THE LAST PHANTASM -OBITO-   作:大兄貴

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四十五話 崩れゆく意志

 本来なら生物は穢れを持たず、寿命に縛られることはないが、地上には生存競争の末に生き延びてきた者達の歴史がある。他者を蹴落とし、数多の屍の上に這い上がった瞬間から、穢れが生じた命には限りがもたらされる。生死の概念を植えつけられるのだ。争いはそれを咲かせる花の種である。一方で月の民には穢れがないため、曰く寿命という概念は存在しないとされる。

 しかし真実はどうなのか? 競争を捨てて穢れを残さず失ったのなら、蓬莱人に見るような永遠の命を、月の民は得て然るべきである。その答えは簡単で、本人が認識できない程度には内在している。

 僅かでも瑕穢を有する点では、月とて地上と変わらないのだろう。

 

 澄んだ空気に満ち満ちた小さな神代。暫しの瞑想から目覚めた純狐は鳥居を映す。

 多くの玉兎達が普通に出入りし、願掛けするための何の変哲もない神代。月の神霊を祭る聖域として、民達に崇められる場所の一つであり、特別な結界が張られた要である。ここは他のどの場所よりも澄み切っている。

 境内はもちろん、周辺には兎っ子一羽見当たらない。今こうして閑静な雰囲気を保てるのは、誰もが純狐の力を怖れて近寄らないからではない。ある者は何かを思い出した様子で踵を返し、ある者は目もくれず通りすぎるのみ。付近を漂う異様な空気に中てられたせいで、道端に転がる小石か雑草辺りにしか見えないのかもしれない。

 

「相当アレな奴でもなかったら、まず見つからないと思います。だから欠点でもあるんですけど……」

 

 明るい笑顔を純狐に向けるのは、星条旗模様のアメリカンな服装の、狂喜の道化師のような派手な恰好をした少女。背中に妖精を思わせる薄い羽が生えているが、内包する力はそれと近いようで遠い。強すぎる生命力は危険極まりない穢れをはらむ。

 純狐の方は無表情。地上にてオビトや紫、黒ゼツを前に見せていた独特な雰囲気は微塵もない。同じ浮かれでも全くの別物として形を成し渦巻いている。目で見るだけでは決して映らない。

 

「それじゃあ」純狐の口調は柔らかい。「都の方は任せるわ。手筈通りにね」

「言われた通りに滞りなく、実に確実に、ですね」

 

 滞り程度は易々と修正できるが、病的が頭につくほど完璧な再現性を欲するのなら、元と比べて一字一句違わぬ文章を作る方が手っ取り早い上に心配ごともない。確実性を持つなら誤字や脱字など起こり得ようか。純然なる者が頭に描いた結末は変わらない。

 

「でも油断しないこと。私にはお前たちの力が要る……来たる時までは安全第一で隠れてなさい。いいね?」

「わかりましたっ! 友人様も気をつけてください!」

 

 後々に暇が潰される事態を予期したのか、命を下して早々に先んじて礼を言う純狐。心狂わせる舞を見せることもなく、純潔なる従者はその場で楽しげに一回転すると、手を振って姿を掻き消した。

 誰もいない境内に独り、純狐は鳥居の中央へ掌を向ける。

 

――大切なものを守護するために用いる結界なら、考え得る限りの堅牢さを誇らなければ意味がない。一世界の平穏を左右する大層なものを害悪から護るなら尚更だ。月の賢者達は可能な限り知恵を絞るだろう。

 博麗の巫女や妖怪賢者、八坂の軍神すら骨を折るほど頑丈に組み立てられた結界。地上の物より遥かに複雑怪奇な術式である。崩すのは容易ではない。具体的にはこの神代を中心として、十六方位に存在する副次的な小結界の群を悉く破壊し、本体の護りを脆化させた上で臨まなければ、完全なる決壊には至らない。

 この体は何のために存るのか。女として愛しき男に抱かれるためではない。全てはたった一つの目的を果たすためだけに、永年に亘り己自身すら純化させ独り歩きしたのだ。今や前へ前へと踏み込み進むための、人を騙る不出来な傀儡とすら言える。数知れない何かを守るために力を、その魂を分散させる愚かな連中とは――天地ほども差が開いている。

 

「罪人を担ぐ愚かな民共よ。お前たちとて同罪だ。我が手に堕ち、惨めに衰亡しろ」

 

 目の前に引かれた境界線こそ、羽をむしられた堕天使を担ぐ哀れな兎達の総意。叩き壊さずして先へ進めるはずもない。

 参拝客が潜る鳥居の空間部分にひびが入り、ガラスの割れるような音を立てて結界は砕け散る。空間の裂け目より冷たい風が吹き出し、純狐の長い金髪をなびかせた。

 死の匂いは感じない。鼻につき鼻を突く永久の臭いこそが、正しき答えを確信させる証明となろう。

 

 夢の世界はどこにもない。月人を守る安寧の地など、所詮は移ろいやすい泡沫でしかない。

 

 

――◇◇◇

 

 

 目を開けると真っ暗闇が映る。見渡す限り天蓋や壁、足場すら存在しない。暗い場所に純狐の姿がぼんやりと浮かんでいる。

 ここは外部から隔絶された別空間。天生みの三神結界と、穢れを祓う白銅鏡の境界を越えた場所にあり、都との狭間に位置している。距離の概念を語るなど馬鹿馬鹿しい。地上の博麗大結界と同様、立ち塞がる無数の境界を越えなければ、踏み入ることは何者とて許されない。都に住む月人達の気配は当然ながら感じない。

 

 国産ノ狭間を踏んだ純狐の金髪が波打つ。肌はより白く透き通り、容の良い唇は艶やかさに満ちる。人外の美貌の持ち主と云われる女神を前にして、恨みの権化である仙霊たる者の怨念は以前にも増して強まっていた。白くも黒くもある領域に踏み入り、盲目的な何かが気まぐれにも人の世を映そうと、底知れぬ狂わしにはなびかないだろう。

 

「お久しぶりね」

 

 純狐の体から発せられた光が辺りを薄明るく照らす。消え往く闇をかき分けて現れたのは、金髪に金色の瞳を持つ優しげな女性だった。

 

「月に仇なす仙霊・純狐――私たちの間では、まとまった成句になってたりするのよ。使われすぎてね」

「光栄なことだ」

「残念。招かれざる客以外にはなり得ない。せっかくお越しいただいて悪いのだけど、今回も手を退いては下さらない? お仕事が山積していてね」

 

 口元には柔らかな笑みこそあるが、都でオビト達と相対した時とは違い、豊姫の目は冷たく笑っていない。純狐は「仇なす」と復唱した後、素直な嘲笑を見せた。

 

「お前の邪魔をする必要性、したがる理由としては十分だ。地上人相手なら喜んで退くが、生憎と月人風情に退かされる気はないね。ここで終われば苦労などせずに済むだろう? 心配には及ばない」

「真面目にならないと駄目な時もあるのよ。それが私の役割でもある」

 

 豊姫を囲むように四つの人影が浮き上がる。皆一様に笠で顔を隠しており、手には黄金色の錫杖。依姫と共に地上へ下りた月の使者だ。

 城の警護にしろ兎にしろ、豊姫は公私に関係なく使いたい時に平然と動員する。都では高い地位にある彼女だが、平穏な今日において位や階級は形骸化しつつあり、実際には昔ほど強い権力は持たない。自他共に厳しく生真面目で、賢者達の信頼も厚い依姫とは異なり、豊姫の元に集うのは個人的に親しい間柄にある者が大半を占める。

 今回はかなり真っ当な例ながら、お喋りの相手が欲しいだけで招集をかけるなど、自由奔放さの極致とでも見なせようか。

 

「早々ですが、一度でも『ノー』の意味を含む意思表示をした以上、然るべき対応を取らざるを得ません。私どもとしては当然、恨んでも構いませんので」

「恨む、ねえ」純狐は口元を歪めた。「薄い。軽い。安すぎる。到底至らないね」

 

 鈴を転がすように綺麗な音色が響いた。四人は純狐の四方位を囲み、掛け声と共に掌を一斉に向けると、青白い霊力が地を這う光となり純狐へ届いた。迸る雷光は四か所から高々とそびえ、瞬く間に形成された正方形の四方結界が標的を閉じ込める。霊的存在をも焼き尽くす白銀色の炎が結界内で燃え上がり、純狐の姿が白い閃光の中に消えた。

 蓬莱人などに見る特殊体質や能力持ちを除けば、生き物は再起不能な程度に肉体を壊すだけで命潰える。人の身が脆いのは当然ながら、妖怪とて多少頑丈な程度。途轍もない穢れに満ち溢れ、不滅の概念に縛られる妖精の類ほど面倒ではない。そんな厄介者もそうでない者も、一まとめに消し滅ぼすのに、肉体を魂ごと焼き尽くす霊術なら手間もかからない。

 

「――傲慢で臆病な女狐のことだ」

 

 いったん様子見に入るか、あるいは追撃を試みる暇もなく、結界が易々と砕け散ったのは何故か。人間や妖怪、妖精や不老不死の蓬莱人すら及びもつかない、ぶっ飛んだ魂の持ち主という以外に、相応しい理由などあろうか。この状況では見つける時間もないだろう。

 

「こいつらを甚振り続けて引きずり出す? 悲痛で愉快な表情を拝む? 叶わぬ夢を見たところでね。月人は等しく踏みにじられるべきだけど、仕方ないから一思いに摘むとしよう」

 

 高らかに笑いながら出てきた純狐。衣服に乱れがあるだけで無傷。愉快げに細まった赤い目が輝きを帯びた瞬間、突如として四人がその場に倒れ伏した。

 目視できる物体も物質も現象も、目に見えない音すら存りようがない。明確なる殺意に塗れた純化の波が猛威を振るい、認識できぬほど微量に内在する月人の穢れを一瞬にして、地上の民をも遥かに上回る程度まで膨れ上がらせたのだ。

 心身に穢れが満ちる。途方もない量に慣れなど生じ得まい。生物が生物を生物足らしめる概念が一つ、限りある『寿命』は器の事情など考慮せず、無責任かつ無秩序にも爆発的に膨れ上がり、蓬莱の不死性すら巻き込み染め上げる純粋な力が蝕んでいく。地上人など及びもつかぬ穢れの塊に心身が魂諸共に押し潰され、急激な体の変化に耐え切れる道理もなく、月人達は事切れて動かなくなる。声を出す暇すら与えられなかった。

 

「役立たずの捨て駒を並べて何が変わる。覗えるのは精々が外形にそぐわぬ冷酷さ……この私に月人風情をぶつけるなど愚策に他ならない。過去の遊びからまるで学べていないぞ、綿津見」

 

 駒は役立つ物とそうでない物の二択しかない。月人の中でも別格と見なせる綿月姉妹や賢者達ならいざ知らず、手足として動く使者の力量など知れている。都中に散見するか弱い兎や形だけの軍兎よりマシな程度だ。純化の『在り方』を矢なり槍なり、敵の命を貫き奪う分かりやすい形として導き、ご丁寧にも一つ一つに意識を向けて的当てせずとも、ふわりと柔らかなこそばゆいそよ風に乗せて振るうだけで、一呼吸を置く間もなく壊れ滅びる。

 純狐は尊大な態度で嘲る。七本の尾が揺らめいた。余裕を失わぬ因縁の輩を前に豊姫も動揺していない。

 

「純化は穢れを生み、都に災禍をもたらす。今の私を愚か者だと断じたのなら、あなたも相当なお馬鹿さんね。冷酷さは否定しないけれど」

 

 過去に何度も純狐による襲撃を切り抜けてきた都は、純化なる力の恐ろしさを当然に知り尽くしている。微量の穢れですら忽ち致死量に調節できる力は、能力の神髄ではなく使い方の一つに過ぎない上、本人の意思次第では無条件に発動して効力が及ぶ。真正面から素直に相手取るのは純狐の言う通り、愚策以外の何物でもない。

 

「ここに立つのは『私』だけよ。初めからね」

 

 果てと呼べる果てがない国産ノ狭間は、豊姫にとって都よりも縁が深い場所。深部には都の賢者を始めとして、王族やその関係者など上層の者達が住まう、『城』や『宮』と呼ばれる巨大な神域が存在する。

 自他共に厳しく生真面目で堅物な依姫とは対照的に、豊姫は天真爛漫かつ穏やかで大らか、宴などの遊興を好む、親しみやすい人物である。そのため(今日では形骸化しつつある肩書だが)、綿月家の高貴な姫君との立場でありながら、個人的な交友関係の幅が広く、都のみならず城にも親しい友人が多い。その関係で至るところに縁故を持ち、都にある機密性の高い施設に私的な理由で自由に出入りできたり、宮を無許可で歩き回っても「見逃され」たりと特別扱いされる。地上どころか月ですら危険物と見なされる、都の先端技術が生み出した近代兵器の数々が保管される場所も例外ではない。

 城には実に様々な物品が厳重に管理されている。彼女が都へ易々と持ち出した、物体を素粒子水準で分解する扇子もその一つ。

 

「きな臭さはあったけど。人形なんて凝って作っても、壊れやすい人型の域は出ない。信仰から外れた付喪神が狂わしに縋ったところで人間にも……お前たちのごとき罪深い月の民にも成れぬというのに」

 

 無知な素人でも一目見ただけで『人』と断定できるか、『人』の姿を頭に過ぎらせる姿をした物こそ、人形や傀儡と呼ぶに相応しい。それ以外は見てくれが人と異なる存在、異形の一言で表すべきだろう。となれば次に考えるべきは、人形と呼ばれる物を構成する材料の方。鮮度があり腐敗もする生身を持った人間に比べて、もっぱら人形は樹や粘土や鉱物、つまり木や陶器や金属で作られる。

 豊姫が差し向けた人形はいずれにも当てはまらない。生身ではないが、生まれるにあたり造形もされない。ならば洗脳を施した、命ある駒としてのいわゆる『操り人形』なのか、と訊かれて首を縦に振れもしない。人間や人形とは全く別方向の特異性を持つことになる。

 

「開発部の皆が怒りそうね。最新の科学技術の賜物なのよ、これでも」

 

 不審そうに眉を動かした純狐。豊姫の掌には一寸にも満たない、小さなガラス板のような物体が握られている。

 

「例の扇子じゃないのね」

「見ての通りよ」

 

 扇子が月の最終兵器と言われる所以は効力にあり物品にはない。それ自体は認証済みの高性能兵器には遠く及ばず、開発途中で穴だらけの未完成品。豊姫が持ち出した物は試験のために生まれた試作品である。

 粒子化は実現できているが、効果範囲や速度などの実戦的な性能や耐久面にも難がある上、一定以上の物量や質量を受けると効力が潰されたり、そうでなくとも時折不具合が発生して機能が停止したりと実用水準には程遠い。形ある実体を分解するのみという性質上、神霊や幽霊の類には干渉できずという、どう頑張ろうと塞がらない穴もある。何より純化で無力化されるため、純狐相手に役立つような物ではない。

 豊姫の手にあるのは完成品として認証を受けた物品の一つ。

 

「質量を内包する変容的な光を生み出し、現存する物理法則に応じた超高精密操作が可能な特殊金属製反射板……だったかしら。よく分からないけど、あれよりは幾分かマシな物よ」

 

 この場には豊姫以外の月人など、初めから存在しなかった。つまり純狐は誰一人打ち殺していない。居るのは月の光から作られた実体のある幻体達。神霊が持つ分霊の術を解析して、実在する何人かの民を参考に生み出された擬似的な生命体である。分霊の精度は神霊自身の力や格、魂の強さなど様々な要因に左右されるが、本体と同一の力を持つ分体を際限なく作り出す術で、高位の妖怪が扱える『式神の術』の始祖とされる。

 間もなく倒れていた四つの人影が霧消し、今度は各々の四倍の数、十六体の月人が錫杖を構えて標的を囲む。純狐の笑みは消えない。豊姫は鋭い目つきを見せた。

 

「純狐――『力比べ』から今の『知恵比べ』に転換したのは、気が遠くなるほど昔の話ってわけでもないわ。けれど今回のあなたのやり方は、過去に類を見ないほど目に余る」

 

 古より因縁を持つ、とある人物を消し滅ぼすために、過去に何度も都を襲撃してきた仙霊・純狐。

 当初は負の感情を振り撒き、本気の殺し合いを望んでいた彼女も、時代の変遷と共に純粋な力比べから、無血の知恵比べに方向転換し始めた。最近は同じやり取りに飽きでも生じたのか、襲撃の頻度が昔と比べて減少したのみならず、当人に渦巻く憎悪の感情すら薄れ気味で、純狐本人が堂々とそれを公言するくらいだった。

 此度の襲撃は明らかに異なる。渦巻きを通り越した垂れ流しの憎悪、言葉では形容しづらい不気味さ。散々と見飽きた厄介な宿敵というより、得体の知れない底の底を覗き込むような感覚だ。

 

「何故、このような行きすぎた、らしくのない手を選んだのかしら?」

 

 都と純狐は互いに完全なる敵対関係にある。関係性は昔から変わらず、変わる余地もなく、否定できる要因がまるで存在しない。力から知恵比べに転換したのも純狐の一存であり、無益な殺生とそれに伴う穢れを嫌う都側が交渉したわけでも何でもなく、向こうのやり方に合わせて対処したに過ぎない。

 昔のような力比べに、純狐が今なお傾倒していたとしても、此度に見るやり方は異質なモノに映っただろう。力にしろ知恵にしろ、これまでの慣れた手段を捨て去った者の心境の変化は、違和感こそ覚えど見通すまでには至らなかった。

――これこそが今回、都側が襲撃を事前に察知できなかった理由である。未知なる協力者の存在のみならず、純狐本人の急激な変わりようが、月の賢者達にとって最たる誤算となった。

 

「愉快な妄言を吐き散らすものだ。そもそも何故、この私がお前らを叩いてきたのか。それすら解らぬほど愚鈍でもないだろう」

「解っていてぶつけると思う? こんな退屈な疑問を」

「今さらだな」純狐は鼻で笑う。「真正面から私に挑まず、永年に亘りコソコソと安全地帯を創造し続けてきた……飽き飽きしたのは『比べ』ではない、その狡賢いやり方に、だ。これまでに代わる最善たる方法を考え、より月人共に苦痛を与えようと思っただけのこと」

 

 怨念の権化たる者が満を持して対峙したのは、紛れもない憎き女神の抱擁を受ける民の一人。

 罪深き『柱』により近しく、より深々と触れる者を前にすると、ふつふつと湧き上がる負の情が強まっていく。凍りついた安寧の下で何も知らず考えず、言われるがままに薬を搗く兎を眺めたり、都へ幾度となく吹っ掛けた争いにも勝る高揚感。己自身が立つ場所すら違って感じられる。

 

「私は全てを消さずして消えることはない。むしろ今の私は、以前の私を打ち殺すほど気分がいい。お前らのおかげでね」

「愚かね」豊姫の声が低くなる。「一度失ったものは戻らない。それは地上も月も関係ない、不変の理。過ぎ去った景色に縛られている限り、前へ進むことはできない」

「お前の言う道もある。その道を選ぶのが当然とも断言できる」

 

 女神を目前に増大した禍々しい霊力が体中から溢れ出している。天を掴むように腕を動かした純狐に同調して、本人の何倍にも膨れ上がった濃紫色の尾が高々とそびえた。不意にこぼれる「私は違う」との小さな言葉。

 

「何もかも消して生きるなんてイヤなのさ。そんな生き方は疲れたんだ。その疲れにこそ飽き果てている。お前には一生、死んでも、天地がひっくり返って世界が滅んでも――未来永劫、解りようがないだろうがね」

 

 冷徹で無感情な声色で紡ぎ終える純狐。豊姫は初めて憤りの貌を露わにした。

 

「……ええ。解りたくもないわね。くだらない。救いようがないわ、本当に」

 

 当初は女神を狙い、幾度となく都側と衝突し続けてきた純狐だが、その矛先がある日を境に都自体へ向いたのみならず、無関係な月の民そのものを憎悪の対象として映すようになった。純化された恨みが独り歩きし、積もりに積もった負の塊でしかない彼女は、今や元の己自身をも忘却しているように思えた。

 物事の正しい道理に従い、都は然るべき罰を罪人に与えよう。だが罪なき者を闇に葬るほど浅はかではなく、それを黙って傍観するほど愚かではない。たとえ月の天敵たる者だとしても、暴走した魂魄が居れば面と向かい、臆せず立ち塞がるのが月の民としての定めであり想い。

 

「結構」豊姫は息を吐いた。「永きに亘るお前との悶着……今宵の月を以って終焉とする。背負った瑕穢と大罪を洗い流すための、私からのせめてもの施しよ」

 

 十六方位の錫杖から伸びた鎖が揺らめき、黙して佇む純狐に巻きついた。都の森で吸血鬼に壊された簡素な物とは異なる、見事な松の絵と装飾が施された金色の扇子を手に、豊姫は軽やかに動作した。

 勢いを持った突風が巻き起こされ、逃げ場を失った純狐の表情が呆れたものに変わる。

 

「……無いんじゃなかったのか? ウソつきめ」

「『私の』よ」

 

 緩慢とは真逆の風に呑み込まれ、体がその魂ごと消え去る直前、静かなる世界で二人は言葉を交わした。

 

 静寂が戻る国産ノ狭間。浄化の真髄たる力を前に、生きし生ける者は呆気ない最期を迎える。

 最終兵器と呼ばれる所以が扇子自体にないのは、半端に再現された量産品もそうでない物も変わらない。穢れを浄化する風が都にとって特別な意味を持つのだ。月に仇なす者を浄土へ送るのに、これほど隙間なく当てはまる代物はない。

 

「この私の行いを罪とするなら、女神とやらはさぞ苦しみにのた打ち回っていることだろう。奴を担ぐお前たちも、同じくしてその道を辿るべきだ」

 

 それでも恨みとは純狐の存在意義である。月の女神が堕ちぬ限り、彼女もまた消えることはない。肉体が壊れ、魂が穢れた歯車にすり潰されようと、仙霊の存在はこの世に残り続ける。

 純狐を取り巻く負の情は今や、古きを生きる豊姫の予想を遥かに超えた――否、知る由もない程度にまで膨れ上がっていた。それは彼女が振るう純然なる力も例外ではない。

 

「……嗚呼。斯くも淀み濁るか。目が何度腐ったか、忘れてしまったよ」

 

 純狐は何事もなかったように浮かび上がり、輝きを失った赤い瞳を露にした。意外にも冷静に構える豊姫の前で、月も星々もない異空間の空を見上げる。

 

「あの女はね、苦しんでなんかいないのよ。愚かにも神を謳ってさえいる。飾り立てた玉座で踏ん反り返り、姿を見せることもせず、憐れな兎たちに贖罪を押しつけている。月の民になど扮したところで、あの頃から何も変わっていない」

「お前の世界があるように」豊姫は瞼を瞑った。「私たちには、私たちの世界がある。今の私が為そうとしていること、今のお前が成そうとしていること、どちらも大差はない。けれど私は、独り歩きなんてしていないの」

 

 古の時代から続く仙霊との深い因縁。月の民の天敵と呼べる者を前に、豊姫の声は不思議にも穏やかで、純狐の言葉を真正面から否定しなかった。

 

「己の恨みさえ純化して、見失い続けていれば……いずれ身を滅ぼすわ」

 

 沈黙。純狐の口元に愉快げな笑みが表れ、背中から生える一本の尾が霧消した。豊姫の手にある扇子に濁りが生じると、表面に黒ずみが広がっていく。穢れ往く扇子に豊姫は目を向けようともしない。

 使い物にならなくなった扇子を即座に放り捨てると、豊姫は月人の幻影に命じて純狐を鎖で縛りつけた。その拘束を腕の一振りで解き砕き、続く純化で十六体の幻影を消し去った瞬間、今度は百二十八を超える大量の幻体が入れ替わり出現する。

 太陽の光は淵源が在り続ける限り失われない。豊姫を照らし抱擁する月光とて、都が現存する限りは永遠に潰えることはない。月の光を塗り潰さんと蠢く闇黒を前に輝きを増すばかり。

 

「奴が私の思念で苦しみ続けるのなら、こんな体と魂など喜んでくれてやろう。ただね、私の『コレ』を――お前が思うような薄っぺらいモノと一緒にされては困る。綿津見」

 

 幻体の群が一斉に動いた。無数の錫杖から発した光は、対峙する純狐ではなく頭上へと向かう。寄り集まった眩い光の帯が束となり、爆発的な膨張と共に球体が形成され、この場にいる全員を呑み込む規模に膨れ始めた。

 察知して動作した純狐だが、頭上に浮かぶ火球は純化による干渉をものともしない。舌打ちして再度動きかけた瞬間に目を開き、胸を押さえてその場に膝を着ける。

 

「私たちがお前を遠ざけ逃げていた。口頭では否定するだけ無駄かもね」

 

 都が保有する最新鋭の軍事兵器の数々。量産型の扇子が一つあるだけでも地上を容易に制圧でき、既存の兵器を併用すれば異界との万が一の衝突にも十分に対応できる。

 兵器とは何かと戦うために存在するものだが、戦いと言えるほどの敵を持たないに等しい月の都には、本来ならこれ以上の兵器は不要である。故に兵器の開発を続ける必要はなく、開発機関の存在意義も時代の変遷と共に薄れ、はっきりと言えば今日ではなくなりつつある。それを承知で新しい物を作る理由は、都を脅かす純狐という存在に尽きる。つまり仙霊を滅ぼすためだけの物が、現在の都には存在して然るべきである。

 

「熱い……日輪?」

「『陰陽の火』」純狐に近づく豊姫。「この世には映らない火。仙霊の穢れた魂を燃やす神霊の眼よ。本来は切り離せない森羅万象を分ち断ずる……お前のためだけの、本当の意味での『最終兵器』」

 

 豊姫の合図と共に火球が落下し、純狐の姿が劫火に呑み込まれた直後、異空間の中に「豊姫」と優しい声が響き渡った。慈愛に満ちた温かさが、踵を返しかけた豊姫を包む。

 身を焼かれ苦悶の声を上げる純狐と、硬直する豊姫の間を割って降り立ったのは他の誰でもない、綿月姉妹の師――八意永琳だった。穢れに満ちた虚ろな瞳を弟子に向けている。豊姫は「何故?」と無意識の内に呟いていた。

 

「会いに来たの。あなたに」永琳は豊姫に近寄った。「……弟子を叱るのは師の役目だけど、危なくなったあなたを助けるのは、私の役目でもある。昔からそうだったわ。あとは私に委ねなさい――」

 

 動かない豊姫を抱きしめる永琳。柔らかな感触、懐かしい匂いと温かさ。

 それらを心身に受けて瞼を瞑りかけた豊姫は、忽ち我に返ってしまう。弟子だからこそ悟ったのだ。この女性が本当に永琳なら――否、八意永琳としてこの場に立つのなら、仙霊には何があろうと、背を向けたりなど絶対にしない。

 

「――身も心も全てを、ってかい?」

 

 師の代わりに紡がれる言葉。意図せぬ隙を生んだ豊姫を狙い、劫火から這い出した純狐の指先が向けられた。

 一瞬の出来事だった。認識できない瑕穢が満ちた途端、豊姫は永琳と共にその場に崩れ落ちた。

 

「師と弟子の、繋がりとやら……それこそ、私にとってはつまらない、兵器でしかないのよ」

 

 純狐は息も絶え絶えに足を引きずり、瑕穢に蝕まれた二人に近寄ると、無感情な赤い目で見下ろした。

 豊姫はうつ伏せで呼吸を乱し、純狐を睨みつけている。永琳の方は倒れたまま動かない。地上の民にすら圧をもたらす穢れに押し潰され、思うように体が動かせないのだ。

 

「皮肉ね」今度は純狐が踵を返す。「天から地を見下ろすお前が、忌避すべき者を見上げている。平等に穢れが生まれ……お前たちの絆をより身近に、強固なものにしたのだ。短い時間だったが、実に愉快な眺めだった」

「待ちなさい、純狐――…!」

「殺しはしない。死んだら楽になるだろう? 天探女と同じように、民の苦しむ姿を何もできず、黙って見ていてほしい。天を下す雨に打たれ、女神という柱が腐食し……全てが終焉に向かうさまを。ゆっくりと」

 

 貌を伏した豊姫を余所に、純狐は鋭い眼を南の方角へ向ける。

 国産ノ狭間に足を踏み入れた瞬間から、豊姫の手により目的の地からは途方もなく遠い、全くの正反対の位置へ飛ばされていたことに、純狐は当然に気づいていた。

 理由は一つしかない。仙霊の眼を向けられるべき唯一の者が、その場所にしか鎮座していないが故。堅牢な結界を張って女神を隠し護ろうと、もはや探す必要すら純狐にはなかった。

 

「臆病者め」

 

 間を割って入った地上の月人は、協力者の瞳力で操られた者の一人。当人の気配は付近に感じられず、相変わらず最低限の利害関係を保っているが、純狐は大いに満足だった。

 恩師の介入により豊姫の傷は思いのほか深々と抉られた。都を喰い滅ぼす側にとっては、この上ない至福として感じられよう。回収した蓬莱人も役に立つものだ。

 

 

――◇◇◇

 

 

 闇の中を彷徨い歩いていた純狐が足を止める。眼前に現れたのは『球体』だった。無限の広さを持つ国産ノ狭間を視界一杯に満たす、気が遠くなるほどに巨大な月が浮いている。

 地上にある妖怪達の山岳より遥かに壮大な、異空間にあるもう一つの天体、もとい月の神が住まう宮。玉兎達は存在こそ知っていても、立ち入ることすら許されない皇族の神域であり、外観は和や異国とも符合しない。

 

 周囲の景色に擬態した門が歪んで映っている。通常は開錠できないために番は居ないが、存在しない鍵を手にする力を持った仙霊は居る。手をかざすと空間に亀裂が入り、粉砕されると共に冷たい風が吹き込んだ。表の門である三神結界とは異なる位相だ。

 

「よくここが分かったね。兎なのに」

 

 躊躇なく踏み入ろうとした純狐が口を開いた直後、無防備な脇腹に赤色の光弾が撃ち込まれる。防がずかわさずまともに受けて顔をしかめるも、すぐに平然とした様子で襲撃者に眼を向けた。

 足元まで届くほどに長い薄紫色の髪、狂気の瞳を宿した少女。地上の兎が息を切らして立っていた。

 

「……何も知らないのは下っ端。私はここに出入りできる、数少ない玉兎の一人だった。あの方々のおかげでね」

「元エリート軍人、とやらか。不意を突くとは賢い」

 

 レイセン。地上人による月面侵略に怯えて地上へ逃げ出した臆病な兎ながら、軍人の中では若さの割に異彩を放つ実力者でもあった。

 彼女の瞳に宿る狂気は、人を狂わせ幻覚を見せると言われている。純狐は彼女の姿を過去に目にしているが、鈴仙が純狐を実際に見たのは迷いの竹林が最初だった。

 

「会う前から疲労困憊。加えて遅すぎたな。アレを片づける前に出てこないと駄目じゃないか。穢れに来るくらいなら、奴らを安全な場所にでも運んで、震えながら隠れていれば良かったのに」

「皆は」鈴仙は視線を外さない。「――ここには居ない。あんたの思い通りにはならないわ。誰一人ね」

「ああでも……そんな場所なんてどこにもないわけだから、勤勉なお前の働きも無駄に終わったわね。エリートにあるまじき無意味な愚行だ」

「どうかしら? 私がここにきたのは地上の民として、元月の民として……今の私の行動には意味がある」

 

 指先から機関銃のごとく光弾が連射される。眼前に迫る様々な色彩の弾幕を、純狐は眉一つ動かさずに黙って眺めていた。鈴仙より遥かに強かで高尚な力を持つ豊姫、月の使者を始末してきた仙霊にとって、目の前の兎など脅威にはなり得ない矮小な輩。平和を満喫する都の玉兎よりかは質が高いだけで、総力で比較すれば豊姫とは天地ほども差が開く。格の違いなど向こうにしても十分に理解できているはずだ。

 純狐が動く前に弾幕は霧消した。強い衝撃を背に感じて振り返ると、睨みを利かせる鈴仙の姿が見えた。今の彼女が正面に佇むにもかかわらず。

 二人の鈴仙を認識した瞬間、眩暈で景色が揺らいだ純狐。視界の端が真っ赤に染まり始めている。波長に干渉して神経伝達をかく乱させたのだ。

 

「噂に名高い、狂気の瞳か。確かにある意味、綿津見より面倒なのは否定しない……使い手も使い手だしね。まるであの人間のようだ」

 

 鈴仙が都の軍に属していた当時、その突出した力は周りの兎達から驚きと尊敬の念を集めていた。波長を操作する能力は、月の兎に備わる標準的な機能の一つだが、鈴仙ほど巧く扱える玉兎は他に存在しない。彼女が持って生まれた素質と途轍もない成長率は目を見張るものがある。本来は五感全てに干渉可能な汎用的で強力な異能ながら、最も力を発揮できるのは視覚に訴えて振るう時である。月や幻想郷にも類を見ない特異な瞳力、『写輪眼』を持つ異邦人に通ずるところも多い。

 ちなみに狂気の瞳とは能力の名称ではなく、他者から評され生まれた通り名。稗田家当主が主観的な視点から命名する、具体性を著しく欠いた「程度の能力」なる文句と似たようなものだ。同じく具体的とは縁遠い『純化』の力を持つ純狐としても、あながち嫌いではない言い方である。

 

「同じじゃないわ」鈴仙達が輪唱する。「小さな力でも、要は使いよう。あんたがどんなに大きな力を持っていても、体の働きは人妖のそれと変わらない。私の力はあんたを蝕む――自分の狂気に抗うなんて、できやしない!」

 

 純狐の視界の九割方はすでに赤一色。波長操作が見せる鈴仙の分体は絶えず数を増やしていき、純狐を打つ弾幕も勢いを増していく。

 狂気に蝕まれた者は正常な判断が阻害される。能力とは正常な意思決定の下に扱われるため、鈴仙以上の強者ですら狂気の渦中に囚われる。彼女が得意とする力は幻術の類である。単に力で叩くのではない、周囲の波長を手に取り、絶対的な特殊性で敵を翻弄しつつ自滅を狙い、隙を作り畳みかける。狂気の真髄は相手の波を封殺するところにある。

 

「狂気は不純物だ」

 

 そんな鈴仙には知る由もないだろう。行き過ぎた憎悪も狂気も大差はなく、恨みの権化である彼女の正気を今さら奪ったところで意味など生まれないと。

 純狐の赤い目が愉快げに細まり、何体もの鈴仙のうち一人を捕捉すると、純化を同じ波に変換して躊躇なく振り撒いた。純狐の波長に及んでいた鈴仙の力は、無害で取るに足らない妖気の流れに変わり、本人の動きが凍りついたように停止する。

 

「生憎だが」純狐は一人呟いた。「私のモノは、随分昔に腐り果てた。私の本質はお前など及びもつかないよ。久方ぶりではあったが……本物の狂気の瞳に触れられて、光栄だった」

 

 なおも能力を向けつつ攻撃を試みる鈴仙。殺意に染まった目が虚ろとなり、先の二人と同じように崩れ落ちた。

 純狐の目は思いのほか柔らかく、どこか懐かしそうに細まっている。

 

「お前はあの人間とは違う。都への謀反は賞賛に値するが、月に生れ落ちた全ての民は奴の呪いを受けている。惜しいがここでお別れだ」

「私の……師を……」鈴仙の声が掠れる。「皆を傷つける……あんたが、あんたなんかが……そんなこと、軽々しく口にしないでッ!」

「ならば敬愛する師と同じように、傍観していれば良い。大勢の民が命を削ってまで担ぐ女神とやらが、穢れと瘴気に満ちた地獄に喰われ往くさまを」

 

 門に向けていた貌を戻す純狐。鈴仙はすでに伏して動かない。乱れた長い髪が広がっている。純狐は静かに瞼を瞑り、風が吹き込む城の入り口に立つ。

 罪深く傲慢な女神の贖罪のためだけに、今もなお不死の霊薬を搗き続ける兎達。理不尽な使命を帯びた月の民が脳裏に過ぎる。純狐に哀れみの情など欠片もなく、玉兎達が薬を搗こうが捨てようが無関心そのもの。彼らが都において誰より穢れた者の掌に居るという事実が、今の彼女の行動原理となっている。

 

「嫦娥よ。見ているか? 女神の贄を踏み躙る者の姿を。都の楔たるお前が消えれば全てが腐り果てよう。民の未来は失われよう。お前はどれほど罪を重ねたら、底まで堕ちてくれる」

 

 天上の眼は月に仇名す者を見下ろしている。純狐は言葉を紡ぎ終えると、深遠の中に掻き消えた。

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