THE LAST PHANTASM -OBITO- 作:大兄貴
三神結界の要を後にしたレミリアと咲夜は、飛び去った二人を追って常夜の空にまで至っていた。
辿り着いた先に待っていたのは、地獄の妖精・クラウンピースを伴った仙霊の姿。例の物体を手に長い金髪をなびかせている。クラウンピースは追跡者を見るなり舌打ちすると、血剣とナイフを構える二人に飛びかろうとするも、仙霊が無言で制止して傍を通り過ぎた。
都を離れて遥か空まで上昇し、薄明るい宇宙空間が今や傍にある。ただし大結界の内部であり、景色も感覚も地球の夜空と変わらない。もう一度周りを見渡した後、仙霊は口元を嘲笑で歪める。
「終曲を奏でるべき既での状況、差し詰め悪役の野望を阻みに立ち塞がる勇者二人……博麗の巫女や後の仲間が不在なのは残念だがね。都合の好い舞台ではある」
「見せ場があるのは、素晴らしき館の主と忠実な従者で十分。私だけでフィナーレは飾れるのよ、黒幕さん」
「元気な子だ」レミリアを眺める仙霊。「お前には悪いが、こちらからすれば配役は逆だ。今この場では私こそが真なる正義。お前たち邪魔者風情こそ悪でしかない……お遊びでは少々大げさな物言いかもしれないが」
正義か悪かを判断する基準など実に不明瞭なものだ。己の信じるものを正義と見なすならば、己に反するものは遍く悪にしかならない。その一方で目的や信念を異にする相手方から見るなら配役は容易く変わろう。圧倒的な多数派を善と仮定して少数派を切り捨てるなら話は簡単だが、各々が内に抱く正義を客観的な視点で語り、第三者の目線から正誤を決めるのは極めて難しい。
此度の騒ぎにおいて立ち位置を違え、考えも基準も敵も異にする両者からすれば、互いに相容れる部分など主観か客観かに関係なく存在しない。何よりレミリアにとって興味の外だ。
「存外、おめでたいのね。こちらはまだ一度だって、力の底を見せたことはないのに」
この場で黒幕と対峙するのは自分達だけ。博麗の巫女や境界の妖怪、ごっこ遊び抜きで実質的に自身を負かせた異邦人も居ない中で、レミリアは現状を不利とは欠片も考えていない。他の解決者達が居るであろう地上には目もくれず、鋭い牙を覗かせ笑ってさえいる。仙霊は冷たい目を愉快そうに細めた。
「咲夜、命令だ。お前は手を出すな。あの怪物は私が直々に仕留める」
「……お嬢様?」
「といっても、私が生きている間だけだ。死んだら後は任せるよ」
暗さや深刻な声色など微塵もない。お喋りでも愉しむかのようにのんびりと、何気ない口調で言いながら従者を振り返り、柔らかな表情で視線を投げて笑う館主。特別な主従関係に余計な言葉は要らなかった。
暫しの沈黙の後、咲夜は背筋を伸ばして一礼する。
「はい、お嬢様。お気をつけて」
上空から見下ろす仙霊を目指してレミリアが飛翔した。瞬く間に傍を通り抜けた小さな姿に反応し、クラウンピースが慌てて飛び出しかけた瞬間、銀のナイフを手にした咲夜が立ち塞がる。
――衝突。単純に戦いを指す言葉でもあるが、正確には戦意の有無に拘わらず、互いの意志が食い違った時に発生する争いごと。
都の安寧秩序がレミリアと咲夜の眼中にない以上、本来なら双方共に戦う理由も意味も持ち合わせていない。仙霊が月界を喰らい尽くそうと、地上の民たる二人が日常を過ごす『紅魔館』と幻想郷の平穏を崩すわけではない。それでもレミリアは強かな意志を乗せて剣を振るう。
相手の戦い方に合わせたのか、黒い物体を柄に立ち昇った黒い刀と、血霧を凝縮して形成された魔剣とが打ち合う。刀身は絶えず瑕穢を漏らして炎のように揺れている。
飛翔し幾度も衝突し合い、背後に移動した仙霊の無慈悲な刃が振り下ろされた。振り向きざまに振るうレミリア、仙霊が至近距離で睨み合う。
「綿津見でもなければ月の民ですらない、地上の脆弱な妖一匹。そんなお前が都の英雄気取りか? 論外だな。未熟な吸血鬼風情に何ができる。目的も持たぬ輩が立ち塞がるなど」
剣とは敵を倒すために振るう物。禍々しき黒に染まる一閃が頬を掠った。僅かに掠るだけで、接近するだけで意識を揺さぶる瑕穢の応酬は、今や地上の民にさえ猛毒と呼べる物にまで、純化の力により変質して膨れ上がっていた。永すぎる歳月で積もりに積もった穢れの程度を測り知るなど何者にできようか。瑕穢を身近で当たり前の概念として受け入れる者、地上の民なればこそ尚更に叶わぬであろう。
博麗の巫女なら思考を張り巡らせるような場面でも構わず、真正面から襲いかかるたった一つの敵にのみ、レミリアは意識を向けていた。
「目的ならあるわ。とびきり美しいのがね」
異質で圧倒的な力を持つ仙霊を前にレミリアが剣を握る理由。地上の民にはかかわりのない月の都だ、正義の味方や英雄などとは縁遠い性格を自負し、元より地上で暮らす者には、都の有無になど興味は湧かず向きもしない。山の河童を凌駕する先端的な技術や、前の月旅行で口にしていた支配欲すら理由としては的外れ。
早い話が月人が絶滅し、月の都が跡形もなく消え失せようとも、彼女は気にも留めず何も感じないのだ。
「月がお前の色で染まれば、私だけの夜が汚れてしまう。お前が踏みにじって淀んだ月なんて、死んでも仰ぎたくないの」
いかにも夜の王たる彼女らしい、本人曰く簡単すぎる理由が存在しなければ、今この場には立っていない。
常人ならば心狂わされる満月の夜、飽きもせずに始まり廻る血塗られた狂乱の宴は、高潔なる吸血鬼にして静かで上品で、心躍る安らぎに他ならない。穢れなき楽園を染めるほんの僅かな異色ですら、曇りなき鏡に酷い濁りをもたらすに等しい。彼女にとって容認できるものではない。
「気に食わないか。女神という汚点を払拭した月だぞ? これまで以上に綺麗な輝きを拝めると思うがね。お前まで奴に溺れる愚か者でもなかろう」
「汚れ切った奴が吼えるわね。お前と一緒にしないでちょうだい。純白に輝く月光こそが吸血鬼の性――この私の意志そのものなのよ」
剣を手に突っ込んでくるレミリアを眼前にして、仙霊はにやりと不気味に笑んだ。
「それは私に噛みつく牙にもなる。ならばその心ごと折り、お前を取り巻く幻想に終止符を打ってやろう」
蝋のように白い指が動いた。レミリアが握っていた剣は一瞬にして粉々となり、細やかな紅色の欠片が散る。
間髪容れず純化が無防備な体を狙うも、レミリアの姿は忽ち霧消してしまう。それを合図に散っていた欠片が分解されて気化し、紅黒い霧が次第に周囲を覆い始める。景色は見る見るうちに霧の中に閉ざされ、レミリアと咲夜、クラウンピースの姿までもが仙霊の視界から消え去った。
見渡す限り赤一色で、目の痛くなる色彩で染め尽くされる。
「目晦まし……奇術としてはそこそこと言うべきか」
外の景色は映らずとも、吸血鬼の霧を構成する魔力と『不純物』が、仙霊の目にはハッキリと見えている。
不純物を混合させて作り出した物こそ彼女の霧。ならば魔力の純度を操作して高め、牙を剥く不要な物の居場所を追い出す形で取り除けば、再び視界は明瞭となる。どれほど複雑な要素が絡み合おうと、根源が魔力の流れただ一つなのは変わらない。不純物となる物の全てを捨てさせて、物事の本質を晒す力こそ純化の神髄だ。
――欠伸が出るわね。
濃霧に紛れる少女の声。仙霊は首筋に鋭い痛みを感じた。真っ赤な鮮血が大量に噴出し、身を襲った衝撃で体勢を崩す。
噴き出した血は周囲を満たす霧に吸収されていく。その刹那、顔を上げかけた仙霊の動きが止まる。周りを囲む霧のあちこちから飛び出した無数の血槍が全身を貫いた。咄嗟に目を走らせるも、霧が深すぎるせいで襲撃者は見通せず。周辺を見渡す時間が長ければ長いほど、致命傷は深くなっていく。目に見えない襲撃は勢いを増していく。
霧の湖や竹林を覆う度合いとはワケが違う。尋常ならぬ濃度で視界を完璧に潰して、霧の中を動作しつつ獲物を狙い、姿を見せぬままに四方八方から標的を切り刻む。真っ赤な鮮血に塗れていく。
「……ほう」
なるほど。と、仙霊は感心した貌で笑む。純化の発動を試みようにも、標的が捕捉できない状況では手が出せない。感知を阻害するいわゆる電波妨害装置のような効果も内包するようだ。
生物を無条件で殺める輩が吸血鬼に劣るもの。それは巫女や神霊の類では持ち得ない、純粋な妖怪としての身体能力が最たるもの。とりわけ吸血鬼は数ある中で最も強大な種族の一つ。不死身の肉体はもちろん、鬼のごとき怪力と天狗に並ぶ速力を併せ持つ。能力を除けば仙霊にさえ優る妖怪が吸血鬼である。常夜の世界で気分が高揚し、魔力が際限なしに高まるのは、夜の王たる者を置いて他にいない。
不明瞭な視界を利用して攻撃を行う程度は容易にできよう。だがこれほどの紅い魔力を自在に操作し、迅雷のごとき速力で動き、目視や感知を撹乱させて純化の力と渡り合える者などそうは居まい。吸血鬼にのみ許される、ただただ純粋に強かな力だ。
妙な感覚が仙霊を蝕む。純化の力をどこかへ向けると、決まってその方向とは反対側から攻撃を喰らう。右なら左、上なら下。正面なら背後。そのうえいずれも的確に死角を狙ったものばかり。意識(純化)を向けた場所を先読みするかのように、なおも霧の中の悪魔は仙霊を血に染めていく。
急所は避けても攻撃を防ぐのは困難を極める。吸血鬼なる種族に興味を抱き、小手調べに興じていた仙霊は、赤く染まれば染まるほど嬉しそうな笑みを広げた。今度は振り向くと共に瑕穢の一閃を加える。
背後で真っ二つに斬り裂かれたレミリア。目を大きく見開き、口から血を吐き出す。ところがまたしてもその姿が流血と共に霧消し、細やかな粒となり霧に吸い込まれ消える。
同じ調子が何度も続いていた。脱出を試みても霧は包囲網を崩さず、さらに視界は染まるばかり。威光を向けるべき対象が速すぎて捉えられず、仙霊は僅かに苛立った表情を見せる。
「愉快なほど嫌がらせの上手い子だ。鬱陶しさを覚える破目になろうとは――」
周囲の霧が凝固して飛び出し、胸部が複数の血剣で貫かれる。
しかし、血に染まるだけでは死なない。周辺一帯の紅霧を右手の一振りで消し飛ばし、魔力の霧は純化されて無色の奔流に帰する。ここで初めて霧の向こうで揺れる、吸血鬼の姿を目の当たりにする。
そこに居たのはレミリアだったが、以前のふわふわとした面影は失われていた。不気味な輝きを放つ真っ赤な眼、揺らめく紅黒い十字架を背後に展開し、両手には背丈以上の血剣。血霧で形成された巨大な翼を羽ばたかせている。
血に塗れた禍々しい姿に、仙霊は愉快げに口元を歪める。霧の世界は双方の背後にまで広がり、咎人を逃がさない二重の牢獄が周囲を覆い隠している。
「猫被りめ。これほど緻密で規模のある物を制御できる吸血鬼も珍しい……悪魔という言葉が実によく似合う。俗に言う『最終形態』というやつか?」
「『紅色の幻想郷』へようこそ」レミリアの声が輪唱する。「せいぜい感謝するのね。ここまで力を解き放ったのは、それだけお前のしぶとさを認めた証。お前は確実に殺す……この手で地獄に叩き落としてやるよ」
「勇ましいな」仙霊は指を動かした。「――が、威勢のよさだけではね。視界を御するに止まるなら変わりはない。よもや私の前に出てこようとは」
凝縮した血の大翼をまとい飛翔するレミリア。仙霊の能力は忽ち紅魔を捉えた。並外れた化け物でも悪魔でも生物である限り、純化は無条件に敵対者を殺害する。彼女を覆うのは霧だけではない、生物として死の匂いをもまとうのだから。
容赦なき一閃が迸る。吸血鬼は堕ちる――否、堕ちない。堕ちなかった。動きを止めぬどころか至近距離にまで迫っていた。仙霊は血飛沫と共に斬り裂かれた。手元を離れた黒い物体、無残な仙霊の体とが重なり宙を舞う。
血剣が消え去る。新たに霧が掌に収束し、螺旋状に渦巻くと、顕現したのは身の丈以上の大鑓。魔力の奔流に紅蓮の炎が交じり合い、熱気をまとって燃え滾っている。
力なく宙を舞いながら瞬きもせず、仙霊の眼は吸血鬼に向けられていた。
「終曲」
投擲された大鑓が彗星のごとく空を走る。仙霊は眩い光に物体ごと呑み込まれ爆発し、上空で炎上した。直撃と共に散りばめられた魔力の粒が、常夜の空に煌々と紅く輝いた。残り火は尾を引いて宇宙の彼方へと消える。
息切れするレミリアが肩を押さえた。徐々に薄くなり始める周辺の霧。大技の連発による消耗で魔力の制御が急激に弱まったのだ。それでも頭を垂れず、口元は上品に笑んでいる。
先の血槍や剣に見るように、紅霧は吸血鬼の手となり足となり、主たる者の姿を文字通り覆い隠すが、紅い魔力で作られた水滴の粒は相対する者の意識をも乱す。そのための隠れ蓑である。仙霊に関して豊姫から事前情報を得ていたが故の奇策であり、利害とはいえ一時的にでも都と手を組んだ証でもあった。
能力とは意識に乗せて振るうもの。穢れに働きかける力だからこそ、周囲に満ちる無数の『レミリア』が純化の盾として機能した。仙霊は目視こそできても、霧に包まれた時にはすでに本物の姿を見失っていた。隠すとはすなわち、相手方の意識から外れるも同義である。しかし、意識を逸らせるなど並大抵の業ではない。初めから考えなしに首を狙っても純化の餌食と終わるだけだ。
霧に紛れて仙霊の体力を奪い、意識に揺さぶりを掛けつつ機を待った。当人の傲慢と油断も重なり、とある実験の賜物である『火の槍』を形成し、最後の曲を情熱的に奏で終えることができた。炎は『レーヴァテイン』にも比肩する甚大な爆発力を大鑓にもたらしたのだ。
撒いて視界を奪うだけの単純な物とは異なり、この霧は集中力と緻密な魔力操作を要求される。高度な霧分身と併用すると途轍もない疲労を代償として受け取る破目になる。極めて優れた才と魔力を有する彼女にこそ成せた業であろう。
「生き物を侮りすぎだっての」レミリアは汗を拭う。「……穢れを生み、永遠を喰らう純化。だからこそ……月は堕とせても、私は堕ちない。短い命って案外、悪くないもの」
地上の民が良くも悪くも月の民に勝り優るもの。もちろんそれは曰く『良いもの』でしかない。
限られた時間の中で価値のあるものを探し出す楽しみ、見つけた時に噛み締める味は、生きる者にのみ許された至上の喜び。月人に比べてちっぽけだと言えるのは、精々が寿命くらいである。刹那的な愉しみを知った少女の眼中に退屈はない。穢れを怖れぬ吸血鬼にとって、寿命など恐るるに足らないのだ。
お気に入りの従者は外で妖精を相手取っているのか。早々に加勢して終わらせるため、レミリアが高度を下げようとした時だった。
「燃えなかった命は、淘汰されて然るべきかしら?」
背後より聞こえた冷徹な音色。戦場で安堵感など抱くはずもない。しかし、勝利を確信していたのは事実だった。ならば一瞬でも抱いた戦慄の原因はどこに潜んでいるのか――周囲の血霧が消え去る中、掌に大鑓を収束させながら振り向きかけた時、紅黒い大翼が突如として霧消した。強烈な衝撃を背に受けて吹き飛ばされ、苦痛と共に吐血した。
重すぎる一撃。レミリアは激痛を噛み殺し、距離を取りながら襲撃者を映す。目線の先に立っていたのは仙霊。先の魔力をもってして無傷で終わったのだ。ただし。
「……悪趣味ね」
仙霊は異様な姿に変貌していた。体が煙のように揺らめき、透明感の失われた肌は病的に白い。艶やかだった金髪、赤かった瞳は黒ずんでいる。
レミリアが舌打ちするなり、再び霧化して飛翔を試みようとした時、仙霊は不動の姿勢で何かを頭上に掲げた。先ほど粉々に消し飛ばしたはずの物が握られている。
「私は戻る――何より私らしいモノに。この肉塊も今や不要だ」
周囲に広がりつつある血霧を眺めながら、純化の力を己に向ける仙霊。穢れ尽くした本質が露呈した瞬間、手元の物体から昇っていた漆黒の蒸気が爆発的に広がる。迫りくる紅霧は押し潰されていき、一体化していた霧分身も総じて霧消し、霧の奥に身を潜めていた本体――目を見開いたレミリアに襲いかかった。
黒い煙が小さな姿を呑み込む直前に、高速で飛行する人影が掻っさらいドームを脱出する。涼やかな外の風がレミリアの髪を撫で、点々と過行く地上の街が見えた。
「お前、主の命令に背いたわね? 従者のくせにいい度胸じゃない」
自身の体を横抱きする人物、見覚えのあるメイド服姿を、口元の血を拭いつつ映したレミリア。
「まさか」咲夜はにっこりとする。「私は従者として、主には背きません。仰せの通り……『仙霊に手を出さない』という命は、完璧に遂行しましたので」
「勝手な解釈ね。『私』、が抜けているわよ」
「はて。そうでしたか?」
「ふん」
主人の危機に駆けつける従者。先の言葉と時計塔でのやり取りを思い返して、レミリアは呆れた表情で笑う。何でもハイハイ命令を聞いて呑むだけの、退屈な従者には程遠いから咲夜は面白いのだ。
中央の巨大な黒い暗幕を睨みつつ常夜の空を旋回し、咲夜はある程度の時間をかけた辺りで静止した。レミリアが腕の中から宙に降り立つ。普段なら漫才のようなやり取りをもう少し続けるところだが、それすら許さないほど危険な輩が目の前にいる。
音もなく広がりつつある煙。至る所でビリビリと霊気の摩擦が生じている。不可解な表情のレミリアに咲夜が「そういえば」と話しかけた。
「お嬢様。本業の者が到着しましたわ」
「……早く言いなさい。でもこれで、ようやくって感じね」
漆黒の煙を抑え込むように展開した巨大な正方形の結界。穢れと覚えのある霊力が衝突し合い雷撃が散っている。その抑えも長くは続かず結界を消し飛ばしてしまう。
二人の傍に現れたのは腋出し巫女服姿の少女。祓い棒を手に悔しげな表情を浮かべている。
「――ったくもう。何なのアレ?」
博麗霊夢は一人忌々しげに呟いた。揺ら揺らと立ち昇る煙か靄か判らない気体は、結界の基である霊気を蝕み腐食させたのだ。
術式を構築する霊力の質や列を能力で書き換えたり並べ替えたり、実力行使で破壊したりと、結界を破る手段は多々あるが、あのように朽ち果てた経験は一度もなかった。未曾有の現象である。
月の民をも殺す瑕穢とは、ここまでの禍々しさを持つのか。どう考えても『生物の命に限りをもたらす』程度を超えているどころか、それさえ通り越した殺人兵器に思えてしまう。
傍に立つ二人を見ながら、「アレがもう一人?」と早口に尋ねる霊夢。咲夜は煙から目を離さぬまま無言で頷いた。レミリアは腕組みして霊夢を見返す。
「巫女の助力も結構だけど。あの人間は?」
「それなんだけど――」
明らかに苛立っている吸血鬼に、霊夢は静かの海での出来事を簡単に説明した。
咲夜が落ち着いた様子で「やむを得ないわ」と納得する一方、レミリアは聞き終えるなり地団駄ならぬ空団駄を踏むと、怒りに任せて血剣を顕現させた。煙を睨みつつ歯噛みしている。
「臆病風に吹かれたってわけ、あの馬鹿? ふざけんじゃないわよっ!」
「落ち着きなさいよ」霊夢が宥める。「私もよく判んないけど、そんな感じじゃなかったって。尻尾を巻いて逃げる奴じゃないでしょあいつ。ていうかあんた、なんでそんなキレてんの――?」
「お二人とも、後にしてください。今は眼前の敵を」
黒い靄が突風となり押し寄せてきた。祓い棒の先端から光弾を靄に撃ち込みつつ、霊夢は前方に結界を展開させると、無数の霊撃を乗せた障壁で一気に逆襲させた。
濛々と上がっていた煙の中から、霊気を払い退けて進み出た仙霊。大雑把ながら純化の恐ろしさを霊夢も理解している。
純化の力の標的となり、振るわれるだけで潰えるも同然。穢れを持つ生物足る絶対的な要因である『命』が純化されれば、人や妖怪が持つ個々の名が排されることで、それらは人や妖怪といった個別的な枠組みの外にある、何の変哲もない『生物』という大枠に成り下がる。すなわち、『博麗霊夢』という存在が消える。死よりも残酷な結末だ。
(だけど……)
純化という異能やその効力を真正面から叩き潰すなど、少なくとも現在の実力では無理だろう。できるとしたら異能を振るう仙霊本体を御すること。要するに能力封じである。使われる前に仕留めるしか術はない。必要となるのは囮に目潰しと撹乱、止めの夢想封印。霊的存在には霊撃をぶつけるしかあるまい。一手で確実に決める他ないだろう。
レミリアは「仕方ないわ」と呟きつつ疲労を殺し、再び掌から広範囲に血霧を発生させると共に霧消した。仙霊は紅黒い霧に呑み込まれていく。咲夜も霊夢に頷いてその場から消える。
仙霊は上空で目を走らせていた。またしても辺り一面は紅一色。
濃霧は三人の姿はおろか気配をも包み隠し、目視と感知を徹底して潰す独擅場を作り出した。ただしこの霧は術者の魔力に依存するため、先の物よりも薄まり、範囲はさらに狭まっている。
「再び幕を上げるか」
それでも吸血鬼の血が、仙霊の逃亡を許さぬほど強かである事実は変わらない。面倒なのは霧だけではなかった。
先ほどから姿が映っている咲夜。数は一人に止まらず十、二十と増え続けていく。打ち落としても掻き消しても、咲夜の姿は減るどころか増加の一途を辿った。時空を歪めて作り出した分身は、攻撃手段を持たないまやかしの域を出ない代わりに、意識を散らす役目としては十分すぎていた。
大量の分身に加え、霧に紛れた高速移動は併用されると厄介と言わざるを得ず、仙霊の目をもってして捉えられる状況ではない。おまけに血槍が絶えず体を貫き、仙霊は意識を乱され続けていた。この渦中で能力が向くとすれば、目視可能な血霧に対してのみ。
――両腕を広げる仙霊。発生した純化の波に触れて、周辺一帯の血霧が無害な魔力の流れに戻り、視界が一気に開けた。しかし、霧の尋常ではない物量が後から後へ押し寄せるため、三人の姿を捉える前に視界が閉じてしまう。同じ動作を繰り返しても状況は不変だ。
「延々長々と鬱陶しさが増すばかり。怖れに駆られて時間稼ぎに傾倒しようが、天地以上に開いた格の差は――」
仙霊という怪物が長い硬直の中で見せた、ほんの一瞬の隙。二人の助力なくして生じなかったであろう隙を、博麗の巫女は見逃さなかった。紅白の巫女服姿が霊気をまとい、血霧を突き抜けて仙霊に迫る。
咄嗟に反応した仙霊より、霊夢の方が早かった。霊力を込めた祓い棒が振り下ろされ、あらん限りの勢いを込めた霊撃が迸り、強烈な霊気が周辺に飛び散った。
ここで手を緩めるほど博麗の巫女は甘くない。無数の陰陽玉が両者の周囲に浮かび上がる。片手で印を結び、正方形の結界が展開された。攻撃の方も滞りなく、さらに力を込めて祓い棒を振るう。押し負かされた仙霊が体勢を崩し、荒れ狂う霊撃の嵐に呑み込まれた。拡散して消え失せるはずだった余波も残らず全て、結界内に閉じ込められた仙霊が浴びる。
「ここだ――『神霊・夢想封印』!」
霊夢が結界を脱すると同時に、無数の陰陽玉が一斉に仙霊を打った。凄まじい奔流により血霧ごと浄化され、霧に紛れていたレミリアと咲夜の姿が露わとなる。
三人は互いに目配せして距離を取り、煙の上がる方角を睨んだ。
仙霊の性質は八坂神奈子などの神霊と似通っている。生半可な技や術が効かない、高位の存在にも通用する強力な封印術。体内に己が霊力を流し込み、その魂ごと直に焼き尽くす。ごっこ遊び用に調節を施した力ではないため、霊力の消耗は激しいが、代償に見合う威力を内包した大技だ。博麗の巫女は特定の霊術や神代の加護を通して、神霊達への干渉を許された唯一の民である。
「やれやれ」霊夢は息を吐いた。「……とかよく言うけど、こういう時に使うんでしょうね。これだもんな」
加減をせずに叩き込んだのだ、神様だろうと木っ端微塵と化すところ。そうなるはずだった。
レミリアと咲夜も気づいたようだ。あろうことか仙霊は五体満足で生きていた。体から蒸気を発しながら、頭を垂れて不気味に揺れている。
仙霊は含み笑いを漏らすと、顔を上げて目を見開いた。赤褐色の瞳が歓喜に震えている。霊夢はそんな仙霊を「化け物ね」と評した。
「あの火――…」咳き込む仙霊。「アレが……なるほど、奴らはどこまでも――この程度さえ打ち消せぬとは……だが勝ちだ……ようやくだ」
手にした物体を高々と掲げ、勢いよく振り払ってみせる。物体の形状が変化し、身の丈ほどもある漆黒の棒を形成した。
棒の先端を三人に向ける。黒い球体が発現して急激に膨張したと思えば、唖然とする霊夢達へ巨大化した玉が射出された。霊夢は霊術で瞬時に形成した壁を飛ばして防ごうとするも、黒真珠のような物体はいとも簡単に破壊して三人に迫る。
双方の間を隔てて結界が展開した。珠を丸々と呑み込み、空を覆い尽くすほどに巨大な物が全員を囲んだのだ。
四つに重なった結界の一層目が球体を喰らい輝き、間髪容れず二層目が発光する。層の間が玉に接触して黒色に染まったが結界は健在である。仙霊の攻撃を防ぎ切るのみならず、玉は結界間の隙間を移動して逆襲し、硬直する仙霊の姿が渦の中に消えた。
裂け目が空間に開くと、胡散臭そうな雰囲気の少女が舞い降りた。レミリアと咲夜は不意を突かれた様子だが、霊夢は呆れたように眺めている。巫女以上の霊力を持ち合わせた稀有な妖が姿を見せたのだ。
「来るならもうちょい、早く来なさいよ。もう」
「あら」驚いた表情の紫。「ごめんなさい。気づかなかったわ」
「抜かしなさい」霊夢は子供っぽく言い返す。「にしても……人間の私を助けるとはねえ。閉じ込められた仲ってやつ?」
「今あなたに死なれてもね。代わりを用意するの面倒くさいし」
「はいはい――っと、こういうのは後か。とにかく助かったわ、ありがとさん」
祓い棒を振って礼を言う霊夢を、紫は珍しく真面目な表情で見つめる。
「ひとつ気になるのだけど。アレは使わないの?」
「あれ?」
「『神降ろし』。こういう時のために特訓したんじゃない」
霊夢は神霊との対話を許された巫女である。綿月依姫のように神霊を体に降ろして、その力を借りることができる。
正確な手順を踏む必要がある、使役時間が限られる、ほんの一部しか借りられないなど、依姫と比べて人間の体故の限界はあるが、此度の戦いにおける助けとしては、生身よりも上手く立ち回るだろう。神霊の類を相手取る場合は特に。
「……使えりゃとっくに使ってるわよ」
神降ろしに関して霊夢は修行不足――より正確には、普段の弾幕ごっこや前回の月旅行の時ならともかく、此度のような実戦で満足に使いこなせるほど精度は高くない。年齢や経験の差もあるが、天才肌ながら努力嫌いである霊夢とは対照的に、日々厳しい鍛錬に勤しむ依姫ほど洗練されていないのだ。
いかに強力とて、使用者の制御が行き届かなければ無意味。それはいかなる術や武器にも共通する。霊夢の場合、神降ろしの際にはただでさえ尋常ならぬ集中力を要するのに、敵のいる戦場では危なくて使えない。使えたとしても半端な術ではかえって危険を生み、自分や周りに思わぬ厄をもたらすおそれがある。仙霊という危険極まりない輩を前にするからこそ、霊夢は慎重に動かざるを得なかった。
それでも心配ごとは何一つない。先の霊撃は間違いなく深手を追わせた。使い慣れない借り物の力よりも己自身の霊力を信じて突き進む。異変に立ち向かう者は『博麗の巫女』だけではないのだから――。
不意に黒い靄が吹き飛ばされる。仙霊が例の物体を手に、狂気的な笑い声を響かせながら姿を現した。もはやその目は霊夢達を映していない。
「機は熟した――クラウンピース!」
レミリアと咲夜、霊夢と紫の四人が警戒を強める中、仙霊の元に無言で馳せる地獄の妖精。
狂わしの炎を燃やす松明を受け取ると、物体を火の中へ落とした。紫色だった揺らめきは漆黒に変わり、仙霊はそれを高々と天に掲げる。憎々しい天上の眼がしっかりと捉えられるように。
瑕穢は終に形を成す。新しき主の意のままに、静かに天を覆っていく黒い靄。月の都は深遠の影に埋もれていく。微量の光明さえ入り込む余地がないほど、ひたすらに真っ黒で分厚い雲。
八十の雨。禁は命の飛礫となり、穢れなき都を濡らす。