本人が語らずとも直感的に判った。魔力を食い尽くして抵抗の術を削ぎ落とし、無防備になった瞬間を料理するなど造作もなかったはずだ。
「殺スニハ惜シイ。大切ナ肥料ダ」黒ゼツは空を見上げる。「力試シト言ッタナ……コレハ半分本当デ後ハ嘘ダ。オレハ奴ヲ制スルタメニココヘ来タノサ」
「霊夢……オビトを?」
「奴ラモ厄介デハアル。ダガ今トナッテハ違ウ……オレノ計画ノ妨ゲニナル輩ガ残ッテイテナ。冥土ノ土産ハ要ラナインダ……ガキニ話ス必要ハナイダロウガ」
器は満足した様子で踵を返すと、海上を滑るように浜の方角へ進む。魔理沙は大声で「待てよっ!」と叫ぶなり、八卦炉を竹箒の後端に括りつけると力を振り絞り、蓄積された魔力を解放した。金色の光線を爆発的な推進力に流星のごとく飛び出す。そうして一定の距離まで迫った時、体を不可解な衝撃が襲ったのだ。
尋常ではない衝撃を真正面から浴びて、竹箒ごと吹き飛ばされる魔理沙。朦朧とした意識の中で、自らを見下ろす悪党に手を伸ばし続けていた。
「オ前ラニ希望ナドナイ」器は嘲笑する。「無常ノ海ヲ感ジロ。心ヲユックリト蝕ンデイク……恐怖ト絶望ヲ噛ミ締メナガラ」
海面に浮かぶ姿から視線が外れ、月人はまだ見ぬ標的を幻視した。
――◇◇◇
静かの海が触れる浜辺。巨大な剣を装備した戦闘用ゴリアテ人形を操り、最後の使者を相手取っていたアリス。
繊細で見事な指捌きに合わせた、巨体に似合わぬ軽やかな動作。以前に魔法の森で披露した時より強力で、緻密な改良を重ねた人形が幾度となく剣を振り下ろし、砂浜に大きな穴を作り続けている。当初は優勢だった月人も、予想外の俊敏さから繰り出される破壊力を前に、決定的な隙を見切れないでいた。
「豪快な戦法ですね。華奢なあなたがこのような奥の手を」
「人は見かけによらないってやつよ」
冷静沈着な口調に反して、可愛らしく微笑むアリス。
頭上に浮かぶ蓮の花は、本人と連動した魔力の吸収装置のような物で、魔力を基礎とする弾幕を無効化する。通常の弾幕や上海・蓬莱人形達は数こそ勝るが、非力な物理攻撃、爆発による衝撃波も有効打に至らぬとなれば、後は手元の人形で最も強い力を持つ個体が必然的に残る。未完成な上に力押しは美しくないが、それ以外の手はいずれも効果が薄いと、アリスは速やかに判断した。
従う気はないと判断して半殺しを選択したのか、向こうも本格的に攻撃を開始した。連射される群青色の光弾をかわし、なおも同じ動作を続けざるを得ない。月人は霊力が高いのか光弾の火力が高く、防護障壁を施したゴリアテでも所々焼き焦げていた。
(長引くと不利か……だけど)
ゴリアテは破壊力こそ一級品だが未完成。上海や蓬莱のように自律式で動かせるほど洗練されていない。魔力糸による操作でも巨体故に動きが制限され限界が出る。この人形で攻撃を避け切るのは不可能に近かった。
避けられる攻撃も操り手を狙われたら、ゴリアテは盾として機能せざるを得ず、その隙を突かれ狙われやすい。耐久性が高く壊れにくいだけで、攻撃を受け続けるにも限度がある。不利な持久戦を否定するためにも、本来なら同時に弾幕をばら撒くなり、敵の注意を逸らして隙を作りつつ戦うのだが、生半可な魔法攻撃はあの花が問答無用で吸い尽くす。一方で魔法使いを相手取る向こうは、自分の身を守りつつ動く必要がないため、猛威を振るう人形から意識を外さず、時間をかけて防御を削り剥がすこともできる。
然るにゴリアテの武器は剣だけではない。上海や蓬莱には精度と繊細さで劣る代わりに、内部に魔力の血管を多く複雑に張り巡らせることで、巨体に見合う仕込みの発動を可能とする。
操り手の左手中指が動き、ゴリアテの左掌に開いた穴から無数の針が射出される。月人が杖先から飛ばした光弾の群は、魔界の鉱物から生成された特殊な鉄針に弾かれ、魔力を打ち消しながら迫った。月人は錫杖で応戦するも、細やかで数が多すぎる針は迎撃の隙間をすり抜け、うち何本かが左肩や脇腹など複数の箇所に突き刺さる。その表情が苦痛に歪んだ。
「まだよっ!」
ここで手を休めて様子見に入るほど詰めは甘くない。月人が体勢を崩した隙を逃がさず、ゴリアテを操り剣を振り下ろした。
咄嗟に身を翻す月人だが、七色の一閃が走り、花の半分から上部が真っ二つに斬り裂かれた。月人は光弾を撃つと同時に砂を蹴り、ゴリアテとアリスを怯ませ距離を取る。間髪容れず攻撃を仕掛けようとした瞬間、月人は苦しげに片膝を着いた。隙を逃さず背後から迫ったゴリアテが、喉元に刃を突きつける。
左手首から肩の球体関節にかけて次々と穴が開き、全ての銃口がゼロ距離で標的を狙う。それらの仕込には目もくれず、流れ出る血と刺さった針を視て、月人は疑問の表情を浮かべた。
「体が……これは毒、ですか?」
「いいえ」アリスは腕を下ろす。「そんなチャチな物じゃない。体内を循環する霊力に直接作用して、四肢を含む各部位への神経伝達を阻害する物質を自己生成する……だったかな。私の居た世界では広く知られる魔法よ」
アリスの生まれ故郷は幻想郷ではない。月の都や忍界と同じ枠に分類され、ごっこ遊びの規律による縛りが及ばない異界の一つ――『魔界』である。魔法使いや魔女の本場であり、多種多様な魔法生物(幻想郷で言う妖怪)が生息する世界だ。その意味では元異界人とも言えよう。そして彼女の身の上は、幻想郷で平穏を享受できる理由にもなっている。
魔法使いは人の身を捨てて生まれる人外。幻想郷においては『妖怪』に分類されるため、後天的に妖怪化した人間と見なされる。人間の妖怪化は許されぬ禁忌の一つなので、博麗の巫女によりごっこ遊び関係なしに潰され滅ぼされる運命にある。情け容赦ない制裁をアリスが免れているのは、彼女の出身が魔界であり、魔法使いとして幻想郷に踏み入った例外の一人に数えられるが故。パチュリ―や某住職も似たような経緯である。そうでなければ今ここには立てなかった。
「なるほど。あなたの繊細さ、器用さはこちらにも……」
「割とできる方だったりするのよね、こういうの。高威力の魔法を扱うのは不得意だし、性に合わないけど……あなたの場合は全部吸い取っちゃうんだから、それ以前の問題。危なかったわよ」
四方八方を仕込で囲まれた状況では月人でも迂闊に動けない。動かそうにもそもそも体が縛られている。そう思いつつアリスは静かの海の方角に目を向けた。
各々月人との戦いに身を投じた二人は大丈夫だろうか。大気の薄い月面では見通しづらい上に気配や音も聞こえない。静かの海では名の通り、余計な雑音は海に呑まれ消えるようだ。
「ここまで、ですね。この状況では圧倒的に不利。とどめを刺すなら今です」
依姫から使者に下された命は侵入者の捕縛。敵とはいえ討伐命令までは受けていない。月の民として殺生による穢れも忌み嫌う。
一方でアリスは地上の民であり、都がどんな色に濁ろうと関係も影響もなく、幻想郷の外なのでごっこ遊びに固執する必要性すら否定できる。早い話が好き勝手に暴れられる立場にある。本人は「とどめ、ねえ」と復唱して息を吐いた。
「気が進まないわね、そういうのは」
「情けをかけるおつもりで? 甘さと優しさは違う……温かな気質を持つあなたでも、それは――」
「館の連中には禁句ね」アリスは笑う。「実のところ私、そこまでじゃないの。温かさだのって自覚もない。たぶんあの人……オビトと同じ理由ね。関係のない命を奪うことに意味はない。間違いは正さなきゃ先へは進めない……」
「どういうことです?」
この戦いで感じたものがあったのか、目を瞬いてアリスの言葉に注目する月人。しっかりと見返しながらアリスが口を開いた時だった。
「口車に乗せられぬよう」
しわがれた声が浜辺に響いた。月人とアリスの間に降り立ったのは、魔理沙を追って海上へ消えていたもう一人。
笠を被っておらず、荘厳な顔つきが露となっている。それを見たアリスは急いで口を開いた。
「ここに来たってことは……」
「侵入者の一人は制圧したが、残念ながらもう一人はしくじった。あの地上人がこちらへ向かっている」
男はゴリアテに絡め取られた月人に近寄った。操り手のアリスが指令を下す前に、右手を無言でゴリアテ人形に向ける。重量のある巨体が突如として吹き飛ばされ、轟音と共に巻き込まれたアリスは高々と宙を舞う。月人の女性はその姿を目で追った。
「あの娘は相当な使い手だったのだろう。ともかく今は、我々だけで残りを何とかするしかない。先に傀儡使いを捕らえる……見たところ苦戦していた様子だが、まだ戦えるだろう?」
男は刺った針を無理やり引き抜き、苦しむ女性の肩に手を触れた。青白い蒸気と共に傷口が塞がり始める。負傷箇所の治癒に伴い、頭上に浮遊する蓮の花も元の形を取り戻した。アリスは離れた場所で体を起こすと、顔を上げて乱入者を映す。
依姫相手に仕掛けたごっこ遊びならともかく、魔理沙は本物の戦闘で月の民にコケにされたとして、尻尾を巻いて逃げるほど臆病者でも腑抜けでもない。何よりマーガトロイド邸で決した彼女の心は、自分達の平穏を守りたいという意志は揺るぎないものだ。男が戦いの最中に逃亡したのなら迷わず追うだろう。付近に魔理沙の姿も気配も感じない辺り、倒されたと考える方が自然だろうか。
「助かりました」冷静な面持ちの女性。「なるほど。では、侵入者は」
「海面を漂っているか、沈んで消えたか。気にする必要もない」
「私としたことが……よもや、そのようなことが、本当に……」
信じられないとの表情で呟く女性。何が『なるほど』なのかは本人の行動で明らかとなる。群青色の光弾が男の胸部に撃ち込まれ、直撃を受けた男は勢いよく吹き飛ぶと、地面に叩きつけられ横たわった。
体を起こすアリスを背にした女性の頭上で、黄金色に煌めく蓮の花を咲かせ始めた。錫杖が静かの海に鳴り響く。
「お前は凱聯ではない」女性は鋭く言い放つ。「その者に隠れ潜むお前は、何者だ。正体を明かさぬなら――深淵に潜む邪な色を照らし出せ」
錫杖の先から白銀の光が放出され、男の断末魔が長々と響き渡る。
身構えたアリスが見守る中、悲鳴は段々と笑いを含んだものとなり、最後にははっきりと高笑いに変化した。
男はふらつきつつ腰を上げると、眼孔より流れ出る黒い液体を見せつけた。それは二人が目を背けたくなるほどの、体を乗っ取られた使者の変わり果てた姿。
魔力の糸を紡いで指先を動かそうとした瞬間、腕から肩にかけて激痛が走る。先の衝撃が体に残っているようだ。
「甘すぎて反吐が出る」器はにやりと笑っている。「なにが捕縛して綿月様に引き渡す、だよ。少しでも疑いがかかったら、さっさと始末する方が楽で確実だろうに。まあ生かしてくれた方が……俺にとっては都合がいいがな」
考えを巡らせた女性は、最後にアリスの言葉を思い返すなり、察したように目つきが鋭くなった。
「稀神様の件を含む、一連の事件の首謀者……あれだけ近くに居て、僅かでも疑いの目を向けられなかったなど……」
「当然だ」薄紫色の目が見開かれる。「お前ごときが向けられるものか――…俺の力ヲ見破れルのハ……『カグヤ』ニ近イチャクラヲ持ツ者クライダ。今回ハバラシタ身ダガナ」
「黒幕……呆気なく出てきたじゃない」肩を押さえるアリス。
「オ前ラガ思イ通リ動イテクレタオカゲデ……上手ク事ガ運ンダカラナ。結局ハ全テガ掌ノ上ダ」
睨みつける女性を眺めながら、心底愉快そうに笑む器。
頭の中で情報が次々と修正されていく。情報の急激な入れ替わりで思考が揺らいでいるのは、人形遣いの少女も同じだった。アリスとの戦いでは露わにしなかった、明確な殺意が蓮の花を覆い満ちている。
「愚カナ者共ダ……地上ノ民ヲ不信ト傲慢故ニ捕エ……仲間ヲ盲目ノ中ニ追イヤッタ……罪深イノハオ前ラ月人ノ方ダッタナ」
黒ゼツは残忍な笑みを浮かべて足裏を蹴る。修羅の攻により鋼鉄の傀儡と化した右腕を袖から覗かせている。
「我が意志よ」女性は錫杖を手に叫ぶ。「万象を滾らせし女神の焔――その魂魄諸共に、不善なる影を滅却せよ!」
今まで沈黙していた蓮の花が、迫り来る邪悪を前に輝きを増すと、螺旋状に巻いた白銀色の閃光が黒ゼツを一直線に呑み込んだ。徐々に散りゆく黄金の花弁だが、散り落ちる度に勢いが増大し、花が散り終える頃にはアリスでも測り知れないほどの、途方もない霊力の奔流が静かの海を通り過ぎた。
力の解放と共に体勢を崩し、錫杖を地面に突き刺した女性。地上に住む強力な人妖すら滅失させる女神の火を喰らい、無事だった者など一人たりとも存在しない。なればこそこの現実が夢とさえ思えた。
「そんな――?」
「健気ナ罪滅ボシニ対スルセメテモノ褒美ダ……哀レナオ前ダケハ特別ニオレノ手デ葬ッテヤル」
月の使者による攻撃をまともに浴びて、さすがに黒ゼツも無傷では済まなかった。ただしその傷は、曰く『掠り傷』と見なせるほどちっぽけな物だった。女性以上のチャクラ吸収力を持つ餓鬼の力が打ち勝ったのだ。焼け焦げた左腕をぶら下げたまま、傀儡製の砲筒と化した右腕を向けた黒ゼツ。甲高い金属音と共に眩い光が集束する。
神霊すら破った化け物と女性とでは、今や差が開きすぎていた。
刹那、爆発。吹き荒れる熱風は途轍もない規模と威力を誇り、静かの海に荒波を立てるほどだった。
事が収まると黒ゼツは右腕を下ろし、左腕を垂らしてゆっくりと歩を進める。
「……ホウ?」
――若干の誤算が生じたようだ。黒ゼツの目線の先には、破壊されたゴリアテ人形の焼け焦げた残骸が積もり、背後には残り火により顔の右半分に火傷を負ったアリス、その後ろには身代わりとして護り切った、月人の女性が膝を着いていた。
女性はアリスを放心状態で見ている。辛うじて口を動かし、小さな声で「何故?」と呟いた。
「呆れちゃう、わね」アリスは右目を瞑っている。「……魔法鉱物を使った仕込の盾、五重の防護壁……こんなに差があるなんて、聞いてないってば……情けない……やっと、見つけたのになあ――…」
指先から伸びていた糸が消滅する。静かに瞼を瞑り、ふわりと体を投げ出した。
女性は弾けるように立ち上がり、体を引きずり駆け出すと、滑り込むようにして抱き止めた。とても軽い、温かな感触が膝の上にかかる。アリスが倒れても黒ゼツは歩みを止めない。
人外の意志たる者に人間らしい情など皆無。散らかったごみを片づける感覚で再び腕を上げると、黒く染まった左手で砲筒をなぞる。
「今ノヲヨク耐エタナ。ドチラモ『裏』ノ世界ノ民……頑丈ニデキテイル。オ前ラノ強サニ敬意ヲ表シテ……新シク手に入レタ一品ヲ披露シテヤル。オレガ稀神サグメヲ求メタ理由……ソノ一ツヲ知リタクハナイカ?」
黒ゼツが口元を歪めた時、右腕の形状が変化し始めた。女性は顔を上げて黒ゼツを捉える。
「思ウ存分見テキタ……オレノ力ヲ使イ誰ニモ気ヅカレズ……例ノ『城』ヲナ。月ノ賢者ハアノ場所ヲ知リ尽クシテラシイ……隠サレタ物ヲ探シ出スノハ……笑エルホド簡単ダッタ」
月の城。都とは全く異なる、宇宙のように無限の広さを誇る別空間に存在する。
その存在こそ知られていても、大半の月人は立ち入ることすら許されない場所である。城を警固する高い地位の者や、月の結界の管理者として都を守護する賢者達、そして都を動かす月の女神と、王だけが鎮座を許される聖域。月の使者の一人である女性も、城の内部は何度も目にしているが、賢者の地位に座するサグメほどではない。
「最期ニ教エテヤル」黒ゼツは再度右腕を上げる。「――輪廻眼・修羅道ノ術ハ兵器ヲ備エタ力デハナイ……『異界』ノ兵器ヲ外部カラ口寄セシ行使スルモノダ。『天』ノ世界ニ身モ心モ馴染ムノハ何ノ因果カ……今ノオレハ月ノ近代兵器ト呼バレル代物サエ……手ナズケテイルトイウコトダ」
先の爆発とは対照的に、鋼鉄の砲筒より射出されたのは静かなる風。生物を滅ぼす破壊の権化が無防備な二人に音もなく迫る。裏切り捨て去ったはずの遠い天へと至り、サグメの全てを乗っ取った末にもたらされたのは、あらゆる物体を素粒子に分解する最終兵器そのものだった。
女性の目の前から、風に巻かれた浜辺が姿を消していく。満足に動くこともできず、逃げる力も残されていない。
意識を失ったアリスを地面に寝かせると、輝く蓮の花がその体を覆い隠した。アリスを背に精一杯の霊力を己が身にまとい、眼前の景色を真っ直ぐに見つめる――。
「ごめんね。こんな私を、許してくれる?」
付き従う者。都に住む多くの友人達。死んでいった者達。背後に倒れている少女。ひっそりと紡がれた言葉を誰に向けたのか、答えは無慈悲な旋風に巻かれて消える。
無常の風が髪をなびかせる中、その穏やかな目は息吹が止むまで瞑られなかった。
――◇◇◇
静寂を取り戻した浜辺で、傀儡の腕を忌々しげに見下ろしていた黒ゼツ。
術を解いた途端に右腕の細胞が損傷を受けた。数多の警備兵や厳重な扉を潜り抜けただけあり、月の兵器は小うるさい鼠を処理するには便利だが、使用に際して微量ながら影響を受けるようだ。所詮は器の肉体であり痛くも痒くもないとはいえ、安定化させた輪廻眼のように軽々とした扱いは難しい。それでも傷つければ傷つけるほど良い薬となろう。
この月人は乗っ取りこそ容易でも、素の力は月の使者に数えられるだけはあり、隙あらば取り返そうと幾度となく抵抗の意志を見せていた。抑えつけるのは苦ではないものの、その度にチャクラの圧で抑え込む面倒な作業を必要とした。月の民に宿るチャクラの質は悪くなく、以前に身を潜ませていた人間の比ではなかった。
術を行使する分には都合のいい器と言える。満足のいくモノには程遠いとしても。
「解ラン奴ラダ……サテ」
用済みの月人は消えたとして、意識を失った魔法使いの処理をどうするか、黒ゼツは決めかねていた。月人により死の間際に守られた幸運な少女だが、簡単な動き一つでその努力を水の泡に帰して、不幸の底に叩き落すこともできる。
先の月人にしても力試しや気紛れ。脅威と見なした者でもない限りは、後々を考えると生かす方が有益となる。樹や草花がよりよく育つには肥料が必要だ。計画を急ぐ今となっては、小さな者の生死になど興味はない。
生きるなら生きる、死ぬなら死ぬで、早いか遅いかの違いもない。そんなことを独り思いながら、器は踵を返して砂浜を歩き始めた。
元々ここへ赴いたのは、物事の運命を曲げる力を持つサグメの次程度に厄介な人物を、三つ巴の戦闘に巻き込んで確実に仕留めるためだった。あらゆる『音』を吸収する特殊な区域で、あのオビトに嗅ぎつけられない程度に力を抑えつつ、賢者ほどではないにしろ穢れに敏感な綿津見の血を誘き寄せようとした。結局のところ思い通りには運ばなかったが。
引っ掻き回してあぶり出す手もある。計画から少々逸れたとしても、近く訪れる物語の結末に変わりはない。
「嗚呼」別の声が響く。「無理言って来てみれば……違ってほしかった。いったいどの面提げて土下座して回ればいいのか、分からないじゃない。どう落とし前つけてくれるの?」
咄嗟に出遅れた黒ゼツの、切り離された砲筒が宙を舞う。
他の追随を許さぬ気高き姫君が、最強の月人が背後で刀を抜いていた。