THE LAST PHANTASM -OBITO-   作:大兄貴

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最終話 風

 永遠の夢から解放された魔理沙、アリス、咲夜とは国産ノ狭間で合流した。神樹にチャクラと生命力を吸い取られていたせいで、発見時の三人はいずれも顔が青白く弱り切っていたが、幸いにも動ける程度には体力を残していた。

 依姫の前で口にした観光云々はもちろん――半分ほどは冗談で、霊夢は三人を伴って異空間を脱した後、都のやや北に位置する綿月の屋敷で体を休めていた。さすがに地上の民(それも博麗の巫女)が、公の医療機関に堂々と顔を出すのも気が進まなかったので、急きょ依姫の案内で赴く流れになったのだ。どこかへ消えていたレミリアも到着した時にはすでに居た。

 

 一行は広い座敷に集まり腰を下ろしていた。屋敷は広大な敷地を樹々に囲まれていて、近辺に他の民家がないという理由もあるが、周辺に施された防音術式の恩恵により外部の音は聞こえず、静かな環境でその後を話し合うことができた。

 聞き手は魅入られたように聞き入った。大幻術が発動して皆が幻夢に捕らわれた後、残された者で十尾との戦いに赴いたこと。天之御中によって引きずり込まれた、恐ろしい異空間にて最後の戦いに挑んだこと。霊夢とレミリア以外の全員が(『夢想天生』まで解放したくだりを聞いた魔理沙は特に)驚愕を露わにした。

 

「まあアレだ」最初に口を開いたのは魔理沙。「割と好きだぜ? 終わりよければ全てよしってのは。あれだけの騒ぎだったってのに、全員生き残ったんだもんな」

 

 此度こちらの被害が最低限に収まったのは運が味方したとも言える。都中に散らばる樹の蔦や根の残骸を見れば判ることだ。

 十尾ほどの怪物が大暴れすれば、辺り一面が漏れなく更地と化すのは想像に難くない。人気がなく無限の広さを誇る異空間ではなく、この周辺が戦場と化していた場合は被害がさらに拡大、都の壊滅という最悪の事態は避けられなかった。生きた者達から力を吸い取り収集する目的が十尾に存在せず、都を踏み潰して生命を蹂躙することのみが目的だった場合の、もしもの光景を思い浮かべるだけで身震いしてしまう。あの体躯と禍々しい力を思い出すだけでも。

 霊夢が一通り話し終えた後、レミリアが咲夜に話しかける。

 

「あなたとそこの二匹。樹に捕まって夢を見てたって話だけど、どんな夢だったの?」

「それは」咲夜は咳払いした。「ええと、何と言いますか……」

 

 悍ましい異形の化け物に絡め取られていたのだ。身の毛もよだつ悪夢でうなされていたに違いない。普通なら誰しも予想するだろう。

 ところが咲夜曰く、夢の中身は恐怖とは正反対の内容だったようで、むしろ幸福に満ち溢れて心地よさすら感じたという。レミリアとしても当然、詳しい事情を聴きたかったのだが、何故か咲夜は何度尋ねても具体的な回答を避けるばかりで、頑として全貌を明かそうとしなかった。アリスにしても同じで、霊夢がしつこく訊いても「どうでもいいじゃない」の一点張り。

 その一方で、魔理沙は喜々として口にしてみせた。外の世界を含む、全世界に分布する希少な茸を全て手中に収めて、朝から晩まで好きな魔法の研究に没頭したり、大規模な宴会で霊夢達と共にどんちゃん騒ぎする夢――要約するといかにも彼女らしい内容で、数え挙げるとキリがなかった。

 霊夢とレミリアは顔を見合わせると、そろって三人に目を向けた。

 

「とにかく……誰もかれもが自分の欲しいもの、望むものが出てきたわけね。それが『無限月読』のもたらす夢」

「へえ」腕を組んだ霊夢。「そーいうもんなら正直、興味なくはないけど。でも幸せだの言えるんかねえそれ。だいぶ疑問って感じ」

 

 無限月読は夢の世界であり、望んだものが初めからそろっている。苦労をせずとも何でも手に入り、思い通りの結果を生み出すことのできる場所。汗水垂らす努力を嫌ったり面倒臭がる身なれば、何不自由ない世界で暮らせたら、この上なく幸せを噛み締められるだろう。だがそんな世界に居て、本当に幸福だと断言できるか否か。

 遠い目で何も言わなかったレミリアの代わりに、その答えは魔理沙が示してくれた。

 

「けどさあ。何か違うんだよ」

「うん?」

 

 霊夢が緩い表情で聞き返す。魔理沙は懐から八卦炉を取り出すと、じっと見つめながら口を開いた。

 

「そりゃいい夢だったさ。正直に白状するが、初めこそ経験したことのない、最高の悦楽ってのを堪能したよ。けど欲しい物が何でもかんでもすぐ手に入っちまって……あん時の私、虚しくなってたんだろうよ」

「努力家だものね、あんたって」今度はアリス。「そうね――同意見ってとこかしら。そこには全て揃っていたけれど、望んだものが手に入るほど、心に隙間が開いていくようだった。埋めようとしても埋まらなくて、怖いと感じたっけ……驕った私がそのうち、私自身を壊すんじゃないかって」

 

 無限の夢は狂気と言っていい。いかなる者とて自らが手を下すまでもなく、どのような夢でも容易に、確実に実現可能な世界。

 そんな世界を生きていれば、誰もが自分の夢に没頭して傾倒し、自分が全てを手にした完璧な存在だと思い込むようになる。苦難や逆境を味わうことなく高い壁を一人の力だけで乗り越えてしまう。次第に救いの手を不要な物と切り捨て、他者との繋がりではなく、自己という個にのみ執着するようになる。やがては己の傲慢と狂気に呑み込まれ、他者の存在など忘れてしまうだろう。

 アリスは一人で過ごす時間を好むだけで、孤独を生きるわけでは決してない。魔理沙にしても一人が嫌で、寂しさから騒がしさを求めているのではなく、大勢で面白おかしく騒ぐ方が性に合っているだけだ。望むものが何でも手に入る夢幻の世界とて、少なくともここに居る全員にとっては容認できるものではない。

 

「まあでも」咲夜が口を開いた。「あながち無駄な夢でもなかったわ。望む物を手にしたって、失くしたものが戻ったって、幸せを感じるばかりじゃない。そんな形で欲しいものを得たって、後に残るのは虚ろ……身をもって思い知ったのだから」 

「夢やら希望やら、簡単に叶っちゃあつまらんさ。私が手を伸ばすから面白いんだよ。人生ってのはそうあるべきだろやっぱ」

「ふうん。よく分からないわねえ」

 

 八卦炉を力強く握り締めながら、勝気で明るい笑みを浮かべる魔理沙。

 努力だの目標だの、曰く暑苦しい単語に興味がない霊夢は、その言葉をはっきりとは肯定せず、否定もしなかった。屋敷の使用人が持ってきた茶を一口飲んで、至福の時とばかりに一息ついたのみ。ふと窓の外を眺めるレミリアに話しかける。

 

「話変わるけどさ。私を置いてどっか行ったじゃない。どこで何してたの? あんた」

「面倒な人間だこと」ぶつぶつと呟くレミリア。「ここに居なくちゃならない奴が欠けてるじゃない。あなたもあの場に居たわけだし」

「……あいつか」

 

 霊夢は湯呑みを置くと、全員の視線を浴びながら息を吐いた。

 レミリアが愚痴っぽくこぼすのも無理はない。神出鬼没で現れては消える紫や、元玉兎の鈴仙はひとまず置くとしても、最後まで肩を並べて戦い抜いた異邦人、労いの言葉をかけられるべき者の姿が見えないのだから。本来なら博麗の巫女として、今頃は十尾について詳しく聞き出していたはずだった。厄介ごとが色々と重なり聞きそびれていたことも含めて。

 終いにはオビトと一緒にいた妖精まで居ない。この状況で無関心を貫くのは不可能だった。そう思いつつ再び口を開こうとした瞬間、座敷の襖が開いて紫髪の人物が全員の前に現れた。

 

「――二人の件はお任せを。都が落ち着き次第、他の者を連れて静かの海へ向かいます」

「頼みましたよ。それでは後に」

「では直ちに――…ってなにしてんだテメーらァ!?」

 

 廊下で立ち話していたのは依姫とその部下。座敷で寛ぐ霊夢達を見るなり素っ頓狂な声を上げたのは後者。皆一様に「はあ?」という表情で見返す中で、咲夜は「あら?」と思い出したように口を開いた。

 

「いつぞやの使者さんじゃない。生きていたのね」

「馬鹿が。この俺があんなんで潰れるわけねーだろ。ちょっと痛ェぐれえのもんだ」

「ふうん」

「いいかメイド、テメーの時間跳躍にゃ驚かされたがな、あんなもんここには――…ってそうじゃなくて! なんで綿月様の屋敷で茶なんか飲んでんだテメーら!」

「美味しいから」早々に無関心を発揮する霊夢。

「ンなこと訊いてんじゃねーよ!」

「落ち着きなさい」依姫がたしなめる。「この者たちは私が連れてきたのです。とにかく今は面倒ごとを避けたいので、下の者には黙っていてもらえますね?」

「ぐっ。貴方が仰るなら……じゃあな野蛮人共、覚えてやがれよ!」

 

 上官の言葉にはどう足掻いても逆らえない。怒りに任せて錫杖を一振りするなり、金色の光と共に忽然と姿を消した。

 残った依姫は縁側に近寄ると、表の様子を確認するように視線を走らせる。間もなく全員を振り返った。

 

「八雲紫、うちはオビト、もう一人の男も行方不明。現在捜索中」

「行方不明?」不可解な貌のアリス。

「けれど一つだけ。海の上に空間をこじ開けた跡が見つかった。あの妖怪と地上へ向かったのは、痕跡からしてほぼ間違いない」

「あいつやっぱり……」霊夢は眉をひそめる。「とにかく今、月にはいないってことね?」

「詳細は綿密な調査が必要だけど、現時点ではそうなるわね」

 

 普段から居ないも同然である紫や、傍若無人な謎の男はいいとして、オビトも何かと姿を消すことが多かった。神威空間と呼ばれる専有空間を経由して移動する能力のせいで、遭遇率の低さは紫と張るとさえ思わせるほどだ。胡散臭さは全く感じないものの、視界を覆い隠す霧のように、霊夢にはオビトの真意が見通せず掴めないでいた。

 

「最後の最後で終止符を打ったのは、あの人間。宴会を開くなら当然、姿を見せて然るべきと思ったけど。まあそっちのほうが違和感はないし、思うところはないわね」

 

 物思いに耽るような貌で腰を上げるレミリア。疲れたように体と翼を伸ばすと、欠伸交じりに「咲夜」と声をかける。察した咲夜は傍にある日傘を手に取り、襖の方へと向かう主人に付き添った。そんな二人を見ながら「トイレか?」とからかうように喋る魔理沙。

 

「もう帰るわ」気だるそうな返答。「都がこんな惨状なら、宴会なんて当分開けないだろうし。復興を待つのも退屈。祝賀会は向こうで適当に開けばいいでしょ」

「どうしようと構いませんが、あなた方のうち一人は残ってもらいます。此度の異変に関与した地上の民として」

 

 依姫は都が落ち着き次第、当事者から詳細な話を聞くつもりでいた。当然の流れである。

 本来なら十尾とかかわりのあるオビト、もう一人の異界人も候補に挙がるはずだったところ、二人はおそらく八雲紫と共に逸早く地上へと帰還した。被害を受けた都の復興を最優先として、幻想郷へと使者を送る余裕がない現状、ここにいる霊夢かレミリアを地上の民代表として扱う他なかった。この二人は魔理沙やアリス、咲夜と違って夢幻の光に呑まれず、依姫やオビトと共に最後まで立ち向かった数少ない人物だ。

 

「ふう」頭を掻いた霊夢。「分かったわよ……残ればいいんでしょ残れば。対応してやるっての。そいつは話とか向かないだろうし、こっちも巫女って立場があるから」

 

 レミリアは気まぐれでマイペース、情報提供者として扱うには面白いほど不向きだ。本人もやる気は皆無だろう。オビトが居なければ残る候補は、濡れ衣の件で都に一か月ほど滞在した経験があり、異変の解決者を正式に任されている霊夢を置いて他にいない。断る理由も特になかった。

 咲夜に続いて霊夢が腰を上げた時、魔理沙とアリスが顔を見合わせた。

 

「んじゃ私らも。その辺見て回るのも楽しそうだし、これじゃ帰ってもつまらんしな」

「そうね」アリスも肯定する。「私たち、最後まで戦ったわけではないけど……当事者なのは同じ。話をするなら大勢のほうが好いと思う」

「いいの?」

「本音を言っちまえば、冗談じゃないけどな。喧しいお前が居ないよりかはまあ」

「あんたたち……」声を震わせる霊夢。「ありがとう……お酒を飲めて料理も食べられて、遊び放題で寝放題。そんな生活にわざわざ付き合ってくれるなんて……」

「いいこと尽くめじゃねェかッ!」

 

 激しい突っ込みを入れる魔理沙、久々に笑みをこのした霊夢。友好的と思えなくもない二人のやり取りを見つめながら、アリスは冷静沈着ながらも口角を上げる。レミリアはフンと鼻を鳴らした後、咲夜を従えてさっさと出て行ってしまった。

 すっかり日常モードに切り替わった騒がしい皆を余所に、依姫も二人に続いて座敷を後にする。

 

「ご存じなのですか? あの者について」

 

 屋敷の門まで出てきた三人。ありふれた風に水色の髪をなびかせて、大きな石段から都を見下ろすレミリア。二人の後ろに依姫が佇んでいる。一瞥もくれず「だったら?」と無機質な口調で返答した。

 

「私は都のまとめ役」依姫は瞼を瞑る。「本当なら滅多なことは言えないが……直に対峙した者にしか解らない。あの者の力添えがなければ、在るべき都の形は今頃どう変わっていたか――滅びの先に待つ結末など見通せなかった」

 

 思いもよらぬ言葉に目を瞬く咲夜。レミリアは何も言わない。

 厳格で冷徹な月のリーダーは影を潜めていた。何の変哲もない一人の民が居るのみ。重責を背負う立場ゆえ、心の奥底に閉じ込めていた感情が表れたのだ。

 

「今の私には、言わねばならないことが山ほどある。それは貴方も同じはず」

「嗚呼」レミリアの声は素っ気ない。「そんなのはお前にも、私にも土台無理な話。なにせ掴もうとしても、するりとすり抜けていく。追いかけても逃げてしまう。この私以上に自由なのよ」

 

 どんな物体をもすり抜けてしまう、不思議な力を振るっていた異邦人。あの異質なチャクラと直にやり合い、熾烈な戦いの中で深々と触れた者は他にいない。

 あの力は此度の結末を予見していたのかもしれないと、少なくともレミリアは考えていた。

 

 従者を従えて静かに歩を進める。依姫は石段の上で身動き一つしない。

 中段辺りで一度立ち止まり、日傘の下で振り返る。

 

「これも運命なのでしょう」

 

 誰よりも幼い笑みが浮かぶ。思わず鋭い目で見返す依姫。

 

「何故、貴方に言える?」

「さあ? ただ、そんな気がするだけ」

 

 もう振り返らなかった。空を見上げている依姫を残して、吸血鬼と従者は屋敷を去っていった。

 

 

――◇◇◇

 

 

 境内を涼やかな風が抜けていく。頬にくすぐったさを感じて目を覚ますと、縁側に腰を下ろす馴染みの姿が映った。

 驚愕のあまり弾けるように立ち上がり、よろめきかけた小さな妖精は、柔らかな座布団が敷かれていることに気づいた。尻もちを着いたが痛みはなかった。

 

「早々に眠りこけるとはな。よほど疲れが溜まっていたらしい」

 

 丈の長い黒衣に短い黒髪、右目を中心に渦を巻くようなしわを顔に刻んだ男。妖精は飛び上がってしまう。すぐ横に座っていたというのに。

 

「無理を重ねたせいだな。自然の化身とは言っても、お前のチャクラは至極小さい。それを分け与えるなど」

「あの時は、必死で……」

 

 急に恥ずかしさが込み上げ、周囲を見回すふりをして誤魔化す。頬の赤みは隠し切れない。

 意識を失った後に地上まで運ばれたようだ。覚えがなくとも周りの景色が物語っている。殺風景な境内は物騒な気配もなく平穏そのものだ。月に居た時の感覚では違和感が払拭できない一方、安堵の気持ちが芽生えたのは確かだった。

 

「実感、とかはないけど……危険なことに首突っ込まなくていいのよね、これで。もう終わったんだから。そうでしょ?」

「えらく気にかけるものだ。お前は」

「知らなーい」妖精の勝ち気な笑い。「でもアンタの全部は、知ってるから。妖精と人間なんてヘンだけど、アンタの言った通りなのかも。うざったいかな?」

「そうだな」

「ちょ、否定してよそこは!」

 

 ほんの数日前にも似たようなやり取りをしたはずなのに、月での記憶が濃すぎるせいか随分と昔に感じられる。

 こんなにも騒がしくて平和な会話は、二度と叶わないと思ってすらいた。いつも以上に妖精は笑顔で話しまくった。

 肌に感じていた冷ややかさはない。温かな日差しと深緑の匂いが体いっぱいに満ちている。気分が高揚しないはずもなかった。

 

「ねえ。巫女たちの宴会が終わったら、どうするの? あっちに帰る……なんて、言わないよね?」

「そんな気はない。今さらな」

 

 間を置かない答えに一瞬だけ戸惑うも、不安げだった妖精の顔に笑いが戻る。

 

「『宴会』とは何だ?」

「あれ、アンタ知らなかったっけ? 巫女が黒幕を懲らしめて、異変を解決した後はね、幻想郷の人間やら妖怪やらを集めて、お酒を楽しむのよ。あの騒がしさ、割と好きなんだ。わたし」

「慣例か。祝勝会の意味合いなら、向こうで開かれる可能性もある。騒ぎは月で起きたが、お前が寝ていたのは地上だ」

 

 途端に「あ……」と凍りついた妖精。絶妙に呆けた顔で空を見上げる。映るのは青い空に白い雲。夜の訪れと共に月は映れど、地上に足を着けては手も届かない。その姿が目に映る時点で駄目である。

 しかしながら、同じ状況に置かれた人間が傍に居ることに、妖精はふと気づいてしまう。胸をそっと撫で下ろしたのは、一人だけ除け者にされたわけではないと安堵したからだ。

 

「どこで開かれようが関係ないがな。そんなものは」

「なんでよ?」

 

 不機嫌そうに頬を膨らませた妖精が、次の瞬間には察した表情でにやりと笑んだ。

 

「あーそっか。アンタってそういう、騒がしいの苦手? まあそうよね」

「普通だ。少し遠出するんでな」

「え、どういう――?」

 

 急に立ち上がったので、不意を突かれながらも慌てて腰を上げる。

 言葉にしがたい感情が内に芽生えた瞬間、眠気が意識に覆い被さった。背中に刺繍された団扇模様を映しながら、少しずつ遠ざかっていく姿を追いかけようとしたものの、睡魔のせいで思うように動けない。手足と翅を動かそうとする度に体が重くなっていく。

 

「なんだろ? 待って、わたしも……」

「もうすぐ夜明けだぞ。いつまで夜更かしするつもりだ? "木花(コノハナ)"」

 

 周囲が薄暗くなり始めた時、眠気に抗っていた妖精が目を見開いた。

 

 境内の中央まで遠ざかっていた姿が振り向いた。いつの間にか膝元に翡翠色の小さな花が置かれている。妖精は無意識にそれを手に取ると、頭上から降りる綺麗な月明かりに照らされた。

 不思議なことに、もっとずっと前に聞いたような言葉だった。初めて出会った山中での出来事が頭をよぎる。

 

「え……?」

「地上でも、月でもそうだった。気づけば支えてくれていたな。かつて捨て去った名でもあったが、今となってはそいつすら、価値を持てるようになったと。はっきりと言える」

 

 手のひらに乗せられた花が翡翠色に輝く。妖精は小さな花びらに指先で触れる。

 心に生まれていた感情が溢れ出す。声を出そうとするが、上手く言葉を絞り出せず、その間にも穏やかな声が耳に入ってくる。

 

「オレは世界を滅茶苦茶にした罪人だ。その事実が消えることは永劫ない。それでも、こんなオレでもまだ、誰かに意味を与えることができると。ここで得た多くのものを通して教えられた。お前もその一つだ」

 

 大きな樹に咲き誇り、隣で支える優しい花。

 形容しがたい感情を胸に抱きながら、おかしな感覚が体を包み始めていることに気づいた。意識は先ほどより鮮明になりつつあるのに、居心地の悪い眠気は強まっていく。

 少なくともそう感じられた。感じていたかった。感じなければならないと思った。

 

「何よ、それ。そのまんま、じゃない」

 

 目の前の姿を映したまま、いつもの勝気な笑みを見せる。呆れたような言葉は自然にこぼれ落ちた。

 

「慣れていなくてな。捻りがあるほうがよかったか? そうだな、それもまた――」

「――そんなことない」

 

 霞み始めているのは意識のほかにもう一つ。目元の辺りが熱くなっても、頬を流れるものはない。大人以上に大人びている人間と一緒にいたことで、良くも悪くも影響を受けたのかもしれない。冷静沈着とまでは当然に言えずとも、幼子のような激情に駆られたりはしなかった。

 

「ありがとうな」

 

 それでも。自然の一部として誰より身近に感じていた分、人にも備わる普遍的な感情が爆発するまで時間はかからなかった。

 

「わたし――」

 

 縁側に座り込むしかなかった。小さな頭を垂れたまま震えた声が出る。

 

「……わたしはッ! まだ案内とかロクにできてなくて、どこにも行けてないし、一緒にお菓子だって食べてないし――特別だって思えるもんなんて、なんにも残せてない。だからアンタには、わたしなんか……」

 

 頭を上げて力の限り声を出す。すでに周りの景色も、背の高い姿も少しずつ歪み始めていた。

 

「でも、アンタの深いとこまで触れたのは、わたしだけだった! 誰よりも……やっと本当の、アンタの『道案内』ができるって、思ったのに……」

 

 境内を歩いていた姿が立ち止まる。ぼんやりとする中、再び見えた黒い瞳が月光に輝いた。

 渦巻く歪みが表情を隠した時、はっきりとした声が耳に入る。

 

「じゃなきゃ意味なんて与えられやしないよ。お前の示してくれた道ってのが、オレに先を見せてくれたのさ」

 

 堪え切れず叫ぶ前に、大きな歪が眩いばかりの閃光に変わる。青白い光が目も眩むほどに明るい日差しとなり、まとわりついていた眠気が消えた。

 葉の擦れる音、頬を撫ぜる柔らかな風が瞼を開かせた時、隣から「おはよう」と声がした。

 

「こんな真昼間までお休みだなんて。夜更かしでもしていたの?」

 

 鳥のさえずりと共に聞こえた胡散臭い声。湯気の立つ湯呑みを手に、紫が縁側に腰を下ろしていた。いつもの派手な日傘は畳んで傍に置いてある。

 いつも通りの神社にて、妖精は一人目を覚ました。睡魔が月と共に去った分、意識ははっきりとしていた。鼻腔をくすぐる森の香り、肌に感じる温かな日差し、雲一つない青空には、日輪が高々と昇っている。

 棚を漁って勝手に用意したのだろう、お茶と一緒に白饅頭と煎餅が乗った盆が見えた。紫は美味しそうに口へと放り込んでいる。

 

「昼も朝のうちなのよ。わたしにとってはね」

「なあにそれ?」

 

 他には誰もいない。しかしたった今、鳥居を潜っていったような、何となくそんな感じがした。

 最後の一口を呑み込むなり、紫は満足げな貌で境内へと目を向ける。

 

「とっくに明けたのに。貴方、妖精のくせして遅いのね。気持ちよさそうだったから、余計な気は起こさなかったけど」

「いいわよ別に。文句なら、ちゃんとぶつけてやるから」

 

 興味なさげな妖怪に、小さな妖精が偉そうに言う。

 この日、幻想郷に花が咲いた。

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