THE LAST PHANTASM -OBITO- 作:大兄貴
暗い天を覆い尽くし、常夜に溶け込む黒染めの雲。正体不明の雨が降り注ぐ。
「なによ、これ――?」
明らかに不吉なモノを感じた霊夢は、ドーム状に変形させた結界を傘にして雨粒を防いだ。レミリアと咲夜が驚いた表情で仰ぐ一方、紫は結界の上から新たな術式を幾重にも展開するも、場の全員を囲んでいた多重結界は輝きを失い朽ちていく。
結界を溶かすモノの正体。胸を掻き乱す嫌な感じに霊夢は覚えがあった。最初の月旅行で依姫と戦った際に、神降ろしで使役した禍津日神の厄災。分厚い雲となり空を覆う物も、仙霊が直にまとう物も酷似している。神霊が不純物として吐き出す穢れなど、月の民が浴びれば一溜まりもない。
否――それ以上に禍々しいとさえ思えた。持てる限りの霊力を注ぎ込み展開した結界の表面が黒ずんでいく。腐食するように溶かされ形を失っていく。層の隙間から入り込んだ雫が頬を掠っただけで、耐え難い吐き気が込み上げてきた。
立っていられなくなる。どうにもならなかった。
先ほどまでの景色が霊夢の視界から消えて、代わりに覚えのある空間が出現した。暗闇に無数の赤い目が瞬いている。
膝を着く霊夢の傍には紫、少し離れた場所にレミリアと咲夜が居る。レミリアは開口一番に「何すんのよ!」と文句を並べたが、霊夢と咲夜は無言で視線を落としていた。
この場でただ一人根っからの純粋な妖怪。確かに色だけで言うなら、穢れと聞いて想像しがちな色など、大体が黒かそれに近しい感じなので違和感はないが、結界を侵食する現象を目の当たりにしたところで、具体的に何が危険なのかは理解できない。神霊や瑕穢の知識など当然に持ち合わせない上、八雲紫の影響下に身を置きたがらず、他者の縛りを嫌うレミリア本人の性格的な問題もある。ついでに巫女や従者ほど勘も鋭くはない。
「行きすぎた瑕穢は命を腐らせ破壊する」紫の表情は険しい。「都が開闢以来、永らく溜め込んできた汚点。積もりに積もった寿命を外部から浄化する存在……知らないわけではないが」
瑕穢を恒久的に浄化し、永遠に近い命を失わないために必要な機関。月の民には身近な物と思われるが、その存在が明るみに出ることはない。
地上の民はもちろん、都に住む一般の月人は『城』の存在こそ知っていても、城内に何が保管されているのか、自分達の内にある微量の穢れの行く先がどこなのか、穢れの存在を概念として知るならともかく、具体的な物質や現象として理解する者などいない。詳細な資料は門外不出、第一次月面戦争より千年以上を経た現在、妖怪賢者とされる紫ですら実物を見たことがなかった。
月の女神や王、サグメを含む月の賢者など、ごく限られた者のみぞ知る禁忌である。
「あの黒いモノ……何らかの方法で雨雲にしたって感じね。でもおかしいわ。月人は穢れを持たないじゃない? 毛嫌いしてるくらい――浄化する必要はないはず」
疑問の色を浮かべる咲夜を前に、紫は思案しつつ視線を皆に向けた。
「月の民も生物であり人間。認識できないほど僅かでも、寿命が存在するからには、その永さに準ずる一定の瑕穢を持たなければならない。私たちのような、外部から持ち込まれる物も含めて――自力では手に掬えない例外もある」
「ならマズイでしょ」霊夢は早口に紡いだ。「永らく蓄積され続けたもんが、『猛毒』って言わしめる程度に膨れてても不思議じゃない。現に肌で感じたし。これじゃもう体の丈夫さだの、力の強弱だの有無だの関係ない。私らでもキツイのにこんな」
「向こうは尚更」咲夜も同調する。「素人の私にも想像しやすいって、相当アレよね」
「今も機能しているのか、あれが一つなのかも判らないけれど。私たち地上の民でも無視できないのは確か」
現状を鑑みて最も解りやすい表現を用いるなら、液体に変容させた穢れという毒を都に降らせて、月の民の悉くを殺害する。残酷で凄惨たる結果をもたらす蛮行と見なせよう。地上の民にも毒となり得るのなら、逸早く別空間へ逃げ込んだのは賢明な判断と言える。命を繋ぐだけで雨が止むわけではないが、気休めでも安全を確保できる手段の有無で今後の動きも結果も変わる。通常の降水現象に類する雨である限り、屋内に居て穢れに侵されない抜け穴もある。自明の理に助けられたのだ。
ただしこの状況、都側としては容易に手出しできない、理不尽な場に一方的に持ち込まれた事実は否めない。永年の宿敵である仙霊に加え、尋常ではない量の瑕穢が、何の前触れもなく都中に撒かれたのだ。今頃は住民達の避難等を始めとして様々な対応に追われ――否、そのための動きをとり始めているはずだ。仙霊や黒ゼツどころの騒ぎではない。
「変なのはあの物体から出た。なら浄化して消すか、もっかい封じ込めるってのが……定石が通る奴ならやり易いんだけど」
居心地悪そうな表情で腕を組む霊夢。最上の道とは先人の軌跡であり、数多くの前例から成り立つものだが、外界から見て非常識とされる幻想郷の妖怪相手でも大体は通用する。これが幻想郷から見て非常識な、ぶっ飛び具合の極致をさらに壊すような輩ともなると、数々の妖怪や神霊を熟知する霊夢でも確信が持てない。物事の概念に干渉して境界線を踏み壊す化け物なら紫すらも。
「現状問題として、アレが居たのでは思うように動けない。なんとかしなければね」
直ちに全滅するような最悪の事態は起こるまいが、長引かせるのは地上組にとっても好ましくない。穢れの源たる雲が最優先だ。結界がどのくらい持つのか判らない以上、限られた時間の中で早々に終わらせる必要がある。途方もない憎悪が振り撒いた雨を身に浴びながら。
「ここに引きずり込むのは? 私らの土俵を作って立たせるとか」
「私の意思で今のアレを閉じ込めておくのは無理ね。残念だけど」
「……あんたにしちゃ言い切るわね」
「外でやるしかないでしょう。ま、助力は惜しまないであげる。今さらね」
気紛れで非協力的と思われた吸血鬼が毅然とした貌で呟き、従者も特に何も言わず微笑む。霊夢は一人瞼を瞑っていた。
どんな力にも弱点となる穴が存在する。でなければ勝敗という言葉は存在しない。境界操作は強大ながら無敵ではなく、生き物に訪れた死や過ぎ去った時間など、不可逆的な物事の境界線に触れることはできず、自らが理解に至らない未知の事象にも干渉できない。うち一つが静かの海での出来事である。だがその穴を完全に塞ぐまではできずとも、掻い潜る手ならやりようはある。
瑕穢の猛毒をたっぷりと含むだけで、雨自体は触れると濡れる液体でしかない。ここに居る者は幸いにも地上の民、先の境内での咲夜に見たように、直に触れても体力が少々奪われたり、気分が悪くなるに止まり、短時間なら生命を脅かす悪影響は出ない。各々の能力を併用すれば突破口は生まれるはずだ。
「…………」
血霧や時空操作、境界操作ですら純化には――正確には『仙霊が行使する純化』に対しては決定打に欠ける。時間が許すなら何らかの手も考えつくだろうが、一刻を争う状況にまで悪化している現状、安全地帯に長々と篭っている余裕はない。場を長引かせることで別の脅威を呼ぶおそれもある以上、やはり一手で確実に決める必要がある。それはここにいる全員が解っていた。
レミリアと咲夜、霊夢の三人は会話を終えると、紫の導きに従いスキマ空間から消えた。
――◇◇◇
月に叢雲、花に風。然れど好事のみ紡がれる。弥終に雲の訪れを告げた月。
幾億の苦しみ月を覆いし時、総ての命は八十雨となり、母なる魂魄へと一斉回帰する。
民は幸の酬いを受け、抱擁の果てに永久の幕を下ろす。
この世で最も穢れた雨に濡れながら、仙霊は地上の景色を無言で眺めていた。
長い黒髪に黒い瞳、白く染まり過ぎた肌。棒状に変形した浄化機関を手に、仙霊は雲に覆われた空を仰ぐ。
負の情は穢れや狂気を寄せつけず、妖しげな微笑は苦痛に歪まない。体を蝕む快楽に身も心も溺れる。
「頼みの坊主は吊られていない。これにて等しく悪夢は終わる」
逆さ吊りは水気を乞うというが、いかなる形を成そうと都に日の光など下りはしない。
今の姿こそ都との決別を意味する証明となろうか? 否、何千年も前にはすでに。心など変わらず、変わりようもない。然るべき過程を踏んだに過ぎない。思い通りの色に染まるのは当然だ。
「あの、友人様」
クラウンピースは地獄に棲む妖精であり、幻想郷に生息する妖精より遥かに混じり気が強い。純化作用による爆発的な後押しを受けずとも、月の民が忌み嫌うには十分すぎるほどの生命力と瘴気に満ち溢れ、月や地上の人や妖ほど瑕穢を厄介な異物とは見なさない。しかし、変わり果てた姿の仙霊を見て、普段の元気一杯で悪戯な笑顔は消えていた。
目に見える表情のみならず、心の奥底に明瞭なる恐怖が渦巻く。濁り色の光を宿す無感情な目を見返すと、クラウンピースの背筋に寒気が走った。
「はい、なんでしょうか。クラウンピース?」
にこにこと不気味に笑う仙霊。愛想がよく優しげに感じるからこそ、妖精としてズレのあるクラウンピースは初めて仙霊を『怖れ』ていた。今の彼女は見るからに傷だらけで体を震わせている。心の奥底からの笑いなど起こるはずもない。そう思いつつ点々とした地上の街を見下ろす。
「なんていうかその。ここまでやる必要とか、あったんでしょうか」
都も馬鹿ではない。むしろ妖精や地上の民よりずっと賢く強かである。短時間で犠牲者が続出するような、良くも悪くも都合通りの事態は起こり得ない。それでも目の前の光景を心の底から『怖い』と思ったのだ。仙霊は「優しいね」と無感情に笑う。
「不要なものは不要にすぎない。相応の見返りが伴わぬ代償に存在価値など見出せようか。誰もが成し得ぬ不可能を可能に変えるだけでは、大いに不満が出るのも自明の理」
「ではまだ……なにか?」
「この程度では死なない。嗚呼、これまで殺しもしていない。否、まだ殺すつもりもない。この景色とてまだまだ未成熟。ちっぽけな都ではない――上にあるモノが本命だ。ほかは後々ゆっくりと踏みにじるとしよう」
怯えた表情のクラウンピースを映して、にっこりとする仙霊。涙が静かに頬を伝っている。
「こんなのでも、ついてきてくれる?」
沈黙。耳を打つ雨音しか聞こえない。俯く妖精の前で、仙霊の微笑は時間を掛けて失われていく。代わりに芽生え始めたのは息苦しさ。
クラウンピースの目が開き、視線を自らの手に落とした。指先から黒ずんでいくと共に、次第に体が重くなる。呼吸の度に苦しみは増していく。唇は動いたが、肝心の声は出なかった。赤い瞳が哀しみに彩られる。
絶えぬ瘴気を手に、仙霊は踵を返す。初めから解っていたことだった。
「願わくば。こんなモノは、嫌いになって頂戴」
仙霊とは対照的に穏やかな表情で、妖精は緩やかに落下を始める。
力尽きた姿を見もせず、仙霊は一人空を見上げた。立ち昇っていた黒い靄が終息し、今度は手元の物体が刀状の物質に変化する。炎のように揺らめき、実体のない火が蠢いている。
「大っ嫌いよ」
――大音響と共に空間が割れた。光を失った眼が背後に向けられる前に、突如として空を走った霊撃により炎上する仙霊。
現れたのは立ち向かう者達の姿。周囲に展開された無数のスキマより紅黒い濃霧が噴き出し、黒い雨を押し退けて空を覆っていく。大小複数の人影が飛び出した。奥に立つは紅白巫女、博麗霊夢。
仙霊の視線が遥か頭上、八十の雨雲の下で両手を掲げる八雲紫へと移る。境界の侵食を受けた雲が薄まり、雨の勢いが僅かに弱まり始めた。結界の霊力が作用したのだ。無意識下で腕を動かしかけた仙霊だが、血霧が視界を塞いで隠した上、霊夢の強烈な一閃が体を打った。
止めどない猛攻で意識があらぬ彼方へ向くも、その貌はこれまでにない歓喜に歪む。
「……異変の解決とやらは『死んでも』お前の役目というわけだ。そうだろう?」
紅黒い霧の魔力は禍津日の侵食を許さぬほど緻密で濃い。今や辺り一面が吸血鬼の手足や眼と言ってもいい。穢れを持つ地上の民故の抵抗がこの空間を作り出したのだ。八十の雨が降り注ぎ、月の民達による一切の抵抗力を奪い去った今、奇しくも目の前の三人こそが希望。しかし、仙霊の目に映る勇敢な地上の民達の姿は、あまりにも小さすぎていた。
「骨の髄まで職務に忠実だな。実に素晴らしい姿勢だ、博麗の巫女。もう遅いがね――全ては泡沫、所詮はお前たちなど……私にとっては悪以外の何物でもない」
「悪役上等」霊夢の額を汗が伝う。「こっちにまで手出ししたのが運の尽き。けどね、もう地上だの月だの関係ない。ここであんたを叩き潰す――それだけだっ!」
善か悪かの論争など無意味だ。綺麗事など存在しない。目の前の黒幕を潰すことのみが、異変の解決者たる者としての唯一の正しい道。悪を断じて善を肯定すべきと言うならば、霊夢の行いは曰く『善』以外の何物にもなり得ない。
大気の薄い天体で一際明るい星。一つ一つの輝きは小さく弱々しいが、思いのほか多くが霧の中で瞬いている。盲目的な仙霊には何も映らない。
嘲りに任せた一閃が祓い棒と衝突する。顔を近づけて睨み合う霊夢と仙霊。
初手にありがちな加減など欠片も見られない。故に霊夢は先の高度な結界や霊撃、瑕穢の雨を遮断する霊気の放出諸々により、すでに霊力(チャクラ)の大半を消耗している。三人の助力を以っても限界は近づいていた。
素で丈夫な妖怪であるレミリアや紫、特異な細胞で力を底上げしているオビトや穢土転生であるマダラとは違い、霊夢は咲夜と同じ生身の人間、加えて年端もいかぬ少女。天才肌でも未熟な面は多々あろう。永い時を生きる神霊の類、仙霊という化け物を相手取るのに負担がないはずもない。
博麗の巫女である前に人なのだ。然るに。
(悪くないかもね、こういうの)
今だからこそ芽生えるもの。あるいは今でしか芽生えないもの。普段なら気にも留めないような、曰く『らしくのない』心。
レミリアや咲夜、紫が居なければ。本意にしろ不本意にしろ、彼女達や月の民による力添えがなければ、仙霊を相手にここまでの対抗など叶わなかっただろう。視界と感知を遮断する霧に、時間操作の分身による意識の撹乱、瑕穢の膨張抑制と軽減など、具体的な手段の完成を可能とした場なればこそ、目の前の怪物と対等に渡り合っている。
疲労を殺して霧を維持し続けるレミリア。そんな主人を身近で支える咲夜。格の違う高位の魂を前に境界操作の干渉すら通らない中、染まり往く空の調律を保たんと、途轍もない穢れを身を削り一人で抑え込む紫。深手を負いながらも各々死闘を繰り広げた魔理沙とアリス。
全員の思いを一身に背負い、博麗霊夢は吼える。全身全霊を乗せた祓い棒を振るい、天をも貫く純白の霊撃が仙霊の体を一直線に貫いた。
奔流に巻かれて仰け反った仙霊。黒ずんだ目を見開いている。
急変した仙霊は歯を食い縛り、目の前の少女に穢れた一閃を打ち込む。揺らめく漆黒の靄が刃となり、躱す間もなく腹部を深々と貫いたが、霊夢は最後まで笑っていた。
月を喰らう黒幕と幻想郷の異変解決者。いずれも声は出さなかった。僅かに疑問の色を浮かべる仙霊を前に、霊夢は薄れゆく意識の中で力強い表情を見せた。二人の奥で霧に紛れているのは、宙を舞う仙霊を睨みつけるレミリア、疲労困憊した主を支える咲夜。
最後の最後で現出した、吸血鬼の運命誘致――不可能が可能とまではならずとも、可能が紛れもない現実として認定される。理想を現実に塗り替える運命操作には及ばずとも、この状況で敵対者が霊撃を浴びるには十分すぎた。霊夢とここに居る皆の力が、ほんの一瞬でも仙霊の力を上回ったのだ。
結果を無理やり捻じ曲げるものではない。望むべき結果をもたらす要因が遍く揃った時、吸血鬼は初めて運命の音色を奏でる。神霊とて耳を塞ぐことは許されない。
そして辿り着いたのは、霊夢とその仲間達。
(ようやく、か。まったく――)
力尽きて咲夜に支えられる、レミリアの小さな姿が映った。紫の方はすでに消えている。同じように力を使い果たして、霊夢は満足げな表情のまま目を閉じた。
風が頬を撫でる。無防備に晒された体が冷たい雨に濡れても、不思議と苦しみは感じなかった。
ここには居ない二人の姿が脳裏を過ぎる。何だか妙な気持ちが生まれつつあった。
春夏秋冬、朝昼晩、神社を訪れては戸棚の菓子を勝手に摘み、時に叱り、茶を啜り、しかし談笑する。どんな時でも明るく、底抜けの元気と笑いを見せていた魔理沙。猪突猛進で小生意気な彼女をたしなめる、ブレーキ役のアリスが傍にいたっけ。
幻想郷で過ごした毎日は、忘れられない思い出ばかりで、あらためて思い返すと色々な出来事があった。うざったくもあり愉快でもあった。
異変の解決が一人一人の毎日ではなく、平穏な日常を守るためのものなら。
善悪が入り混じるような、どんな形にしたって、人との繋がりを強めるものだったのなら。
博麗のでこぼこ道から逸れてみても、それはそれで面白い。
「本当に。楽しかったわ」
瞼の裏を見つめる。意識が混濁する寸前に、別の感触が体を包み込むのを感じた。
――◇◇◇
国産ノ狭間。月の城、最下層・最深部。何者も立ち寄らない蓬莱の間。
柱の前に座り込み、俯いていた体が大きくけいれんした。目を開いた姿は咳き込み、胸を押さえてうずくまる。金色の髪は黒ずみ、赤い瞳も忽ち黒々と染まる。
短い呼吸を繰り返し、ようやく息を正すと、満身創痍の体を静かに持ち上げる。
――分霊回帰。共鳴回帰。自らの分霊に貸した魂魄を、別の場所に残した親元たる肉体へ、本体へと瞬時に戻すことのできる神霊の異能。持ち出した物にも魂魄の一部を注いでいたため、例の装置も回帰と共に帰還して手元へ戻った。
床に転がったソレを拾い上げ、警戒しつつ周囲の状況を把握する。辺りに人気は感じられない。
穢れの雨を降らせ、都を瘴気で覆い尽くした今、想い残しは一つ。恨みの権化なのだ、この世に一つでも未練がある限り、本当の意味で消えることはない。この先どれほどの年月を経ようとも。
「譲らないわ。勝ちの目だけは、絶対に……」
仙霊は足を引きずりながら、奥にある赤色の観音扉の前に立つ。門を封ずる錠や鎖がないのに押しても開かない。
勝ち誇ったように口元を歪ませると、手に握る瑕穢の物体を通して能力を発動する。目に見えない何かで鎖されていた扉が木片となり、轟音と共に吹き飛んだ。取り除かれた境界線に躊躇なく踏み込む。
背後で扉の閉まる音がした。静寂の中に足音が響く。
豪華絢爛な屋内が境界を越えた途端に一変した。白い唐松模様の床と壁、薄明るい神秘的な天蓋には星空が広がっている。仙霊は周囲になど目もくれず、空間の最奥に見える暗い座敷牢を映していた。檻の中には誰も居らず、罪人はもちろん机や布団、窓も設けられていない。
ただ一つ。部屋の真ん中にポツンと置かれた小さな壺。くすんだ茶色にひび割れている。仙霊は「お似合いだな」と軽蔑するように呟いた。
「その姿で殺したとて意味がない。あの頃のようにもう一度、傲慢な顔を見せてくれ」
物体を握る手に力を込めた。黙していた壺が一度振動し、蓋が音もなく持ち上げられ、内部から靄が噴き出した。光の玉に包まれた一匹の蝦蟇が浮かび上がる。
純化の力に導かれた蝦蟇の姿が変化する。両生類の体が徐々に湿り気を失い、人の形を成していく。茶色の皮膚は一変して白く透き通り、長い髪が揺れる。
生まれ出は、古の王たる月夜見の隣に座し、今もなお都を支える柱として、崇高なる女神として祀られし混沌たる正体。禁忌の操演者。史上最悪の大罪人。
「久しいわね」
両手を床に着き、頭を垂れる女。足元まで伸びた白髪、血のように赤い死に装束を身にまとい、人外の美貌を見せつける妖艶なる悪女。金の髪飾りと月光の繊維で織った着物は地位と共に失われているが、犯した大罪と共に染みついた権力は現在も闇の中で機能している。
虚ろな黒い瞳が交錯する。すうっと浮き上がり姿勢を正すと、不可思議な檻をすり抜けて牢から出てきた。
「……嗚呼。懐か、しい……」
心の深層まで染め上げる声。外見の美しさとは打って変わり、蓬莱の秘薬がもたらした永すぎる時間と罪の色は心を腐敗させ、体の芯まで枯れ果てている。故に彼女からは何も『力』を感じない。
黒と白、憎悪と無心。互いに相容れず対極であると同時に、切り離されず密接に絡み合っている。一方が他方に執着し続けるが故に、双方は常に裏表として存在せざるを得ない。
穢れた物体を手に対峙する姿を暫し眺めた後、嫦娥は首を傾げて微笑した。
「さて……どういった御用でしょうか」
「『どういった』?」仙霊の声に感情がこもる。「ここにきてそんなことを――この場で口に出せるものね。置かれた立場が理解できていないようだ」
事に前触れはなかった。弱った仙霊の姿を眺めていた嫦娥が吹き飛び、牢の檻に叩きつけられた。
座り込む姿を見下ろしながら、氷のような黒い目を光らせる。嫦娥は顔色一つ変えず、濡れた唇には笑みを含み、死人のような白い肌には赤み一つない。
「あの裏切り者は惨めに死んだ……残るはお前だけだ。女神とやらを担ぐ月人共はいない。今や鍍金まで剥がされて、どんな気持ちかしら?」
無防備にも頭を垂れる姿は酷く滑稽に映った。忌々しい過去が目の前の女に否が応にも重なる。かつての罪深き者と違うのは、恐怖や絶望の色が微塵も見られないこと。潰える直前まで無様に顔を歪めて怯えていた奴とは真逆だ。
「どんな」嫦娥も復唱した。「過ぎ去った時に縛られ、己の恨みを純化し独歩する。一見すると子を想い続ける母のよう。そんなあなたとは異なるものが、私には見えている――月の『女神』ですから」
「……そう」
永すぎる獄中で身も心も衰えた咎人との差は歴然たるものながら、この世でただ一人の『敵』を目の前にして、仙霊は立ち尽くしたまま動かない。可視化されるまでに膨れ上がった憎悪を身にまとい、黙して嫦娥を見つめている。
博麗の巫女、境界の大賢者、都の綿月姉妹、そして期せずした異界の人間。罪なき世界の全てを敵に回しても後悔はしないだろう。己に己を喰わせてまで立っている。
――脳裏を過ぎる追憶。
血溜まりに横たわる小さな姿、頬を打つ雨。濡れた髪が視界を覆っている。
指の間から覗き込めば、か弱い骸が虚ろな顔を向けている。悔恨の念が胸を押し潰す。
目が霞む。手を握れなかった姿を前に、頬を熱いものが流れ落ちる。
塩辛い血を飲み込むほど、心は黒く濁るばかり。いくら飲んでも変わらない。
脈々と続く虚しさを頭では解っていても、無心で啜り続けた。負に呑まれてまで呪いたいのだ。運命を。胸が詰まっても、心が渇いても、抗いの意志を殺して、ひたすらに血の雨を浴びた。
赤すぎる刻印がしっかりと深く残り続けるように。なにがあっても離れぬように。
「空へ逃げて禁忌の蓬莱人となり、神々の柱と崇め祭られ……お前は都そのものとなった。そうして得た数多くの贄を盾にしながら、なおも私を遠ざけようとする。どこまで逃げたら気が済むの?」
「おやまあ」嫦娥は優しく微笑みかける。「そんな些細なお話よりも、為すべきことがあるならお早めに。警固の者が来てしまわれますよ?」
不意に胸部を白銀の閃光に撃ち抜かれた。相手方には警告の意志など欠片もなかったようだ。
背後を振り向いた仙霊。女神を蹂躙せし者の元に月人達が駆けつけたのだ。相変わらずの笠と錫杖、見飽きた法衣をまとっている。仙霊は余裕を崩さず冷たい目で乱入者を眺めた。歓喜の笑みを見せている。
掛け声と共に襲いかかる月人達。今さら言葉は要らなかった。その力は両手を広げるだけで猛威を振るい、本質を握られた錫杖や御札、結界をまとう全員の動きが――。
「……嗚呼。雄々しく、逞しい」
止まらなかった。上品に笑む嫦娥の眼前で、仙霊は力なく膝を着き、錫杖から伸びる縄に絡め取られていた。胸を押さえている。豊姫とのやり取り、地上の民から受けた負荷は、本体たる彼女にも重石を乗せたのだ。
唇を噛み、一筋の血が口元を伝う。身動きの取れない状況でも仙霊は笑みを崩さない。重石など魂を削ってでも跳ね除けるだろう。
翡翠色の組紐が肢体に触れる寸前、赤色の光弾がばら撒かれた。直撃した六人が吹き飛び、壁に激突する。宙を舞った組紐と錫杖が床に散らばった。
「死なない。死しても滅びない。滅びても消えない。今の私は、お前を殺すためだけに存在する――都や他の何者が逃がしても、この私が絶対に追い詰める。私からは逃れられない」
「はて」口元を広げる嫦娥。「先ほどからお話ばかり。私は一向に終わる気配がない。積年の負を晴らすことで……これまでのあなたを失ってしまうことが、恐ろしいのでしょうか」
憎悪が凝り固まった負の権化。嫦娥を滅ぼし怨念を晴らすことで存在意義を失い、仙霊の魂は安らかに消滅するだろう。文字通りに消えてなくなる。嫦娥は彼女の全てを否定する物言いをあろうことか、本人の前で堂々としてみせたのだ。
無言の重圧。冷たい瞳が激昂するには十分すぎた。純化の力が容赦なく渦を巻き、嫦娥は疲労や傷を認識することもなく、笑んだ貌のまま無条件で倒れた。
仙霊は装置を手に近寄る。全く動かない死に装束の女が映る。因縁深い者としてもう少し話したかったものの、会話を交える気がないなら仕方がない。朽ちてしまっては口など開かない。
「女神は堕ちた。終わりだ。全て」
柱を失い女神の庇護が崩れ落ちたことで、月の都は本当の意味での終わりを迎える。残りの月人はその中でじっくりと片せばいい。
彼女と共に都を支える月の王が、次に討つべき標的として相応しいだろうか。それとも――。
「終ワリデハナイ」
聞き覚えのあるくぐもった声。今しがた転がった肉塊ではなく足元、床下から響いてきた。間もなく生え出るように現れたのは、左半身が白い物体で覆われた異形。右半身は真っ黒、右の眼孔には薄紫色の光が宿る。
突如として姿を見せたのは黒ゼツだった。仙霊はここへ至った経緯を一切訊かず、嫦娥の死体を冷静に映しながら、無表情で「何の話だ」と呟いた。
「言葉通リノ意味ダ。オ前ヲ縛リ付ケルモノハマダ見エテイル」
仙霊はあらためて嫦娥を観察するが、黒ゼツが吐いた言葉の意味が解らない。
純化の光は敵を射抜き、不老不死という不落の要素を削り取った上で穢れを増大させ、純粋な人としての本質を嫌でも曝け出させた。結果として蓬莱人は、その辺の人間と何ら変わらぬ平凡な輩と化して命尽きた。思考を働かせればそれだけ、途轍もない恨みと意識は嫦娥へ向かざるを得ない。
「全テヲ終エタノナラ何故……今ノオ前ハ己ノ『負』ヲ独リ歩キサセテイル。ソレハオ前ノ憎悪ガ消エテイナイカラダ。手籠ニサレタオ前ノ力ハ己ニ向クバカリデ……奴ヲ仕留メルタメノ助ケニハナラナカッタワケダ」
黒ゼツは傍を通り過ぎると、殺意に満ちた仙霊に背中を向ける。波紋模様の浮かぶ瞳が死に装束の女を映した。
「――最後ノ最後デナ」
悪女に意識を移しかけた時、何かが胸を貫いた。胸部から背にかけて、黒ゼツの体から生え出た鋭利な物体が貫いている。
体を起こした嫦娥は微笑を浮かべている。それを見て全てを察した仙霊だが、驚愕に目を見開きはしなかった。
「オレニオ前ハ殺セナイガ……ドウスレバイイカハ簡単ダ。オ前ニオ前ヲ殺サセレバ事ハ終ワル」
「盲いたものね……」仙霊は掠れた声で笑う。
「負ノ心トハ便利ナモノデナ。復讐ハ確カニ人ヲ強クスル……目的ノタメナラ手段ヲ選バズ……力ヲ得ルタメ貪欲ニナリ……イカナル犠牲ヲモ厭ワナクナル。仲間ヤ友……家族ニ恋人カラモ背ヲ向ケル……オレハ同ジ輩ヲ千年以上モ視テキタ。タダ一ツ厄介ナ面ガアッテナ……」
黒いモノを引き抜こうと苦しむも、体は凍りついたように動かない。意識は心に蔓延り根を張る『憎悪』に向くばかりで、力は死に装束を着た『憎悪』と、目の前の『化け物』には微塵も効力を発揮しない。
「周リノミナラズ……己ヲモ見エナクサセル」
「違う」仙霊は貌を歪める。「見えていた。私は、ここにいた……」
「心喰ワレタオ前ヲ上回ル憎シミ……永ラク積ミ上ゲタモノガドノ程度カ……重サナド疾ウニ量レマイ。堕レバ後ハ一直線……独リ孤独ニ身ヲ滅ボスコトニナル。言ッタハズダ――オ前ノ命ハオレガ握ッテイルトナ」
くぐもった冷笑が響き渡る中、手から滑り落ちた球体が音を立てた。
「神ヲ知リ従エ打チ殺ス窮極ノチャクラ……総テハ手中ニ収マッタ。間モナク世界ハ生マレ変ワル……破壊ト創造ヲ司ル全能ノ神……真ナル月ノ女神タル者ノ手ニヨッテ」
稀神サグメと綿月依姫。皮肉にも全く同じ状況で、六道の力は体内から生命力を食い尽くす。嫦娥はかつての因縁の相手など意にも介さず、呆気ない結末を迎えても、二人の方には顔すら向けていない。
(そっか。いつからか、わたし)
何者からの助力も真っ向から拒絶して、肩を並べる者にさえ背を向けた瞬間を思い起こす。その間にも黒ゼツと『黒い憎悪』の侵食は絶え間ない苦痛をもたらし、意識が次第に遠退いていく。黒かった髪は艶やかな金色に戻っているが、表情は虚ろだった。
赤い瞳が暗闇を見つめる。崩れ往く純狐の脳裏に、無邪気な幼子の笑顔が映った。