THE LAST PHANTASM -OBITO- 作:大兄貴
この世に吸血鬼や妖怪賢者すら存在しなかった遥か古の時代。地上に蔓延る『穢れ』の存在を危惧した当時の八意永琳と、現在の月の王である月夜見は、生死の概念を捨て去ることを決断し、親族や信頼の置ける大勢の部下達と共に地球を離れ月に移り住んだ。これが月の民の発祥とされている。
当初は少数だった人間達も、時代の流れと共に数を増やし、大きな一つの国として成り立ち機能するまでに人口が膨れ上がった。月夜見を開祖とした月の都の開闢である。魂に穢れを内包していた民も、永い年月や都の技術の恩恵もあり、永遠にも等しい寿命を取り戻すことに成功した。
創設期の事細かな歴史は置くとして、嫦娥と呼ばれる人物がいる。彼女は元々地上に住んでいたが、ある日を境に地上を捨てて月へ昇り、月の民の一人として都に迎え入れられた。
都において高い地位に就いていた嫦娥だったが、ある日に都の禁忌と言われた『蓬莱の薬』を服用して不老不死となり、一転して都の歴史上最悪の大罪人となった。通常の収容施設に収まる重さの罪ではなく、現在は都から隔絶された場所――国産ノ狭間に位置する城の奥深く、月の賢者直々の監視下に置かれた牢の中に独り囚われている。
そんな嫦娥は何の因果か月の都の柱となり、綿月姉妹らを使って影から都を動かす、玉兎達の指導者として密かに存在している。民に言霊を授ける代わりに、玉兎達は嫦娥の服用した『蓬莱の薬』を搗き続けることで、彼女の罪を償い続けている。玉兎達の間では『月の女神』なるおぼろげな名で知られるが、罪人ゆえ表には決してその姿を見せない。あれから数億年を経た現在でも、嫦娥の重すぎる罪は洗い流されていない。
史上最悪の咎人であると同時に、神聖なる月の女神として君臨する嫦娥。彼女に恨みを持つ人物が居るとすれば、憎悪の矛先は当然に都にも向けられるだろう。
月の都。従者である咲夜に並んで飛びながら、レミリアは不機嫌そうな表情で街の景色を見下ろしていた。依姫と伝令役の玉兎は揃って前を飛んでいる。
静かの海の方角を苛立ったように振り返る主人に、咲夜が「大丈夫ですよ」と冷静に声をかける。
「あの妙な男に用があるのでしょう。転移系統の能力がありますから、追いつくのに時間はかかりません。厄介者が現れた場合は対処しますので」
「ハァ……あのね咲夜、そんなのどーでもいいの。私がせっかく声をかけてあげたのに、その通りにならなかったってのが問題。なんだか気分悪いわ。ほんと何してんのよあいつ」
「相変わらずですね」咲夜が微笑する。「ところでお嬢様。先ほどの兎の話ですが、恥ずかしながら驚いてしまって……」
「ま、無理もないけど」
退屈そうな目に月人の背中を映している。三神結界の先にある月人の『城』に関して、依姫から道中で大雑把な話を聞いていたレミリアだが、実のところ関心は薄かった。目的はあくまで黒幕潰しに止まり、月の歴史を盛り込んだ都の内情に関する小難しい話など、元来の性格から眼中には入りようもない。
依姫達の長ったらしい話などレミリアには、館の住民には興味の外である。
余所者の二人が依姫から聞いたのは、城に住む『女神』と呼ばれる象徴的な何かが、純狐により脅かされていること。一連の騒ぎは純狐が仕組んだものだった。
黒ゼツなる協力者が地上で暗躍し、サグメなど不確定な要素を確実に排した上で、混乱に紛れ本格的に動き始めた。依姫曰く『仙霊・純狐』という存在を完全に隠蔽した上での、これまでのやり方とは一変した彼女らしくのない動き故に、賢者達すら対応が遅れざるを得なかった、前例なき手段であると。異界の協力者が月の民に匹敵する力を持ち、賢者の一人を打ち倒して都の機密まで手にするなど、誰に予測できただろうか。
「気になるのは」依姫は二人を振り返る。「月人の私を助けた地上人……オビトと言ったわね。あなた方の話によれば、『裏』の住民ではないみたいだけど。いわゆる『外来人』かしら?」
未知の力を振るう黒い輩や、先ほど砂浜に姿を見せた長髪の男など、意識を向けるべきものは他にもあるが、今はそれ以上に大きな感覚が身体に残り消えない。居心地の悪さと寒気、逃れようのない終わりの形をもたらさんとした球体と、それらを苦もなく取り除いた者の存在。身近で感じた言い知れぬ力の正体は何か。
「煎餅好きな若白髪の変人のくせに無愛想で生意気な男」
「幻想郷にも月にも、外にも存在しない――忍界と呼ばれる異界の住民。種族の括りは人間だけど、『忍』でもある。幻想郷と外の世界、その狭間に生じたひずみを通して、別の世界から迷い込んだ。境界の妖怪すら意図しないうちに……大まかにはこんなところね」
身の上話としては微塵も役立たない言葉を呑気に並べる主に代わり、従者の咲夜が基本的な箇所を簡単に説明する。
咲夜の言う妖怪については、依姫も心当たりは当然にあるが、忍界や忍に関しては初耳だった。
「……あなた方の世界には、他所に通ずる道もいくらかあったわね。数までは把握し切れていないけど」
咲夜達や依姫は裏の住民である。裏とは幻想郷や都を始めとする『非常識』な世界のことだ。『常識』の蔓延る外界(結界の外)、つまり表とは相容れない人や物を受け入れる楽園。
常識的な物事があるから非常識な物事があり、逆もまた然り。人々に受け入れられたものは常識、拒まれたものは非常識として、それぞれの在るべき世界へと収まる。この二つは光と影のように表裏一体の関係にあり切り離すことはできない。双方を分け隔てるのは物理的、霊的な結界障壁などではない、永久不変なる概念であり理そのものだ。
然るにあの人間を内包する――否、内包していた忍界とは、裏にも表にも該当しない完全なる『外側』。時間も空間も異なる天界や魔界と同じ括りながら、幻想郷の人や妖怪、神々の認識すら及ばない、別の次元に存在する世界だ。騒ぎの元凶である黒ゼツも同様で、純狐の件と併せて事前に動きを察知できず、都側の対応に著しい遅れが生じた理由である。
依姫が口にした『外来人』という表現は的を射ているが、咲夜達がよく知る『外来人』とは結界の外から入り込んだ者、あるいは魔界出身のアリスなど、認識の内にあるそれ以外の異界からの来訪者を指す。忍界出身の者にも同じ表現が当てはまるか否かは、オビトと会話した咲夜自身にも判断できなかった。
うちはオビトは普通の人間ではない――この言い方が相応しいのは、忍界云々や特異な力の存在が理由ではない。黒ゼツの手で再び命を吹き込まれ、現世に生き返った元死人であるということだ。今この場に居る者の中で、己の死を経験した者など誰一人として存在しない。永き時を生きる依姫ですらも。
「博麗大結界に時空の歪を? 聞き捨てならないわね……あの球体を剥がしたのもソレなのか」
「詳しくは知らないわ。パチュリー様でも解析し切れていないくらいだもの」
静かの海での出来事を思い返す依姫。前例を見ない力の数々をぶつけた末に、凄まじい引力を内包する謎の球を、黒ゼツはこの身に埋め込もうとした。抵抗すら叶わなかった未知の力を、オビトなる人物は慣れた動作で易々と取り除き、自らの分身体ごと宇宙の果てへ消し去った。
分身自体は月や地上でも稀有ではない。空間操作も月の民には驚くべき異能とは言いがたい。同系統の能力を有した者なら、姉である豊姫を含めて数多く存在する。月人の膂力や霊力で剥がせなかった物を顔色一つ変えず、自らの体に同化させる形で取り除いた力の根源の正体が、依姫には解らなかったのだ。地上や都の者にすら無謀と言わしめる行いを可能としたものが。
「本人がいたら早いけど」レミリアが割り込んだ。「……あの吸血鬼もどきめ。勝ち逃げされちゃアレだし、元凶を引き裂いた後はアイツの番よ。支配したくなるのよねえ、ああいうの――無愛想でクール気取ったムカつく仏頂面、跪かせてひぃひぃ言わせてやる。足も舐めさせて――」
「あら」依姫の視線が移る。「あなた、負けたの? また」
「――あァ? このちっぽけな天体、今度は百週してあげてもいいけど?」
人の寿命は短い。妖怪は月人ほどでないにしろ、人間よりも遥かに長い。人の十年と妖怪の十年という、同じ時間の単位で比べるなら、短い方が肉体的にも、精神的にも先に成熟するのは当然。咲夜は(天然が入るとはいえ)基本的には落ち着き頼りがいもある一方、レミリアはあと千年は待たないと皮は剥けそうにない。
八雲紫辺りが例外的に大人以上の胡散臭さと妖艶さを漂わせるだけで、それ以外の妖怪が精神的に未成熟なのは否めない。
「まったく」初めて笑んだ依姫。「月の民を助けたメイドに比べて、お子様吸血鬼はほとんど……客人として迎えるのも一興だわ」
都は月の民だけの穢れなき楽園ながら、地上からの来訪者とて歓迎する場合もある。以前に神降ろしのせいで都への叛逆の嫌疑がかかり、地上の巫女である博麗霊夢を都に縛りつけた際は、客人として手荒くも手厚い歓迎をしたものだ。屋敷でご馳走を振舞ったり、秘蔵のお酒を与えて反応を楽しんだり――月の民はいまだに見下しがちだが、地上の民との交流は強ち悪いことばかりではない。師が度々口にしていたことでもある。
「本当に……あの頃が懐かしい」
こんな時だというのに、月のまとめ役にあるまじき心構えだろうか。
――◇◇◇
静かの海。妖精が恐々と見つめる中、オビトはマダラの傍を横切り、血溜まりの中に転がる黒ゼツの骸を映した。
先ほどから何故にマダラが右眼を回収しないのか、千切れた左半身を視界に映した時、その理由が分かった。肝心の眼が右半身ごと消え失せていたのだ。外側は薄皮に覆われており、ぱっと見は立派な死体だが、右側だけ中身が入っていない。
指先で器に触れた瞬間、風化するようにボロボロと崩れ落ちてしまった。もぬけの殻、まるで蛇の脱皮である。左半身は紛れもない死体でありチャクラも残っている。
「コレが黒幕……『黒ゼツ』ってやつなのね。アンタを生き返らせた」
「そうだ」
死に損なった黒ゼツが満身創痍で持ち去った右眼。行方は気になるが、今は別のものに注意を向けざるを得ない。
腕組みして静かの海を眺めている男。影のマダラを操っていた本物のマダラ。木ノ葉の忍として歩むはずだったオビトの人生を、一転して真逆のものに変えた張本人。然るにこの男もオビトと同様、黒き意志の下に動かされていた傀儡に過ぎなかった。
「死した者共を再び廻り合わせた……運命とは勝手なものだ」
マダラは独り言のように呟いた。黒ゼツとは違った意味で因縁めいた関係にある二人だが、いずれも敵対の意思など見せなかった。同じく現世と永別していた身であるオビトも、死者として現世の歴史に背を向けた今、生者と同じ道を歩むことなど考えていない。
生者と死者。対極の位置にこそあれ、心境は大差なかった。
「アンタは何を考えてる? 奴が何をしようとしてるのか、分かってるはずだ」
「夢の世界」
波立たない海を前に紡がれた無感情な言葉。オビトの視線が水平線の方角へ移る。肩の後ろに隠れてマダラの様子を窺う妖精の存在に、本人は気づいていないように見えた。
「争いの元となるチャクラなき世界を作り、本当の平和を創り出す術。全ての人々を幸せに導く夢の中なら、何かを奪うための争いなど起こりようもない。その意志だけが、夢見る者を動かしていた」
忍界では争いごとが尽きない。人はその身に宿るチャクラを武力に戦争を幾度となく繰り返してきた。争いの中で多くの者が大切な仲間の、親兄弟の、友や恋人の悲惨な死を経験した。
人間は思いのほか複雑にできている。争いは必要のない悲しみを、憎しみを生み出す。燃え上がった憎悪の下に仇を討てば、無念が晴れて負の感情は消え去るが、それは一時の安寧でしかない。殺された者を想う者達が現れ、同じように仇を討たんと新たな憎しみをぶつける。今度は向こうもぶつけ返してくる。際限なく繰り返されていき、血塗られた輪が廻り続ける。
感情は憎しみを作り出し、憎しみは争いを引き寄せる。それが人々に内在する限り、負の連鎖は続いていく。ならば争いを起こす感情や力を人々が持たなければ憎しみなど、争いなど失われるだろう。終わりなき連鎖は終わりを迎える。
皆が心の底から望むものを単一の意識として収束させ、誰もが分け隔てなく幸せを生きるための唯一の道――大幻術・無限月読。それを成すためにあらゆるものを利用した。全ては光と影の因果を断ち切るために。
「だが真実はどうだ――目指していたものなどなかった。何も変わらなかった。火種を育てるものですらあった。オレがオビト……お前を使ったように、結局はどちらも転がされていた。同じ意志によって」
マダラは言葉に反して自嘲せず、喜怒哀楽を排した面持ちで佇んでいる。黙して聞いていたオビトを赤い目が捉えた。
「さっきのジャリ共。お前とかかわりのある連中だろうがな」
今の今まで延々と自我を殺され傀儡と化していたマダラには、あの森での一戦を含めて、幻想郷や住民達に関連する記憶は存在しない。次元を踏み越え暗躍する顔見知り(黒ゼツ)はともかく、博麗霊夢や依姫などの知らない連中が何を思い、何を目的に動いているかなど把握していない。しかしマダラは、同様に時を超えて邂逅を果たしたオビトを見ても驚かなかった。口頭で詳しい話を聞き出そうとはせず、瞳力を使い記憶を覗こうともしない。
「お前やそいつらとは違う。どことも知れん世界で、奴が何をしようが興味はない……オレはな」
何を考えているかと直球で尋ねたオビトとしても、大方予想した通りの反応であり、「だろうな」と静かに肯定しただけで聞き返さなかった。
「オレに全てを叩き込んで、前を歩かせて、散々利用してくれたアンタだが……そんな今だから解るのさ。興味なんかなくたって、アンタは他者に――奴に利用されるのが嫌いだ」
「夢潰えた今、残るのは塵芥の死体。命などない。違うか?」
「違うな」オビトの返しに曖昧さはない。「初めに穢土転生の縛りを解いて、奴の眼を奪い取ったのは……アンタがアンタだったからだ。そこには魂がある」
死するがために己の存在を失うならば、かつて死した者は総じて肉塊や塵芥と成り果てよう。死人であるマダラとは違い、確かに今はまだ生きている。生きている限りはここに居る。それでも人に宿る意志や魂は姿形になど縛られず、簡単に腐り朽ちてしまうほど脆くない。でなければここにいる『うちはオビト』など、何の価値も意味もない抜け殻として存在するしかない。
オビトがマダラではないのと同じで、マダラもまたオビトではない。本人は冷徹な目を細めるだけで眉一つ動かさなかった。
「出来損ないの傀儡が好き勝手に抜かす。やはりお前は失敗作だな」
「今のオレがある理由だ。その失敗を越えて、友たちの力で道を正せた。在るべき場所に戻れたんだ」
深い闇の中を歩いていた忍界での記憶が蘇る。想い人の死を最初のきっかけとして、感情一つで人から大切なものを永遠に奪い去る醜悪で虚しい世界に絶望し、偽りに満ち満ちた夢に縋った。大切なものの存在しない世界など偽物でしかない、そんな歪んだ想いを胸に、マダラと共に無限の夢を渇望した。夢に思いを馳せる『マダラ』として歩むことを――存在し続けることを選んだ。その夢こそが偽物だったとも知らず、解ろうともせず、受け入れようともせずに。
心に入り込んだ痛みと共に気づかされ、敵だった者とは最期に友として別れを告げることができた。かつて友や仲間と共に笑って日常を過ごしていた者としての、『オビト』としての精一杯の言葉を吐露して。
「前にも言ったな。オレはもうアンタじゃないと。他の誰でもない――『うちはオビト』だと」
忍世界を騒乱に狂わせた元凶であり、後に幻想世界に現れた黒き意志の前でも口にした言葉を、オビトは本物のマダラの前で堂々と紡いでみせた。
暫し無言でオビトを眺めていたマダラが、不意に視線を外して意味ありげに笑んだ。
「馬鹿らしいほど強かに語る。あの頃の面が映らんのは……育ち損ねたのが目だけではないからか」
砂浜に突き刺さっていた瓢箪型の団扇が引き抜かれる。音もなく背中に戻すと踵を返し、マダラはただっ広い浜辺を独り歩き出した。少し離れたところで足を止めると、感情のこもらない声で「なら」と言い放つ。
「この世界でオレに示してみろ。友とやらの力を受けたお前が、己自身で得たものをな」
オビトと妖精が黙って見つめる中、マダラは瞬身の術でその場から消えた。
海はその名の通りの静寂を取り戻した。距離があるという当たり前の理由もあるが、都の方角からは騒音一つ聞こえない。常夜の暗い空を一人仰ぐオビトに、妖精は遠慮がちに話しかけた。
「わたしには、その……難しいことはわからないけど」
無視するかと思われた妖精が振り返る。淡い金色の瞳に映ったオビトの姿は普段と変わらない。
「でもなんだか、本当になんとなくだけど。アンタって人間が見えた気がする。やっぱりアンタは……」
「そんな顔をするな」オビトの視線が外れた。「今はやるべきことがある。だがその前に一つ――…そろそろ出てきたらどうだ? 話は終わったぞ」
マダラと黒ゼツの戦いの最中に一瞬だけ浜辺に感じた、不気味で胡散臭くて覚えのある気配。神威による転移には相変わらず使えない理解不能な力ながら、以前から幻想郷のあちこちで感じていたものだ。牢に囚われた本人から感じたものとも一致し、静かの海に赴いたレミリアにも微かに纏わりついていた、妖しすぎるチャクラである。
答えを明かすように黒い裂け目が宙に開いた。中から現れたのは八雲紫と博麗霊夢。例の面倒な組紐は解かれている。容疑が晴れて都側、正確には綿月豊姫と一応は和解し、一時的な協力関係を結んだ故のはからいである。黒ゼツや純狐が正体と存在を故意に晒したことで疑いが消え失せ、連中の計画の進み具合を否が応でも理解させられた、という言い方もできる。
「ごめんなさい、遅れちゃった?」
紫は佇むオビトへ軽快に話しかけた。恋人を待たせる彼女のような口調と声色ながら、謎多き本人に焦りの色は覗えない。霊夢の方はスキマから出るなり周辺を歩き回り、離れた場所に打ち捨てられた器の左半身に目を止める。
「レミリアの奴が言うには……海で負傷者を回収して、都の医療施設に運んだそうだな。容態はどうなっている?」
「意識がないだけ。別条はないみたいね」霊夢が祓い棒を手に答える。
「実は心配だったり」と、茶化す紫。
「うるさい」霊夢は頭を掻いた。「あの二人にゃ色々やらせちゃったし……理不尽にぶち込まれてた分と合わせて、暴れまくってやる。んでこいつが一連の、あんたらが言ってた黒いやつ? 片方は消えたみたいだけど」
叛逆した転生体に、うちはマダラに叩きのめされ敗北した後、黒ゼツは半身と外殻を浜辺に残して、虫の息ながらも自前の能力で地中に逃げ込んだ。今は神威を通してもチャクラは感じられない。
ただし、生き延びるために半身を犠牲にし、片方の輪廻眼が失われている現状、なおも擬態を継続しているとしたら、ろくに戦える状態でないのは確かである。向こうにしても深刻な打撃を受けたと見なすだろう。
「純狐は都にある三神結界とやらに向かったようだ。もしかしたら奴も……」
結果として静かの海に姿を見せたが、騒ぎを聞きつけてここに赴いた理由は咲夜達だ。黒ゼツを当てにしたからではない。
今や幻想郷に居た時よりも、黒ゼツのチャクラはさらなる変質を遂げている。穢れなき月人に成りすます能力に加え、サグメや依姫から奪い取ったチャクラを、己の物として取り込んだことが関係するのか。
黒ゼツは腐ってもカグヤであり十尾だ。同じ六道の力なくして対抗するのは簡単ではない。
「オレは奴らを追う。お前はどうする」
「どうって……今さらそれ訊いちゃう? 何度も好き勝手されて我慢の限界だっての」
紫は血溜まりの中でも衣服を汚さず、残された左半身を一人調べている。オビトは霊夢の方を向いた。
「博麗の巫女、お前はまだ幼い。こんな形で命を危険にさらすのは初めてだろう。ましてやここは月……お前の護る世界じゃない」
「は?」霊夢がオビトを睨む。「何が言いたいの、あんた? はっきり言いなさいよ」
これまでの自分や他の皆、挙句はオビト自身の行動すら否定する場違いで唐突な物言いに、霊夢は怒りを隠せなかった。誰に巻き込まれたり動かされるわけでもない、己自身の断固たる意思を持つ者に対して向ける言葉ではない。本人は不思議なほど冷静な表情で、少し離れた場所にいた妖精を呼び寄せた。
そうして妖精が飛びかけた瞬間。黙していたオビトが膝を着き、胸部を手で押さえ狼狽し始めた。
「あんた――?」
霊夢と妖精は途端に顔色を変えた。この場で紫がただ一人、オビトに降りかかった『異常』を逸早く察して指先を向ける。何も起こらない。
額を汗が流れ落ちる。以前に地上で覚えたものと同じ動悸が、心地の悪い感覚と共に全身に広がり、体を覆っていくようだ。黒ずんだ鋭利な棘が腕の皮膚を破り、いくつも生え出てきた。
――苦痛に歪んだ顔のまま印が結ばれ、オビトは右手を地面に着ける。
二人がスキマ送りにされた瞬間、先端の尖った複数の太い樹木が地面を突き破り飛び出すと、術者を呑み込み螺旋を描きながら空高くそびえ立った。
紫は不可解な貌を見せる。先ほどオビトに向けた境界操作の力は、正体の視えないどす黒い力の壁に弾き返されたのだ。
「あの子の生命力を糧に……何故?」
扇子の一振りで大樹は残さず浜辺から取り除かれる。内側に居るはずのオビトの姿は視界どころか、静かの海のどこにも存在しなかった。